呉太伯子孫渡来

 弥生時代に日本列島に住んでいた人々は、戦乱の大陸から逃げてきた人が多い。

弥生時代の始まり

 紀元前三世紀頃,日本列島は,それまで長く続いていた縄文時代が終わりを告げ,弥生時代が始まった。弥生時代には,出土人骨に大きな変化が急激に表れている。これは, 大陸から多くの人々の流入があったことを示している。朝鮮半島からというのが普通考えられるが,頭示指数や血液型の分布から判断して,中国大陸(特に江南地方)からと考えた方 がいいようである。

 なぜ,この時期に大量の人々が,日本列島にやってきたのであろうか。当時,外洋航海は,大変危険なもので,出航した人々の一部しか,日本列島にたどり着けなかったものと考えられる。 平和時に,多くの人々が,このような危険なことをするということは考えられず,中国に,何か大事件が起こったためと考えられる。中国の歴史を調べてみると,この時期は,春秋戦国時代の終わり頃で, 秦の始皇帝が,西方から東方へと侵略し,多くの国を滅ぼしていた頃である。滅ぼされた国の上流階級の人々は,ほとんど皆殺しにされたようで, その難から逃れた人々が,一斉に,外洋航海に出たのではないかと推定する。北九州を中心とする弥生人骨を分析すると,縄文人とはかけ離れ, 中国の山東半島の人骨とかなり似ているとの結果がでている。また,魏志倭人伝に書かれているように,中国を訪問した倭人は「呉の太伯の子孫である。」と言っているが, この国は,春秋戦国時代に江南地方にあった国である。春秋戦国時代の呉はBC473年に滅亡している。

 弥生人が緊急避難でなく,態勢を整えて日本列島にやってきたのであれば,先住民と対立し,奴隷としたり,追い出したりすることが考えられるが,弥生時代の遺跡を見ても縄文人と対立したような 様子は見られず,縄文式土器に継続して弥生式土器が出土しているところもあることから,やはり緊急避難であったと考える。緊急避難で日本列島に上陸した人々は命辛々であったと推定され, 死にそうなところを縄文人に救われたということも考えられる。このように緊急避難の場合,縄文人との対立は考えにくい。

 日本列島にわたってきた弥生人は,住めるところを探して移動していったために,海岸近くを中心に弥生文化が速く伝わることになり,考古学的事実と一致している。

 このような人々によって,多くの技術がもたらされ,弥生時代が始まったと考えるのである。しかし,これを証拠立てる遺物は見つかっていない。これは,このような状態で逃げてきたわけで あるから,ほとんど体一つで来たものと考えられ,物質的には影響を与えなかったと判断される。

 弥生中期の始まり

 弥生前期末から中期にかけて,多くの変化が起こっている。北九州地方では,細型の銅剣や銅矛が出土するようになり,甕棺墓が出現する。大阪湾沿岸地方では,方形周溝墓が見られだす, 時期的には,紀元前二世紀末頃と推定されている。甕棺墓にしても,銅剣にしても,朝鮮半島と関係が深いものであるから,朝鮮半島から多くの人々がやってきたものと考えられる。 紀元前108年,漢の武帝が朝鮮を滅ぼしていることから,この難を逃れた人々が日本列島にやってきたものではないだろうか。

 中国史書を見ると,この後あたりから,倭人が中国へ朝貢を始めたようである。博多湾岸を中心に小国家が誕生し,中国から手に入れた漢鏡や銅剣銅矛が,宝器として使われてきている。 そして,これらの品は伝世されることなく,副葬品として治められている。

先年,朝鮮半島北部で相当数の方形周溝墓が発見された。日本から朝鮮半島に出かけていって,墓を造ったとは考えられないから,この時期,方形周溝墓を持った一団が日本列島にやってきたことを 意味している。北九州と近畿地方では出土遺物がかなり異なることから判断して、彼らは北九州に先にやってきていた一団とは別の集団で、彼らを避けて、瀬戸内海を東進し、 大阪湾岸にやってきたようである。これらの人々によって,大阪湾岸の大規模な建物や近畿地方の鉄器や古式銅鐸がもたらされたものと判断される。

北九州に渡ってきた一団は朝鮮半島南部から、近畿地方に渡ってきた一団は中国東北地方または朝鮮半島北部から来たと思われる。

 呉太伯子孫渡来

 史記の記録

 呉太伯はBC1000年頃の伝説上の人物と言われている。司馬遷の『史記』に記録されている。
 呉太伯の父は古公亶父(ここうたんぽ)といい、3人の子があった。長男が太伯(泰伯)、次男が虞仲(ろちゅう)、三男が季歴(きれき)といった。末子・季歴は英明と評判が高く、この子の昌(しょう)は、聖なる人相をしており後を継がせると周は隆盛するだろうと予言されており、古公もそれを望んでいた。太伯、虞仲は季歴に後継を譲り南蛮の地、呉にながれて行った。呉では周の名門の子ということで現地の有力者の推挙でその首長に推戴されたという。後に季歴は兄の太白・虞仲らを呼び戻そうとしたが、太伯と虞仲はそれを拒み断髪し、全身に分身(刺青)を施した。当時刺青は蛮族の証であり、それを自ら行ったということは文明地帯に戻るつもりがないことを示す意味があったという。太伯と虞仲は自らの国を立て、国号を句呉(後に寿夢が呉と改称)と称し、その後、太伯が亡くなり、子がないために首長の座は虞仲が後を継いだという。<司馬遷『史記』「呉太伯世家」>

 太伯(句呉を建国)→虞仲→季簡→叔達→周章→熊遂→柯相→彊鳩夷→余橋疑吾→柯盧→周?→屈羽→夷吾→禽処→転→頗高→句卑→去斉→
 寿夢(BC585年国名を句呉から呉に改名)→諸樊→余祭→余昧→僚→闔閭→夫差(BC495年 - BC473年)

BC480年頃より、呉は越による激しい攻撃を受けていた。BC473年、ついに呉の首都姑蘇が陥落した。呉王夫差は付近にある姑蘇山に逃亡し、大夫の公孫雄を派遣して和睦を乞わせた。公孫雄は夫差の命乞いをし、夫差を甬東の辺境に流すという決断が下された。公孫雄は引き返して、夫差にその旨を伝えたが、夫差は「私は年老いたから、もう君主に仕えることはできない」とこれを断り、顔に布をかけて自害した。夫差は丁重に厚葬され、呉は滅亡した。

 松野連系図

 日本側資料にも松野連に伝わる系図と言うのが存在している。中国の史書には「周の元王三年、越は呉を亡し、その庶(親族)、ともに海に入りて倭となる」と記されている。「松野連系図」によると、この夫差の子「忌」が、生まれ育った江南地方を離れ、日本列島にやってきたと伝わっている。この系図によると「忌」のところに「孝昭三年来朝。火の国山門に住む。菊池郡」と記されている。孝昭3年は皇紀ではBC473年に当たる。これは記紀の年代に合わせて挿入したものであろう。系図は以下のようになっている。

 夫差→忌→順→景弓→阿岐→布怒之→玖賀→支致古→宇閉→阿米→熊鹿文→厚鹿文→宇也鹿→(子)→謄→讃→珍→済→興→武→哲→満→牛慈→長提→廣石→津萬→大田満呂→猪足

 「日本書紀・景行紀」には「厚鹿文」「?鹿文」が登場する。景行天皇によって暗殺された熊襲の王である。また、忌の住んでいたという火の国山門(菊池郡)は熊襲の本拠地である。また、宇閉のとき、漢の宣帝に遣使した(BC68年)と記されている。この系図は熊襲王系を示しているようである。

 この系統に倭の五王とされている讃→珍→済→興→武が記されている。「讃」は古代史の復元では仁徳天皇であると推定しているので、「謄」が応神天皇となる。正史では応神天皇は仲哀天皇と神功皇后との間に誕生した天皇となっているが、仲哀天皇の崩御から応神天皇の誕生まで10カ月となっており、不自然な点も多い。応神天皇は仲哀天皇の子ではない可能性を秘めている。しかし、当時熊襲は仲哀天皇の敵であり、神功皇后にとっては夫の仇でもある。熊襲の系統とは考えられない。この頃熊襲は大和朝廷に服属しており、後に挿入したものではないかと思われる。

 忌から宇閉まで、8世。1世30年として240年となる。しかし、忌はBC473年、宇閉はBC68年でその間405年である。通常では14世ほど必要となり、かなり代数欠落があると推定される。また、厚鹿文が第12代景行天皇(AD310年頃)と同世代と考えられるので、宇閉との間は380年ほどの開きがあるがその間3世である。厚鹿文から倭の五王までは欠落はないようである。

 BC473年呉が滅亡したのを機会としてその子「忌」は東シナ海に出て、現熊本県玉名市近辺の菊池川河口付近に到達し、菊池川を遡って現在の菊池市近辺に定住したものであろう。一族はそこを拠点として繁栄し、後の球磨国(狗奴国)となったと推定される。

 狗奴国との関連

 「呉」を称した句呉の裔は「鯰」をトーテムにするという。
 後漢書倭伝に「会稽の海外に東(魚是)人あり。分かれて二十余国を為す。」とある。(魚是)は鯰の意。東(魚是)人とは鯰をトーテムとする民であるという。(魚是)は一つの文字。そして「会稽の海外の東(魚是)人」とは、漢の会稽郡の東、日本列島の二十余国であるという。
 呉人の風俗が「提冠提縫」と表される。提とは鯰。呉人は鯰の冠を被っているとされる。BC473年に「呉」は長江の下流域に在って「越」に滅ぼされる。呉人は東シナ海から列島へと渡った。
 そして阿蘇に住んでいた一族も鯰をトーテムとしている。阿蘇に下向した健磐龍命は大鯰を退治して阿蘇の開拓を成した。阿蘇の古い民も鯰をトーテムとしていたのである。
 鯰を祀る「阿蘇国造神社」は阿蘇神社の元宮である。本来は阿蘇の母神とされる「蒲池媛」を祀るといわれる。「蒲池媛」は八代海、宇城の地より阿蘇に入ったと言われており、蒲池媛は満珠干珠の玉を操り、海人の血をひいている。「蒲池媛」はのちに筑後、高良神の妃ともされ、宗像三女神の「田心姫」に習合した。隼人である「狗呉」が、熊襲の裔、「肥人」をも含んで八代海、阿蘇、有明海周辺を支配したのが「狗奴国」であったのかもしれない。

 宮崎県諸塚山伝承

 諸塚山は高千穂町と諸塚村との境界にある標高1342mの山である。この一帯でもっとも高い山で、東の日向灘まで直線で約40kmあるが、おそらく日向灘が直接望める最も西の山である。山頂近くに多くの塚があることから諸塚山と呼ばれている。標高1342mの頂上付近に、誰が、何のために築いたのか謎である。そして、さまざまな伝承を持っているのである。
①イザナギ、イザナミの御神陵である
②天孫降臨の地である。
③神武天皇巡幸の地である。
④太伯山とも云い、句呉の太伯が生前に住んでいて、死後に葬られたという。
古代中国に朝貢した倭の使者は「我々は呉太伯の子孫である。」と言っている。そこから、日本の皇室の祖は、呉(中国)の祖ともされる太伯であるとされ、諸塚山は、その太伯を祀ったことから太伯山とも呼ばれていたという。呉の祖、太伯は、高天原や天孫降臨と関連していることが分かる。
日向風土記逸文に書かれた二上山からこの諸塚山までの10キロ弱は、1000メートル級の峰続きで、六峰街道と言われている。かなり古くよりその形があって、降臨をはたした天孫瓊々杵尊はこの道を通って笠沙山(延岡市愛宕山)にむかったと伝えられている。

 一つ一つの伝承を検証してみよう。

 ①イザナギ・イザナミの御神陵。イザナミ神の御陵は広島県比婆郡の比婆山、イザナギ御陵は兵庫県淡路市一宮の伊弉諾神宮裏であり、この山が二神の御陵とはならない。しかし、これだけの伝承を持つ山なので、イザナギ一族と深い関係があるのは間違いないであろう。北麓の高千穂町は宇佐にいた日向津姫(ムカツヒメ)が一時滞在しており、ここで、瓊々杵尊が誕生している。イザナギ・イザナミは素盞嗚尊が九州統一した時、宮崎県南部の加江田神社の地に住んでいたと思われる。そこから考えても、高千穂町は全く縁のない地に思えるのであるが、イザナギ・イザナミの御神陵伝説を始め高千穂町には高天原関連の伝承が多い。日向津姫が一時滞在していたにしては、その伝承があまりにも多いのに不自然さを感じる。イザナギ・イザナミ一族の祖先の滞在地と考えれば、一連の伝承に筋が通ってくる。イザナギ・イザナギ一族の祖先も伝承では呉の太伯であり、熊襲の祖先と同じとなる。呉王夫差の子「忌」が熊本県菊池市周辺を拠点として、その一族が周辺に広がっていく中、その一派が阿蘇山麓を経て高千穂町に到達したのではないだろうか。ここがイザナギ一族の古里となるのであろう。諸塚山はこの周辺で最も高い山である。周辺の地理を探るためにはこの山に登るのが最もよく、しだいにこの山は聖山となったものと考えられる。この頃の支配者の墓が諸塚山山頂付近の塚なのではあるいまいか。それが、後の世、イザナギ・イザナミの御神陵と言い伝えられるようになったものとすれば、納得がいく。

 ② 天孫降臨の地。高千穂町を流れる五ヶ瀬川は峡谷地帯であり、延岡市に達するのに川沿いに下るのは危険である。そこで、延岡周辺に進んでいくのに、二上山から諸塚山と通って、速日峰に至るまで峰沿いを通って、延岡市近辺に至る経路ができたものと思われる。長らく高千穂に住んでいた一族は延岡の方に移住する必要が生まれ、この経路を通って延岡に至ったものであろう。BC20年頃ではあるまいか。延岡に至った一族は海路南に下り、素盞嗚尊がやってきたころ(AD15年頃)には、宮崎市木花の加江田神社の地に住んでいたのであろう。イザナギ一族が宮崎市の方に移って行った後もこの高千穂町はイザナギ一族の始祖の地として大切にされていたのであろう。この移動こそが本来の天孫降臨ではないだろうか。そのために、日向津姫が一時この地に立ち寄り瓊々杵尊がこの地で誕生したと言える。

 ③ ①②のようなことがあり、高千穂町が聖地となっていたことは神武天皇が大和に東遷する時も、天皇自身が承知しており、東遷途中に神武天皇が訪問してくることは十分に考えられる。

 ④ 呉太伯自身がこの地に住んでいたというのは考えられないが、太伯の子孫がここに住んでいたということは十分にあり得る。太伯の子孫であるイザナギ一族の古里であるために、太伯が滞在していたという伝承につながったと考えられる。

 また、呉太伯は鹿児島神宮で祀られている。鹿児島神宮は国内で太伯を祀る唯一つの神社である。この神宮の地は日向津姫が南九州の拠点としていた処で、イザナギ一族にとっては聖地とも云う場所である。これもイザナギ一族が呉太伯の子孫であることを意味しているのではないだろうか。

 幣立宮

高千穂に降臨したと思われるイザナギ一族はどこから降臨したのであろうか。それを明らかにする神社が熊本県蘇陽町の幣立神宮である。この神社には以下のような由緒がある

 高天原神話発祥の神宮である。悠久の太古、地球上で人類が生物の王者に着いたとき、この人類が仲良くならないと宇宙自体にヒビが入ることになる。
 これを天の神様がご心配になって、地球の中心・幣立神宮に火の玉に移ってご降臨になり、その所に芽生えた万世一系(日の木・霊の木)(一万五千年の命脈を持つ日本一の巨檜)にご降臨の神霊がお留まりなった。
 これがカムロギ・カムロミの命という神様で、この二柱を祀ったのが日の宮・幣立神宮である。大祓いのことばにある、高天原に神留ります、カムロギ・カムロミの命という言霊の、根本の聖なる神宮である。通称、高天原・日の宮と呼称し、筑紫の屋根の伝承がある。神殿に落ちる雨は東と西の海に分水して地球を包むという、地球の分水嶺である。

  旧暦十一月八日は、天照大御神が天の岩戸籠りの御神業を終えられ、日の宮・幣立神宮へご帰還になり、幣立皇大神にご帰還の報告が行われた日で、この後神徳大いに照り輝かれた。よってこの天照大御神の和御魂は、ここ高天原・日の宮の天神木にお留まり頂くという、御霊鎮めのお祭り巻天神祭を行う。しめ縄を天神木に引き廻らしてお鎮まりいただく太古から続く祭りである。

  太古の神々(人類の大祖先)は、大自然の生命と調和する聖地としてここに集い、天地、万物の和合なす生命の源として、祈りの基を定められた。この歴史を物語る伝統が「五色神祭」である。この祭りは、地球全人類の各々の祖神(大祖先)(赤・白・黄・黒・青(緑)人)がここに集い、御霊の和合をはかる儀式を行ったという伝承に基づく、魂の目覚めの聖なる儀式である。

 神話では、神々は高天原で生まれたとされている。熊本県蘇陽町の幣立宮は、最初の神天御中主神が鎮座し、神漏岐命、神漏美命を祀っている。この神社は以下のような伝承を持つ。

① 神武天皇は大和遷都後、7回この宮に参拝し、民族の繁栄と平和を祈願したという。 
② 天照大神は天岩戸より出御のとき、天の大神を神輿に奉じ日の宮(幣立宮)に御還幸になった。
③ 瓊々杵尊が天村雲命を皇祖天御中主尊がおられるこの宮に参らせた。
④ 建磐龍命が阿蘇に下向した時、ここに幣を立てて天の神を祀られたので、幣立宮という。
⑤ 瓊々杵尊はここより立ちて、高千穂に下る。
⑥ 天御中主尊をはじめとする造化三神の神陵がある。
⑦ この神社の最初の神官は天児屋命である。

 如何にも神話の最高の聖地と言うような伝承を複数持っている。どこまで真実かは定かでないが、神々の中心地であったという核になる部分は真実ではないかと思える。最も自然な成り行きとして考えられるのは、イザナギ一族が高千穂に行く前に住んでいた所ではないかということである。 

 その説を検証してみよう。古事記に最初に登場する神は天御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神の三神であり、造化三神と言われており、独神であり、その姿を隠している。これは後に検証するが、大和朝廷を構成する三系統の血筋を表しているものと考えている。天御中主神はイザナギ一族を指し、高皇産霊神は秦徐福の系統を指し、神皇産霊神は朝鮮系統を指しているようである。伝承から判断してこの神社は天御中主神の系統と思われる。

 次に神世7代が続くが最初の2代(国常立尊・豊斟渟尊)はいずれも饒速日尊を意味していると推定している。しかし、元来はイザナギ一族の先祖であったが、饒速日尊と同化したのではあるまいか。次の5代がイザナギ一族の先祖ではないだろうか
神世第一代 国常立尊
神世第二代 豊斟渟尊
神世第三代 宇比邇神(うひぢにのかみ)・須比智邇神(すひぢにのかみ)
神世第四代 角杙神(つぬぐいのかみ)・活杙神(いくぐいのかみ)
神世第五代 大戸之道尊(おおとのじのみこと)・大苫辺尊(おおとまべのみこと)
神世第六代 面足尊 (おもだるのみこと) ・惶根尊 (かしこねのみこと)
神世第七代 伊弉諾尊 (いざなぎのみこと)・伊弉冉尊 (いざなみのみこと) 

 幣立宮に祭られている神の大宇宙大和神は「おおとのちおおかみ」と読むそうである。神世第5代大戸之道尊と同じである。イザナギ一族はこの神の時代にこの地に住んでいたということではないだろうか。BC60年頃と推定する。

 幣立宮は分水嶺上にあり、ここより東に降った雨水は五ヶ瀬川となり日向灘に流れ、西に降った雨水は大矢川から緑川となり、有明海に流れ込んでいる。呉太伯の子孫である「忌」は有明海を経て菊池市近辺を本拠とした。その一族は次第に周辺に広がっていき、球磨族となった。その一派が緑川を遡り、幣立宮の地に住んだ。ここからさらに東に進み、高千穂に下ったのであろう。この神社が九州の屋根と言われるのは分水嶺にあるためであろうが、ここを頂点としてイザナギ一族が東へ降ったためではないかと考える。

 イザナギ一族と球磨族は共に同系統の一族のはずであるが、「忌」の正統な系統は球磨族の方である。幣立宮が始原となっているが、それ以前に住んでいた地があるはずである。それが全く伝わっていないことからして、イザナギ一族は球磨族から仲たがいして分派したのではないかと思われる。当初菊池市近辺に住んでいたが、球磨族と意見の相違があって、その地を離れ、緑川を遡り幣立宮の地に移り住んだのではないかと思う。その人物が神漏岐命・神漏美命であろう。その時期は定かではないが神世七代から推察してBC200年頃か。この頃は秦徐福が菊池市一帯のすぐ近くの佐賀平野に上陸しており、徐福一族とのかかわりが一族分裂の一因かもしれない。

 幣立宮の裏に神水の湧き出るところがあり、その前が神田である。昔からこの田で稲作をしていたのではないだろうか。この地は中央構造線上にあり、分水嶺の標高が低いのである。九州の西海岸と東海岸の交通の要と考えることもできる。ここに人が最初にやってきたと思われるのは弥生時代であるが、大人数が住めるという場所ではない。伝承からして長期にわたって人々が住みついていたようであるが、それが可能であったのは外部との交流が活発であったことによると思われる。分水嶺の標高が低いというのがその要因であろう。

 イザナギ一族が球磨族から仲たがいで分裂したため、幣立宮以前の滞在地が全く伝わっておらず、この幣立宮が始原の地となり、他の神社には見られないような特殊な祭祀が行われるようになったのであろう。

天児屋命に関して・・・この神宮の初代神官は天児屋命と言われている。天児屋命は中臣氏の祖先である。伝承によれば、天御中主命-津速産霊命─市千魂霊命-興台産霊-天児屋命と続いており、その祖先は天御中主命であり、この地に住んでいたと言われる天御中主命の子孫となる。後で述べるが天児屋命は饒速日尊の天孫降臨(AD25年頃)の随伴者として大和に降臨している。そのため、この神宮の神官であったのはAD20年頃となる。この系図が真実ならば天御中主命はBC100年頃活躍した人物となる。天児屋命は高千穂町三田井の菊宮神社に祭られており、高千穂町の多くの人々の先祖が天児屋命と言われている。これは、天児屋命が高千穂に住んでいたことを示している。天児屋命は高千穂に生まれ、ここで育って、天孫降臨の前に幣立神宮の神官をしていたと考えられる。

幣立宮周辺弥生遺跡(遺跡ウォーカーより)
宮ノ後A遺跡   熊本県上益城郡山都町大野宮ノ後
甲長崎D遺跡  熊本県上益城郡山都町長崎
宮ノ後B遺跡   熊本県上益城郡山都町大野宮ノ後
宮ノ後D遺跡   熊本県上益城郡山都町大野宮ノ後
幣立神社遺跡  熊本県上益城郡山都町大野宮ノ後
神ノ前遺跡    熊本県上益城郡山都町神ノ前白石

 高千穂への降臨 

 幣立宮周辺に住んでいた人々は高千穂に降臨している。これはいつのことであろうか。それを探ってみたいと思う。

 高千穂町の降臨伝承

二上山伝承<二上神社の祭神は伊弉諾尊・伊弉冉尊>
「二上峰に瓊々杵尊が天降られましたが、空が暗くて何も見えませんでした。その時、土地の豪族である大鉗(くわ)、小鉗が現れ、尊が手に持っている稲千穂を籾にして蒔くように言いました。尊がその通りにすると、空は明るく晴れ無事に地上に降りることができました。このため、この地を知鋪と呼ぶようになりました。」
高千穂峡おのころ島
「伊弉諾尊・伊弉冉尊は高天原の神々に『この漂っている国を作り固めよ』と言われ、天の沼矛を授かります。天と地の間にかかる天浮橋の上に立ち、矛の先を下に向けてコロコロとかき混ぜたところ、矛先からしたたり落ちる潮水が積もり積もって島となりました。これが淤能碁呂島です。この島は高千穂峡にあり、毎年4月16日の高千穂神社の春季大祭では高千穂神社を出発した神輿がこの島を回る『浜下り神事』が行われます。」

 複数の系図から、それぞれの神(人物)の活躍年代を推定してみる。一世30年として計算する。

古事記 日本書紀 中臣氏 大伴氏 その他
BC210 秦徐福
BC190 国之常立神 国常立尊
BC160 豊雲野神 国狭槌尊 高皇産霊尊
BC130 宇比邇神 豊斟渟尊 安牟須比命
BC100 角杙神 泥土煮尊 天御中主命 香都知命
BC70 意富斗能地神 大戸之道尊 津速産霊命 天雷命
BC40 淤母陀琉神 面足尊 市千魂霊命 安国玉主命
BC10 伊邪那岐神 伊弉諾尊 興台産霊 天押日命 素盞嗚尊
AD20 天照大神 天児屋命 天押人命 饒速日尊

 これらの人物名は古事記・日本書紀で同じではない。それどころか日本書紀の複数の一書すべてがばらばらである。古事記編纂時代にはすでに伝承がばらばらになっていたものと考える。神名自体も実際に生存していた人物名とは異なるのではないかと思われる。今となっては正しいものを復元しようがないので日本書紀の神を元に推定してみることとする。

 降臨した人物は高千穂に稲作を導入しているが、稲作は簡単にできるものではなく、持ちこんでから稲作体制ができるには数十年は要すると思われる。代数にして二世代ぐらいは最低必要ではないかと思われる。一般に高千穂に降臨したのは瓊々杵尊と言われているが、この尊はここで誕生して、誕生直後ここから延岡の方に降臨しているという伝承が複数の神社に伝えられている。このことから、この高千穂に降臨した人物は瓊々杵尊ではないことになる。伊弉諾尊・伊弉冉尊の降臨伝承もあるが、伊弉諾尊・伊弉冉尊もここから立ち去って、宮崎市の加江田神社の地で天照大神(日向津姫命)を産んでいるという伝承がある。また、諸塚山頂に伊弉諾尊・伊弉冉尊の神陵が存在しているが、伊弉諾尊・伊弉冉尊の御陵はそれぞれ別のところに存在しているので、諸塚山の御陵は伊弉諾尊・伊弉冉尊ではないことになる。もし、伊弉諾尊・伊弉冉尊がここに降臨してここから、宮崎に移動したのであれば、高々10年ほどしか高千穂にいなかったことになる。高千穂の伝承の多さから判断し、高千穂にはより多くの期間イザナギ一族の先祖が住んでいたのではないかと思われる。また、諸塚山の塚の数はそれを裏付けているのではないだろうか。二上峰の降臨伝承が最初の高千穂降臨を示していると思われる。幣立宮の地で稲作をしていた人物の誰かが、稲穂を以てこの高千穂を訪れたのであろう。

 幣立宮の記録に「瓊々杵尊が天村雲命を皇祖天御中主尊がおられるこの宮に参らせた。」とあるように天御中主尊とは幣立宮周辺の国の国王が代々呼ばれていた名のようである。古語拾遺によると天御中主尊から長男高皇産霊神・次男津速産霊神・三男神皇産霊神が生まれたとあるが、高皇産霊神・神皇産霊神ともに全く異なる場所で活躍した伝承が残っているのでこれは誤りであろう。

 大戸之道尊は幣立宮では大宇宙大和神(読みが同じなので、同一人物と推定)となるので、この神の時は幣立宮にいたと思われる。以上のことから推察して面足尊の時に高千穂に移動したのではないかと推定できる。面足尊の神名の意味は表面が完成したという意味である。BC40年頃ではないだろうか。これをもとに移動の実態を推定してみる。情報が少ないので、真実性がどこまであるかわからないが、一つの形を作っておく。

 BC200年頃神漏岐命、神漏美命の夫婦神が、球磨族本体から分離し、その一族十数人ほどを引き連れてこの地を訪れた。分水嶺上にあり、交通の要にもなりそうなところなので、この地に住むことにした。神宮の裏手の清水がわき出るところに田を作り稲作を始めた。BC40年頃になり、村の人口が増加したために、一部の人を他の地に移住させることにした。この時の王であった大戸之道尊は嫡子であった面足尊とその妻惶根尊に東へ行って国を作るように命じた。面足尊・惶根尊は二上山に登り高千穂盆地こそ住むのにふさわしい地だと判断して、この地で土地の人々と共に稲作を始めて国を作った。
 BC10年頃になり、高千穂の国づくりも安定化したが、高千穂も土地が狭いので幣立宮の地と同じようにそのうち土地が足らなくなると思い、その子伊弉諾尊とその妻・伊弉冉尊に東の海岸に出て新しい国を作るように命じた。伊弉諾尊・伊弉冉尊は五ヶ瀬川沿いに下り、現在の延岡市近辺に到達した。しかし、ここでは先住民と会わなかったためかさらに南に下り、現宮崎市の加江田神社の地を本拠として国づくりをした。呉国からもたらされた先進技術を用いることによって周辺の人々の協力が得られ、素盞嗚尊・饒速日尊がやってきたAD15年頃には現宮崎市一帯を支配する大豪族になっていたと思われる。この功績で持って記紀では伊弉諾尊・伊弉冉尊を国生みの神としたのであろう。

 イザナギ一族が素盞嗚尊による倭国に加盟し、倭国統一に熱心になったのも、球磨族を意識してのことではあるまいか。球磨族にしてみれば、けんか別れした一派の支配下に下ることなど、絶対に許されないことであったろうから、新技術を示されても、倭国に参加せず、大和朝廷成立後も熊襲として最後まで抵抗することになったと思われる。

 高千穂周辺弥生遺跡(遺跡ウォーカーより)
南平第3遺跡    宮崎県西臼杵郡高千穂町押方字南平
神殿遺跡A地区   宮崎県西臼杵郡高千穂町三田井神殿
神殿遺跡B地区   宮崎県西臼杵郡高千穂町三田井神殿
古城遺跡       宮崎県西臼杵郡高千穂町三田井字古城
大郎遺跡       宮崎県西臼杵郡高千穂町大字田原字上田原
五ヶ村遺跡      宮崎県西臼杵郡高千穂町大字岩戸字五ヶ村/字中ノ迫
大野原遺跡      宮崎県西臼杵郡高千穂町大字三田井字大野原
阿蘇原上遺跡    宮崎県西臼杵郡高千穂町大字岩戸字阿蘇原上

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