味鋤高彦根命の謎

 味耜高彦根関連地図

 味耜高彦根命について

 記紀によると味耜高彦根命の父は大国主命で母は多紀理姫(宗像3女神)である。宗像三女神は異名同神であり、猿田彦命と結婚しているので、味耜高彦根命の両親は伝承通りではないことになる。では、真実の味耜高彦根命の両親は誰なのであろうか。

 饒速日尊が陸奥国を統一する時、饒速日尊に従った人物が味耜高彦根命であり、福島県東白川郡棚倉町大字八槻字大宮224の都々古別神社では、
味耜高彦根命は御父君大国主命の功業を補翼し東土に下り曠野を拓き民に恩沢をたれ給うたので郷民其徳をしのび当地に奉祀されたと伝えられる。
とある。東日本を統一したのは饒速日尊であり、それを補翼したとあれば、ここでいう父大国主命は饒速日尊であることになる。

 味耜高彦根命は若年時の伝承が出雲に集中している。
三澤神社 島根県仁多郡奥出雲町三沢402  
 祭神・阿遲須枳高日子根命が、この地の澤の水によって、心身の障害を取り除き、立派に成人した。

『出雲国風土記』仁多郡の条
「父神の大穴持が御子の阿遅須伎高日子命が、言葉をしゃべれず、泣いてばかりだったので、船に乗せて八十島を連れて巡った。
『出雲国風土記』楯縫郡
神名樋山頂の西に石神あり。古老伝えて言う。阿遅須枳高日子の后、天御梶日女命、多久の村に来て、多伎都比古命をお産みになった。

『出雲国風土記』仁多郡三沢の郷の条

 大神大穴持命の御子の阿遅須伎高日子命は、あごの髯が八握(握り拳八つ分)になってもまだ夜昼となく(赤ん坊のように )哭いておいでになり、お言葉もしゃべれなかった。その時御祖の命は御子を船に乗せて八十島を連れてめぐってお心を 慰めてあげようとされたが、それでもまだ哭きやまなかった。そこで大神は、夢知らせをお願いして、御子が哭くわけをお知 らせ下さるよう夢見を祈ると、ただちにその夜の夢に御子が口をきくようになったと見なされた。そこで夢から覚めて「御子がしゃべれるかどうか」お尋ねすると、その時、御子は「御沢」と申された。その時「いったい何処をそういうのだ」 とお問いなされると、すぐさま御祖の前を立ち去って行かれて石川を渡り、坂の上まで行ってとどまり、「ここをそう申しま す。」といった。その時そこの津の水が治り出たので、御身にあびてみそぎをなさった。
 だから国造が神吉事を 奏上するため朝廷に参向するとき、その水を治り出して使い初めをするのである。
(吉野裕訳『風土記』平凡社から)。

出雲国 神門郡 阿利神社「阿遲須枳高日子根命」島根県出雲市塩谷町1686
 出雲国風土記に「高岸の郷郡家の東北二里なり 所造天下大神の御子阿遅須枳高日子根命甚く昼夜哭き坐しき仍りてその処に高屋を造りて坐させ即ち高橋を建てて登上り降りし て養し奉りき故高崖と云ふ神亀三年に字を高岸と改む」とあり、高岸が高西となったものと伝えられている即ち神の住居されたところにお祀りしたものである。

伊予国 周布郡 高鴨神社「味高比古根命,愛媛県周桑郡小松町南川
当御鎮座の地は、大神が、当国御経営の際、久しく駐り給うた御遺跡でありまして住民等は大神を敬慕するの余り、 大宮の跡に斎場を設けて、只管、大神をお祀り申し上げて居たのであります。即ち、当神社は、遠く神代の昔から、現 在地に鎮座されて居る当国有数の古社であります。そこで雄略天皇の御代、大和国高鴨神社の氏人鴨氏の一族が此の 地に移住し、更にその氏神の御分霊を奉斎し、高鴨神社と称し奉りました。

阿遅速雄神社 大阪市鶴見区放出東3丁目
 鴨の阿遅鋤高日子根神は当地に降臨されて土地を拓き、民に農耕の業を授けたという。 民人は、その御神徳を尊び摂津河内の国造神として、この地の守護神として斎きまつると云い伝へられる

味鋤高彦尊を祭神とするが、阿遅速雄尊は祭神の御子神である。高鴨神社の古文書にも味鋤速雄尊として摂社に祭祀された記録がある。味鋤高彦根命は若年時出雲にいたようである。

味耜高彦根命の謎 

 味鋤高彦根命の系図は次のようになっている。

 味鋤高彦根命─天八現津彦命─観松彦伊侶止命・・・長国(阿波国南部)国造

 子孫は長国の国造になっているが,長国にある事代主神社(徳島県勝浦郡)では、「国造祖の事代主神を祀る。」と記録されている。また,『姓氏家系大辞典』によると,観松彦伊侶止命は事代主命の子(又は孫)とされている。これらより,事代主命=味鋤高彦根命という図式ができあがる。事代主命は二人存在(饒速日尊の子供たち)し,兄にあたる積葉八重事代主命と弟にあたる天事代主籖入彦命(玉櫛彦)が味鋤高彦根命と考えられる。(この兄弟関係は逆である可能性も考えられる)。この二人とこの二人の妹にあたる下照姫がAD30~35年頃大和にて誕生している。

味鋤高彦根命が若年時に出雲にいた謎

 出雲に味鋤高彦根命関連伝承が集中している。これは若年時に出雲にいたことになり,これが,味鋤高彦根命の正体を探るうえで大きな謎であった。

 積葉八重事代主命・味鋤高彦根命・下照姫いずれも出雲に足跡が残っている。記紀ではこの三者は大国主命の子とされており,出雲で生誕したことになっているので,出雲に関連伝承が多いのはうなづけるが,古代史の復元ではこの三者は大和で誕生しているのである。そういった点では出雲に伝承が多いのがおかしなことになる。

 この謎を解くカギが「三穂津姫=天知迦流美豆比売」の図式である。三穂津姫は高皇産霊神(大山祇命)の娘で饒速日尊の妻となっているが,両者の子は伝えられていない。また,出雲の美保神社では積葉八重事代主命と三穂津姫が共に祀られており,両者は共に生活していた節がある。天知迦流美豆比売の子が積葉八重事代主命なので,両者が母子と考えれば自然とつながるのである。積葉八重事代主命が出雲に移動する理由は国譲会議で決定されたためである。

 天知迦流美豆比売も高皇産霊神(大山祇命)の娘であり,両者は同一人物と考えられる。出雲国譲りにより10歳に満たない積葉八重事代主命が出雲に赴任することになり,母である三穂津姫がついて行き,しばらく生活を共にしていたと考えれば自然に説明できる。この時,他地域の経験をさせる意味も込めて味鋤高彦根命・下照姫も出雲に同行したのではないだろうか。そう考えると三人が幼少時出雲にいたことは説明できる。味鋤高彦根命・下照姫は母と離され同じ出雲でも別の地域に住んでいたために,味鋤高彦根命が泣いたという伝承が伝わったとも考えられる。