味鋤高彦根命誕生

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饒速日尊出雲帰還

 旧丹波国(丹波・丹後)地域はこの当時丹波王国が存在した。徐福の一派である豊受大神がこの地に上陸し先端技術を駆使して強大な王国を建設していたのである。先進技術を持っており、強大な王国なので、統一は至難を極めるはずであるが、高皇産霊神と同じ徐福系であり、しかも高皇産霊神と頻繁に連絡を取り合っていたので、比較的統一は容易なことであった。しかし、この地域は重要拠点となるので饒速日尊に少しでも早く統一させる必要があった。
 讃岐国琴平を拠点として瀬戸内海沿岸地方を統治していた饒速日尊を出雲に呼び戻し、素盞嗚尊は丹波王国を統一せよとの命令をした。饒速日尊は自らの生誕地である須佐神社の地を拠点として、丹波王国へ出発する準備をしていた。

 味耜高彦根命について

 記紀によると味耜高彦根命の父は大国主命で母は多紀理姫(宗像3女神)である。宗像三女神は異名同神であり、猿田彦命と結婚しているので、味耜高彦根命の両親は伝承どおりではないことになる。では、真実の味耜高彦根命の両親は誰なのであろうか。

 饒速日尊が陸奥国を統一する時、饒速日尊に従った人物が味耜高彦根命であり、福島県東白川郡棚倉町大字八槻字大宮224の都々古別神社では、
味耜高彦根命は御父君大国主命の功業を補翼し東土に下り曠野を拓き民に恩沢をたれ給うたので郷民其徳をしのび当地に奉祀されたと伝えられる。
とある。東日本を統一したのは饒速日尊であり、それを補翼したとあれば、ここでいう父大国主命は饒速日尊であることになる。

 それでは母は誰であろうか。味耜高彦根命は若年時の伝承が出雲に集中している。
三澤神社 島根県仁多郡奥出雲町三沢402  
 祭神・阿遲須枳高日子根命が、この地の澤の水によって、心身の障害を取り除き、立派に成人した。

『出雲国風土記』仁多郡の条
「父神の大穴持が御子の阿遅須伎高日子命が、言葉をしゃべれず、泣いてばかりだったので、船に乗せて八十島を連れて巡った。
『出雲国風土記』楯縫郡
神名樋山頂の西に石神あり。古老伝えて言う。阿遅須枳高日子の后、天御梶日女命、多久の村に来て、多伎都比古命をお産みになった。

『出雲国風土記』仁多郡三沢の郷の条

 大神大穴持命の御子の阿遅須伎高日子命は、あごの髯が八握(握り拳八つ分)になってもまだ夜昼となく(赤ん坊のように )哭いておいでになり、お言葉もしゃべれなかった。その時御祖の命は御子を船に乗せて八十島を連れてめぐってお心を 慰めてあげようとされたが、それでもまだ哭きやまなかった。そこで大神は、夢知らせをお願いして、御子が哭くわけをお知 らせ下さるよう夢見を祈ると、ただちにその夜の夢に御子が口をきくようになったと見なされた。そこで夢から覚めて「御子がしゃべれるかどうか」お尋ねすると、その時、御子は「御沢」と申された。その時「いったい何処をそういうのだ」 とお問いなされると、すぐさま御祖の前を立ち去って行かれて石川を渡り、坂の上まで行ってとどまり、「ここをそう申しま す。」といった。その時そこの津の水が治り出たので、御身にあびてみそぎをなさった。
 だから国造が神吉事を 奏上するため朝廷に参向するとき、その水を治り出して使い初めをするのである。
(吉野裕訳『風土記』平凡社から)。

出雲国 神門郡 阿利神社「阿遲須枳高日子根命」島根県出雲市塩谷町1686
 出雲国風土記に「高岸の郷郡家の東北二里なり 所造天下大神の御子阿遅須枳高日子根命甚く昼夜哭き坐しき仍りてその処に高屋を造りて坐させ即ち高橋を建てて登上り降りし て養し奉りき故高崖と云ふ神亀三年に字を高岸と改む」とあり、高岸が高西となったものと伝えられている即ち神の住居されたところにお祀りしたものである。

伊予国 周布郡 高鴨神社「味高比古根命,愛媛県周桑郡小松町南川
当御鎮座の地は、大神が、当国御経営の際、久しく駐り給うた御遺跡でありまして住民等は大神を敬慕するの余り、 大宮の跡に斎場を設けて、只管、大神をお祀り申し上げて居たのであります。即ち、当神社は、遠く神代の昔から、現 在地に鎮座されて居る当国有数の古社であります。そこで雄略天皇の御代、大和国高鴨神社の氏人鴨氏の一族が此の 地に移住し、更にその氏神の御分霊を奉斎し、高鴨神社と称し奉りました。

阿遅速雄神社 大阪市鶴見区放出東3丁目
 鴨の阿遅鋤高日子根神は当地に降臨されて土地を拓き、民に農耕の業を授けたという。 民人は、その御神徳を尊び摂津河内の国造神として、この地の守護神として斎きまつると云い伝へられる

味鋤高彦尊を祭神とするが、阿遅速雄尊は祭神の御子神である。高鴨神社の古文書にも味鋤速雄尊として摂社に祭祀された記録がある。

味耜高彦根命の謎 

 これら伝承をみると味耜高彦根命は幼少時心身に障害があったが、なおって順調に成長されたようである。味耜高彦根命は加毛大御神とも呼ばれており、大御神の尊称を持つ神は天照大神とこの神のみである。味耜高彦根命は相当な実績のある人物のように見えるが、その実態はほとんど伝えられていない。

 賀茂一族と呼ばれているのは、賀茂建角身命の娘玉依姫と事代主の子天日方奇日方命の子孫、及び玉依姫の兄の玉依彦の子孫及び味耜高彦根命の子孫である。また、大神神社で大物主神を祭祀した大田田根子は天日方奇日方命と呼ばれており、かつ、始祖は味耜高彦根命といわれている。味耜高彦根命と鴨一族はどのような関係にあるのであろうか。

 これら問題点をすべて解決する等式は賀茂建角身命=味耜高彦根命である。

 賀茂氏を系図上で遡って行くとその共通の始祖は賀茂建角身命である。この人物が味耜高彦根命であるとすれば、味耜高彦根命が加毛大御神との尊称を持つことが理解できる。賀茂建角身命は飛騨王家の系統の人物である。このことは、味耜高彦根命も飛騨王家の系統の人物となる。その人物の幼少時の伝承が、なぜ出雲に集中しているのであろうか。

 飛騨王家の系統の人物が出雲で成長しているということはこの時点で出雲と飛騨国に関係があったということになる。賀茂建角身命=味耜高彦根命であるならば、その生誕はAD10年頃となり、その幼少時となればAD15年頃となる。伝承上饒速日尊と深い関係があり、饒速日尊の子として伝えられている。しかし、賀茂建角身命が饒速日尊の子であるならば事代主命と玉依姫との結婚が子と孫の結婚になってしまい、極めて不自然である。

 AD15年頃饒速日尊が飛騨国を訪問し、飛騨国との交渉の中で飛騨国王は後継者賀茂建角身命(味耜高彦根命)を饒速日尊に預けたのではないだろうか。そのために、出雲にやってきた味耜高彦根命は環境変化に耐えられず、泣き叫んでいたのであろうと思われる。

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