相模国巡回

 相模国関連連地図

8.相模国 

 宮 神社  住所  祭神    創始  備考 
一宮 寒川神社 神奈川県高座郡寒川町 寒川比古命 不詳 寒川大明神は太古草昧の時代、相模国・武蔵国を中心に広く関東地方を御開 拓になられ、農牧・殖林治水・漁猟・商工・土木建築・交通運輸その他あらゆる殖産 興業の途を授け、衣食住等人間生活の根源を開発指導せられた所謂関東文化の生みの 親神である。
一宮 鶴岡八幡宮 神奈川県鎌倉市 応神天皇 1063 源頼義が、前九年の役での戦勝を祈願した京都の石清水八幡宮護国寺(あるいは河内源氏氏神の壺井八幡宮)を鎌倉の由比郷鶴岡(現材木座1丁目)に鶴岡若宮として勧請したのが始まりである
二宮 川勾神社 神奈川県中郡二宮町山西2122 大名貴命・大物忌命・級長津彦命
垂仁 相模の国で最古の神社といわれている。
磯長国国宰である阿屋葉造(あやはのみやつこ)が勅命を奉じて当国鎮護のために創建した。
三宮 比々多神社 神奈川県伊勢原市三ノ宮1472 豊国主尊、天明玉命 神武 当社は神武天皇が天下を平定した際、人々を護るために建立された神社であるとしている。『比々多神社 参拝の栞』によれば、これは神武天皇6年のことで、人々が古くから祭祀の行われていた当地を最良と選定し、大山を神体山とし豊国主尊を日本国霊として祀ったことが創始である
四宮 前鳥神社 神奈川県平塚市四之宮4丁目14-26 莵道稚郎子命・大山咋命・日本武尊 不詳 兄に帝位を譲るため自殺したとされる菟道稚郎子命が実は死んでおらず、一族を率いて東国に下り曽祖父である日本武尊に所縁の地へ宮を建てた
高森神社 神奈川県伊勢原市高森527 味須岐高彦根命
加茂族の首長高彦根命は、事代主神と共に国づくりに大変活躍されました。神話においては国譲りに際し、謙譲の精神をもって接した御神徳の高い御祭神であります。農耕にあたっては、鉄器をもちいて新しい殖産を始め、日本国土づくりの神として尊崇を受けたのであります。平和の神、家内安全、五穀豊穣の神として、また縁結びにわたる御神徳は、今後高森の氏子ならび崇敬者の人びとの心に深く刻まれている。
大山阿夫利神社 神奈川県伊勢原市大山字阿夫利山1 大山祇大神 御主神大山祇大神は又の御名を大水上御祖の神とも、大水上の神とも 申し上げ、神威炳焉、生活の資源は勿論のこと、海運、漁獲、農産、商工業また又の 御名を酒解神と称へ酒造の祖神とし御霊徳高く丹精を篭めて祈願すれば諸願一つとし て成就しないことはない。
深見神社 神奈川県大和市深見3367  武甕槌神 雄略 武甕槌神、東國鎮撫のために常陸鹿島に在られた時、舟師を率 いてここに進軍され、伊弉諾神の御子、倉稲魂神、闇・神の二神をして深海を治めさ せられた。両神は深海を治めて美田を拓き、土人を撫して郷を開かれた。即ち深見の名の起った所以である。

 相模国統一関連伝承地地図

 磯長国(相模国西側)を開拓(統一した人物)

 川匂神社 祭神(大名牟遲命、大物忌命、級津彦命、級津姫命、衣通姫命) 神奈川県中郡二宮町山西宮 伝承
大名貴命 日本の国土を御開拓なされた神様です。
大物忌命 殖産興業に御功績のあった神様です。
級津彦命・級津姫命 相模国が昔相武と磯長の二国であった頃磯長の国を御開拓なされた神様です。

 相模国は昔相武国と磯長国に分かれていたようである。相武国の中心は寒川神社で、磯長国の中心は川匂神社と言われている。川匂神社の伝承に磯長国を統治していたのは級津彦命とされているが、この人物は誰であろうか、相武国は寒川神社の伝承より饒速日尊と思われる。このことから、級津彦命は饒速日尊とは別人のようである。

 級津彦命は山形県で小物忌神社で祭られている。大物忌神社は饒速日尊と考えられるので、級津彦命は饒速日尊に付き従っていた、饒速日尊に近い人物ということになる。また、相模国一帯を見渡せる大山という山があり、その山の山頂付近には大山阿夫利神社があり、その祭神は大山祇命である。また、その周辺は縄文遺跡である。当初、級津彦命=大山祇命かとも考えたが、大山祇命は饒速日尊に付き従う関係にはないと思われる。大山祇命は飛騨国の国王(ウガヤ朝68代宗像彦=第36代上方様)であり、饒速日尊はヒノモト国王である。どちらかと言えば、大山祇命のほうが立場が上である。

 その中で、高森神社(神奈川県伊勢原市高森527)の伝承が決め手となった。相武国と磯長国の境は相模川と言われている。寒川神社は相模川の東側で、高森神社は西側にある。すなわち、高森神社は磯長国である。

 高森神社 祭神 味須岐高彦根命 神奈川県伊勢原市高森527

 味須岐高彦根命は、日本に稲作を拡めた加茂族の首長でありました。大国主命 の長子として生れ、天照大神が大国主命に国土を献上するようにと天稚彦をつかわし た時、和合をもって平和に徹した神で、大和の葛城に鎮座されたのであります。
 御祭神は、大変権威の高い神であるとともに日本の国土造りの中心人物でありました 。その高彦根命が、いつどんな経過で、この高森に鎮座されたか、明らかではありま せんが、おそらく古い時代、葛城にゆかりのある人々がこの地に来て開拓、農耕殖産 の道を教え、五穀豊穣を願い、郷里にちなみ、心のよりどころとしてここに高部屋の社を建て、祖神の高彦根命をお祭りしたものと思われます。

 この伝承より磯長国の開拓者は賀茂健角身命味須岐高彦根命)であることが分かる。賀茂健角身命は大山祇命の子であり、饒速日尊を義理の父としており、饒速日尊の付き従っていた人物であり、級津彦命の条件を満たしている。賀茂健角身命が磯長国を開拓統治していたと判断する。賀茂健角身命は大山祇命の後継者で後に飛騨国王(第37代上方様)を引き継ぐ人物であり、この地の縄文人たちを導くことは十分にできる人物である。

 伝承上、賀茂健角身命はAD34年ごろ、大和国で娘の活玉依姫が誕生している。この時は大和にいたことが分かっているが、この後、AD44年ごろに日向国に降臨している。この間10年ほどが伝承が途切れている。この時期に、父の大山祇命とともに東日本一帯を巡回していたと考えられる。

中里遺跡(小田原市)の統一

 磯長国内には巨大な弥生遺跡である中里遺跡が存在する。BC100年ごろから巨大化している農耕遺跡で、弥生人と縄文人との協力体制が知られている遺跡である。中里遺跡では、在地の中里式土器に伴って、遠隔地から持ち込まれた土器が複数出土していることも特徴である。特に東部瀬戸内地方の土器は全体の3パーセント強を占めており、他には伊勢湾や中部高地、北陸地方、北関東地方、南東北地方の土器も出土している。 遠隔地の土器は、形や模様だけでなく粘土も在地とは異なることから、遠隔地で作られたものが中里の地に持ち込まれたものと考えられている。
 土器以外にも、畿内で産出するサヌカイト製の石剣や石鏃が出土するなど、遠隔地との関係を示す遺物が出土している。これらの品は、稲作技術などとと もに中里の地にもたらされたものと考えられる。

 この遺跡は西日本的様相を強くもつ弥生時代中期中葉の関東地方最初期の大型農耕集落である。近畿地方系の土器や,独立棟持柱をもつ大型掘立柱建物などが西日本的要素を代表する。一方,縄文的な要素も諸所に認められる。中里遺跡の住居跡はいくつかの群に分かれ,そのなかには環状をなすものがある。また再葬の蔵骨器である土偶形容器が存在している。
 また、それ以前に台地縁辺に散在していた集落が消滅した後,平野に忽然と出現しているのが、この遺跡の大きな特徴である。中里集落出現以前,すなわち弥生前期から中期前葉の関東地方における初期農耕集落は,小規模ながらも縄文集落の伝統を引いた環状集落であった。土偶形容器を伴う場合のある再葬墓は,この地域の初期農耕集落に特徴的な墓である。中里集落に初期農耕集落に特有の文化要素が引き継がれていることからすると,中里集落は初期農耕集落のいくつかが,灌漑農耕という大規模な共同作業をおこなうために結集した集落であると考えられる。環状をなす住居群は,その一つ一つが周辺に散在していた小集落だったと思われる。

 この地方の弥生時代初期の土器は須和田式土器と呼ばれており、縄文の特徴を強く残している弥生式土器である。縄文人を駆逐して弥生人が渡来したわけではないということを意味し、賀茂健角身命がこの地を訪れる前に、縄文人と弥生人との協調関係がこの周辺ではできていたことを意味する。

 BC150年ごろ、播磨国あたりに住んでいた渡来人(北朝鮮と中国の国境あたりから来た人々と思われる)が、この辺りにやってきて、この辺りに住んでいた縄文人と共同で巨大遺跡を作ったと思われる。渡来人が当初、小規模な集落を形成しているところへ、周辺の縄文人が新技術の習得のために訪れ、次第に協力関係が生まれ、周辺の集落の縄文人たちがこの集落に集まってきたと考えられる。最終的に縄文人が主体となった遺跡と思われ、縄文連絡網により、遠方の縄文人たちも弥生人の持つ先進技術を取り入れ、この中里遺跡をよく訪問するようになっていたと考えられる。他地域のように渡来人と縄文人が対立関係にあれば、このように発展することも、遠方からの訪問もなかったと思われる。

 何がきっかけか不明であるが、この遺跡は渡来人と縄文人との協力関係がみられる遺跡である。当初は弥生人が主体であったと思われるが、次第に縄文人に取り込まれてしまったのではないだろうか。渡来人が先進技術を提供し、縄文人が地方の産物・食料・情報を提供する協力関係が生まれた。

 賀茂健角身命がこの地を訪れた時には、この中里遺跡が存在していたはずである。磯長国の中心地と考えられている川勾神社の地はこの中里遺跡より6kmほど東である。賀茂健角身命や大山祇命・饒速日尊は当然この中里遺跡を訪れていると思われる。これらの人々は中里遺跡の人々とどのようにかかわったのであろうか。

 賀茂健角身命がこの地にやってきたのは、弥生時代中期末に該当し、中里遺跡の終焉の時期である。賀茂健角身命が技術的な影響を与えることにより、集落群は終焉を迎えたと考えることができる。終焉と言っても滅亡ではなく、社会的には継続しており、集落が南西部に移動したと考えることができる。この新しい集落は環濠で囲まれており、それまで竪穴式住居であったのが平地式住居に代わっている。湿地帯に強い構造と言えるのである。竪穴は湿地帯に不向きで、平地式住居は彫り込まないために、湿地帯に向いているといえる。また、環濠も防衛的要素というよりは水利を考えたものと判断できる。

 中里遺跡には地方から多量の土器が持ち込まれており、賀茂健角身命。饒速日尊がやってきたときにはすでに、中里遺跡が東日本地域の中心的存在であったことが推定される。このような状況で、この地域をどのように統一するのであろうか。

 中里遺跡の他地域の連携体制をそのまま引き継ぐ形で、中里遺跡の人々をヒノモトに加盟させなければならない。決して対立してはならないのである。どのような方法が考えられるであろうか。まず、中里遺跡の人々にヒノモトに加盟することの必要性を訴え、同時に地方の人々にもその重要性を伝える必要がある。中里遺跡の人々は縄文人主体なので、縄文連絡網を持っており、賀茂健角身命がどのような人物かよくわかっていたと思われる。饒速日尊も高度な技術を持つ縄文人集団の集落なので、賀茂健角身命に統一を任せることにしたのではないだろうか。

 ここで、饒速日尊の行動に今まで見られなかった要素が入ってくる。深見神社の伝承である。

 深見神社 祭神 武甕槌神 神奈川県大和市深見3367

 武甕槌神、東國鎮撫のために常陸鹿島に在られた時、舟師を率 いてここに進軍され、伊弉諾神の御子、倉稲魂神、闇龗神の二神をして深海を治めさせられた。両神は深海を治めて美田を拓き、土人を撫して郷を開かれた。即ち深見の名の起った所以である。

 武甕槌神は饒速日尊の別名である。深見神社は相模国にありながら、統一は鹿島から行われているのである。ここまで、饒速日尊は西から東にかけて順次巡回していたようであるが、ここで、一挙に常陸国の鹿島を統一し、そこを拠点として、関東地方一帯を統一しているのである。つまり、東から西へと今までと逆の巡回コースなのである。

 中里遺跡の人々をヒノモトに加盟させるために、その交流相手である地域を先に回ったのではないかと推定している。中里遺跡の方にも変化が起こっている。中心地が南西部に移動し環濠を伴うようになっている。そして、住居が平地式住居になっており、これらは湿地対策と考えられる。水利の新技術導入があったためと考えている。中里遺跡の人々は賀茂健角身命を受け入れているのである。

 簡単に受け入れた理由は、新技術の提供と、賀茂健角身命が飛騨国王の嫡子であるということに関係していると思われる。賀茂健角身命の拠点と思われる川勾神社の本殿の配置を調べてみるとほぼ正確に大山(大山阿夫利神社)の方向を向いている。大山を意識しているのは明らかで、大山祇命が信仰の中心である。

 相武国(相模国東側)を統一した人物

 相武国の中心は寒川神社である。寒川神社の特徴を調べてみた。

 寒川神社からは、夏至の日の入りは丹沢の大山の方向、春分・秋分の日の入りは富士山の方向、冬至の日の入り箱根の神山の方向である。また、寒川神社の社殿は東西南北と少しずれているが、屋根から西方向に線を引くと大山の山頂にドンピシャリである。この大山山頂には大山雨夫利神社があり、祭神は大山祇神である。このことは寒川神社の位置は計算された位置であり、その最も大切な方向は大山(大山祇命)であることを示している。また、寒川神社は古代において大山祇命を祀っていたそうで、寒川神はその後に追加された神と伝えられている。

 寒川神社社伝

 寒川大明神は相模国を中心に広く関東地方をご開拓になられ、衣食住等人間生活の根源を開発指導せられた関東地方文化の生みの親神であり生業一切の守護神として敬仰されています。

 神名帳考証に「寒川郡大蓑神社水霊郡名寒川郡因此神歟」と云う。 特選神名牒に「水霊の説いと由ありて聞ゆ故考へるに延暦儀式帳に牟祢神社は大水上児寒川比古命寒川比女命と云う、又那自売神社は大水上御祖命なりとある。 大水上神、大水上御祖命同神にて、此大蓑彦命も大水彦神の義ならん。 郡名は寒川比古命、寒川比女命に由ありと思うべし」と記されたり。また、「大日本史神祇志」によれば、伊勢国度会郡の園相神社は、大水上子曽名比々古命を祀るという。大水上とは大山祇の別名のことであって「神名秘書」では、伊勢宇治の大水上社は、大山祇御祖神で、倭姫の命の御世に定まった祀なりという。寒川神は、その御子神におわせるのである。「神祇志」伊勢国度会郡の条に「牟弥(ムミノ)神社」として大水の上子寒川比古寒川比女命をまつるとでている。

 これらより、寒川大明神は大山祇命の子であると解釈される。寒川彦、寒川姫は兄妹神で、大山祇命の子神あるいは化身とされている。寒川彦=饒速日尊、寒川姫=市杵島姫と考えられる。この場合 の市杵島姫は飛騨国の市杵島姫=伊都岐島神で饒速日尊第三の妻である。結婚の時期がAD20年ごろで、饒速日尊がこの辺りを開拓したのはAD40年ごろと推定している。この頃の正妻はこの市杵島姫なので、関東地方統一に市杵島姫が付き添っていたことは十分に考えられる。大山祇命・饒速日尊・市杵島姫が一緒に関東地方の巡回をしていたことが推定される。

 相模国の統一事情

 駿河国を統治していた大山祇命はその隣である相模国に縄文人主体の巨大集落である中里遺跡を意識していたであろう。饒速日尊では任が重いと感じ、大山祇命自身がAD35年ごろに訪問していると思われる。大山祇命は第36代上方様であり飛騨国王である。それだけの人物が訪問してくるのは中里集落の人々にとっては、この上もない名誉なことであったろう。この周辺には縄文人による祭祀遺跡が多く、訪問してきた大山祇命はその祭祀場で祭祀を主催したと思われる。その聖域の最大たるものが大山である。大山の山頂付近に縄文祭祀遺跡があり、現在でも周辺の信仰の中心地である。飛騨国王である大山祇命が祭祀を主催することによりこの祭祀施設はさらに神聖化したのではあるまいか。これが、大山信仰の始まりであろう。

 大山祇命自身はしばらく滞在しており、その時に嫡子である賀茂健角身命を大和から呼び寄せ、磯長国を統治させたのではあるまいか。その後、AD41年ごろ饒速日尊が相模国にやってきて、相武国を統一したものと考えられる。

 饒速日尊の相武国統一は鹿島を拠点として関東平野一帯を統一した後ではないかと考えている。その根拠の一つは深見神社の伝承であり、相武国の拠点とされる寒川神社の位置が磯長国と相武国の境界(相模川)のすぐ近くの東側である。西側から統一していったのであれば、その拠点はもっと東に作ると思われ、磯長国の賀茂健角身命がいつでも巡回できる位置にある。そのため、統一は後回しでもよいことになる。

 

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関東統一拠点鹿島宮創設
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