東日本統一

 近畿地方を統一した饒速日尊は河内一族を引き連れて東日本統一に乗り出した。

東日本地域の統一前の状態

 1万年前日本列島の平均気温は現在より約2度低かったが、6000年前には現在より1度以上高くなった。 この結果、東日本は、ブナを中心とする冷温帯落葉樹林は後退し、代わってコナラ、クリを中心とする暖温帯落葉樹林が広がり、 西日本はカシ、シイの常緑照葉樹林となった。木の実の生産性は照葉樹林より落葉樹林、特に暖温帯落葉樹林が圧倒的に高いため、 こうした温暖化により東日本を中心に日本の人口は急増したと思われる。4500年前頃から気候は再度寒冷化しはじめ、2500年前には現在より1度以上低くなり (ピーク時より3度低くなり)、日本の人口の中心であった東日本は暖温帯落葉樹林が後退し、人口扶養力が衰えた。 日本の人口は大きく減少し、弥生人が流入する直前には76000人程になっていたと推計されている。地域別の人口は『未来航路2006』によると、 100平方kmあたりの人口は以下のようになっている。

     早期  前期  中期  後期  晩期
 全国   7   36   89   55   26
  東北   3   29   70   65   59
  北陸   2   17   98   63   20
  関東  30  134  298  161   24
  中部  10   84  240   73   20
  東海  16   36   94   54   47
  近畿   3    5    9   14    7
  中国   1    4    4    7    6
  四国   1    2    1   14    3
  九州   5   13   13   24   15

東日本では10km四方に20~30人程度と云うことになる。縄文晩期は環境が厳しかったので集落は小規模となり、一つの集落が50~100人規模と考えると数10kmに1集落程度のものだったと思われる。
 BC500年頃より大陸から弥生人が流入するようになり、弥生文化が西から東に伝搬していった。 近畿地方に組織的に弥生人が入り込んだのは方形周溝墓の分布から推定してBC100年頃と思われる。近畿地方の方形周溝墓の原型と思われる墳墓が中国の東北部で見つかっている。このあたりからやってきた一族のようである。この頃と言えば、漢武帝が朝鮮を滅ぼした時期(BC108年)とほぼ重なっており、この難を逃れてきた人々ではないかと予想される。

 この一団は朝鮮半島南端部から北九州に上陸しようとしたが、北九州一帯には中国大陸からの渡来人が数多く住んでおり、彼らとの衝突を避けて、 瀬戸内海を東進し大阪湾岸に上陸した。この一団は大阪湾岸に住んでいた縄文人と戦いになり、縄文人を追い出して勢力範囲を広げていった。 饒速日尊が近畿地方にやってきたBC30年頃には近畿地方一帯から北陸、東海地方まで広がっていたようである。

近畿地方は弥生集落と縄文集落が混在していたようである。中部地方以東の東日本地域には弥生集落がいくらかは存在するも、 ほとんどは縄文集落であった。大阪湾岸に数多い方形周溝墓が奈良盆地でほとんど見つからないことから、大阪湾岸の人々と奈良盆地の人々とは 対立関係にあったと思われ、奈良盆地は縄文人が主流だったのではないかと予想される。饒速日尊と知り合った長髄彦は縄文人だったのではないだろうか。

 東日本の縄文人は小集落を作り、まばらに生活していたようで、国はまだ形成されていなかった。ただ、飛騨地方だけは飛騨国が存在し、上方様と呼ばれる国王に該当する人物が代々治めていたようである(詳細は飛騨国統一)。縄文人は狩猟中心の生活をしているわけであり、稲作農耕の弥生人とは生活圏が異なるので特に争うこともなく弥生人は東日本地域に入り込めたのであろう。東日本地域に入り込んでいた弥生人はごくわずかであり、まだ国を作る程のものではなかった。このような時に饒速日尊が近畿地方を統一したのである。

伝承

 東日本地域一帯を統一したのは誰であろうか。
伝承で確認してみたい。下の表は東日本地域を統一したという伝承を持つ神社の伝承である。その人物(神)の名を赤で示した。
唐松神社 秋田県大仙市境字下台94 饒速日尊は、この地を拠点として東国を平定した。
饒速日命は畿内だけではなく自ら平定した東国をも神武天皇に献上した。(物部文書)
大国魂神社 東京都府中市宮町3-1 往古,武蔵の国を開発された大国主命が,初めてこの府中に御降臨になった
鳥見神社 千葉県印西町鳥見神社 大和国鳥見白庭山に宮居した饒速日命は,土地の豪族長髄彦の妹御炊屋姫を妃とし,宇摩志麻治を産んだ。その後東征し,印旛沼,手賀沼,利根川に囲まれた土地に土着した部下が,祭神の三神を産土神として祭り,鳥見神社とした。
御嶋石部神社 新潟県柏崎市西山町石地1258 その昔、命(大己貴命)が北陸東北方面平定の為に出雲より水路にて当地を通られた。
真清田神社 愛知県一宮市 天火明命は天孫瓊々杵尊の御兄神に坐しまし国土開拓 、産業守護の神として御神徳弥高く、この尾張国はもとより中部日本今日の隆昌を招 来遊ばされた貴い神様である。
二宮神社 静岡県湖西市新居町中之郷320 御祭神は須佐之男之命の御子にして、父君の命によりこの地を開発して瑞穂の国に造り上げ天孫に献上した大功により「大国主命」とも「国造之大神」とも「大物主命」とも申し上げる。
寒川神社 神奈川県高座郡寒川町 寒川大明神は太古草昧の時代、相模国・武蔵国を中心に広く関東地方を御開 拓になられ、農牧・殖林治水・漁猟・商工・土木建築・交通運輸その他あらゆる殖産 興業の途を授け、衣食住等人間生活の根源を開発指導せられた所謂関東文化の生みの 親神である
深見神社 神奈川県大和市深見3367 武甕槌神、東國鎮撫のために常陸鹿島に在られた時、舟師を率 いてここに進軍され、伊弉諾神の御子、倉稲魂神、闇・神の二神をして深海を治めさ せられた。両神は深海を治めて美田を拓き、土人を撫して郷を開かれた。
鹿島神宮 茨城県鹿嶋市 神代の昔天照大御神の命により国家統一の大業を果たされ建国功労の神(武甕槌大神)と称え奉る。 武道の祖神決断力の神と仰がれ関東開拓により濃漁業商工殖産の守護神として仰がれる外常陸帯の古例により縁結び安産の神様
大洗磯前神社 茨城県東茨城郡大洗町磯浜町字大洗下6890  大己貴命は)昔この國を造り東海に去ったが、東國の人々の難儀を救う為に再びこの地に帰ってきた。
氣比神宮 福井県敦賀市 伊奢沙別命は、笥飯大神、御食津大神とも称し、二千有余年、天筒の嶺に霊跡を垂れ境内の聖地(現在の土公)に降臨したと伝承され今に神籬磐境の形態を留めている。上古より北陸道総鎮守と仰がれた。
鹽竈神社 宮城県塩竈市一森山1番1号 武甕槌命・経津主神が東北を平定した際に両神を先導した塩土老翁神がこの地に留まり
立鉾鹿島神社 福島県いわき市平中神谷字立鉾33番地 武甕槌神(タケミカヅチノカミ)」が、東北を平定するためこの地に至り、当時 「塩干山」と呼ばれていたこの山に登り「鉾」を立て、これから進む東方を眺望したことから「立鉾」の名で呼ばれるようになりました

 これらの伝承を比べることによって、東日本一帯を統一した人物を特定してみよう。最初の唐松神社の伝承により、その人物は饒速日尊であることが分かる。関東地方を統一した人物は鳥見神社伝承では饒速日尊、寒川神社伝承では寒川大明神、深見神社・鹿島神宮では武甕槌神、大国魂神社・大洗磯前神社では大己貴命となっている。同じ地域を統一しているのであるからこれらの人物はすべて同一人物と考えるべきであろう。その人物は饒速日尊である。御嶋石部神社では北陸東北方面を統一したのは大己貴命=饒速日尊。東海地方統一したのは、真清田神社伝承で天火明命=饒速日尊、二宮神社伝承で大物主命=饒速日尊。陸奥国では鹽竃神社・立鉾鹿島神社伝承で武甕槌神=饒速日尊となる。以上のように各地方の伝承をまとめると別名で伝えられている面はあれど、東日本地域を統一した人物は饒速日尊と判断できる。

 大和に入った饒速日尊は,大和地方統一後,東日本一帯を統一したことを示している。そして,統一後,各地に自分の部下を配置し,彼らにその地方を開拓させ,新技術を伝えた。この部下が方形周溝墓を持つ河内一族であると考える。大阪湾一帯の遺跡の多くが中期末を境に消滅しているが,饒速日尊について統一事業に参加したものと考える。饒速日尊は河内一族を率いて東日本地方を統一したのである。

方形周溝墓の急激な伝播

 方形周溝墓は,朝鮮半島より,弥生前期末頃大阪湾岸地方に移動し,中期までは,近畿地方と,北陸・東海の一部にしか見られなかったが,中期末に当たるこの時期,一挙に関東地方まで広がっている。しかし,その中心であるべき大和盆地には少ないのである。また,方形周溝墓は一挙に広まった割に地域差がかなりある。そして、この頃の方形周溝墓は西日本地方には全く見られない。
 方形周溝墓に関するこれらの事象が起こった原因について検討してみよう。
まず、中期末になると、一挙に関東地方から東北地方南部まで広がっている。細かく分析してみると、短期間の間に西から東への伝播であることが分かる。その出発点は近畿地方である。近畿地方で何かがあって、その結果急激な伝播が行われたと考えるべきである。そこで、この時期、近畿地方の遺跡で起こった大きな変化を調べてみると、次のようなものがある。
 ・それまでになかった瀬戸内地方からの土器の流入が増え、そして、土器に製作技法上の変化が起こっている。
 ・上の変化が起こってしばらくして近畿地方の多くの遺跡がこの時期ほぼいっせいに消滅する傾向がある。
 ・それ以降の遺跡は小規模なものに変わり、以前の生活形態を無視するような(墓域が住居に変わる)遺跡の分布になる。
 ・このような変化の中で唐古・鍵遺跡のみは今まで以上に巨大化し発展している。
 近畿地方に東からの新しい流入はないので、近畿地方で起こった変化により、一方的に東日本地方に方形周溝墓が伝播したと考えられる。その変化のきっかけと思われるものが瀬戸内系の土器の流入にあり、また、方形周溝墓が西日本方面に伝わっていないので、瀬戸内地方からの影響を受けて、近畿地方に変化が起こり、東日本地方に伝播したものと判断される。

         人々の移動が起こる理由

 方形周溝墓が一挙に広まるためには近畿地方からの多くの人々の一斉の移動がなければならない。近畿地方の遺跡の急激な減少はこれと対応しているようである。人々の一斉の移動が起こる原因としては次のようなものがあげられる。
 ① 近畿地方をはじめ西日本地方が住みにくくなったために東への移動が起こった。
 ② 東日本地方が住みやすくなったので人々の移動が起こった。
 ③ 東の人々から呼ばれた。
 ④ 外部勢力の進入により追い出された。
 ⑤ 近畿地方の統一政権の国王の命令で人々が一斉に動いた。
 ①~③の理由では人々が広範な範囲に急激に広がるということが説明できない。住みやすさで人々が移動する場合は住みやすい特定のところに方形周溝墓が集中する傾向が出るはずである。また、唐古・鍵遺跡のみが巨大化したことが説明できない。
 外部勢力の侵入がこの時期にあったのは事実と思われる。それは、瀬戸内地方からと思われ、その地方の土器が出土するようになるからである。外部勢力の侵入があった場合、それまで住んでいた人々はその勢力との共存を嫌い、他の地域へ逃げることが考えられる。しかし、この場合、近畿地方で人々の入れ替えが起こるために、今までとはまったく違った遺跡の形式になるはずである。たしかに、墓域だったところが居住域になるなどの変化は起こっているが、連続的な変化ではなく、断絶がある。追い出された場合、ある時期を境に急変が起こるはずである。これは、遺跡が消滅し、その後に別の人々が移住してきたと考えた方が自然である。
 また、中心遺跡と思われる。唐古・鍵遺跡を見ても、瀬戸内系の遺物は出てくるようになるが、今までの生活様式が否定されるような傾向は見られない。まして、戦闘があったと思われるような遺物は見つかっていない。瀬戸内からの影響を受けて変化したと考える方が自然である。
 残る可能性は⑤のみである。①~④が否定される以上、人々の一斉の移動を可能にするものは、統一政権以外に考えられない。唐古・鍵遺跡のみが巨大化していることは、近畿地方に統一政権が誕生し、その中心地(都)が唐古・鍵であり、その統一政権の指示により、人々の大移動が起こったと見るのが自然である。      

移動の目的

 次に重要となるのが、この統一政権が人々の大移動を起こした目的である。重要な目的があったからこそ、人々の移動が起こるのである。伝承については後で検討することにして、まずは、考古学的見地からその目的を推定してみようと思う。
 まず、第一のポイントは非常に広範な範囲への一斉の移動である。おそらく10年ほどの間に東海地方から南東北まで一挙に広まっているのである。しかも、現地の人々と戦いがあった形跡もなく、平和裏に行われているようである。方形周溝墓は祭祀系の墳墓であり、その墓域から祭祀系土器が良く出土し、副葬品は少ない。これは、力でもって現地の人々を征服したのではなく、宗教的進入を意味している。宗教を広めるための移動であれば、広範囲にいっせいに移動し、平和裏に現地に侵入するということもあわせて説明できる。実際、この領域は地域差はあるがこのあと、銅鐸祭祀が広まっているのである。
 スサノオの国家統一方法と同じように、饒速日尊が新技術を示して、東日本地方を統一して回ったと考えれば、考古学的事象と矛盾なく一致するのである。東日本地方の神社に伝わる伝承のように、饒速日尊が近畿地方に住んでいた人々を率いて、東日本地方を回り、各地にその人々を配置し、その人々がその地方に近畿地方の高度な文化・技術・祭祀を伝えたと考えられる。東日本地方に住んでいる人々は、この技術で生活が潤い、饒速日尊の行動に感謝した。東日本地方の各地域は饒速日尊の日本国に加盟し、日本国は一挙に近畿地方から南東北地方までを治める巨大な統一国家になったものと考えられる。

 統一方法

 東日本地域は,畿内への土器の流入状況から判断して,畿内と似たような共通の文化圏に属していたようである。このため,東日本地域の統一は, 比較的簡単ではなかったかと想像する。

 近畿地方よりも東の地方は,中国大陸や朝鮮半島から離れている関係上,外国の技術は全くといってもいいほど入っていなかったと考えられる。 そこへ,農業などの新技術を持って饒速日尊が訪れ,新技術を使った生活を伝えてゆけば,その技術が人々に饒速日尊を神ではないかと感じさせ, 併せて祭祀をすることにより,人々の心を一つにまとめ,国を統一していったものと考える。西日本地方の伝承と違い,東日本地方の伝承が国を開発したとか, 開拓したとかのものが多いのはこのためであると考えられる。

 方形周溝墓から出土する土器に祭祀系のものが多く,その他の副葬品が少ないことから,方形周溝墓は祭祀者の墓と 考えられる。饒速日尊と共に東日本地域を統一した河内一族は,饒速日尊からその地の開拓を任され,祭祀をする事で, その地方を治めていた。方形周溝墓はその祭祀者の墓と判断する。

 地方での墓制のわずかな違い

 方形周溝墓にしても,古墳にしても,箱式石棺墓にしても,ある地域から地方へ広がっているのであるが,墓の微細な部分はかなり違っているのである。 同じ一族が集団で動けば,その地方に元の地方と全く同じ墓を作るはずである。そして,もし人々の移動がなければ,離れた地域の墓制をまねすることはとうてい考えられない。つまり少人数の移動としか考えられないのである。しかも,これらの墓制は広い範囲に分布していることから, 少人数の広範囲な移動ということになる。これは大変不自然なことである。少人数ながら広範囲であることを考えれば,その合計人数は相当大規模なものとなる。 大人数が広い範囲にバラバラに移動するということは,通常考えられない。全く見知らぬ地へ移動するわけであるから,当然不安があり, どうしても大集団を作るはずである。大集団となれば,墓も,移動元とそっくりにならなければおかしい。それは、国家統一という大目標があったためにできたことではないかと推定する。

統一過程の推理

 具体的統一手法 

 伝承はそのほとんどが土地を開拓したと云うようなものである。特に神奈川県の寒川神社の伝承では「農牧・殖林治水・漁猟・商工・土木建築・交通運輸その他あらゆる殖産 興業の途を授け、衣食住等人間生活の根源を開発指導せられた。」とある。これらが、その土地に住んでいた人々に饒速日尊が指導した内容であろう。東日本地域は縄文人がまばらに住んでいた。数十km四方に一集落程度の分布状態のようである。狩猟生活中心なので、湿地帯を避けたちょっとした台地にその生活圏を持っていた。弥生人も若干住んでいたようであるが、まだ、その数は少ない状態にあった。当時の人々にとって食料の安定確保が最重要課題である。よい水田ができればこの目的を達したことになる。処が広い土地での水田開発など一人でできるものではなく、多くの人材を使っても数十年規模の年数が掛かると思われる。ところが饒速日尊は各国1年程度の滞在のようである。東日本全体を15年程度で統一するにはこれほどの速さが必要であるが、そんなに早く土地開発はできるものではない。
 各国では饒速日尊を祀っていると思われる神社が関東地方では5割を超えている。これは、物部氏が多数入植してその人たちが始祖である饒速日尊を祀ったものと解釈できる。近畿地方から相当数の人々の移動がなければならない。弥生中期末に当たるこの頃、大阪湾沿岸の多くの遺跡が急に消滅し人の気配が消えている。ほぼ時期を同じくして、大阪湾岸に多かった方形周溝墓が関東地方まで一挙に広がっている。これは考古学上でも大阪湾岸に住んでいた人々の大移動があったことを意味しており、伝承上の物部氏の大移動と時期と言い場所と言い完全に重なるのである。
 饒速日尊は大和侵入に関してマレビト作戦を使った。能力の高い男子を大阪湾岸の集落にマレビトとして送り込み、その集落に先進技術を導入し、統一するというものであった。今度は東日本と言う広大な地域の一斉統一である。方形周溝墓の性質から判断して、今度の入植は家族単位の移動と思われる。饒速日尊にマレビトとして送り込まれた人々は、入り込んだ集落の人々に新技術を伝え、国家統一の目的意識を植え付けていった。饒速日尊はそれぞれの集落の人々に東日本各地に赴いてその土地を開発するように指示した。大阪湾岸地域の集落の人々はそれぞれ家族単位で指示された地域に赴いて、土地開発を行い同時に周辺の人々に新技術を伝えていったのである。饒速日尊はその入植した土地を巡回して、細かい指示をして回ったと判断する。
 神奈川県小田原市に中里遺跡がある。縄文人と弥生人が協力して稲作を始めたというものであるが、そこから出たのは瀬戸内(兵庫県東部)の弥生中期末の土器である。この遺跡こそ、まさにこの伝承が正しいことを立証するものではないだろうか。
 この当時、東日本に住んでいた人々は国と言う統一組織もない状態だったので、新規入植者から、土地開拓をはじめとする先進技術を教えてもらい、この入植者(物部氏)が始めた祭祀を行うようになり、自然に日本国に所属するようになったと解釈する。

 饒速日尊は河内平野、大和盆地一帯を統一完了した紀元40年頃、東日本一帯を統一するために、大和を出発した。饒速日尊が大和にマレビトとして入り込んで15年の間に、饒速日尊や他のマレビトたちによって、大阪湾岸一帯に誕生した子供たちも15歳ほどに成長した。スサノオが西日本一帯を統一した時と違い、大阪湾岸一帯の諸国は饒速日尊一族で占められることになった。大変多くの人々の協力が得られたので、饒速日尊自身が東日本一帯を巡回して統一して回るのではなく、大阪湾岸一帯の人々を数多くの小集団(おそらく家族単位)に分け、先進技術を携えて、東日本一帯の各地に送り込み土地開発をさせたものと考える。方形周溝墓の分布から判断して、中部地方・関東地方・南東北地方までの大変広い領域が10年ほどで一斉に統一されていること、饒速日尊の具体的行動伝承が西日本ほど多くないことなどから、このように判断するのである。
 東日本の諸国に派遣された小集団(家族)は、東日本地域の新しい土地にやってきて、湿地帯を中心に、まず、水田開発を始めたことであろう。そこを拠点として、周辺の縄文集落を訪れ、そこに住み人々にもさまざまな技術を伝えていったのであろう。縄文集落の人々も生活が楽になることから、積極的にその技術を受け入れていったものであろう。その協力体制が整っていたのが、神奈川県小田原市の中里遺跡であろう。土地の入植者たちは、周辺の入植者たちと連携を取りながら、その周辺に国を作り始めた。現地の人々はまだ国と云う概念を持たなかったであろうから、国を作るのはさほど難しいことではなかったと思われる。国を作る時に人々の心をまとめるために、祭祀を始めたと思われる。その祭祀法によって方形周溝墓を造り、祭祀は継続されたものと判断する。饒速日尊はこれら入植地を巡回して全体をまとめる役割を果たしたものと思われる。このようにして東日本地域一帯は日本国に所属するようになっていったのである。
 このように考えれば、大阪湾岸一帯の遺跡が消滅すると同時に、東日本一帯に一挙に少しづつ形式の違う方形周溝墓が分布するようになる事実をうまく説明でき、同時に東日本一帯に伝わっている統一伝承も説明できる。
 饒速日尊は紀元40年ごろから55年ごろにかけて、東日本一帯を統一してヒノモト国を拡張したのである。統一完了後、紀元55年ごろ、饒速日尊は大和に帰還した。

具体的な統一過程の解明は東日本地域が広範囲である上に、伝承がばらばらであるために至難を極める。少ない伝承を推理を交えて繋ぎ合わせてみたいと思う。

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