縄文王朝飛騨国の誕生

 飛騨高天原

 飛騨地方には飛騨高天原伝承がある。この高天原伝承は他地域の高天原伝承よりも古いもので、最初の高天原伝承を伝えられている。飛騨地方は縄文遺跡が非常に多い地域であり、バイカル湖周辺から移動した来た文化の南端にあたる。この周辺が西日本地域の縄文文化と東日本の縄文文化の接点にあたっている。

 飛騨地方は現在でも縄文人の血が大変濃い地域で、弥生人の流入を阻止してきたと思われる。その地域にある高天原伝承であるから、縄文時代にこの飛騨地方に飛騨国が存在したと推定できる。

 飛騨地方には飛騨から九州へニニギ命が天孫降臨したという伝承や、天照大神伝説などが豊富であり、また、それを裏付ける神代遺跡も多い。この伝説はいったい何に由来するのか、飛騨国の謎は深まるばかりである。まずは、飛騨高天原関連伝承・遺跡の実態を探ることにする。

 飛騨高天原伝承

 山本健造氏著「日本古代正史とその思想 国づくり編」より抜粋

 乗鞍岳の麓に大昔から日本人類の祖先に当たる最初の人たちが住んでいて、その民族の総本家として敬われていた家には姓がなく、上方様と呼ばれていた。その分家が飛騨から日本全国に広がり日本人に元となった。
 高天原は飛騨であり、その中心は丹生川村・宮村・久々野町・高山市であり、その一帯に古代の中央政府があった。上方様の一族が乗鞍岳の麓に住んでいた時代にいくつかに分家した。その中に国常立尊や伊邪那岐命もいたという。この一族が記紀のスメラミコトで後の天皇家につながる。この地の人々は乗鞍岳を「アワ山」と呼んでいた。
 飛騨の丹生川の地で、森の中に水をためる池を作り、その池の周りに集まって座り、池の水に太陽を映してそれを見つめる御魂鎮めをしていた。この神事は「日抱の御魂鎮め」といって、今から130年前ぐらいまで行われていた。日を抱くように人々が輪になって座ったので日抱と言った。日抱の宮は乗鞍を中心として18社あるが、後に伊太祁曾神社と名を変えられている。この日抱が後に飛騨となった。この神社の場所は乗鞍岳がよく見える場所にあり、この神事を行った池は現在も残っている。
 気候の変動と共に乗鞍の地から位山の地に移った。位山の頂上の磐座の周辺は国常立尊や天照大神など代々のスメラミコトを祀った神聖な場所である。天照大神の時代に九州地方が騒々しくなった。天照大神は三人の娘を九州に様子見に行かせた。また饒速日尊を大和や河内国を治めるために大勢のものを連れていかせた。九州ではコホロギという人たちが住んでいて、朝鮮や大陸から来た人たちに責められるかもしれないので助けてほしいという要請があった。天照大神は諸神と諮って、飛騨にいては対処できないので、若い強い者を九州に送ってそこを平定しようということになった。瓊瓊杵命以下、飛騨高天原の人々の大移動が行われて、九州の高千穂の地に行かれました。これが天孫降臨である。
 出雲の国譲りの時、天若彦が殺された。妻の下照姫その兄の阿遅志貴命が、その遺骨を持って飛騨に入ろうとしたが、若彦の反逆の真相がわかり、飛騨での本葬をあきらめて飛騨路の入口の美濃で葬式を行った。美濃にその喪山や若彦と下照姫を祀った大矢田神社がある。その後下照姫と阿遅志貴命は美濃を開拓した。

伊太祁曾神社推定18社
神社名 鎮座地
荒城川神社 大野郡丹生川村大字森部字中田保279番地
伊太祁曽神社 大野郡丹生川村大字旗鉾字大西平17番地
伊太祁曽神社 大野郡丹生川村大字日面字西ノ谷784番地の2
伊太祁曽神社 大野郡丹生川村大字根方字乙保木577番地
伊太祁曽神社 大野郡丹生川村大字瓜田字山越140番地の1
伊太祁曽神社 大野郡丹生川村大字板殿字宮ケ洞327番地
伊太祁曽神社 大野郡丹生川村大字池之俣字口川ばた6番地
伊太祁曽神社 大野郡丹生川村大字日影字宮ノ西30番地
伊太祁曽神社 吉城郡神岡町巣山460番地
伊太祁曽神社 吉城郡上宝村大字鼠餅1085番地
久手神社 大野郡丹生川村大字久手字大州巾249番地
栗原神社 吉城郡古川町上町410番地
栗原神社 吉城郡上宝村大字宮原350番地
乗鞍神社 大野郡丹生川村大字岩井谷字山越704番地
白山神社 高山市下林町2387番地
白山神社 吉城郡河合村大字新名字かうず谷393番地
白山神社 吉城郡上宝村大字荒原352番地の2
日抱神社 大野郡丹生川村大字白井字大岩115番地

 上の表は日抱神事が行われたと思われる伊太祁曾神社の推定18社である。いずれも五十猛大神が祭神となっている。これらの神社は乗鞍岳の北西方向に集中しており、冬至の日周辺に乗鞍山頂付近から昇った朝日で日抱神事を行ったことが推定される。祭神が五十猛大神となっているのはヒダキ→イタキ→イソタキ→イソタケの名前の類似から置き換えられたもので、素盞嗚尊の長子の五十猛命とは関係がないと思われる。

 この伝承で、飛騨高天原のあらすじがよくわかるが、他地域の伝承と不整合な部分も多々存在している。

 位山

 位山は水無神社の御神体とされており、さまざまな伝承が残っている。
① この山のイチイの木の原生林で採れた笏木を朝廷に献上し、天皇の即位の式典に使用されていた。
② 地域伝承として「位山の主は、神武天皇へ位を授くべき神なり。身体一つにして顔二面、手足四つの両面四手の姿なりという。天の叢雲をかき分け、天空浮船に乗りてこの山のいなだきに降臨し給ゐき」と言い伝えられている。
③高天原は日本にいくつもあり、中でも一番古いのが飛彈高天原で、位山はその中心となり天照大神の幽の宮(かくれのみや)がある。
④神武天皇がこの山に登山すると、身一つにして面二つ、手四本の姿をした怪神( 両面宿儺・リョウメンスクナ )が雲を分けて天から降臨し、天皇の位を授けたので、 この山を“位山”と呼ぶようになったという。(初代神武天皇に位を授けたとされる両面宿儺は、第16代仁徳天皇の時代には朝廷に従わず民を苦しめた悪人として、仁徳天皇が遣わした将軍・難波根子建振熊(なにわねこたけふるくま)によって討伐された。両面宿儺に対して史書は鬼賊といっているが、 地元の伝説はすべて王者か聖者として崇敬している点が大きい違いである。)
⑤ 位山は分水嶺であり、北は宮川から神通川となり、富山湾に流れ、南は飛騨川から木曽川と続き、伊勢湾に流れる。
⑥ すぐそばを古代の官道(東山古道)がとおっている。現在でも石畳の一部が残っている。
⑦ 位山山麓には数多くの巨石群がある。そのうちいくつかは、明らかに人工の手が加えられており、神々を祀る磐座とされている。山頂近くには「天の岩戸」と呼ばれている磐座がある。また、周辺一帯にペトログラフが数多く見つかっている。
⑧ 越中の竹内家に伝わる超古代資料である竹内古文献に位山に太古天皇(天照大神)の大宮があったと記録されている。
⑨ 大直根子命が景行天皇の時代に奏上したと言われている秀真伝(ホツマツタエ)に「天照大神が誕生した時、位山の笏木で胞衣を切り開いた」とされている。
⑩ 位山は国常立尊の神都であり、天照大神の誕生所・御陵であると言われている。

 堂之上(どうのそら)遺跡

堂之上遺跡は飛騨川上流、標高約700mの高地に位置し、昭和48年以降7次に亘る発掘調査の結果、縄文前期から中期を中心とした 典型的集落が、約7,500㎡の小舌状台地にほぼ完全な状態で残されていた。堂之上遺跡では、集落がコの字の形をしており、そのむいている方向は位山の方向である。また、集落の中央付近に祭祀遺構が見つかっているが、その方向も位山の方向であり、位山を崇拝していた遺跡であると確認できる。

 この遺跡は、飛騨川を見下ろす台地上にあり、往時から今日まで地形の変化を殆ど受けずに集落跡の姿を留めており、 学術上も重要な遺跡として認められ、昭和55年国の史跡に指定された。

 縄文前期中葉から中期終末期までの竪穴住居址が、中央広場の土壙群を取巻く形で43軒も良好な状態で発見されており、岐阜県下最大規模の集落跡である。出土遺物は多量の土器・土製品・石器・石製品・炭化物などがあり、地理上の位置関係や出土した土器形態より東西日本・表裏日本との文化伝播・交流等が活発であったことが推定される。

 住居の柱の用材は、住居址から出土した炭化材の材質鑑定の結果、すべてがクリ材であることが判明した。クリを食用にしていたようである。台地中央部の一帯は、約150箇所の土壙群が密集している。土壙は大小様々で、深さも30cm~2mほどの掘り込みがあり、内部からは焼土・焼骨・木炭などが含まれているケースもあった。これらの土壙群は住居群地域からは分けられている。

 この遺跡を通して飛騨地方の縄文中期には北陸・信州との文化交流が強く窺え、北陸地方に出土例が多い彫刻石棒や、信州地方の影響が色濃い土器類、東日本・太平洋岸地方との交流を窺わせる各種アクセサリーなど高度に発達した生活文化を持っていた。

 本遺跡は700mほどの高地にあり、堂之上縄文人は厳寒期を乗り越える方法を知っていたと云える。内陸にあり険しい山々に囲まれた飛騨地方は、東西南北に通じる格好の地理条件を最大限活かし、独自の縄文文化を築いたと考えられる。

 この遺跡こそ位山周辺移動後の飛騨王朝の王都だったのではあるまいか。

 船山 

 船山は旧名を久々野山といい、標高1479mの山である。飛騨富士とも呼ばれている。位山とはあららぎ湖を挟んで向かい合ってそびえている。 太古の天之浮船(あめのうきふね)が舟山に降りたと伝えているが、舟山にはノアの箱船が着いた所と言う伝説もあり、伝説の箱船が漂着したアララト山に名前のよく似たアララギ湖が近くにある。山頂には船山神社があり、雨乞いの神として崇敬されてきた。麓には船山の方向を向いた八幡神社があり祭神は久々能智神である。竹内古文献によると天忍穂耳命の御神陵があると記録されている。巨石群が多くあり、頂上付近の巨石にはペトログラフも発見されている。

 乗鞍岳

 乗鞍岳(のりくらだけ)は、飛騨山脈(北アルプス)南部の剣ヶ峰(標高3,026m)を主峰とする山々の総称。古代においては「アワ山」と呼ばれ、 乗鞍の意は「祈り座」からきたものと伝えられている。山頂に乗鞍本宮があり、飛騨側に乗鞍本宮(鞍ヶ嶺神社)、信州側に朝日権現社が背中合わせで建っている。近くに高天原と呼ばれているところもあり、周辺には祭場が散在している。最初の神都があった処と言われ、飛騨高天原の中心となっている。

 日輪神社

 山そのものが御神体として崇敬の厚かった神社。祭神は天照皇大御神。太陽神“天照大神”を祀る。日本全国で日輪神社と稱するのは唯この一社のみ である。創立年代は不詳。日輪神社建立場所は太古のピラミッドであり、飛騨のピラミッドの中心位置にあると神社、ここが飛騨の中心で、ここから エネルギーが放射状に流れているとも言われている。日輪神社の裏山は、どこを掘っても硅石まじりの川石が出てくるので、裏山は人工のピラミッドと思 われる。日輪神社を中心に放射状に巨石群や、ピラミッドが分布しており、乗鞍岳外16の飛騨の山々をピラミッドと見て、其の方位を線で 結ぶと線の中心が日輪神社であると言われている。神体石、太陽石(壊されかけている)が頂上部にある。太古のピラミッドとは日来神堂と書き、巨石を積み上げ、鏡岩を東向きに置き、祭壇石にお供えものを祀って太陽の光を反射させて神様に祈りを捧げる巨大祭祀施設である。
 日輪神社を中心に分布しているピラミッドと思われる山は、位山、舟山、洞山、日ノ観岳、拝殿山、立岩、御岳、乗鞍、槍ヶ岳、立山、天蓋山、須代山、見量山、高屋山、金鞍山、松倉山(飛騨の里)である。

 御皇城山

富山市内に呉羽山があり、呉羽丘陵とも呼ばれている。富山平野にある丘陵である。「呉羽」は一帯の地名で、呉服部にちなむという。呉羽山は 呉羽丘陵の中の標高80mの山の名前であり、太古、御皇城山と呼ばれ皇祖皇大神宮があったという。この皇祖皇大神宮に伝わっている文献が竹内文献である。

 伝承によれば、第25代・武烈天皇に仕えた大臣に、 武内宿禰の孫、平群真鳥がいた。日本書紀では、平群真鳥はクーデター計画が発覚し謀反人として殺されたと伝えられている。
 しかし、ここに伝わる伝承ではかなり違っている。当時、武烈天皇は、新興の勢力から日本古来の伝承を伝える文献の引き渡しを強要されていた。天皇はこの文献を守るため、平群真鳥を殺したと見せて実は密かに越中へ落ちのびさせた。この密命が、越中富山の御皇城山にあった皇祖皇太神宮に伝わった古文献の守護だった。この平群真鳥の子孫が竹内家である。竹内文献には、神代文字で書かれた古文書と、これも奇妙な神宝類があった。この古文書をさして「竹内文書」といい、神宝類を「御神宝」 といい、この総称を「竹内文献」と呼ぶ。
「竹内文書」は元は神代文字で書かれていたが、平群真鳥が、漢字・カナ混じり文に書き改め、 竹内家ではこれを四代ごとに筆写し、代々、秘密裏に伝えてきた。
 御神宝には、謎の金属「ヒヒイロカネ」で造られた皇室の三種の神器である鏡・刀剣、また、古代文字が彫り込まれた石や、天皇の骨で造ったという 神骨像など数千点にも上るおびただしい量の物だった。しかし、戦前不敬罪で裁判を受けることになり、皇祖皇太神宮から「神宮神祠不敬被告事件上告趣意書」が、 神宝を含む竹内文書約4,000点と史跡の現地調査の報告書などとともに、提出された。無罪判決となったが、提出物は裁判が終了してもすぐに返還がかなわず、 それら原本は太平洋戦争中の空襲により焼失したとされている。
 第25代武烈天皇はこの行為により日本書紀で悪逆非道な天皇として記録されることになるのである。実際は仁愛に満ちた名君だったという。
 竹内文献では、神武天皇以前にウガヤ・フキアエズ朝72代、それ以前に25代・ 436世にわたる上古代があり、さらにその前にも天神7代の神の時代があったといい、過去3000億年にさかのぼる奇怪な歴史が語られていた。 竹内文献によれば、今から数十万年前の超古代の日本列島は世界の政治・文化の中心地であった。 そして、越の国、つまり、いまの富山県・神通川の御皇城山を中心に、飛弾・乗鞍にかけた一帯が神話で云うところの高天原であり、すべての人類の元宮として建立された「天神人祖一神宮」という壮大なパンテオンがあった。 世界の人々は、この元宮にお参りに来たという。ここに世界の統治本部があったといい、それがある場所を高天原と呼んだというのである。高天原とは首都、世界の首都の意味だと、 竹内文書はいう。

 尖山

 尖(とがり)山は、富山県中新川郡にある標高559mの三角状の山である。立山に向かって山々を眺めると、回りの山々とは形の違う、妙に尖がった山を見ることができる。これが、尖山で地元では「とんがりやま」と呼ばれ「日が暮れてから山に入ると位山の天狗にさらわれる・・」「尖山に入った男が急にまぶしい光に包まれ気がつくと位山にいた」「尖山の頂上から位山の方向に天狗が走るのを見た」などと不思議な言い伝えがあるという。この山は人口的に造られたピラミッドであるとも言われ、山頂にはサークル状に石が並んだ磐座があり、磁気異常があると言われている。また、山頂から祭祀に使われたと思われる青銅器の破片が出土している。
 また地図上で尖山を中心に古代から聖地と呼ばれている場所を結ぶと、いくつもの巨大な三角形が描かれるという。つまり、この山は計画的に造られた可能性も高いと言える。位山ともピラミッドネットワークでつながっているという。
  この<尖山>と飛騨高山の聖地<位山>はピラミッドネットワークで結ばれているようである。 『竹内文書』には、太古の日本にはヒラミツトなる祭殿が何ヶ所かに造営されたと書かれてあり、それを読んだ山口博氏が尖山は 「ニニギノミコトが築いたと伝えるヒラミツトではないか」と推定し、地元でも注目を集める事となった。前出の山口博氏が尖山を中心に富山全域の 神山霊域を地図上にポイントしてみると、きれいな三角形が描かれたそうです。この三角の図形が持つパワーを地形を利用して計画的に配置し、 互いがエネルギーを放射し合って、位山への瞬間移動のような現象を生み出すのではないかとも云われている。

日本ピラミッド

 ヒノモト内には各地にピラミッドと呼ばれている山がある。その中で、山中・山周辺に「岩石祭祀遺構」と呼ばれる岩石が見られるのは、大石神(青森県)・黒又山(秋田県)・五葉山(岩手県)・千貫森(福島県)・尖山(富山県)・位山(岐阜県)・石巻山(愛知県)・東谷山(愛知県)・ 三上山(滋賀県)・三輪山(奈良県)・日室ヶ嶽(京都府)・葦嶽山(広島県)・弥山(広島県)・野貝原山(広島県)である。

ピラミッド 内容
大石神 青森 大石神山と呼ばれる山の中腹にある巨石群を指す。巨石には太陽石、方位石、星座石、鏡石などが規則正しく配置されている。安政4年に大地震で文字が書かれた巨石が埋没したとされる。古くから知られた存在で、大石神と呼ばれ古代から巨石信仰の対象になっていた。 近くにキリストの墓がある。
黒又山 秋田 地元では「クロマンタ」と愛称され、山頂には本宮神社(祭神大己貴命)がある。黒又山のすぐ近くには、国特別史跡「大湯環状列石」がある。山麓には、縄文時代の遺跡がある。
五葉山 岩手 北上山地の南東部にある霊山五葉山は、高地で最も海に近い1,351mの高峰である。 伊達藩直轄で「御用山」と呼ばれたが五葉松が多い所から五葉山になったと言う。4合目には、畳石(祭壇石)があり、この他、林立した巨石群がある。また、五葉山山頂には10数メートルもあろうかと思われる巨石群が天を向いて突き出している。五葉山スフィンクス、謎の絵文字、石の加工跡、連続する日の字、など縄文期前後に特殊な祭祀が存在した。
千貫森 福島

千貫森ピラミッドは葦嶽山や尖山とはまた違った、なだらかなそれでいて不思議な存在感のある山である。千貫森の脇には当然のように拝殿山と思しき一貫森と呼ばれる、これまた山容がピラミッドのような美しい山が存在している。讃岐富士と言われる飯野山によく似た山容である。千貫森の周辺には夥しい巨石群が散在しています。おおよそ20Km四方の中に興味深い巨石がたくさんある。

尖山 富山 地元では「とんがりやま」と呼ばれ「日が暮れてから山に入ると位山の天狗にさらわれる・・」「尖山に入った男が急にまぶしい光に包まれ気がつくと位山にいた」「尖山の頂上から位山の方向に天狗が走るのを見た」などと不思議な言い伝えがあるという。この山は人口的に造られたピラミッドであるとも言われ、山頂にはサークル状に石が並んだ磐座があり、磁気異常があると言われている。また、山頂から祭祀に使われたと思われる青銅器の破片が出土している。
位山 岐阜 水無神社の御神体であり、位山山麓には数多くの巨石群がある。そのうちいくつかは、明らかに人工の手が加えられており、神々を祀る磐座とされている。山頂近くには「天の岩戸」と呼ばれている磐座がある。また、周辺一帯にペトログラフが数多く見つかっている。
石巻山 愛知 豊橋で一番の高さを誇る石巻山。豊橋市の北東部に位置するピラミッド形の山。石巻神社(祭神大己貴)があり、三輪山とも呼ばれ、奈良の「三輪山の元山」と地元では言われている。本宮山がピラミッドで、石巻山は拝殿とも考えられている。石巻山城趾、ダイダラボッチの足跡、石巻の蛇穴などが存在し、頂上はほぼ東西に走る石灰岩の大岩塊になっている。ここは雄岩と呼ばれており、その東に雌岩、西に天狗岩がある。雄岩が一番高い。その周りには、天然記念物指定の大きな要因となった、石灰岩地帯の植物であるマルバイワシモツケを見ることができる。
東谷山 愛知 別名「当国山」。標高198mで名古屋市最高峰。山頂に延喜式内 尾張戸神社が鎮座し、山中から山腹にかけて30基以上の多数の円墳が築造されている。尾張戸神社は尾張開拓の豪族尾張氏の氏神とされる。山頂三角点のすぐ脇に4個の巨石を中心とする岩石の集積があり、これはかつて磐座として用いられていたものであろう。4個の巨石の最奥にあるカマボコ形の巨石のみ花崗岩であり、これは東谷山では産出しない石質であることから、人為運搬によるものと考えられている。カマボコ形巨石の右側面にはペトログラフが刻まれているという。
三上山 滋賀 俵藤太のムカデ退治の伝説で知られるこの山は二つの峰からなり、男山・女山とよばれ、頂上には巨石の盤座があり奥宮が祀られている。山中の『出世不動』周辺の尾根上には、『弁慶の経机』と呼ばれる巨岩があり、これは巨大なドルメンである。斜面には巨大なイス状の石組みも発見されている。近くに縄文遺跡あり。
三輪山 奈良 大神神社の御神体。饒速日尊の御陵であると考えている。三輪山の山中には、無数の磐座があり、その周辺には膨大な遺物が埋もれている。かつて大雨の後は、山中から泥と一緒に勾玉や管玉などが川に流れ出るため、麓の川でいろいろ拾えたという話である。
日室ヶ嶽 京都

京都府の北部元伊勢神宮のあるあたりで、岩戸山・城山・日裏が岳・日室岳など多くの別称を持ち、神霊降臨の聖山と伝えられている。 内宮の祭神が天照大神であることを考えると、その神霊とは天照大神であろう。最初に天照大神が降臨した山を、当地における元伊勢信仰の淵源として 神聖視しているということである。
 標高427mで麓からの比高差300m程の低山で、その優美な三角形の稜線がひときわ目立つ山であり、山の東斜面は聖域として禁足地に指定されてきた。 山中には数多くの巨石群があり、夏至の日、遥拝所や内宮がある辺りから日室ヶ嶽を眺めると、太陽が日室ヶ嶽のちょうど山頂に沈み込む姿が見える。

葦嶽山 広島 どの方角から見ても三角形に見えることからその名がついた葦嶽山。標高815mの山頂は約4m四方の平地になっている。昔は太陽石があったらしいが、戦前破壊された。すぐ近くの鬼叫山にはさまざまな形の岩が多数あり、葦嶽山の拝殿と考えられている。神武天皇がやってきたという伝承がある。
弥山 広島 宮島の最高峰弥山、山頂には巨石が多数存在し、ペトログラフも確認できる。山頂広場の中央には太陽の光を反射する太陽石が存在していた痕跡がある。太古の昔には巨石には神が下りてくると信じられており、巨石祭祀があったと考えられている。厳島神社の本来の祭神は神武天皇と考えられ、ここにも神武天皇がやってきた伝承を持つ。
野貝原山 広島 弥山の対岸にはのうが高原(野貝原山)がある。古代参道から登ると、山頂付近に祭祀に使われたと思われる多くの巨石が林立している。雨宿り石、円形鏡石、ピラミッド積石、方位石、タイル石などである。宮島のピラミッドと対になって存在しており、巨石群が林立しているところからは宮島がよく見える。

 越中国から飛騨国にかけて他の地域とはまったく異なる系統の伝承が数多く伝わっている。これら伝承はオカルト的であったり、新興宗教がらみであったりして学術的とはいえない面が多い。しかし、そのようなものが広がること自体、その核になるものがこの地域にあったことを意味している。頭から否定しないで、その核になるものは何だったのか考えてみたい。

 ピラミッドは縄文祭祀

 祭祀の中心はピラミッドである。日本のピラミッドは自然の山を改造して巨石を配置したもので、太陽崇拝の儀式に使われたものと考えられる。東日本にも多く、その近くに縄文遺跡があることが多い。縄文人の祭祀ではないかと考えられる。飛騨高天原における「日抱の御魂鎮め」も太陽信仰である。饒速日尊が活躍したころは弥生時代中期末に当たるが、この頃、東日本各地には弥生遺跡は少なく、縄文人が数多く存在していた。饒速日尊が東海・関東地方を統一したが、この地方は海岸地帯であり、縄文遺跡はやや山寄りのことが多く、大阪湾岸沿いから入植した物部一族は弥生遺跡を海岸寄りに作り、縄文人との上手な住み分けができたのであろう。弥生人と縄文人が争った形跡はほとんどなく、平和裏に混合していったものであろう。縄文人としてみれば、入植者によって近くに弥生集落が造られた時、その弥生人の持つ先端技術を学びに周辺の縄文集落から人々が集まってきたのであろう。物部一族にしても、入植地で農耕に都合がよい土地を見つけてそこに農耕地を作るが、その土地は縄文人にとっては重要な土地ではなかった。そのために摩擦は起きなかったと考えられる。

 ところが、内陸地帯はそうはいかないであろう。縄文人はピラミッド・巨石を利用した太陽信仰を行っており、その土地に弥生人が入ろうとすると、摩擦が起こる原因になったと思われる。そのために、信濃地方はかなり統一に苦労することになったのであろう。この飛騨国も山岳地帯であり、農耕地帯は少なくなる。まして、縄文人が数多くいたのではその統一は簡単にはいかなくなる。

 飛騨高天原は伝承では日本最古の王朝と考えられている。飛騨には縄文人の作った国のようなものがあったと判断できる。この縄文人たちは乗鞍岳をシンボルとして丹生川沿いに栄えていたが、気候変動により、その周辺が住みにくくなり、位山周辺に移動してきたのであろう。二千年ほどに渡って、その状態が言い伝えられていたと考えられる。縄文人たちの言い伝えが誇張され、竹内古文献・秀真伝にあるような物語となったと考える。

 現在でも飛騨地方は縄文人の血が多く継承されている地域である。現在まで縄文人が主流で生活しており、弥生系の人々があまり入っていないと考えられる。これも、縄文系の国が既にできていたあかしであろう。他の東日本地域は縄文人通し緩やかにつながっており、物々交換していたのであろう。国ができるというものではなく、王と呼ばれる人もいなかったと考えられる。しかし、伝承から判断して飛騨国だけは王と呼ばれる人々(上方様)が存在しており、祭祀を主として神通川流域で生活していたものであろう。

 飛騨王国がいつごろから存在したのかは全く不明である。気候変動が起こってから乗鞍岳周辺から位山周辺に移動したと伝えられている。縄文時代に大きな気候変動があったのは4500年(BC2500年)ほど前の時期なので、そのころには存在していたのかもしれない。飛騨王朝の歴史書と思われる竹内古文献には神武天皇以前に72代のウガヤ王朝があったと記されている。九鬼文書では72代1200年の歴史を持つとされている。飛騨王朝をウガヤ王朝として書き残したのかもしれない。飛騨王国の人々は弥生時代になって多量に流れ込んできた弥生人と対決することになるのである。

 今後この飛騨王朝と九州に流入してきた弥生人との間の大和朝廷成立の過程を解明していきたいと思う。

  

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