四国統一

 南九州日向国に到着した饒速日尊は、当初少しだけかかわってすぐに四国統一に向かった。日向国は伊弉諾尊が自ら統一を申し出たため、統一事業は彼らに任せて、ほかの地域を統一することになったものと考えられる。素盞嗚尊は山陽地方を統一するとき、備南地域の人々の協力が得られたので、予定より早く北九州の統一に向かった。その関係で四国地方の統一は遅れたのである。まずは饒速日尊の行動伝承を追ってみよう。

 四国統一関連地図

 伊予国統一

 饒速日尊を関連神社 

           
神社名 住所 伝承
国津比古命神社 松山市八反地甲106,107 祭神 天照国照日子天火明櫛饒速日尊
応神天皇の御宇に物部阿佐利が風早の国造に任じられて、饒速日命、宇麻志摩遅命を祭祀せられた。
櫛玉比賣命神社 式内社 伊豫國風早郡 櫛玉比賣命神社
御祭神 天道姫命 配祀 御炊屋姫命
宗像神社 新居浜市八雲町1018 上の宮大明神(天御中天主命・饒速日命・鹿屋野姫命・天道姫命)
飛鳥時代に伊予の豪族越智氏が後の新居庄の中心である庄内庄治の地に、饒速日命、天道姫命、鹿屋野姫命を祀る上の神を奉斎した
太森神社 上浮穴郡小田町上川乙414 祭神 安閑天皇・伊弉諾命・鐃速日命
古くは、饒宮の三地嶽王大権現と呼ばれていた。
 「日の神鐃速日命に授け給うなり、故に鐃宮の伝えを尊む古神社である」 
大気味神社 西条市北条字五反地544 境内社 「鶴岡八幡神社」祭神
饒速日命 天道日女命
伊予国饒古宮大三八社の部に列する。
金毘羅寺 温泉郡川内町河之内 上音田 境内にある「御降臨の榊」に大物主命が降臨したと伝えられている。
浮嶋神社 東温市(旧重信町)牛渕 饒速日尊の長子 「宇麻志麻治命」 が誕生した場所と伝える。
王子神社 今治市玉川町字松ノ木丁592番地 祭神 天照皇大神・大新川神
持統天皇4年の春、国司小千宿禰玉興が当地を開いたとき、天照皇大神、饒速日神、大新川命をこの地に奉斎したものという
昔、大和政権に移った後、伊勢神宮の領地となり、玉川の古代米が伊勢神宮の外宮、「豊受大神」のもとへと、奉納されていた。その伊勢神宮の領地に鎮座する。 
正八幡神社 松山市福角町北辻649 古代、盛能山は、三つの森からなる、神廟の聖地であった。
「御玉の森」=天照皇大神、「月の森」=月読命、「御串の森」=饒速日命
須賀神社 今治市朝倉南 素盞鳴命が大市姫命とともに巡狩した古蹟に、小千連が神籠を立て斎き祀った
葛城神社 上浮穴郡久万町二名甲1399 往古からの饒宮、または古宮と称した饒速日命を祀った社
素鵞神社 越智郡菊間町河ノ内乙187 創祀不明。古代弥生時代の遺跡多く菊間は河之内より開けたという伝承もあり地名の太夫埼、神子、宮の上、宮谷、神子谷は神社に関するものであろう。祭神 饒速日尊
新高神社 新居浜市種子川山宮12 種子川山村は早くから開拓。周辺は弥生後期遺跡が多い。祭神 饒速日尊
野田神社 松山市北梅本町北池3331 往古より野田宮と称え、三座の神を斎祀したという古き社。主祭神 建速須佐之男命,饒速日命
大三輪神社 新居浜市大生院大野山3572 大和の大神神社の分祀と伝えられているが、王野山の地名から推察して、昔、尊貴な人のゆかりの地に祀られた神とも云われている。 祭神 大己貴命

 伊予国には饒速日尊を祀る神社が20社ある。伊予市から新居浜市にかけての沿岸地域が多い。愛媛県は饒速日尊の子孫である越智氏が支配した地であるためにその祖神である饒速日尊を祀った神社が多いのであろう。饒速日尊の直接の行動を示す伝承は少ないが、饒速日尊の旧蹟地に建てられた神社が多いのではないかと思い、それと思われる神社を列挙したのが上の表である。

 愛媛県には饒速日尊と共にその妻である天道姫命が共に祭られている。おそらく、夫婦で統一事業を行ったものと推定される。南九州統一時には妻である天道姫命を伴っている形跡が見えないので、南九州から一度北九州田川市春日神社の地に戻り、妻を伴って四国統一を実行したものと推定される。

 饒速日尊の結婚

 南九州統一に参加した饒速日尊は、素盞嗚尊より、北四国(伊予・讃岐)地方を統一せよとの命を受けた。南九州統一時に妻を連れている形跡は見られないが、伊予国の神社では饒速日尊は天道日女(天道姫)命を妻として伴っている。南九州統一直後に天道姫を妻に迎えたものと考えられる。

 天道姫の出自は記紀では大己貴命の娘となっているが、大己貴命と饒速日尊は同世代であり、この時点でまだ大己貴命は登場していないのでこれはありえない。天道姫は神屋楯比売・多岐津姫・屋乎止女命・瀬織津姫などの別名を持っている。出自は定かではないのであるが先代旧事本紀では、対馬県主祖「天日神命」となっており、紀伊国造家の系図では神皇産霊尊の子天御鳥命の子となっている。

 両者をつなぐと、飛騨国から派遣された天御鳥命は高皇産霊神より海外交易の拠点である対馬に派遣され、対馬県主の祖となっている天日神命と同一人物となる。

 南九州統一に参加した饒速日尊は対馬を経由して朝鮮半島へ赴き先進技術を学んで戻ってきてから伊予・讃岐地方の統一をしたのではないかと考える。この時、対馬にいた天御鳥命の娘と知り合い結婚したのではないかと推定する。饒速日尊は将来の日本列島統一の最重要人物と位置づけられていたはずであるが、この時点で海外経験がなかった。伊予・讃岐地方統一の前に朝鮮半島や中国大陸の実情を見て回ったのであろう。

 経路の推定

 愛媛県松山市の文京遺跡出土の土器と山口県山口市の吉田遺跡で出土した土器が弥生時代中期末に共通点が多くみられる。これは、この両地点でこの時期交流が活発になっていることを意味し、饒速日尊がこの経路を通っていることが推察される。また、防府市大崎1690の玉祖神社(周防国一宮)に主祭神2柱が存在し、その一柱は玉祖命で、今一柱が不明となっている。玉祖命は饒速日尊の天孫降臨時に随伴した神であり、後年この地を拠点とし中国地方開拓後、ここで最期を遂げている。不明のもう一柱は天照御祖神とも伝えられているが定かではない。位置から饒速日尊ではないかと推察する。

 饒速日尊が南九州から戻ってきた時は山口県南部地方はまだ未統一地であった。饒速日尊が北九州から天道姫命を伴って、山口県南部地方を統一後、周防大島経由で愛媛県伊予市あたりに上陸したのではあるまいか。松山市辺りを拠点(国津比古命神社の地?)として周辺を統一後、今治→西条→新居浜と統一していったと思われる。

 讃岐国統一

 伊予国を統一後、饒速日尊は讃岐国に入った。

 饒速日尊は,素盞嗚尊の北九州統一に参加した後,近畿地方以東統一準備のために,讃岐の金比羅山(祭神大物主神)の地で,瀬戸内海東部沿岸地方を治めていた。琴平宮には次のような社伝が伝わっている。

「祭神大物主神は琴平山に本拠を定め,四国,中国,九州などの経営にあたられたという...」

琴平宮が饒速日尊の宮跡だったようである。この地は現在は内陸地であるが,この当時は,海岸に位置し,海上交通の要衝であり,饒速日尊は海上交通の権益を握っていたようである。

 この地域には次のような変化が起こっている。

①讃岐・伊予を中心に,平型銅剣祭祀が盛んにおこなわれている。その最も集中出土するのは琴平周辺である。平型銅剣は扁平紐式銅鐸と共に 出土することが多く,共通の紋様が彫り込まれているものがあることから,同じ工人が造ったものと考えられる。 平型銅剣に鋸歯紋(後に述べるが,饒速日尊のシンボルである)が彫り込まれているものが約三割ほどある。

② 紫雲出山遺跡・・・紫雲出山遺跡は、防砦・見張台・烽台のある軍事的・防御的性格を帯びた集落遺跡と考えられる。この遺跡は、 弥生時代中期の初めごろから始まって、出土遺物の量から判断して、中期も終わりに近づくにつれて集落の規模が拡大し、 人口も増加したらしいが、中期末をもって終わっている。そして、本遺跡の東南約2キロメートルの低地に後身の船越集落が出来ている。

③ 旧練兵場遺跡・・・弥生時代後期の鍛冶炉が見つかり、生産された鏃・斧・刀子が多量に出土した。 この拠点的な集落を中心に鉄器生産が行われたと思われる。また、器形と胎土が異なる(他地域産の土器が持ち込まれた)ものと、 器形は異なるが胎土は讃岐の土器と同じ(讃岐の土で他地域の土器の形を作った)ような土器が見つかっている。これらの土器は九州東北部から 近畿にかけての瀬戸内海沿岸の各地域で見られる器形をしており、弥生時代後期初頭を中心とした時期に盛んに見られることがわかってきた。

 香川県の讃岐平野一帯は、弥生時代中期末に統一され、新技術が導入されて人々の交流が盛んになっていることが分かる。そのきっかけは饒速日尊によるものであろう。

 琴平宮と平型銅剣祭祀は関連しているようである。琴平宮の祭神大物主(饒速日尊)は,ここを本拠地として東瀬戸内沿岸を治めていた頃,人心統一のため,素盞嗚尊の銅剣祭祀にさらに磨きをかけた平型銅剣祭祀をおこなっていたようである。この平型銅剣祭祀をすることにより,瀬戸内海沿岸地方に住んでいる人々は次第に饒速日尊に心を寄せるようになっていった。この祭祀は,饒速日尊が去った後も後期中葉までしばらくおこなわれていた。

 伊予国・讃岐国を統一した饒速日尊は暫らく琴平の地に滞在して瀬戸内海沿岸地方の交流促進のために尽力したのであろう。琴平に滞在していたのは、AD12年頃からAD15年頃と思われる。

 宇和地方・土佐国統一

 高知県にも饒速日尊伝承地が存在しているが、この伝承は饒速日尊の天孫降臨後のものである。愛媛県南予地方および高知県地方は銅鉾祭祀の盛んなところである。北九州地方との交流が盛んだと判断できる。

神話伝承

 高知県大豊町の八坂神社の境内には、推定樹齢3000年と言われる大杉がある。二株の大杉は南大杉と北大杉と呼ばれ、南大杉は根元の周囲が約20m、樹高が約60mで日本一と言われている。北大杉は根元の周囲が約16.5m、樹高が約57mで、昭和27年に国の特別天然記念物に指定されている。この大杉を植えたのは、素盞嗚尊と伝えられている。

考古学的変化

土器

中期末になると遺跡数が増加する。それまで使用されて来た土器にも大きな変化が生じる。吉備を中心に分布する凹線文土器と呼ばれる 土器が急速に広がり,それまで使われていた土器を駆遂されている。またサヌカイトの打製石包丁や分銅形土製品と呼ばれている瀬戸内海地方に 特徴的な遺物が入ってくるのもこの時期である。中期末から後期の初めにかけては,吉備からの強い影響を受けていると判断できる。

青銅器

 銅剣は10本確認されている。7本現存している。土佐の銅剣は4本までが細形銅剣で他のものは全て中細形に属するものである。 九州ではこの時期のものは墓から出土し双孔もないのであるが、土佐では出土状況から見て埋納していたことが考えられる。 つまり最初の段階から使われ方も出土状況も九州とは異なっており、九州における中期末以降の扱いと同じである。おそらく、 中期末以降に九州から運び込まれたものであろう。

 銅戈は,土佐では5本が確認されているが,四国の他の3県には確実な出土例がない。中国地方を含めても土佐の5例が最多である。 銅戈には九州で作られた九州型と大阪湾沿岸部で作られた大阪湾型と呼ばれるものがあるが、土佐の5例はすべて九州の形式である。 銅戈の分布は窪川台地とその周辺に分布の中心があり、しだいに東に分布圏を広げている。 

 銅矛は,51本が確認されている。中広形銅矛が中期末以降に山陰と南四国に多量に持ち込まれている。瀬戸内地方に少ないが、 この時期瀬戸内地方が平形銅剣と言う独特の青銅器分布圏を形成していたためであろう。土佐の51本の内訳を見ると中広形が35本, 後期に属する広形が15本,型式不明のものが1例ある。これらの分布について見ていくと,中広形銅矛は中村市から、物部村に至る広範囲に分布しているが, 窪川台地に集中しており,須崎市や土佐市・高知市あたりで多くの出土している。この時期,南四国で最大の規模を有していた南国市の田村遺跡群の 周辺からは,遅倉遺跡の1本だけの出土である。これは、ただ中期末の田村遺跡は,出土遺物から中部瀬戸内の強い影響のもとにあったためと考えられる。 窪川町の西に続く愛媛県の南予地域にも中広・広形銅矛の集中地帯が続いている。このことから九州から南予に上陸して窪川台地に入り, 窪川台地が土佐の銅矛配付センター的な役割を果たし,そこから高知平野を中心とした各弥生集落へ配られたものと考えられる。

鉄器

高知県土佐市新居の上ノ村遺跡からは、弥生時代中期末の円形の竪穴遺構から鉄製品約170点が出土しており、遺構の周辺も合わせると計約250点となる。砥石も出土しており鉄製品の加工をしていたと見られる。

 統一過程の推定

 南四国地方には統一伝承が少ないので考古学的変化を考慮しながら統一過程を推定してみたい。

 他の地域同様明らかに弥生時代中期末に大変動が起こっている。交流も急激に活発となっているので、この時期統一されたと考えてよいであろう。窪川台地が青銅器分布の中心になっており、これは、愛媛県宇和島市辺りからの流れと推定できる。南予地方と日向との土器による交流は中期中ごろより続いており、素盞嗚尊が日向より豊予海峡経由ではなく宇和島に上陸したことが推定される。青銅器の分布から推定して、宇和島からJR予土線の経路に沿って土佐国に入り、周辺を統一したものであろう。

 大杉のある大豊は瀬戸内との交流の接点の地である。素盞嗚尊は高知平野を統一後、ここから瀬戸内海沿岸に抜けたのであろう。その先には饒速日尊が滞在している琴平があり、その後は饒速日尊によって、讃岐と土佐の物流が活発化したものと考えられる。

 素盞嗚尊が土佐を統一したのは伊弉諾尊が都城周辺を統一しているのと同じ時期で、AD12年頃ではあるまいか。素盞嗚尊は土佐を統一後再び日向に戻って、日向津姫と結婚したと推定している。

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