大和盆地侵入

 饒速日尊は大和盆地に侵入し、御炊屋姫と結婚。

饒速日尊の侵入経路

大和侵入関連地図

 大和侵入

 饒速日尊の侵入経路を神社伝承によって探ってみよう。  

三島鴨神社 大阪府高槻市三島江二丁目 祭神 大山祇神、事代主神
  淀川沿いに有り、大山祇命の最初の降臨地と言われている。事代主神が三島溝杙姫(玉櫛姫)に生ました姫が姫鞴五十鈴姫で、神武天皇の妃となった。 また三島溝杙姫の父神が三島溝咋耳命、その父神が大山祇神となっている。
溝咋神社 大阪府茨木市五十鈴町十七 祭神 媛蹈鞴五十鈴媛命、溝咋玉櫛媛命 三島溝咋耳命、天日方奇日方命、素盞嗚尊、天児屋根命
 『古事記』では大物主が玉櫛姫を見そめて、媛蹈鞴五十鈴媛命が生まれることになっている。
磐船神社 大阪府交野市私市9丁目19ー1 祭神 天照国照彦天火明櫛玉饒速日命(饒速日命)
 磐船神社は御祭神饒速日命が天孫降臨された記念の地である
太古淀川は枚方(シラカタ津)付近まで入江となっており大和に入るには哮ケ峰の麓を流れる天の川を溯りつつ大和に至るのが至便であったと考へられます。祭神は当社に降臨された後は、先ず十種の神宝を以て病み災ふ者を助け給い、和を以て大和の国の人々を導き給ったのであります。<平成祭データ>
白庭邑 奈良県生駒市白庭台白谷地区 「長髄彦本拠」と「鳥見白庭山」の石碑がある。
長弓寺(伊弉諾神社) 生駒市上町4447 長髄彦の旧跡、饒速日命と御炊屋姫を祀っていた。二神の廟社であり「天羽羽弓」を納めた真弓塚が東側にある
饒速日尊の墓 生駒市総合公園北側山中 檜の窪山  饒速日の尊がなくなったとき、天の羽弓矢、羽羽矢、神衣帯手貫を、登美の白庭の邑に埋葬して、墓とした。「天孫本紀」
矢田坐久志玉比古神社 奈良県大和郡山市矢田町965 祭神 櫛玉饒速日神 御炊屋姫神  
 東側に「迎ひ山」があり、河内からやって来た神を里人が迎えた山といわれる。饒速日尊降臨伝承地
登弥神社 奈良市石木町648-1 祭神 東殿 高皇産霊神、誉田別命 西殿 神皇産霊神、登美饒速日命、天児屋根命
 神社神域は饒速日命の住居或いは墓所であった白庭山であるとの伝説がある。
饒速日山(日下山・生駒山) 日下山・生駒山 饒速日山は、饒速日命が天降ったとされる河上哮峯のことで、生駒山地の北端の峰をさす。現在生駒スカイラインの料金所がある辺りである。昔は饒速日尊が祀られた神社があったらしい。 また、このあたりに饒速日尊の宮跡があったと伝えられている。
磐船大神社 南河内郡河南町平石484番地 饒速日尊が十種の神宝を持って天の磐船に乗ってこの地に降りられたと言う伝説がある古社である。<平成祭データ>

 長髄彦との出会い

 記紀によると、「天孫降臨に先立ち日本の国の中心である現今の奈良県大和の国に入らんとして32人の伴人を率い十種神宝を捧持して天翔り空翔り天磐樟船に乗り河内国川上哮ケ峰(いかるがみね)に天降りました。」と伝えられている。これに関して神社伝承と照合してみよう。

 瀬戸内海を東進してきた饒速日尊一行は淀川沿いの三島鴨神社の地に上陸した。この地で一行はそれぞれの小国家に向って分散した。この地は後に神武天皇の皇后となる媛蹈鞴五十鈴媛命の生誕地であり、倭と九州を結ぶ瀬戸内海航路の大和側の拠点となった地である。大山祇命(饒速日尊)最初の降臨地として有力豪族(後に述べるが飛騨王家関係豪族)を配置していたと思われる。

 太古淀川は枚方(シラカタ津)付近まで入江となっており大和に入るには哮ケ峰の麓を流れる天の川を溯りつつ大和に至るのが至便であった云われている。饒速日尊はここから天野川に沿って川を遡り、磐船神社の地で休息された。この神社の裏山である饒速日山(哮ケ峰)と呼ばれている山に登って大和盆地の様子を探ったものであろう。ここを拠点として大和盆地の最大有力豪族は長髄彦一族であることが分かった。饒速日尊としてはこの一族にマレビトとして入り込むことを決断した。

 磐船神社の地を出発して長髄彦が統治する小国家(白庭邑)にたどり着いた。長髄彦は神武天皇東遷時の饒速日尊に対する忠誠心を見ても饒速日尊に相当入れ込んでいたようであるから、饒速日尊を積極的にマレビトとして受け入れ、妹の御炊屋姫と結婚すること を承諾したものと思われる。ところが、近畿地方一帯は倭国には加盟せず新しい別の国(ヒノモト)になっている。これはどうしたことであろうか。

 河内勢力との確執

 河内地方は,朝鮮半島からきた方形周溝墓を持つ一族がおり,大和にはナガスネヒコ一族がいた。弥生中期には,方形周溝墓は近畿地方一円に分布するようになっていたが,大和地方にはほとんどみられない。朝鮮半島からきたこの一団は,河内地方とその周辺に住み着いていたが,大和盆地には入れなかったようである。この二つの一族は協調関係にはなく,対立関係にあったようである。対立関係にあるものが手を握ることは難しく,何か大きなメリットが双方に出現したと考えられる。河内地方と大和地方の考古学的違いを検討してみると次のようなものがある。

方形周溝墓が東日本地域に急激に分布するようになっている。

②大和朝廷成立後に畿内系土器が全国に見られるようになるが,この土器は,河内地方の土器で大和盆地の土器ではない。

③河内地方と大和では一般の土器は異なるが,祭祀形態はほとんど同じである。

④大和盆地の形式の土器は大和からほとんど外部に出た形跡はない。

⑤弥生時代後期の遺跡分布で考えれば、圧倒的に河内平野が多い。大和盆地は中期までは大和川支流に沿って集落遺跡が散逸する状態で、後期になって増加する傾向がある。その遺跡分布の中心となっているのが唐古鍵遺跡である。この遺跡も後期になってから巨大化している。

 大和朝廷成立後も,地方に勢力を伸ばしていたのは河内勢力である。大和勢力は,ほとんど外部に出た形跡はないが,大和朝廷は大和に存在する。これはどうしたことであろうか。大和にいる王の命に従って,河内勢力が全国を統治していたと考えるのが自然である。豪族は,初期大和朝廷に一門の技術でもって仕えていたようであり,河内の一族は地方統治で仕えていたと見るべきであろう。このことも大和朝廷が宗教統一で武力統一ではないことを示している。そうでなければ,地方に勢力を張っている河内勢力は,簡単に大和朝廷を倒すことができたであろう。
 また、饒速日尊が大和に侵入したと推定される中期末までは、大和盆地に遺跡が少なく、大和盆地はまだ成熟した国は存在せず、未開の地であったと考えられる。後期になって遺跡が増加していることから判断して、饒速日尊の進入によって国が造られたと判断できる。

 河内勢力と大和勢力は,多くの点で違いが見られるが,土器から判断して祭祀だけは共通である。祭祀とはおそらく饒速日尊に関連したものと考えられる。 対立関係にあったこの二勢力が,饒速日尊の進入によって協調関係になったといえる

 饒速日尊の作戦

 饒速日尊は大和に侵入し、河内地方には配下の人物をマレビトとして送っているのである。饒速日尊はこの当時近畿地方の有力豪族がひしめいていた河内地方ではなく、なぜ大和盆地に侵入したのであろうか。

 河内勢力と大和勢力は対立関係にあったと思われる。おそらく、河内勢力は華北地方からBC100年頃やってきた弥生人で、大和勢力は縄文人であったのではないだろうか。河内勢力はBC100年頃当時河内地方に住んでいた縄文人と戦闘状態になり、縄文人を追い出しているのである。大和勢力としてはその恨みが残っていたと思われる。そこで、河内勢力の方に饒速日尊がマレビトとして入り込んでしまえば、大和勢力が倭国に加盟することは金輪際考えられないことになり、日本列島統一のためには大戦争しかなくなるのである。東日本一帯は縄文人が数多く住んでいる領域である。そして、日本列島統一のための最大の難関が縄文王朝飛騨国であろうと予想されている。縄文人との対立は極力避けるべきであると判断したためではないだろうか。

 饒速日尊は最大の難関である飛騨国を取り込むためにも近畿地方に縄文人を主力とした国を作る必要があったのではないかと思われる。そのために、有力豪族のひしめいている大阪湾沿岸地方(河内勢力)ではなく、大和盆地に侵入したのであろう。そして、近畿地方一帯を倭国に加盟させるのではなく、新しい連合国家ヒノモト(日本国)を建国することになったのである。

 長髄彦も饒速日尊が新興連合国家倭国の有力人物であったことは知っていたであろうし、その目的が自らの国を倭国に加盟させるためであることも分かっていたと思われる。最初倭国に加盟させるためにやってきたと思った長髄彦は、饒速日尊と会うことすら拒否したのではないかと思われるが、饒速日尊の真の目的を知ることにより、積極的に受け入れることになったのであろう。縄文人と思われる長髄彦としては、古来より住んでいた土地を次々と弥生人に奪われており、しかも弥生人の先進技術には勝てないことも分かっていた。将来を悲観していた長髄彦にとって饒速日尊はまさに救世主だったのである。そのために、長髄彦はこの後饒速日尊に強い忠誠を誓い、神武天皇東遷時、日向勢力と戦うことになったのであろう。

 饒速日尊は長髄彦の協力を得ることに成功し、妹の御炊屋姫と結婚した。結婚後の住居地は長弓寺の地であろう。

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饒速日尊の子供たち
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