南九州統一

 北九州を統一した素盞嗚尊は南九州を統一した。

南九州地方の考古学的変化

 北九州を統一した素盞嗚尊は,宇佐を拠点として,南九州地方の進攻を開始した。AD10年(素盞嗚尊45歳)頃と思われる。南九州地方に,この頃, 次のような変化が起こっている。

① 宮崎県に中期後半から後期中葉にかけて瀬戸内系土器の流入がみられ, 在地土器様式に高坏が出現したのはこの時期の瀬戸内系高坏の流入によるものである。(石川悦雄氏)
② 後期初頭になると,瀬戸内系土器は量が増えるが,後期中頃までに消滅し,それと入れ替わるようにして,畿内系土器が出現する。
③ 土器だけではなく宮崎県で出土する両端に抉りを持つ, もしくは抉りを持たず円孔を持つ石包丁が弥生時代中期末の瀬戸内でみられる石包丁の形態と類似しているので、 「弥生時代中期末から後期初頭にかけて瀬戸内地方と宮崎県とのつながりが非常に強かったことがわかる」(池畑耕一氏)
④ 南九州と瀬戸内系の遺物の流れが瀬戸内から南部九州への一方通行的なものである。
⑤ 甕のような「土着的土器」が移動していることから, 南部九州と瀬戸内間における交流が「高坏, 壺がもつ祭祀などの観念的所為に供するに留まらず, 生活次元にまで下りた移動であったと考えられる。(下條信行氏)
⑥ 伊予南部で製作された可能性が高い西南四国系甕と伊予系の壺が出土しており, 伊予南部においても伊予系の凹線文土器が少なからずみられることから, 豊後経由ではなく伊予⇔伊予南部⇔日向という交流ルートであったと考えられる。
⑦ 東南部九州への土器の移動は壺と高坏を中心とすることから, 主に交換・交易によるものと捉え, 一時的な滞在目的による人の移動が大半であったと推測できる。(西谷彰氏)
⑧  中期後半に西部瀬戸内系土器の出土が顕著であるが、伊予にも南九州系の土器が見つかることから弥生時代中期後半は伊予と南九州の相互交流ととらえることができる。また、この時期は西部瀬戸内系の土器の搬入のみで、在地系の土器に全く影響を与えていない。集団移住というようなものではなく単純な交流と考えられる。
⑨ 熊本県下でみられる伊予系の瀬戸内系土器について, 南部九州経由で持ち込まれた可能性が高い。(中里伸明氏)
⑩ 都城市の向原第1遺跡は弥生中期末葉の鍛冶遺構で、九州で最古級の鍛冶工房である。

 時期ごとの考古学的変化
 (鹿児島大学リポジトリ・南部九州における弥生時代瀬戸内系土器の基礎的研究より)

弥生時代中期中頃から末にかけてを1期とする。1期は, 瀬戸内系土器の流入が始まる時期であり, 特に搬入土器の流入が最も盛んになる。搬入土器の起源地をみると伊予が圧倒的に多く, 特に伊予系土器の壺と高坏が搬入土器全体の43% (86点中37点) で主体を成している。その他, 吉備や西南四国, 中国山地~山陰のものもわずかながら確認でき, 瀬戸内の各地から土器が搬入されていることが分かる。
 器種についてみると, 搬入土器は伊予系土器の高坏と壺を主体とし, 高坏, 長頸壺, 無頸壺, 把手付水差といった貯蔵具・食膳具が中心となるが, 煮沸具である甕も一定量存在する。模倣土器でも壺が最も多いが, 脚台付壺, ジョッキ形土器といった搬入土器にはみられない器種が存在している。折衷土器でも壺が主であるが, その多くは在地の山ノ口式垂下口縁壺の口縁部上面に凹線もしくは多条沈線を施したものである。
 分布をみると日向~大隅にかけて多く分布しており, 特に宮崎平野の沿岸部に分布の集中がみられる。類型ごとの分布をみても, それぞれに大きな偏りはみられず, いずれの類型も広域に分布している。なお, 薩摩西部では1遺跡2点しか出土しておらず, 分布が希薄な地域となっている。出土状況をみると, 主に集落を中心とした居住空間から出土しており, 遺跡や遺構において,在地土器と共に1~数点の割合で出土する場合が多い。ただし, 宮崎市宮崎小学校遺跡(宮崎市教育委員会) では, 包含層からではあるが搬入土器の甕を主体として, 壺, 高坏という同時期(瀬戸内Ⅲ様式) の複数の器種がまとまって出土しており, 他の遺跡と若干様相が異なっている。また, 出土状況から瀬戸内系土器が祭祀行為に用いられたと判断できるものは確認できない。なお, 発掘調査面積とも関連する可能性があるが, 拠点的集落と考えられる遺跡からは多く出土する傾向にある

弥生時代後期初頭から後期中頃にかけてを2期とする。2期になると, 搬入土器の数が減少する代わりに折衷土器の数が増加し, 瀬戸内系土器全体では前の時期とほぼ変わらない出土数がみられる。搬入土器は, 伊予を中心とした西部瀬戸内のもの(6点) と, 吉備や讃岐といった東部瀬戸内(3点) のものがみられるが, 模倣土器と折衷土器をみると東部瀬戸内の影響を受けたと考えられるものの方が若干多く(西部瀬戸内系5点, 東部瀬戸内系13点) みられる。器種はいずれの類型でも1期と同様に壺が最も多いが, 1期にはわずかしかみられなかった器台が増加している等, 器種構成に変化がみられる。また, 折衷土器の器種をみると, 日向では甕・壺・器台が主体を占めるが, 大隅・薩摩では壺が主体となり, 地域によって折衷土器の主体となる器種に差異がみられる。分布は, 日向~大隅ではⅠ期と比較して若干の遺跡数の減少が認められるものの, 大きな変化は無い。しかし, 薩摩西部では遺跡数・出土数共に増加しているため, 分布が最も広域になる。類型ごとの分布をみると, 搬入土器は広域に分布しているが, 模倣土器は日向に集中しており, 特に大隅では分布が空白となっている。また, 日向南西部では折衷土器の出土がみられない。出土状況は1期と同様に居住空間からの出土が主であり, 何らかの祭祀行為を想定させる例は確認できない。出土量をみると, 1期と同様に拠点的集落と考えられる遺跡から多く出土する傾向がみられ, 宮崎市下那珂遺跡からは折衷土器を主体として32点の出土がみられる。

弥生時代後期後半から終末期にかけてを3期とする。3期では, 明確に搬入土器と判断し得るものがみられなくなり, 模倣土器と折衷土器のみとなる。器種についても, 甕がわずかに日向中部で模倣土器1点と減少し, 壺や高坏, 器台といった貯蔵・食膳具にほぼ限定される。起源地については, 破片資料が多く不明瞭な部分が多いが, 東部瀬戸内のものが多いようである。また, 西部瀬戸内や西南四国のものも各1点ずつみられる。
 分布は, 大隅で1遺跡1点みられる他は日向中部に限定され, 宮崎平野を中心に分布するようになる。類型ごとの分布に大きな偏りはみられない。
出土状況は1期, 2期と同様に居住空間からの出土が主であるが, 集落からの出土量が減少し,代わりに非居住空間である墓域からの出土が増加する傾向にある。特に, 階層的に高位に位置づけられると考えられる墓に供献されたものがみられる点には注目される。これらの墓域から出土する瀬戸内系土器は, 在地土器や他地域系の土器と伴って出土しており, 例えば川南町東平下遺跡円形周溝墓では在地土器と庄内式甕が, 小林市大萩遺跡土壙墓では在地土器と重孤文長頸壺(免田式) の搬入土器等が伴っている。
 このように, 1~3期の瀬戸内系土器の動態をみると, 瀬戸内系土器は南部九州在地の土器様式自体には大きな影響は与えていないことが分かる。折衷土器という形で在地土器への影響がみられるものの, こうした土器は様式の中で普遍的に存在するものではなく, また瀬戸内系土器のある器種が南部九州在地の様式の中に取り込まれているといった状況もみられない。瀬戸内系土器は, あくまで客体的なものとして存在し, 在地土器に与える影響も限定的である

 素盞嗚尊・饒速日尊による南九州統一の影響

 素盞嗚尊は東部瀬戸内(備南地域)の人々を率いてこの地にやってきていると思われる。南九州は素盞嗚尊が訪問する前(弥生時代中期中頃=紀元前1世紀)より、伊予地方との交流があったようである。伊予地方からの搬入土器が増加するが、在地系土器に全く影響を与えていないので、単純な交流と考えられる。弥生時代中期末(1世紀前半)より、西武瀬戸内の土器は減少し、東部瀬戸内系土器が増加する。そして、この土器は若干ながら在地系の土器に影響を与えているのである。単純な交流ではなくなったことを意味している。また瀬戸内系土器は拠点集落から多く出土することから、統一事業と関係していると判断される。そして、広い範囲で分布することから南九州地方が統一されたことが推定される。また、瀬戸内系土器が恒常的に出土することから,瀬戸内との交流は一時的なものではなく,恒常的なものであることが判断される。そして,瀬戸内沿岸地方で,南九州系の土器がほとんど見られないことから,この交流は瀬戸内から南九州への一方的なものであったと判断する。 素盞嗚尊の南九州進攻の結果,瀬戸内地方から役人を派遣し,瀬戸内系土器が出土するようになったものと考えるとうまく説明できる。 そして,瀬戸内系土器が後期初頭の途中で衰退するのは,出雲の国譲りによって,政権移譲が起こったためと 考えられる。また、中期末の都城盆地にある向原遺跡では鉄器の鍛冶がなされていることがわかっている。 時期から判断して素盞嗚尊が鉄器の鍛造技術と朝鮮半島からの鉄鉱石を持ち込んだものと考えることができる。

日向国統一

 筑後の高良山を出発した饒速日尊は狗奴国と交渉決裂後、益城地方、八代盆地を統一し緑川を遡り高千穂町,延岡市と統一していった。 一方素盞嗚尊は同じく高良山を出発後豊前・豊後を回った。宇佐に今後の統一の拠点を作り、大野川沿いに南下して、日向国についた。 二人は都農町の都農神社の地で出会い、ここを拠点として日向国の統一について話し合ったと思われる。 宮崎平野・都城盆地・肝属平野あたりは、弥生時代においては九州地方第二の人口密集地域である。素盞嗚尊・饒速日尊はこの地の統一には精力を傾けたも のと考える。

当時の南九州は宮崎県南部地方をイザナギ一族が支配していた。イザナギ一族は、中国史書にある「呉の太伯の子孫」である。 太伯は周の開祖文王の叔父にあたり、その子孫が春秋時代に揚子江河口付近に呉を起こした。イザナギ一族の祖先はBC473 年に呉が滅んだとき、東シナ海に船出をし、熊本県菊池地方に上陸した。その代表者は呉最後の国王「夫差」の子「忌」である。 この一族は後に狗奴国を建てた。この一族から紀元前2世紀ごろ別れた一族がある。それがイザナギ一族である。イザナギ一族は狗奴国から分かれ、 熊本県蘇陽町の幣立宮の地に住んでいたが、高千穂に移動し、その後BC20年頃日向地方についたものと推定している。 イザナギ一族の代表者伊弉諾尊には娘があった。名を日向津姫(天照大神)という。日向津姫(天照大神)の誕生伝承地は宮崎県下に二箇所ある。 ひとつは阿波岐原でもうひとつは清武町の加江田神社の地である。

阿波岐原について

 「筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原」というのは、伊邪那岐命が禊払いをして三貴子をはじめ多くの神々を誕生させた場所である。 神道にいうところの祝詞に良く登場してくる神聖な場所である。これは一帯何なのであろうか?

 宮崎市の小戸神社に阿波岐原の説明文があった。それによると、「小戸」というのは現在の宮崎市街地一帯を指し、大淀川の河口周辺であるらしい。 当時大淀川の川辺に多くの船が浮かんでおり、他地域との交流を盛んに行っていたらしい。その様子が「小戸」と呼ばれたようである。 「小戸」とは小さな港の意味であるという。

 阿波岐原の領域は寛延中の「日向小戸橘檍(あわぎ)原図」によると、宮崎市の西北大宮柏田から石崎川にいたる連続した領域を扇の頭とし、 大淀川下流の蟹町をその要とした三角形をなす領域となっている。この領域は小戸神社に言う小戸の領域と一致している。

 「伊邪那岐命が三ツ瀬の辺りに立たれて、上ツ瀬は速し、下ツ瀬は弱しと仰せられて中ツ瀬において禊払いをし給うた。 そのときに多くの神々を生み給うた。」 と古事記・日本書紀に書かれているが、この三ツ瀬には海原と川原の両説がある。

 海原説・・・上ツ瀬=住吉神社沖、中ツ瀬=江田神社、下ツ瀬=下別府沖

 川原説・・・上ツ瀬=下北方の津多賀瀬、中ツ瀬=上別府の也奈義瀬、下ツ瀬=住吉内瀬頭の伊和賀瀬

である。伝承地から考えると海原説が正しいようである。

 阿波岐原とは何か、禊払いとは何かであるが、中ツ瀬の江田神社の祭神は現在では伊邪那岐命、伊邪那美命(後祀)であるが、 神名帳によると素盞嗚尊の御子五十猛命、大屋彦命となっている。両神ともに倭国統一のために動き回った神である。その神が阿波岐原の中心地に 祭られているということより、阿波岐原は素盞嗚尊一族が南九州を統一するために上陸した場所で、 その拠点としたところではないかと推定される。この周辺からは祭祀系の弥生式土器の出土が多く、この地は一大祭祀地帯ということになる。 また、この地は古代において入り江だったので、北部からの来訪者が宮崎平野に上陸する地でもあった。神話上天照大御神・ 素盞嗚尊の誕生地と言われているので、イザナギ一族と素盞嗚尊が出会った場所ととらえることができる。

 

宮崎の八岐大蛇伝承

宮崎県宮崎市瓜生野柏田に八坂神社がある。「八龍神社」とも呼ばれており、祭神は素盞嗚尊と八岐大蛇で、八岐大蛇はこの神社の奥に棲んでいたという。この瓜生野にも出雲とほとんど同じヤマタノオロチ伝説がある。
 「八つの頭と八つの尾を持つ八岐大蛇に、毎年、生贄の娘をささげていた。この地を訪れた素盞嗚尊は村人を哀れみ、この怪物を酒に酔わせ退治した。」
というものである。
 この八岐大蛇が棲んでいたのは、柏田の奥の伊屋ヶ谷であり、その少し下流には、子捨てが平と呼ばれる場所があり、ここが、 毎年いけにえの娘を捧げた場所と言う。八龍神社の裏には、八つの池があり、そこが八岐大蛇に飲ませる酒を入れた八つの瓶であり、 近くに酒のモロミを発酵させたというもろが谷もある。この付近では、雨乞いのときに八つの池を掃除し、 藁で竜の形を作り大淀川に流す習慣もあった。
 また、この周辺は鍛造鉄の原料となる褐鉄鉱の産地であり、数多くの弥生土器とともに鉄宰なども多く出土している。

天照大神に関する伝承
 この柏田の東を流れている川を五十鈴川という。その河口の対岸の跡江地区には、伊勢という地名も残されている。この地域は、 後の伊勢神宮とのかかわりを感じさせる地域である。
 柏田地区から五十鈴川を挟んだ、上北方地区の一角に、高天原と呼ばれる地域がある。そこには天照大神を祭る磐戸神社が存在し。 通称、お伊勢様とも呼ばれている。この神社には天照大神が隠れた磐戸の前に建てられていると言う伝承がある。この地域には古くから 鶏を天照大神の使い鳥として信仰する習慣が残されていた。昔地元の住民は、鶏をまったく食べなかったといわれている。近くには、 天照大神の使い鳥が飛び回り時を告げたと言う「鶏足原」と呼ばれる地名もある。 

 この瓜生野地域の伝承は天照大神(日向津姫)と素盞嗚尊の出会いを示しているように思える。 出雲のヤマタノオロチの伝承と照合すると、アシナツチ・テナツチが伊弉諾尊・伊弉冉尊に対応し、稲田姫が日向津姫に対応する。

 伊弉諾尊一族は、おそらくBC10年頃この地に到達していたのではないかと思われる。素盞嗚尊がこの地を訪れたAD10年頃は伊弉諾尊一族がこの地を訪れて20年ほど経っていたのではあるまいか。伊弉諾尊一族も周辺豪族との抗争を行っていた最中だったのであろう。その伊弉諾尊一族との抗争相手がヤマタノオロチだったと推定される。

 伊弉諾一族は呉太白の子孫であるために先進技術を持っていたと考えられる。しかし、原住民との間では多勢に無勢であり、日向津姫との結婚を条件に周辺豪族が伊弉諾尊一族に圧力をかけていたと推定される。伊弉諾尊はそれを拒み、日向津姫を岩戸に隠すなどしていたのかもしれない。宮崎市近辺には八岐大蛇伝承が他に2か所あるといわれている。これらも伊弉諾尊一族と周辺豪族との抗争を示しているのであろう。
 そのような時に素盞嗚尊が上陸したのであろう。

 月読命とは誰か

 記紀では阿波岐原は伊弉諾尊が天照大神・月読命・素盞嗚尊の三貴子を産んだところと伝えられている。ここまでの考察により、伊弉諾尊・天照大神(日向津姫)・素盞嗚尊が一同に会した場所となっている。それならば残る月読命もこの地にいたのではないかと思い、月読命とは誰なのか考えてみることにする。月読命に関する言い伝えには次のようなものがある。

① 宇佐公康氏によれば、莵狹族は日本最古の種族で、タカミムスビノカミを始祖、オオトノヂ・オオトノベを高祖とし、月読尊を祖神・氏神とする。
② 天照大神に言われて保食神のところに行った月夜見尊が、口から吐き出した食べ物でもてなされたことを怒って、剣を抜いて保食神を殺してしまった。そのことを聞いて怒った天照大神は、もう会いたくないといって、月夜見尊と昼と夜とに別れて住むようになった。そして、天照大神が天熊人に保食神を見に行かせると、死体の各部分から牛馬や蚕、稲や五穀が生じていたので、それを持ち帰ると、天照大神は喜んで天邑君を定め、稲種を植えると、その秋の垂穂は、八握りもある穂になって、大そう気持ちよかった。(日本書紀一書)
③ 丹後では天照大神が天道日女命、保食神が豊受大神になっている。
④ 伊勢神宮外宮では、日神の天照大神にたいして、豊受大神は月神という扱いである
⑤ 最初蒼海原を支配していた月読が竜馬に乗り、四方の国々の河や渓を見まわり、千曲川を遡り、一奇巌の上に登り、金の弓矢を地に投げたところ、清水が湧き出した。そこでこの地に神殿を建てて鎮座した。この地を望月といい、その岩の上に月の御影が残ったので、その岩を月輪石と名づけ、その地の湖を月輪淵というとあるという。(御牧望月大伴神社社記)
⑥ 高良大社の祭神が『高良玉垂宮神秘書』では、月神と呼ばれている。  月読命は三貴子の1人で大変重要な人物のはずであるが、その行動は全く伝えられていない。このような場合、神社伝承をひも解くと、誰か別の重要人物の別名であることが多い。日本列島統一事業に大貢献した人物の別名ということになる。その人物となれば饒速日尊以外には考えられない。⑥の高良玉垂命は古代史の復元では素盞嗚尊または饒速日尊と考えられている。⑤の大伴神社のある信濃国を統一したのは饒速日尊である。④の豊受大神は饒速日尊と深い関連がある。③の天道日女命は饒速日尊の妻である。②の丹後では保食神(豊受大神)のところに饒速日尊が訪問し、丹後国を統一している。①の宇佐より饒速日尊が天孫降臨している。
 ①~⑥までの月読命に関する伝承はいずれも饒速日尊と深い関連がある。饒速日尊も素盞嗚尊と共に南九州統一に参加していると思われるので、確証はないが、月読命=饒速日尊と考えて大きな矛盾はないと思われる。神話における伊弉諾尊による三貴子の誕生伝説は、この阿波岐原の地で、日本列島統一に深くかかわった伊弉諾尊・素盞嗚尊・天照大神・饒速日尊が初めて一か所に集まったことを意味していると考えられる。

 以上の事実から阿波岐原を次のように推定する。

 北九州を統一した素盞嗚尊一族は、南九州を統一するために江田神社付近に上陸した。当時この地に拠点を置いていたイザナギ一族と出会った。素盞嗚尊はイザナギ一族の長である伊弉諾尊と交渉を行った。伊弉諾尊に北九州の実情を話し、日本列島統一の必要性を説いたと思われる。伊弉諾尊は南九州一帯のこの後の考古学的変化及び伝承から判断して、素盞嗚尊の提案を積極的に受け入れたと思われる。そして、大陸から取り込んだ新技術・品物を人々に提示した。南九州の人々はその新技術に驚くと共に、この地が人々の聖地となったのではないだろうか? また、この周辺が彦火火出見尊、狭野命、鵜茅草葺不合尊?の誕生の地でもあることから、その新技術の中に出産にかかわる医学技術も含まれていたのかも しれない。そのために、南九州の人々には出産の聖地として認知された可能性もある。

 日向津姫との出会い

 天照大神(日向津姫)は 加江田神社に誕生伝説を持つ。日向津姫は伊弉諾尊、 伊弉冊尊より この地で生まれている。素盞嗚尊が阿波岐原上陸したのはAD10年頃であり、この当時日向津姫は15歳ほどでなかったかと推定している。 イザナギ一族はこの地に上陸したのがBC10年頃であり、この時は、この加江田の地に拠点を置いていたのであろう。 その後の開拓により徐々に勢力範囲を広げ、素盞嗚尊が上陸したときは阿波岐原周辺まで勢力圏だったのであろう。
 この地方は九州第二の人口密集地帯である。この人たちは、おそらく南方から南西諸島をたどりながら南九州に上陸してきた人々であろうと 思われる。 大陸との交流はほとんどなかったと思われ、人口密集地帯でありながら、国という存在はなかったと思われる。 そこへ先進技術を持ったイザナギ一族が入ってきていたのである。伊弉諾尊は伊弉冊尊とともに、加江田に上陸し、勢力を拡大していた。
 勢力を拡大する中で、周辺豪族との対立が次第に激しくなっていったことが予想される。この当時宮崎平野は入江であり、そ の奥の瓜生野付近に一つの八岐大蛇とよばれている豪族がいた。この八岐大蛇は伊弉諾尊に対して日向津姫との結婚を要求してきた。 伊弉諾尊はその要求を拒んできたが、多勢に無勢であり、いつまでもその要求を拒否するのは難しい情勢にあった。
 このような時に素盞嗚尊が江田神社周辺に上陸してきたのである。伊弉諾尊も北九州地方を統一した倭国の情報を得ていたと思われ、 上陸してきた一団がその創始者素盞嗚尊であることは分かったであろう。

 素盞嗚尊は上陸後、この辺の有力者である伊弉諾尊を面会し、南九州一帯が倭国に加盟するように協力要請をしたと思われる。この面会の中で伊弉諾尊は一族が周辺豪族と抗争中であることを明かしたであろう。伊弉諾尊は素盞嗚尊の力を借りてこの周辺を統一できれば、自ら倭国の有力な構成員となることができることを予想し、娘の日向津姫との結婚を条件に南九州統一の協力を申し出たのではあるまいか。
 素盞嗚尊は早速抗争相手の八岐大蛇と統一交渉に入った。素盞嗚尊は八岐大蛇と戦ったのではなく交渉したと思われる。八岐大蛇も 素盞嗚尊が倭国の創始者であることは知っており、北九州地方が統一された状況も知っていたであろう。このような状況で逆らっても 孤立するだけであり何の益もないことを理解していた。そのために、若干の交渉であっさりと倭国に加盟したのではあるまいか。 宮崎には八岐大蛇伝承が他に二か所(現在不明)あるそうであるが、その二か所も素盞嗚尊と豪族の統一交渉を意味しているのではあるまいか。

 伊弉諾尊は素盞嗚尊の統一交渉の鮮やかさを見て、それに学び、日本列島統一事業に協力することを申し入れたと思われる。 

饒速日尊の行動

 加江田神社より3kmほど東に今泉神社がある。ここは天御中主命が降臨した場所と伝えられている。 天御中主命とは饒速日尊と考えられるので、饒速日尊がこの地に来ていたことになる。この地に来るには清武川をさかのぼり、 加江田を通り越さなければならない。おそらく饒速日尊は加江田に上陸し今泉神社の地に宮居したのであろう。しかしながら、 宮崎県南部地方に饒速日尊が関連する伝承が存在しない。おそらく、饒速日尊は最初短期間だけこの地にいたが、すぐに次の統一地(四国地方)を目指して 出発したためではないかと思われる。

伊弉諾尊による南九州一帯の統一

 南九州における素盞嗚尊関連の伝承は見つかっていない。南九州で素盞嗚尊はほとんど活躍していないと思われる。東霧島神社に伊弉諾尊・ 伊弉冊尊の活躍伝承があるために、素盞嗚尊の提案を受けた伊弉諾尊は、南九州は自らが統一すると申し出たのではないかと考えている。 和歌山県の熊野本宮大社に伝わる伝承では、素盞嗚尊が伊弉諾尊・伊弉冊尊を伴って統一していることになっているので、 伊弉諾尊・伊弉冊尊は素盞嗚尊の統一事業に積極的に協力したことになる。

 素盞嗚尊はその申し出を受け、南九州一帯の統一は伊弉諾尊・伊弉冊尊に任せることにした。この間素盞嗚尊は南四国の統一に出向いた と思われる。

都城盆地統一

都城盆地の弥生時代中期末の考古学的変化

 都城市立野町に向原遺跡がある。この第1遺跡3号住居跡からは台石や砥石が出土し、床には焼けた小さな鉄片が散乱していた。弥生時代中期末と推定されている。この時期としては南九州では例の少ない鍛冶工房跡と考えられており、中期末にこの地域に鉄器鍛造技術が入り込んでいることが分かる。
 都城市南横市町の坂元A遺跡では、中期以前の水田の区画はくずれた隅丸方形ないし楕円形をしていて、一区画が10平方メートル前後と狭く不整形なものであり、自然地形に合わせて作られたと考えられ、用排水路などの施設は認められていない。ところが、中期末~後期になると、水田跡が恒常的に水がわく場所まで広がっていて、木製の農具や丸杭などがみつかっており、水田を作るための土木工事が行われていることが推定される。時期から考えて素盞嗚尊が南九州に持ち込み、その技術を受けて伊弉諾尊・伊弉冊尊が都城盆地一帯を統一するとき、紹介したものであろう。

東霧島神社

 東霧島神社は主祭神伊弉諾命でイザナギの皇都があった地と伝承されており、境内には伊弉諾命に十握の剣で三つに切断されたという神石がある。伊弉諾尊・伊弉冊尊が都城地方を統一した時の拠点としたところであろう。都城地域は弥生時代の遺跡密度が高いところで、多くの人々が住んでいたと思われる。伊弉諾尊・伊弉冊尊は備南地域の人々、阿波岐原周辺の人々を引き連れ、阿波岐原から大淀川を遡り、都城市高崎の東霧島神社の地に到達した。彼らはここを拠点として、素盞嗚尊から伝達された鉄器鍛造技術・農耕技術などの先進技術を示す方法でこの盆地を統一していったと思われる。暫らく後、都城盆地一帯は倭国に加盟することになった。

東霧島神社

 国分地域の統一

 鹿児島県霧島市蛭子神社
  旧大隅国二宮である。遠く神代に創建されたものと伝えられているが、現在の社域には、寛延三年(西暦一七五〇年)の遷宮御造営されている。 祭神は蛭児尊。
 「伊邪那岐・伊邪那美命の最初の子供は3歳になっても足腰が立たない蛭のような子供であったため、両親はその子を蛭子命と名づけ、 天岩楠船に乗せて天上から流し捨てた。この天岩楠船の流れ着いた場所が蛭子神社の地である」

鹿児島神宮 旧大隅国一宮
御祭神 天津日高彦穂穂出見尊(山幸彦) 豊玉比売命 
  相殿  帯中比子尊(仲哀天皇) 息長帯比売命(神功皇后)
      品陀和気尊(応神天皇) 中比売命(同皇后)
由緒概要
 鹿児島神宮の御祭神は海幸山幸の神話によるところの社で創祀は遠く神代にあって、又皇孫神武天皇の御代なりとも伝えられます。御祭神彦穂穂出見尊(別名山幸彦)は筑紫の国開拓の祖神に坐しましこの地に高千穂宮(皇居)を営み給い、五百八十歳の長寿に亘らせらるる間農耕畜産漁猟の道を指導し民政安定の基礎をつくり給うた御祭神である。
 俗に正八幡、国分八幡、大隅正八幡等と称し全国正八幡の本宮でもあります。醍醐天皇の延喜の制には(九〇一年)大社に列し大隅一ノ宮として朝野の崇敬特に篤く営繕の費は三州の正税を以て充てられ後鳥羽天皇建久年間(一一九八年)には社領二千五百余町歩の多きに至り江戸末期まで千石を有して居た。<由緒略記より>

鹿児島神宮の社伝「大隅正八幡本縁起」には次のような話がある。

『昔、震旦(しんたん)という国があり、陳という大王がいた。ところが、まだ7歳にしかならない幼い姫の 「大比留女(オホヒルメ)」が妊娠している ことがわかった。 大王は驚き怒って「一体だれが相手なんだ?」と問いつめた。姫は「いいえ相手はいません。 朝日の光りが胸にさした夢 を見ただけです」と答えた。やがて男の子が生まれたので、大王は非常に不吉なことだと思って恐れたが、 殺すこともできないので、あとは 神の意思にまかせることにして、「着いたところを、お前たちの領地に与える。そこで暮らせ」といって、 小さな母子を船に乗せて海へ流した。 船は荒海を無事に乗りきって大隅の海岸に着いた。子供は後に「八幡(はちまん)」と名づけられたので、 船の着いたところも八幡崎と呼ばれている。母 の大比留女は、その後、筑前(福岡)の若杉山に移り 「香椎聖母大明神」と崇拝されたが、 八幡はそのまま大隅に残って、正八幡と称えられ、幼くして隼人を平定した。

 鹿児島市霧島市にはすぐ近くに旧大隅国一宮・二宮が存在し、共に神代に創始されたと言われている。そして、共に上記のような変わった伝承が言い伝えられているのである。共に子が生まれたために流されたという伝承であり、同じ出来事を指しているように思える。「ヒルコ」「ヒルメ」は男女のペアを意味しており、「ヒルメ」は天照大神(日向津姫)と考えられるので、「ヒルコ」は素盞嗚尊となる。蛭子神社の蛭子命は素盞嗚尊のことであると推定している。素盞嗚尊は阿波岐原の地を日向津姫とともに出港し大隅半島を回り蛭子神社の地に上陸したと思われる。これと照合すると、「大隅正八幡本縁起」にある震旦国は阿波岐原周辺のイザナギ一族の立てた国を意味し、陳大王は伊弉諾尊を意味することになる。そして、八幡=素盞嗚尊である。「大隅正八幡本縁起」では大比留女と八幡は母子の関係にあるが、周りの伝承と照合すると夫婦関係となる。その後大比留女が移ったと言われている筑前の若杉山には太祖神社が存在し伊弉諾尊を祀っている。また、「香椎聖母大明神」とは香椎宮の伝承によれば神功皇后のことである。この「大隅正八幡本縁起」には複数の系統の伝承が混在しているようである。

 この伝承の通りなら鹿児島神宮の祭神は八幡となる。 ところが公式には彦火火出見尊になっている。彦火火出見尊は山幸彦と神武天皇の名であるが、鹿児島神宮の祭神は「筑紫の国開拓の祖神」といわれている。また、農耕畜産漁猟の道を指導し民政安定の基礎をつくり給うた御祭神とも云われている。筑紫国を統一したのは素盞嗚尊で、新技術を伝えたのも素盞嗚尊である。鹿児島神宮に伝えられている御祭神の実績はまさに素盞嗚尊の実績そのものなのである。鹿児島神宮の本来の祭神は素盞嗚尊と考えられるのである。 天照大神もやはりオオヒルメという名をもっているので、鹿児島神宮は素盞嗚尊・日向津姫がこの周辺を統一したその本拠地ではないかと考えるのである。 「正八幡が幼くして隼人を平定した」と伝えられているが、幼くはないが素盞嗚尊が周辺を統一したことを意味しているのではないだろうか。「幼くして」というのは滞在してすぐにという意味ではあるまいか。

 素盞嗚尊と伊弉諾尊の関係

 鹿児島神宮・蛭子神社の素盞嗚尊と伊弉諾尊の関係は良好とはいえない。古事記神話でもこれら神社でも何れも素盞嗚尊は伊弉諾尊から追放処分を受けているようである。ところが、この後、紀伊半島統一時は伊弉諾尊と素盞嗚尊は協力している面がうかがわれる。これはどうしたことであろうか。

 この原因を素盞嗚尊と日向津姫との結婚に求めてみたい。日向津姫は素盞嗚尊がこの地にやってきたAD10年頃はおそらく15歳程度、一方の素盞嗚尊は45歳程度でその開きは30歳程であると予想される。素盞嗚尊は指導者として優れた面をもち、改革者の側面を持つと同時に乱暴者であるという側面を持っている。ちょうど戦国時代の織田信長とよく似ていると思われる。素盞嗚尊が日向津姫と結婚することを父である伊弉諾尊に申し出た時、素盞嗚尊の年齢および性格からこれに反対したのではあるまいか。しかし二人の結びつきが強かったために怒りに任せて、阿波岐原の地から二人を追放したのではないかと思える。しかし、追放後の二人の姿を見るにつけ伊弉諾尊も二人の結婚を認めたのではないだろうか。

 素盞嗚尊は日向津姫の協力を得て、霧島市一帯を統一することはできたが、この周辺はまだまだ、未統一の地が多く存在している。しかし有力豪族は存在していない。それに対してまだ未統一の大阪湾岸は有力豪族がひしめいており、しかも倭国に加盟するのに対して頑強に反対しているのである。南九州一帯の完全なる統一は後の世に任せるとして、まず、東の方を統一しなければ、大阪湾岸地方の豪族が倭国に対して戦闘をしかけてくる可能性も考えられるのである。素盞嗚尊はいつまでもこの地にいるわけにはいかないと判断した。

 日向津姫も素盞嗚尊同様に先を見通す能力に優れており、今自分が何をなすべきかが正しく判断できる人物であった。素盞嗚尊は日向津姫を信頼し彼女に後を託して、宇佐に戻って、近畿地方以東を統一する決心をした。AD13年頃のことではあるまいか。

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