饒速日尊の妻たち

 

  宗像三女神と饒速日尊との関係

 記紀伝承では宗像三女神は大国主命との関係が深い。まとめると以下のようである。

宗像三女神の関係系図(記紀・先代旧事本紀)
        (古事記)
      ┏━田心姫  ━┓ ┏味鋤高彦根命
      ┃ (多紀理姫)┣━┫
      ┃ 大国主命━━┛ ┗下照姫
      ┃ 
      ┃ (先代旧事本紀)
      ┃ 大国主命━━┓ ┏八重事代主命
天照大神━┓┃       ┣━┫
     ┣╋━湍津姫━━━┛ ┗高照光姫
素盞嗚尊━┛┃ (神屋盾媛)
      ┃ 
      ┃ 
      ┃ (香月文書)
      ┗━市杵島姫━━┓
              ┣━天照日尊
        饒速日尊━━┛

 鞍手町誌に次のような記述がある。
香月文書に次のようにある。「小狭田彦は本名が常盤津彦命といい、饒速日尊の御子の天照日尊の十五世の末裔という。しかも天照日尊が宗像の中津宮の市杵島姫命との間にできた御子神の後というから、宗像神話とも関連がある。」

 饒速日尊と市杵島姫の子が天照日尊であることを伝えている。さらに丹後の籠神社でも「当宮の東方海上20q余に彦火明命がお后の市杵島姫命と最初に天降ったと伝えられる冠島がある」とされており、饒速日尊と市杵島姫が夫婦であることを伝えている。しかし、奈良市今御門町一番地の猿田彦神社で市杵島姫が妻神として祭られており、市杵島姫は猿田彦命の妻でもある。

 これはいったいどういうことであろうか。

 古代史の復元では下照姫・事代主命は共に饒速日尊の子であると推定(賀茂氏の正体)しており、宗像三女神はすべて饒速日尊の妻になってしまう。

 伝承を最大限尊重すると、市杵島姫は饒速日尊・猿田彦親子双方の妻ということになる。饒速日尊はBC12年頃の生誕、市杵島姫はAD20年頃の生誕、猿田彦はAD5年頃の生誕となるので可能ではあるが、饒速日尊が丹波国統一を行ったのはAD20年頃であり、市杵島姫が生まれた直後である。饒速日尊はAD25年頃天孫降臨で大和に降臨しており、饒速日尊の妻が市杵島姫であり、丹後に夫婦で降臨するのは不可能なこととなる。やはり、市杵島姫は猿田彦の妻と考えるべきである。

 では、饒速日尊の妻とされている市杵島姫は何者なのであろうか。

 宗像三女神の子であるとされている味鋤高彦根命・下照姫・事代主命はいずれも、饒速日尊と飛騨国の娘との間に生まれた子である。そこから、宗像三女神=飛騨国の娘という図式が生まれてくる。宗像三女神を九州に降臨させたという飛騨伝承も存在している。宗像三女神=飛騨国の娘という図式は双方の伝承で一致しているのである。

 饒速日尊は丹波国統一後、丹波に滞在中飛騨国を訪問している。その時、飛騨国王の娘・市杵島姫と政略結婚したものではないだろうか。そうすれば、饒速日尊が市杵島姫を伴って冠島に上陸したという伝承にスムーズにつながる。饒速日尊は天道日女を伴って丹波地方を訪問し統一した。その後、飛騨国を訪問して市杵島姫と結婚したと考えられるのである。

 饒速日尊と飛騨国の妻

 饒速日尊(大歳命)の婚姻関係は記紀では次のようになっている。

伊怒比売(いのひめ、神活須毘神(かむいくすび)の娘)との間の子
 大国御魂神、韓神、曾富理神、白日神、聖神
香用比売(かよひめ)との間の子
 大香山戸臣神、御年神
天知迦流美豆比売(あめのちかるみづひめ)との間の子
 奥津日子神、奥津比売命、大山咋神(事代主)、庭津日神、阿須波神、波比岐神、香山戸臣神、
 羽山戸神、庭高津日神、大土神。

 天知迦流美豆比売の子である奥津日子神、奥津比売命は飛騨の中心神社とされる日輪神社の祭神でもあり、また、大山咋神(事代主)は飛騨国の血筋と考えられるので天知迦流美豆比売は飛騨国の娘と判断できる。

 大歳の子とされる神の名が自然神や海外からの渡来神と思われる神名が多いので、実際の子以外にも付け加えられていると考えられる。

 饒速日尊=大歳命なので、その妻も共通のはずである。神社伝承をもとに妻を探ると、神皇産霊尊の子である支佐加比賣命(キサカイヒメ)との間に猿田彦命。神皇産霊尊の孫天道日女との間に天香語山命、市杵島姫との間に穂屋媛命、長髄彦の妹御炊屋姫との間に宇麻志麻遅命、他に高皇産霊神の娘である三穂津姫が伝えられているが,高皇産霊神=飛騨国王大山祇命なので,三穂津姫=天知迦流美豆比売という図式が出来上がる。

 大歳の三人の妻との照合を図ると、神活須毘神が神皇産霊尊と考えられるので、伊怒比売=支佐加比賣命。市杵島姫=天知迦流美豆比売と考えられるので、天道日女=香用比売と推定する。

 天道日女命について

 丹後一宮籠神社の伝承 

 彦火明命には二方の后があり、一方は大己貴神の女である天道日女命です。もう一方は俗に「宗像三女神」と呼ばれている神の一方で市杵嶋姫命です。
 天村雲命は、海部家三代目の祖先です。この神の父神は、始祖である彦火明命と大己貴神の女である天道日女命との間に生まれた「天香語山命」です。また母神は、始祖である彦火明命と市杵嶋姫命との間に生まれた「穂屋姫命」です。天村雲命は日向国にいた時に阿俾良依姫命を后とし、丹波にいる時は伊加里姫命を后とされました。 鎌倉時代に伊勢の外宮の神主によって書かれた書物によると、天村雲命は邇邇芸命が天照大神の籠もられた御神鏡を持って天降られた時、その前に立ってお仕え申し上げた神様です。天村雲命は邇邇芸命の命令によって天御中主神のもとに行くと、天忍石の長井の水(神々が高天原で使われている水)を汲んで琥珀の鉢に八盛りにし、天照大神の御饌としてお供えするように、また残った水は人間界の水に注ぎ軟らかくして朝夕の御饌としてお供えするよう」命じられました。天村雲命はこの水を日向の高千穂の御井にお遷しになり、その後丹波の魚井の石井(当社奥宮の「天の真名井」の泉)にお遷しなった後、雄略天皇の御代、当社奥宮の「天の真名井」から伊勢外宮の豊受大神宮の御井にお遷しになったと伝えられています。

 饒速日尊は丹波国統一の前に四国を統一しているが、愛媛県下の神社には饒速日尊は天道日女命を伴っており、饒速日尊は天道日女命と夫婦関係になったことは事実のようである。市杵島姫と天道日女命は同一人物かとも思われたが、上記の伝承にあるとおり、その子供同士の結婚がみられるので、別人物と考えたほうがよいようである。

 饒速日尊の妻とされる市杵島姫

 しかし、籠神社の伝承にある市杵島姫はAD20年頃饒速日尊の妻となっており、素盞嗚尊と日向津姫との間にできた市杵島姫はAD20年頃の生誕と考えられるために両者は別人と考えられる。饒速日尊の妻となった市杵島姫は飛騨国から派遣された人物と思われる。この人物が事代主命の母であるために古事記でいうところの天知迦流美豆比売と判断する。以降市杵島姫の名を使うと混乱するので、天知迦流美豆比売の名を用いることにする。  

 饒速日尊は山城国を後の時代に開拓しているが、大山咋命・ 市杵嶋姫命がペアで活躍しているようで両神がペアで祀られている神社が多い。これは、両者が親子であることを意味している。ここでいう大山咋命は事代主命とされているが,事代主命は二人いて,積葉八重事代主命と玉櫛彦であるが,市杵嶋姫命(天知迦流美豆比売)を母とするのは玉櫛彦の方なので,この大山作命は玉櫛彦と考えたほうが良いと思われる。積葉八重事代主命,玉櫛彦共に後に大和で生誕しているので,饒速日尊が大和を統一し御炊屋媛と結婚後、再び天道日女及び市杵嶋姫命(天知迦流美豆比売)を大和に呼び寄せたものと考えられる。

 各妻との結婚の時期

 第一の妻支佐加比賣命は、猿田彦を生んでおり、その時期は大歳(饒速日尊)が出雲にいるころなので、AD5年頃(饒速日尊15歳程)と思われる。子は猿田彦である。

 第二の妻天道日女命は愛媛県の神社に饒速日尊と祀られていることが多い。しかし、南九州統一時には天道日女を伴っていないために、南九州統一後、北四国統一に出る前に結婚していると思われる。時期としてはAD10年頃(饒速日尊20歳程)であろう。子は天香語山命である。

 第三の妻天知迦流美豆比売(市杵島姫)は饒速日尊が丹波国統一時には引き連れていたのでAD15年頃(饒速日尊25歳程)と推定される。子は穂屋媛である。 

 第四の妻三炊屋媛は饒速日尊が大和に侵入した直後なので、AD25年頃(饒速日尊35歳程)と思われる。子は宇麻志麻遅命である。

 饒速日尊が葛城地方を統一した後、AD30年頃(饒速日尊40歳程)、天知迦流美豆比売との間に玉櫛彦・下照媛が生まれており,また,香用媛(天道日女)との間に事代主命・高照姫が生まれているので、丹波にいた香用媛,厳島にいた天知迦流美豆比売(安芸国統一)を大和に呼び寄せたものと考えられる。両者の子同士結婚しており,また,香用媛,天知迦流美豆比売は同時期に丹波・大和に滞在していることになり,両者は共に饒速日尊の妻で恋敵でありながら仲が良かったのではないかと推定される。

 三穂津姫は,出雲国譲りの後、高皇産霊尊が大物主神(饒速日尊)に対し「もしお前が国津神を妻とするなら、まだお前は心を許していないのだろう。私の娘の三穂津姫を妻とし、八十万神を率いて永遠に皇孫のためにお護りせよ」と詔した。とされている。  

 三穂津姫とは何者であろうか。高皇産霊神は飛騨国の大山祇命の別名と推定しているので、高皇産霊神の娘となれば,飛騨国王の血筋となる。飛騨国王の血筋の人物を複数妻にするとは考えにくいので,天知迦流美豆比売と同一人物になるのである。

 三穂津姫は,国譲り後,幼い事代主命が出雲に赴任したときに行動を共にしているが,三穂津姫が天知迦流美豆比売と同一人物であれば,事代主命の母となるので,行動を共にするのはいたって自然な流れとなり,むしろ自然である。
饒速日尊の妻の系図
                   ┏━━彦狭知命━━━━━━手置帆負命━━天道根命
       ┏━━━━天御食持命━━┫            
       ┃           ┗━━天道日女━━━━━━┓ ┏━積羽八重事代主命
       ┃             (香用比売)     ┃ ┃
       ┃                        ┣━╋━高照姫
       ┃                        ┃ ┃
       ┃                        ┃ ┗━天香語山命┓    
       ┣━━━━神大市姫┓               ┃        ┣天村雲命
       ┃        ┣━━━━饒速日尊━━━━━━━┫ ┏━穂屋媛━━┛
       ┃    素盞嗚尊┛               ┃ ┃      
豊柏木幸手男彦┫                        ┣━╋━下照姫
 (伊弉諾尊)┃               ┏天知迦流美豆比売┛ ┃
       ┃  (高皇産霊神) 矢野姫━┓┃ (市杵島姫)   ┗━玉櫛彦命┓┏天八現津彦命━観松彦伊呂止命
       ┃  高天原建夫┓      ┣┫ (三穂津姫)  (大山咋命) ┃┃
       ┃       ┣━━天櫛玉命┫┃         (味鋤高彦根)┣╋天日方奇日方命━━飯肩巣見命━建甕尻命
       ┗━━春建日姫━┛ (大山祇)┃┃        ┏━━━活玉依姫┛┃(賀茂別雷命)
          (神皇産霊神)     ┃┃        ┃        ┗媛蹈鞴五十鈴媛命┓
                      ┃┗鴨建角身命━━━┫                 ┣綏靖天皇
                      ┃         ┃        ┏神武天皇━━━━┛
                      ┃         ┃        ┃
                      ┃         ┗━━━玉依彦━━━━五十手美命━麻都躬之命
                      ┃                  ┃
                      ┃       豊玉彦━━━━玉依姫┓┃
                      ┃                 ┣┛
                      ┣━━━━━━━━━━鵜茅草葺不合尊┛
                      ┃
                 日向津姫━┫
                      ┣━━━━━━━市杵島姫━┓
                 素盞嗚尊━┛            ┣
                                   ┃ 
              神皇産霊神━━支佐加比賣命━┓      ┃
             (飛騨系縄文人)       ┣━猿田彦命━┛
                       
饒速日尊━┫
                            ┣━宇麻志麻遅命
                      ┏三炊屋媛━┛
             縄文人━━━━━━┫             
                      ┗長髄彦

 宗像三女神の正体

 さまざまな伝承をつなぐと宗像三女神はすべて饒速日尊の妻となっていることがわかる。饒速日尊は飛騨国王家の妻(支佐加比賣命、天道日女、天知迦流美豆比売)を三人娶っており、この三人が宗像三女神と推定できる。

田心姫

 『古事記』では多紀理毘売命、『日本書紀』では田心姫・田霧姫と表記される。別名奥津島比売命だが、『日本書紀』第三の一書では市杵嶋姫の別名としている。

 『古事記』の大国主命の系譜では、大国主命との間に味耜高彦根神と下照姫を生んだと記され、沖ノ島にある沖津宮の祭神である。

 古代史の復元では饒速日尊の最初の妻支佐加比賣命と推定している。饒速日尊と支佐加比賣命との間に猿田彦命が生まれている。下照姫命は市杵島姫の子と推定しているが、『日本書紀』第三の一書では田心姫は市杵嶋姫の別名とされており、伝承同士で混乱が見られる。

田津姫

 『古事記』では多岐都比売命、『日本書紀』では湍津姫と表記され、宗像大社では「湍津姫神」として大島の中津宮に祀られている。『先代旧事本紀』には、後に大己貴神に嫁ぎ、八重事代主神と高照光姫命を生んだと記されている。

 古代史の復元では饒速日尊の第二の妻天道日女命と推定している。

市杵島姫

 『古事記』では市寸島比売命、『日本書紀』では市杵嶋姫命と表記する。別名、狭依毘売命。市杵島姫命は天照大神の子で、皇孫邇邇芸命が降臨に際し、養育係として付き添い、邇邇芸命を立派に生育させたとされている
大分県の宇佐神宮では、比売神として多岐津姫命・多紀理姫命とともに二之御殿で祀られている。
「イチキ(斎き)」は神霊を斎き祭るという意味があるという。

 古代史の復元では饒速日尊の第三の妻天知迦流美豆比売と推定している。

 饒速日尊は日本列島統一のために飛騨国王家の妻3人と政略結婚しているのである。素盞嗚尊と日向津姫との間に生まれたとされる宗像三女神は異名同神で市杵島姫であると思われる。大分県宇佐市安心院の三女神神社の地で生誕し、その後宇佐神宮→宗像と移動し、神武天皇の東遷に同行し、最後は広島県の厳島神社の地で亡くなったと考えている。

饒速日尊が天知迦流美豆比売と結婚した理由

 饒速日尊は丹波国統一し、丹後地方にいるときに飛騨国を訪問し、この時に天知迦流美豆比売と結婚し、彼女を伴って丹後国に戻ってきたと考えられる。

 饒速日尊が東日本地域を統一し、ヒノモトを建国し、その後に倭国と合併し、その統一王朝を飛騨国が認めるためには、その王に飛騨国王の血が入っていなければならない。順調にいけば饒速日尊がヒノモト国王になるわけであるから、その子にも飛騨王の血を入れる必要がある。そのためには、饒速日尊自身が飛騨王と近い血筋の娘を妻にする必要があった。ここまでの二人の妻は飛騨王家の血筋ではあったが、直系ではなかった。そのために飛騨王直系の娘を妻にすることを飛騨国が要求してきたものと考える。これが日本書紀に言う三穂津姫との結婚要求にあたると思われる。

 日本書紀記録

 高皇産霊尊が大物主神(大国主の奇魂・和魂)に対し「もしお前が国津神を妻とするなら、まだお前は心を許していないのだろう。私の娘の三穂津姫を妻とし、八十万神を率いて永遠に皇孫のためにお護りせよ」と詔した

 これを古代史の復元流に解釈しなおすと,
 大山祇命(高皇産霊尊)が饒速日尊(大物主神)に対し「もしお前が飛騨国の娘を妻としないなら、まだお前は飛騨国を信用していないのだろう。私の娘の三穂津姫(市杵島姫)を妻とし、日本列島を統一し,永遠に皇孫(飛騨王朝の後継者)のためにお護りせよ」と詔した。

 丹後にいた饒速日尊は飛騨国からの要請を受け、飛騨国を訪問し、飛騨王天照大神の娘天知迦流美豆比売(市杵島姫)と結婚し、その妻を連れて丹後に戻ってきたのである。この時の伝承が冠島の伝承であろう。

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