山城国・丹波国の開拓

 山城国開拓

 統一関連伝承

山城国 一宮 賀茂別雷神社 京都市北区 賀茂別雷大神 神武 社伝では、神武天皇の御代に賀茂山の麓の御阿礼所に賀茂別雷命が降臨したと伝える。『山城国風土記』逸文では、玉依日売(たまよりひめ)が加茂川の川上から流れてきた丹塗矢を床に置いたところ懐妊し、それで生まれたのが賀茂別雷命で、兄玉依日古(あにたまよりひこ)の子孫である賀茂県主の一族がこれを奉斎したと伝える
日向国曽の峰に降臨した賀茂建角身命は、神武天皇を先導して大和の葛木山に宿り、さらに山代国岡田の賀茂に移り、その後、久我国の北山基に鎮座。
丹波国神野の神伊可古夜日売を娶り、玉依日子・玉依日売が生まれた。
ある日、玉依日売が石川の瀬見の小川で川遊びをしていると、丹塗矢が川上から流れ下って来た。これを床のまわりに置いていたところ、玉依日売は妊娠し、男子を産んだ。成人し、建角身命が、「汝の父に酒を飲ましめよ」と言ったところ、天に向かって杯を手向け、昇天した。それが、祭神賀茂別雷命である。また、父は乙訓社の雷神であったという。
一宮 賀茂御祖神社 京都市左京区 賀茂建角身命 不詳 上賀茂神社の祭神である賀茂別雷命の母の玉依姫命と玉依姫命の父の賀茂建角身命を祀ることから「賀茂御祖神社」と呼ばれる。八咫烏は賀茂建角身命の化身である
乙訓坐大雷神社 京都府長岡京市井ノ内南内畑35  火雷神 乙訓坐火雷神は玉依姫の夫神で「山城風土記逸文」の賀茂伝説に丹塗矢の古事として 見え、その御子別雷神を祭神とする上賀茂社玉依姫と建角身命を祭神とする下賀茂社 と共に国の大弊にあずかる名神大社としての社格の高い社であった
向日神社 京都府向日市向日町北山65  向日神 大歳神の御子、御歳神がこの峰に登られた時、これを向日山と称され、この地に永く鎮座して、御田作りを奨励されたのに始まる。向日山に鎮座されたことにより御歳神を向日神と申し上げることとなったのである。
火雷神社は、神武天皇が大和国橿原より山城国に遷り住まれた時、神々の土地の故事により、向日山麓に社を建てて火雷大神を祭られたのが創立である。
久我神社 京都府京都市伏見区久我森ノ宮町8-1 建角身命、玉依比賣命、別雷神 当地方の西の方(乙訓座火雷神)から丹塗矢 が当社(玉依比売命)にとんできて、やがて別雷神が生まれられたとも、此の里では 伝承されている。
松尾大社 京都府京都市西京区嵐山宮町3 大山咋神 中津嶋姫命(市杵島姫命)

祭神・大山咋神は、古事記に、
「亦の名は山末之大主神。此の神は近淡海国の日枝の山に坐し、
亦葛野の松尾に坐して、鳴鏑を用つ神ぞ」
と記されている神。
「鳴鏑」の伝承に似た伝説は、賀茂別雷神社にも残されており、別雷神の父神は、大山咋神となっている。
大山咋神は丹波国が湖であった大昔、住民の要望により保津峡を開き、その土を積まれたのが亀山・荒子山となった。そのおかげで丹波国では湖の水が流れ出て沃野ができ、山城国では保津川の流れで荒野が潤うに至った。そこでこの神は山城・丹波の開発につとめられた神である。当社は、「酒の神」として有名である。

久我神社 京都府京都市北区紫竹下竹殿町47 賀茂建角身命 神武天皇御東進の際、八咫烏と化って皇軍を導き給い、賊徒の平定に功をたて、のち山城国に入り、この地方に居を定めて専ら国土の開発、殖産興業を奨め給うた最初の神であって、賀茂県主の祖神である。
貴船神社 京都府京都市左京区鞍馬貴船町180 高オカミ神 闇オカミ神 罔象女神 玉依姫命が、黄船に乗って、淀川・賀茂川・貴船川をさかのぼり、当地に上陸し、水神を祭ったのが当社の起こり。
玉依姫命が乗ってきた船は、小石に覆われ奥宮境内に御船型石として残っている。
岡田鴨神社 京都府相楽郡加茂町大字北字鴨村44  建角身命 「釈日本紀」の山城風土記の逸文によると、建角身命は日向の高千穂の峰に天降 られた神で、神武天皇東遷の際、熊野から大和への難路を先導した八咫烏が、すなわ ち御祭神の建角身命で、大和平定に当たり数々の偉勲をたてられた。大和平定後、神 は葛城の峰にとどまり、ついで山城国岡田賀茂(現在の加茂町・江戸時代までは賀茂 村と書く)に移られ、その後洛北の賀茂御祖神社(下鴨神社)に鎮まるのである。
丹後国 二宮 大宮売神社 京都府京丹後市大宮町周枳1020 大宮売神・若宮売神 不詳 古代天皇家の祭祀を司った人々の生活があり、稲作民による祭祀呪術的な権力を持つ豪族の国(大丹波)の祭政の中心の地であったといわれる。当宮の境内は、神社としての社ができる以前に、既に古代の政(まつりごと)が、おこなわれていた地である。
大虫神社 京都府与謝郡加悦町温江1821 大己貴命 昔、大国主命が沼河姫と加悦に住んでいたころ、槌鬼と言う病いが姫にとりつき、たちまち病いにかかられて大国主命はあまりになげかれたので少彦名命七色に息をはいて、この槌鬼の病いを追いだされたので姫の病いを癒されたがその息がかかったため人や植物が病にかかって苦しむようになり、少彦名命は「私は小虫と名のって貴男の体内に入り病のもととなる虫を除きましょう。」と言われ、大国主命は「私は人の体の外の病を治そう」と言われ、鏡を二面つくられ一つを少彦名命が一つは大国主命が持たれた。ここで大虫、小虫と名のられたと言うことである。

 山城国の伝承をまとめてみると、山城国を開拓したのは賀茂建角身命であることがわかる。賀茂建角身命は飛騨国王家の血筋の人物でAD30年頃、ヒノモト・倭国の実態を探るために饒速日尊のもとにやってきていた。その後AD40年頃より日向の高皇産霊神・日向津姫のもとに下り、倭国の実態も探った。出雲国譲り事件を見届けたAD48年頃飛騨国に戻り、倭国との血縁関係を結ぶことを報告して、再び大和に戻ってきた。暫く葛城で暮らしたのち、山城国岡田鴨神社の地を経て、久我神社の地に落ち着いた。娘の玉依姫も父の後を追って三嶋鴨神社の地から、山城国にやってきた。この頃、山城国で事代主命と玉依姫が出会ったのである。この二人の間に誕生したのが後に神武天皇の皇后となった五十鈴姫である。AD55年頃の誕生と思われる。

 賀茂建角身命は残りの人生を山城国の開拓に捧げ、山城国の地でなくなった。賀茂建角身命は賀茂氏の祖となったのである。

 亀岡盆地開拓

 京都府亀岡盆地には複数の神社で似たような開拓伝承が存在している。この伝承の実態を探ってみよう

桑田神社 京都府亀岡市篠町山本北条51  市杵島姫命・大山咋命・大山祇命  往古この地方は湖なりしを、亀岡市矢田町鍬山神社の祭神と共に、自ら鍬鋤を持って保津の山峽を切り開き、山城の地に水を流して亀岡盆地を干拓されたと大日本史の神社誌に見られる。古くは丹波(たにわ)といわれ、赤い土で染まった大きな湖だったこの地を、出雲大神が八人の地祇と協力して、浮田(請田)の狭を切開き、湖を干拓して桑畑(桑田)に変えたという。その謂れにより左岸に請田神社、右岸に桑田神社、そして干拓に用いた鍬が山を成した上矢田の地に、鍬山神社を祭ったと伝えられる。
 また、大己貴命が、丹(あか)い波の湖を見て、この水を無くせばすばらしい農地をつくれるだろうと、この地の八人の神様と協力して浮田を切開き、水を保津峡に導いて豊かな農地を作ったというような同様の伝承もある。
 桑田神社は、鍬山神社の祭神と共に保津の山峡を切開き、亀岡盆地を干拓したという大山咋神と市杵姫命を祭っている。市内では古い社で、大日本史神祇志に、この社地辺を桑田というと記されている。
請田神社 京都府亀岡市保津町字立岩4 大山咋命 市杵嶋姫命 祭神・大山咋命は自ら鍬鋤を持って保津の山峽を切り開き亀岡盆地を開拓した神。その開拓の開始の鍬入れを「受けた」ので、請田と呼ばれているという。
祭神大山咋神は、丹波地方を開拓するため、出雲地方から来られた神といわれ、当社および川向うの桑田神社のある保津川入口から開拓を始められたと伝える。
村山神社 京都府亀岡市篠町森山先34 大山祇命、木花開耶毘賣命 桑田神社の祭神と同じく、泥湖を干拓された神であるという伝説がある。社伝によるともとの社域は広かったが、兵火により焼失、応永二十七年、領主渡辺頼方が社殿を再興したとある。社殿背後の洪積台地は宮山といい、古代陶器の窯跡があり、このあたりから王子にかけての山麓に登窯が作られ、須恵器や瓦が焼かれていたという。又、裏山には、神霊の天降る聖地として重んじられた禁足地が残されている。
鍬山神社 京都府亀岡市上矢田町 大己貴尊 大昔この地は泥湖であったが、大己貴命は東方浮田峡を開いて水を決せられた。よって鍬山大神として称えられたと言う。
往古、当地は大蛇の住む泥湖であった。そこで祭神・大己貴命が、八神を黒柄山に集めて協議し、みずから鍬を持って浮田峡(保津峡)を切り開き、肥沃な農地としたという。里人は、その神徳を慕い、天岡山の麓に大己貴命を祀ったのが起源。
 社伝等によると、亀岡盆地が湖だった頃、大己貴命が黒柄山に八人の神様を集め一艘の樫船に乗り一把の鍬で浮田の峡を切り開き、肥沃な農地にされたと伝えます。

 大まかにまとめると、大己貴命(饒速日尊)と大山咋命(事代主命)及び市杵島姫(三穂津姫)が地元の人々と協力して当時湖だった保津峡を切り開き、広大な農地を開拓したというものである。この伝承は饒速日尊・事代主命が同時にこの地にいたことを意味している。
 また、籠神社に十種神宝である息津鏡と辺津鏡が存在しているが、この二面の鏡が籠神社に収められたのはいつのことであろうか。十種神宝は、饒速日尊が天孫降臨するとき、高皇産霊神より授かったものである。そのため、饒速日尊が最初に籠神社にやってきたときには鏡を持っていなかったと思われる。ということは、饒速日尊は再び籠神社を訪れているということになる。息津鏡はAD50年頃の後漢代の作で直径175mm、辺津鏡はBC50年頃の前漢代の作で直径95mm。出土品でない伝世鏡では日本最古である。鏡の名は十種神宝のうち2鏡と一致するが、関係は不明。伝承では饒速日命が天津神から賜ったものという。饒速日尊がこの鏡を奉納したのはAD50年頃以降のことと考えられ、東日本統一から戻った後ということになる。亀岡盆地開拓のメンバーに事代主命が含まれており、事代主命はAD35年頃誕生しているのでAD50年頃でないと活躍できないと思われる。亀岡盆地の開拓は東日本統一が完了したAD55年頃のことではあるまいか。この当時統一事業にとってもっとも重要な作業は農地開発であったと思われる。食料の安定確保こそ当時の人々にとって最重要課題だったのである。淡水湖の水が引いた後は肥沃な土壌が広がり、農地開発には最適な土地であったのであろう。そのために、湖を切り開くという大土木工事を実行したと思われる。当然ながら少人数でできることではなく、近郷近在の住民がほとんど総出で作業をしたものであろう。その指示をしたのが饒速日尊・事代主命・三穂津姫であったと思われる。
 この前後で丹波地方の中枢であった籠神社の地に二面の鏡を奉納したものではあるまいか。

 若狭彦命・若狭姫命について

若狭国 一宮 若狭彦神社 福井県小浜市龍前28-7 彦火火出見尊 714 社伝では、二神は遠敷郡下根来村白石の里に示現したといい、その姿は唐人のようであったという。和銅7年(714年)9月10日に両神が示現した白石の里に上社・若狭彦神社が創建された。翌霊亀元年(715年)9月10日に現在地に遷座した。
二宮 若狭姫神社 福井県小浜市遠敷65-41 豊玉姫命 714 安産・育児に霊験があるとされ、境内には子種石と呼ばれる陰陽石や、乳神様とよばれる大銀杏などがある
大飯神社 福井県大飯郡おおい町山田4-1 大飯鍬立大神 社伝として、大飯田郷開拓の祖神七柱を、大飯鍬立大神・七社大明神として祀ったのが起源。「鍬立」とは農業始めという意味らしい。祭神の異説として、祭神不詳、猿田彦神などがある。
宇波西神社 福井県三方上中郡若狭町気山字寺谷129-5 鵜草葺不合命 現在の神社案内では、最初日向に現れ、後上野谷(金向山麓)を経由して、現在地に遷座したとある。
地域には九州日向国の住人が移住してきており、付近の村村とは言葉遣いも異質である。

 若狭国は一宮・二宮ともに九州系の神を祀っている。九州日向から多量の移民があり、そのために若狭彦命として日子穂々出見命を祀っている。若狭彦神社の伝承では彦穂々出見命・豊玉姫が現在の小浜市に上陸したと言われている。彦穂々出見命がここに来た事実はあるのだろうか。来たとすればいつのことであろうか。日子穂々出見尊が薩摩にいるときは若狭国までくる時間的余裕はなかったと思われる。彦穂々出見命が対馬に行ったのはAD50年頃と思われ、AD65年頃には日向国に戻っている。若狭国に来たのはこの間であろう。彦穂々出見命はAD57年に後漢に朝貢し、漢倭奴国王の金印を受けている。新技術を伝えるという観点からすると、彦穂々出見命が若狭国に来たのはこの直後と思われる。また、伝承にあるように唐人のような服を着ていたというのもこれを裏付けている。AD60年頃であろう。そして、この頃は饒速日尊が大和で亡くなったころである。この後すぐに伊都国へ移動しているので若狭国にいたのは短期間であろう。若狭国は周辺の状況からAD35年頃統一されているようなので、統一された後、多量に移民があったのは直線で15km程東の三方五湖の辺りである。この頃彦穂々出見命は日向にはいなかったので、日向から多量移民はできないし、上陸地点も若干異なる。多量移民があったのは、大和朝廷成立後ではないかと考えている。

 では何のために、彦穂々出見命はこの若狭国に来たのであろうか?AD60年頃と言えば、その10年ほど前に対馬の穂高見命が信濃国安曇野に赴いて開拓をしている。対馬では日本国への意識が強まっていたと思われる。この時期の倭国・日本国の状況から以下のように判断する。

 この頃は、西倭国と日本国との大合併論議が盛んになっており、合併後の安定政権維持のためには、饒速日尊が統一した東日本地域の状況を把握することが目的で、東日本地域全体を巡回したのではないだろうか。彦穂々出見命が後漢に行って中国の先進文化を見てきた直後であり、日本列島を今後どのようにしていくかの方針決定のためにも是非とも必要だったのであろう。おそらく、日本列島平和統一に情熱を燃やしていた高皇産霊神が指示したものであろう。

 若狭彦・若狭姫命は若狭国を開拓した神として崇められている。両神は小浜市下根来(ねごり)の白石の里に降臨したと伝わり、白石神社が鎮座している。降臨地より少し下った清流の屈曲する深淵を鵜ノ瀬という。その地方を開拓するにはある程度の期間が必要である。しかし、若狭彦とされている日子穂々出見尊はどう考えても短期間しかこの地にいなかったはずである。また、籠神社にも日子穂々出見尊関連伝承がある。彦火明命=日子穂々出見尊と考える向きもあるが、やはり、短期間しかいなかった人物なので、単に訪問しただけであろう。
 若狭の大飯神社の祭神はその周辺を開拓した神が祭られているが、誰なのか不明である。一つの伝承に猿田彦の名がある。他の人物の名が見当たらないので猿田彦命と考えたい。猿田彦命は若狭国を統一したと思われる。

 若狭国は本来は猿田彦命が統一していたのであろうが、AD60年頃彦穂々出見命がやってきて、大和朝廷成立後、九州から多量の移民があったため、猿田彦命の功績が彦穂々出見命にすり替えられたのではないかと考えている。

     

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