饒速日尊の巡回の役割

 饒速日尊はこのように地方巡回をしているが具体的に何をしていたのであろうか。色々な状況から判断してみたいと思う。

 河内平野の人々を新しい技術者として育成

 マレビトは饒速日尊の天孫降臨の随従者である。天孫降臨準備天孫降臨、に詳細)

 河内地方にマレビトがやってきたのは、饒速日尊の天孫降臨直後のAD25年ごろである。マレビトは河内地方の集落を訪問し、農耕・灌漑などの先進技術、中国大陸から手に入れた木種、鉄製工具などを持ち込んだ。(河内地方統一
 マレビトは、それぞれの集落に入り込み、新技術を使った灌漑、農耕を行い、作物の収量を上げた。さらに、鉄器を持ち込むことで、灌漑工事を効率化し、木種(弥生時代に栽培が始まったと思われる果物)を持ち込み食糧増産を図った。これらにより、集落の生活は劇的に改善した。マレビトは集落の人々から信頼を受け、集落の娘と結婚し、その集落に根付くことになった。

 集落の人々から信頼を受けたマレビトは、自分がマレビトとしてこの地にやってきた目的を話した。
 「私の目的は、この地の人たちに高度な技術を授け、その人々の力を借りて、この日本列島を統一することにある。そのために、皆さんは、技術力を身に付けた後、マレビトとなって東日本地域に行って、その地を開拓してほしい。」

 河内地方の人々は、マレビトの提案に協力することになった。そのため、河内地方の集落から人々が消え、遺跡が一斉に消滅したのである。これは、AD35年ごろと思われる。マレビトが河内地方に侵入してから10年ほどたっていた。この期間は次のマレビトを育てるまでの期間であった。

 新しいマレビトが東海関東地方に進出

 饒速日尊の指示の下、マレビトとしての協力が得られた地域から徐々に東海・関東地方に移住することになった。遺跡が消滅していることから、家族単位での移動ではないかと思われる。一つの集落から、一斉に、一つの地方に移動し、家族単位に分かれて、現地の周辺の集落に入り込んだと思われる。

 個人での集落侵入に比べ、家族単位の侵入は侵入される集落としては抵抗が大きいと思われるが、入り込む家族は極力、その集落のしきたりに従うことにした。

 東日本地域は縄文人の割合が高いので、縄文人に溶け込むことが大きな課題である。そこで動いたのが大山祇命・賀茂健角命ではあるまいか。マレビトが縄文人集落に入植するのに両者が仲立ちをしたものであろう。縄文人は縄文連絡網を持っており、河内地方の状況を知っていたであろうし、飛騨国の王家の人物が仲立ちをすれば、縄文人も協力するようになると思われる。大山祇命・賀茂健角身命はこの時期、東日本地域一帯を巡回して入植者と現地の人々が安心して交われるように努力したと思われる。

 鉄器の確保

 マレビトが入植地で灌漑するには鉄器が欠かせない存在であろう。それまでの石器ではできることに限界があり鉄器の威力は絶大なものがある。東海地方の遺跡からは弥生時代後期になってから鉄器が出土し始める。最も古いとされているのが愛知県の朝日遺跡での袋状鉄斧である。後期初頭(AD30年ごろ)のものと推定されている。東海地方にこの頃、鉄製農器が入り込んでいることは間違いないことである。

 この鉄器を持ち込んだのが、マレビト達であろうし、饒速日尊自身、伊吹山麓で鉄器生産を始めている。東日本地域一帯に鉄器を配布するのが目的であったとも思われる。現地の人々は鉄器の威力には驚いたことであろう。それにより、灌漑が推し進められたことであろう。

 饒速日尊の巡回

 マレビトが東日本一帯に入植してから数年がたったAD38年ごろ、饒速日尊が技術者集団を率いて、東海・関東地方を巡回している。この巡回は何を目的として、何をやったのであろうか。

 饒速日尊が巡回したのは、入植者が現地の人々と協力し合って灌漑がある程度できたころではあるまいか。農作物もそれなりに増産し、成果が出始めたころと思われる。

 この次の段階として重要なのは入植者・集落同士の連携体制となる。それぞれの入植者がばらばらで工作を行っていたのであれば、周辺の集落との争いごとが起こったり、災害が起こった時の協力体制なども大切なものと考えられる。そのための連携体制の構築が必要であろう。これが、饒速日尊の役割であったと思われる。

 饒速日尊の連携策の具体的方法

 饒速日尊はある地域を訪問すると、ばらばらに実行されていた灌漑工事を、その地域全体から統率された灌漑工事に変え、その地域の中心地となる場所に人々が集まれる社を作った。そして、その地で市を開き、地域での集会が行えるようにし、饒速日尊はその社の奥に、人々が崇拝できるようなものを安置し、人々の心が一つになれるようにした。これが、後の神社の元になるものであろう。

 ここで、人々が崇拝できるようなものとは何かを考えてみた。長期にわたって崇拝対象になるものでなければならないので、すぐに朽ち果てるようなものでは該当せず。意味のあるものでなければならない。そこで、候補に挙がったのが漢式4期の後漢鏡である。漢式鏡は3期までは前漢鏡で、4期から後漢鏡となる。AD20年ごろ以降、AD100年ごろまでが大体漢式4期の時代である。漢式3期までは、北九州の特定墳墓より集中出土するが、漢式4期からは全国分布しているのである。しかも、4世紀以降の古墳に副葬されていることが多く、製造時期と大きくずれている。これは、それまでの期間どこかで大切に保管されてきたことを意味している。

 入植者にとって、縄文人との連携は非常に大切なことであった。人種が異なれば何かあれば対立のもととなるのである。縄文人と渡来人(弥生人)が心を一つにするにはどちらかの都合の良いものであってはならない。特定の人物を崇拝するのはこれに合わないであろう。縄文人は太陽を崇拝する習慣があった。その太陽光を反射する性質の鏡は縄文人には神秘的に映り、鏡を崇拝対象にすることに抵抗はないであろう。

 饒速日尊は各地域を回り、その中心と思える場所に社を作り、人々に漢式4期の鏡を配布したものであろう。人々はその鏡を社に祭り、崇拝を始めた。その社の前に人々が集まり、市を開いたり、会議を開いたりして、国としての体制が形成されていったと考えられる。

 国としての面積はどの程度のものであろうか、集まるときにすぐに集まれる距離でなければならず、その位置まで1時間ぐらいで移動できる距離が妥当かと思われ、最も離れたところで、5kmぐらいが限度と考える。そうすると、一つの国の面積は大体100km2となる。平野でなければならず、平野面積は大体北海道を除けば65000km2ほどとされている。単純計算で650ほどの国があったことになる。ヒノモトで考えるとその半分の300前後があったのではないかと考えられる。饒速日尊はそれだけの数の後漢鏡を手に入れればよいわけであり、不可能なほどの数ではない。饒速日尊は東日本一帯を巡回しながらこの組織を作っていったのではあるまいか。そして、その組織は自動的に饒速日尊が崇拝対象となり、ヒノモトに自然に加盟することになるのである。

 時代がたつにつれ近くの国同士が一体化してきて合併し、それぞれの旧国名となる国を形成していったのではあるまいか。

 中心地域から離れた地域の人々は、中心となる社から何かを譲り受けて、自らの集落に社を作りそれを祭るということも始めたであろう。あるいは、その地にゆかりの人物を祭ったりしたこともあると思われる。これが、後の神社という存在になったと推定する。

 今でも神社では祭りが行われ、人々の集会がよく行われている。神社の由緒というものはその土地の人々にとって心のよりどころとなるものであり、昔から大切にされてきたと思われ、これが、現在神社伝承として残っていると考えている。そのため、神社伝承はかなり真実の部分を含んでいるのではないかと考えている。

 大国主命の神名

 大国主命という名は固有名詞ではなく、普通名詞ではないかと思う。大国=大きな国=倭国・ヒノモトを意味し、その主=国王となれば、倭国王・ヒノモト国王を大国主命と呼ぶことになる。

 その結果、饒速日尊=初代ヒノモト国王=大国主命、大己貴命=第二代倭国王=大国主命となる。古代史の復元では大物主命=饒速日尊としているが、一般的には大物主命=大国主命である。どちらも間違いではないことになる。東日本地域では大国主命が国土開拓をしていると伝わっている例が多いが、これも饒速日尊=大国主命となるのである。ただ、伝承上に混乱が起こっており、大国主命が大己貴命でもあるので、東日本地域で大己貴命が国土開発をしたと伝わっているところもあることになる。

 饒速日尊=大国主命ではあるが、饒速日尊が後の時代に抹殺されることになったので、大己貴命=大国主命のみが残ることになったと考える。

 

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