北九州統一

 瀬戸内海沿岸地方を統一した素盞嗚尊は、しばらく後、北九州地方を統一した。

北九州統一関連地図

 誰が北九州を統一したのか 

 考古学的変化

 北九州地方は弥生中期末に当たるこの時期、日本列島の最先端地域である。日本列島内の他の地域から侵入した一団が、 この北九州地域を統一するのは不可能と思えるが、どのようにして統一したのであろうか。他地域から侵入した一団によって統一されているということを弥生時代中期末の考古学的変化から探ってみようと思う。

銅矛・銅戈の祭器化

 それまで北九州地方でステイタスシンボルであった銅矛・銅戈が祭器化し,墓の副葬品であったものが埋納されるようになった。瀬戸内海沿岸地方で始まった中細型銅剣祭祀と, 北九州地方で盛んになる中広型銅矛祭祀は,埋納形態から推察して,同系統のものと考えられている。宝器であった細型銅剣が,瀬戸内海地方で祭器としての中細銅剣に変わり, 再び北九州地方に流れたものと考えられる。
 ところが,北九州地方は,銅矛・銅戈は祭祀がおこなわれるようになったが,銅剣は廃れている。銅矛・銅戈の需要が高まったために銅剣は廃れてしまったと考える。

祭器化の流れ

 銅矛も中期までは,細型銅矛が北九州地方で宝器として扱われていたが,中期末頃,中細銅矛が瀬戸内地方と北九州地方に出現する。瀬戸内系の銅剣と同じように埋納されていることから, 瀬戸内海沿岸地方からの流れと推定される。その後,中広型銅矛に変わった。この銅矛は分布範囲が最も広い。しかし,この銅矛祭祀は北九州の周辺部で著しく, 中心部(唐津・糸島・博多地方)では盛んでない。これは,中心部では外部勢力に対する抵抗感があったためと推定されている。後に,広型銅矛に変わるが,その分布範囲は少しせばまって, 南四国地方と北九州地方である。

 青銅器がステイタスシンボルであった時代は,青銅器が特定の地域に集中して,そこから周辺に広がる様子はほとんど見えないが,祭器化した後の分布領域は急激に広がっている。 有力豪族が外国との交易で手に入れた青銅器を権力の象徴として,周りの人々を従える手段としていたため広がらなかったと解釈され,王が権力の元で君臨していたことが伺われる。 しかし,埋納祭器の方は,急激に広い分布をし,しかも,中心域を避けて周辺地域で広がっている。中心域の王が勢力を伸ばしたのなら,中心地域に祭祀が盛んであるはずである。 これらの地域が外部勢力によって宗教的に統一されたためとしか考えられない。

 このことについて岩永省三氏は、「中細型青銅器の祭器化は北九州周辺地域で始まったとされ、その根元は中国、四国地域から流入した可能性を考えられている。そして、 その中心部で祭器化が遅れるのは、前期末以来の首長層の青銅器に対する執着が、その阻止要因として働いたため。」とされている。まさに、そのとおりである。

漢鏡の分布範囲

 この頃の漢鏡は,伝世されることなく墓に副葬されていることから,宝器であったようである。それまで,北九州の博多湾沿岸地方の一部有力者が独占していた漢鏡が, 北九州の広い範囲に分布するようになった。北九州内の交流が盛んになったことがうかがわれ,北九州地方が統一されたことを意味している。

小型国産鏡の分布

 鏡の国産はこの時期に始まったと考えられているが,その分布範囲が九州地方と瀬戸内沿岸地方である。九州地方と瀬戸内沿岸地方に激しい交流があったことを裏付けていて, 九州地方と瀬戸内沿岸地方が一つの文化圏になったことがうかがわれる。

鉄製武器の変化

鉄剣を除き,鉄矛・鉄戈・鉄鏃などの鉄製武器が激減する。しかし,鉄剣のみはその傾向が見られない。この当時,大陸では鉄剣よりも,武器として優れている鉄刀の方が主力武器になっているのにも 関わらず,鉄剣の生産は継続されている。しかも実戦に向かない短剣が多い。鉄剣はステイタスシンボルとなったと考えられ,このことは,混乱の時代から安定の時代に変わった事を意味し, 北九州内の交流が盛んになったことと会わせて,統一国家ができたことをうかがわせる。

甕棺墓の激減 

 甕棺墓は,北九州の中心地域で後期初頭には衰退し,その周辺部でも後期中葉になって衰退している。佐賀県で中期後葉に甕棺墓からの鏡の出土が少なく, 後期初頭になって増加する。これは中期には鏡自体が回ってこなかったが中期末の北九州統一により回ってくるようになったと考えられる。

その他の特徴をまとめてみると,

甕棺墓は中期中頃から後半にかけて多く存在しているが,後期前半を最後に北九州地方の多くの地域で消滅する。
甕棺墓自体は古墳時代初め頃まで作られているが,単発的に作られ,集団墓地としては存在しなくなる。
中期後半頃の王墓と見られる墓はすべて甕棺墓である。このことは,甕棺墓がそれ以前の高い割合で人々を埋葬したものから, 特定権力者の墓制に集約していったものであることを示している。
後期前半の井原遺跡と桜馬場遺跡が甕棺王墓の最後といわれている。
甕棺墓から土壙墓・石棺墓に変化しているが,埋葬の仕方は甕棺時代とよく似ていて,共同墓地に双方が共存しているところもあるので,同一集団の墓制が変化していったことがうかがわれる。
甕棺墓と土壙墓が共存する地域で,副葬品を比較すると,甕棺墓に乏しいのに対して,土壙墓に多い
中期末までは多かった鉄剣を副葬する甕棺墓は,今の所,後期になると皆無である。

 甕棺墓の減少の原因については,甕棺が作れなくなったからだといわれているが,それならば,一般の人々の墓制が変化しても王墓は残るはずで, さらに,副葬品が少なくなるということは考えられない。墓制は簡単には変化しないはずであるから,外部からの何者かの侵入以外には考えられない。 墓制が急激に変化するというのは,権力者が強制的に行ったためか,宗教の力で変化させるかであるが,祭祀が盛んになっていることから判断して明らかに後者である。 外部から侵入した宗教によって変化したものと考えられる。

 北九州地方に畿内系の方形周溝墓や畿内系土器が出土するようになるのは,後期中頃以降であるから,畿内勢力の侵入というのは時期がずれる。 甕棺の衰退は,後期初頭あたりから始まっているのである。どうやら,2段階の侵入があったようである。

 甕棺墓が激減し,箱式石棺墓や土壙墓が多くなる。箱式石棺墓は,石の材質や形式から判断して,瀬戸内沿岸地方から入ってきたものと判断される。

王墓の激減

 中期には多かった王墓と考えられる墓が激減している。副葬品が多く,特定の墳墓に集中していることから,これらの王墓はいずれも権力君臨型である。副葬品が伝世されている形跡もなく, 被葬者が手にいれたものをそのまま副葬しているようである。被葬者は自らの持つ交易ルートを使って,外国から手に入れた宝物を,独占し,他に与えることはなかったようである。

 ところが,後期初頭になってからは,井原鑓溝と桜馬場遺跡のみ確認されている。権力君臨型の王は,周りの王を武力で従え,それらの中で最強と考えられるものが最後まで残り, 統一王朝を造ることになるはずである。しかし,中葉になると全国の権力君臨型と考えられる王墓がことごとく姿を消している。武力統一するのであれば, 権力君臨型の王墓が消えることは考えられないのである。それと入れ替わるようにして広まるのが,方形周溝墓や四隅突出型墳丘墓である。これらの墳墓は, 祭祀系土器が多いが副葬品は少ない。そして,複数の埋葬施設がある。これは被葬者が宗教上の王であり,被葬者個人を祭祀しているのではなく,共通の神を祭祀していることを意味している。 墳墓は墓であると同時に斎場でもあった。この形式の墳墓が広まることは,これらの地域が宗教的に統一されたことを意味している。

副葬品の変化

 北九州中心部では,特定個人墓を除き,甕棺墓からの副葬品が少なくなっているが,その他の墓からの副葬品は増えてきている。墓は違っても,集団墓の中に甕棺墓とそれ以外が混在 するようになり,甕棺墓以外の埋葬形態に,甕棺墓と似た埋葬がなされていることから,墓制が変化したものと考えられる。そして,その変化は,王墓を残してその周辺から変化が起こっている。 甕棺墓の激減の理由として,甕棺を作ることができなくなったというのがあるが,これでは,甕棺墓の副葬品がその他の墳墓に比べて少なくなったことを説明できない。外部からの侵入があって, 墓制に変化が起こったものと考えられる。

 後期初頭になると,北九州中心域の甕棺墓に鏡の副葬は激減するが,周辺地域の甕棺墓には鏡の副葬が増加する。北九州中心域の鏡は一つの墳墓から多量に出土する傾向があるが, 周辺の墳墓からは少しずつ出土する。周辺の墳墓の被葬者は自ら集めたのではなく,何者かによって配布されるようになったと考えるべきである。

銅矛の出土地

 銅矛が集中出土しているのは,対馬と宇佐地方,それに有明海沿岸地方である。対馬は最初に統一し,朝鮮半島との交流の拠点としたところで,宇佐地方は九州地方統一の拠点としたところで, 有明海沿岸地方は,西九州統一の拠点である。いずれも,素盞嗚尊が長期間滞在した伝承のある地方で素盞嗚尊を祭る神社の割合が異常に高い地域である。

宗像近辺の異常性

 この祭祀系銅鉾の出現地域に穴がある。それは、伊都国を中心とする地域と、宗像を中心とする地域である。 伊都国を中心とする地域は王墓が存在しており、中国鏡が集中出土する傾向にあるが、 楽浪系や三韓系の土器、中国銭貨は出土しない。周辺地域は楽浪系や三韓系の土器、中国銭貨も祭器系銅鉾も出土している。これに対して宗像地方は 楽浪系や三韓系の土器、中国銭貨は出土するが、中国鏡は全く出土しない。そして、瀬戸内・山陰系遺物が出土するのである。 これは、宗像地方は北九州の中でも早くから、瀬戸内系の勢力圏に入っていたことを意味している。

瀬戸内系土器の流入

 弥生中期末から後期初頭にかけて,北九州の西北部沿岸地方で,瀬戸内系の土器が増加している。それに反し,北九州系の土器はこの時期を境に,分布範囲の縮小化の傾向がある。北九州を初め, その周辺地域での北九州系土器は,瀬戸内系土器に圧倒されている。瀬戸内沿岸地域に北九州系土器が増加したということはないので,相互交流ということは考えられない。北九州勢力は外部勢力を 受け入れたため,衰退したと考える。

 須玖坂本遺跡で後期初頭の分銅型土製品が出土しているが、これはその形式から、愛媛県北部に出土するものと同じことがわかった。素盞嗚尊が愛媛県北部の芸予諸島から、 九州にやってきているという伝承とぴたり符合する。

 北九州から出土する瀬戸内系土器は高坏が主流を占めている。これは瀬戸内系の祭祀を受け入れたという事を意味し,北九州が瀬戸内勢力によって宗教的に支配されたと考えてよいのでは あるまいか。 

 考古学的変化の解釈

 外来系土器の侵入・墓制の変化・外来の祭祀の受け入れなどの変化は,自然に起こったものとは考えられない。また,在地系土器の衰退・甕棺墓の衰退・北九州勢力の外部地域に与える 影響の衰退等と併せて考えると,外部勢力との交流によって起こったというのも成り立たない。外部から何者かが侵入してきて,その外部勢力によってもたらされた変化としか考えられない。

 そして,鉄製武器の減少・漢鏡の広域分布化等から,北九州地方が安定化し,北九州の交流が急激に盛んになったということが判断される。北九州地方が統一されていない状態では、 鏡などは特定の地域に集中すると考えられるので、これは、北九州地方が統一されたことを意味している。以上の二点を総合して考えると,弥生中期末に外部から侵入者があり, その一団によって北九州地方が統一されたということになる。

 その外部勢力はどこからやってきたものだろうか。瀬戸内系の異形銅剣が見つかっていること,瀬戸内系と考えられる箱式石棺墓が増えてきていること, 青銅器の埋納祭祀が始まっていること,瀬戸内系の土器が増加していることから判断して,瀬戸内海沿岸地方からの侵入としか考えられない。

 瀬戸内勢力はどのような形で北九州地方に侵入したのだろうか。武力侵攻をした場合、制圧した地域を押さえ込むのに防備をかねた城を築き、力による政治を行うはずである。 制圧された人々は、反抗を企てるはずであり、戦闘を意味する遺物が多く出土しなければおかしい。また、高度な文化を持っている北九州の豪族が簡単に瀬戸内勢力に破れるとも思えない。 また、この時期以降、防衛のためと思われる環豪集落や鉄製武器は衰退している。これらのことは、瀬戸内勢力は武力侵入をしたのではないことを意味している。

 変化が、北九州の周辺部から起こっていること、祭祀が盛んになっていること、実践的武器の出土が減少していること、戦闘遺跡と思われるものがないこと等から、平和裡の侵入 と考えられる。瀬戸内地方が銅剣埋納祭祀であるのに対して、北九州地方は銅矛銅戈埋納祭祀である。埋納形式が瀬戸内地方とよく似ていることから、この形態は瀬戸内地方からの侵入と考えられる。 しかし、それまで、北九州地方での出土率の高い銅剣は衰退していることから、瀬戸内系の祭祀が直接侵入したのではなく、瀬戸内系の何かが侵入し、その影響を受けて北九州地方に新しい 別の祭祀が始まったと考えた方が良さそうである。それは銅矛銅戈をシンボルとするものと考えられる。

北九州の弥生時代中期末の考古学的変化は瀬戸内海沿岸地方からの一団による宗教的侵入によって引き起こされたと考えてよいことになる。

 伝承との照合

 北九州統一団を率いたのは素盞嗚尊

 九州地方はその昔筑紫と呼ばれていた。「筑紫」という国名の原点は現在の筑紫野市筑紫である。ここが古代九州の中心と考えてよいであろう。すぐそばにある神社が筑紫神社である。筑紫神社は福岡県筑紫野市大字原田2550番地に所在している筑紫の国魂を祀る神社で式内名神大社のひとつで、主祭神は白日別神・五十猛命である。古事記にも「筑紫の国は白日別と謂う」とあり、筑紫の国魂と言われている白日別神が九州地方を統一した人物と考えられる。この白日別神とは誰であろうか。

 島根県大田市に五十猛神社がある。この神社に伝わる伝承では、
祭神は素盞嗚尊の御子神・五十猛命。父神とともに新羅へ天降り、新羅より埴舟に乗って我国へ帰り来たった神。その帰路、磯竹村(現五十猛町)の内大浦の灘にある神島に舟上がり、父神・素盞嗚尊は大浦港(韓神新羅神社)に、五十猛命・抓津姫神・大屋姫神の兄妹神らは今の宮山(当社)に鎮まり給うたという。
 このことから五十猛命と行動を共にしていた人物は素盞嗚尊であることがわかる。古事記にもこのことは記録されており白日別神は素盞嗚尊のことらしい。
さらに裏付けをとってみよう。

佐賀県有明町稲佐神社社記
祭神...天神、五十猛命、大屋津姫命
天神は、その昔草木言語の時にこの地にやってきて国を創造された大神、稲佐大明神のことで、彼が着岸したところを、焼き天神といい、北御所に今も小祠あり、 御園天神と呼ばれている。また五十猛命は韓国より帰国されたとき、ここ稲佐山麓八艘帆ヶ崎に着岸され、全山に植林し、農耕開拓の道を教えられた。よって住民は、その神徳をたたえて、 天神の社に五十猛命と妹の大屋津姫を合祀し、三所大明神として崇敬した。

 天神と共に祭られている人物が共に素盞嗚尊の子であることと、素盞嗚尊は彼らと共に朝鮮半島に渡っていること、周辺に素盞嗚尊を祭った神社が多いことから、 天神とは素盞嗚尊のことと思われる。

清地神社 行橋市大字天生田字宮浦1314 
日本で木々を植えようとした素盞嗚尊と御子の五十猛命がこの国を経由した時に豊日別命が出迎えて接待した。

この伝承もその事実を裏付けている。五十猛命=白日別という説もあるが、雲仙の温泉神社では白日別命は伊邪那岐の子であると伝えられており、明らかに五十猛命とは別人である。五十猛命は別の誰かと共に北九州を回っており、その人物は素盞嗚尊となる。白日別命=天神=素盞嗚尊であり、後の世に九州の素盞嗚尊関連伝承は抹殺されたのであろう。北九州統一主導者は素盞嗚尊とみて間違いないであろう。

記紀神話における統一者

  記紀神話に於いては日本列島を統一したのは伊邪那岐命・伊邪那美命となっているが、神社伝承と照合すると、何か異なるようである。この国生み伝承から確認してみよう。 二神が最初に産んだ島がオノコロ島である。次のような伝承である。
伊邪那岐・伊邪那美の二神が天の浮橋に立って天の沼矛を,海に刺して引き揚げたところ,その矛の先から滴り落ちた塩が積もって島となった。
このオノコロ島に比定されている島は、淡路島南東沖に浮かぶ沼島と言われている。次に生れたのが淡路島、伊予二名島(四国)、筑紫島・・・。 この順番から考えるとその起点は大和のようである。また、伊邪那岐命・伊邪那美命が国土を統一したという具体的事象を示す神社伝承は見つからない。

 大国主命にも統一伝承がある。日本書紀の葦原中国平定の条に「そして,大己貴のひろほこ神はかつて国を平定したときに杖とされた広矛を二柱の神に授けていわれた。
「私は,この矛でもってこの国を平らげるという功業を成し遂げました。天孫が,もし,この矛で国を治められれば,必ず無事に治めることができましょう。」

八千矛神は古事記・日本書紀では大国主命の別称と記録されているが,「消された覇王」によると,素盞嗚尊の別名が八千矛神(多くの矛を持った神の意)である。諏訪の八剣神社を始め方々の神社に 素盞嗚尊の別称であると記されている。

 矛の活用 

 北九州地方を実際に統一したのは、素盞嗚尊のようであるが、どのようにして統一したのであろうか。そのカギとなるのが「矛」である。伊邪那岐命・ 伊邪那美命は天の沼矛。大国主命は広矛を杖ととして国を統一したと記述している。この記述は、この頃銅鉾が北九州を中心に祭器化し巨大化していることと関連しているとみてよい。 素盞嗚尊は矛をどのように使って統一したのであろうか。

 北九州の玄界灘沿岸地方には有力豪族がひしめいており,権力を振るっていたと考えられる。伝承によると、このような状況にある北九州地方を素盞嗚尊が統一しているのである。 彼らは簡単に倭国に加入するとは思えない。彼はどのようにして倭国に加入させたのであろうか。

 銅矛埋納祭祀などのように、北九州地方に侵入した結果生じた変化と思われるものは、玄界灘沿岸地方の北九州中心域と思われる地域以外で起こっていることから、素盞嗚尊はまず周辺国家に 手をのばしたと考えられる。周辺国家を倭国に加入させ、中心域の有力豪族を孤立させて、北九州地方を統一したものと判断される。

 それでは、どのようにすれば、周辺地域を倭国に加入させることができるであろうか。素盞嗚尊が瀬戸内地方を統一したときは青銅器の神秘性を見せてそれを魔除けとして広めたが、 北九州地方の人々は青銅器を見たことがあり、その手は通用しなかったようである。彼らが最も欲しているものを与えるのを交換条件にして加入させるのがベストであろう。 彼らが最も欲しているのは、中期末という時代から考えて、食糧の安定供給と、治安ではないかと考えられる。周辺の小国家は有力豪族との力関係により,強制労働や搾取など、 かなりいじめられていたと考えられるのである。武器の出土率が高いのはこれを裏付けている。

 素盞嗚尊が治安と食糧を交換条件にして倭国に加入させるには、何か倭国加入のシンボルとなるものが必要となってくる。これが中広銅矛ではないかと考える。 銅剣は掲げるタイプのものではないので瀬戸内地方で使った銅剣ではなく、大き目の銅矛を高く掲げてシンボルとしたのではないだろうか。素盞嗚尊は周辺の小国家に中広銅矛をシンボルとして訪れ,「 この銅矛を小国家の入口において起きなさい。そうすれば,倭国に加入した証となり,倭国は小国家の安全と食糧の安定供給を保証しよう。」などと言ったのではなかろうか。 当時の北九州の人々にも瀬戸内地方を統一した倭国のことは知れ渡っていたであろうから、倭国の援護を受けて、有力豪族の横暴に対抗しようとしたと考えられる。

生活上の不安解消

 当時には現在のような警察権力はなく、有力豪族の横暴があると同時に夜盗集団のようなものもいたと思われる。このような賊が小国家を襲おうとしても,そこに銅矛がおいてあったら, 倭国に加入している証であるから,この小国家を襲うと倭国が総力を挙げて反撃をしてくることになる。銅矛のおいてある国を襲うことは,倭国に宣戦布告するようなもので,とうてい勝ち目はない。 素盞嗚尊は,初期の段階において,倭国に加入した国を襲った一族を徹底的に叩き潰して,倭国に加入している国々を安心させ,同時に非加入国からは倭国が恐れられるようにしたものと考える。 素盞嗚尊が全国で武神・守護神として祭られているのも,このようなことからと推定する。このようにして,小国家の安全は確保され, このことが,次々に加入する国を増やす結果になったと考える。

 そして,人々が旅をするときも,中広銅矛をシンボルとして掲げていれば,倭国に加入している勢力であるということになり,旅の安全は確保されるのである。見知らぬ者が,訪問してきても, 中広銅矛をシンボルとしていれば,安心して交流することができ,小国家間の交流は活発なものとなり,中広銅矛は広い範囲に広まることになる。このようにして, 倭国に加入する国どおしでの交流が活発になり,それまで,特定の王に集中していた宝物が,多くの人々に行き渡るようになったと考える。

交易ルートの確保

 素盞嗚尊は対馬を統一して,外国との交易ルートを確保しているため,倭国に加入している小国家に鏡等の宝器を配布したり,外国の先進技術などを伝えることができたものと考える。 さらには不作で作物がとれなかった時でも他の地域から回すことができ,また素盞嗚尊の広めた新農法により作物の生産量は飛躍的にのび,小国家の生活は潤い, 今までいじめていた有力豪族も手を出せなくなり,人々の不安は大幅に解消するのである。

小国家の加入

 このようなことが周辺に知れ渡ると,周辺の小国家は生活上の不安を解消するため,我先にと加入を申し出たのではないかと想像する。素盞嗚尊は,北九州の要所要所に役所をもうけ, 瀬戸内勢力の協力の下,加入した国々の治安維持や,食糧の安定供給,新技術の伝達などを行ったのではあるまいか。しかし、瀬戸内系土器の量が少ないことから考えて、その直接の運営は、 地元の人々だったのではないかと考えられる。

有力豪族の消滅

 北九州の有力豪族は,初めは抵抗を試みたが,周りの小国家がことごとく倭国に加入するようになってしまえば,外国交易ルートもたたれ,小国家から搾取することもできなくなり, 孤立してしまい,小国家が次第に豊かになるのを見て,彼らも倭国に加入せざるを得ないようになってくる。加入してしまうと,その豪族は権力を振るえなくなる。このようにして, 北九州地域から王墓が消えていったと考える。

銅戈について

銅戈については,饒速日尊のシンボルである鋸歯文を持つものがあること,熊本県北部や,宮崎県北部など素盞嗚尊よりも大歳命の行動の形跡を伝える神社の多い地域に銅矛よりも多く 見られることなどから,素盞嗚尊と行動を共にした饒速日尊(当時は大歳と呼んでいた)のシンボルであったのではないかと推定している。

饒速日尊は素盞嗚尊の死後、九州地方同様に銅戈をシンボルとして近畿地方統一に乗り出している。そのため、近畿地方から銅戈(大阪湾型銅戈)が出土することになるのである。

銅矛をシンボルとした理由

 次に素盞嗚尊が瀬戸内海沿岸地方を統一したのと統一の手法が違う理由を考えてみることにする。瀬戸内海沿岸地方は,有力豪族がほとんどいなかったと思われ, 青銅器を見たこともないという人々がほとんどであったと思われるので、その輝きの神秘性を利用して、統一の必要性を訴え,人々の団結心を強化するために銅剣祭祀をしたが, 北九州地方は有力豪族がひしめいている上に、青銅器は見慣れている人々が多いと思われるので、銅剣祭祀で倭国に加入させることができなかったものと判断する。 有力豪族は自らの生活の豊かさから倭国には参加しないのである。有力豪族がいるということは,その豪族たちに虐げられている人々がいることを意味し,彼らを取り込むために, 中広銅矛を倭国のシンボルとして利用することを考えついたのではあるまいか。シンボルとして使うためには,長い年月が経っても変化しない青銅器が最良である。しかし、 個人が手で持つタイプの銅剣では不都合で,棒に取り付けて高く掲げるタイプの銅矛や銅戈の方が都合がよかったためと考えられる。そのため、シンボルらしく、次第に巨大化するのである。

 紀元10年頃,素盞嗚尊は,大歳命や瀬戸内勢力を率いて,大分県の宇佐地方を統一し,そこを起点として北九州の統一に乗り出した。中期末頃より, 福岡県東部から大分県にかけて瀬戸内系土器が多く出土するようになっている。また,大分県地方は素盞嗚尊や大歳命を祭る神社の割合が全国一高く, この二人が相当長期間に渡ってこのあたりにいたものと考えられる。その神社の中心に位置するのが宇佐神宮である。

 宇佐神宮は全国の八幡神社の総本社で八幡大神を祭っている。周辺の神社がほとんど素盞嗚尊や大歳命を祭っているのにその中心にある神社が別の人物を祭っているのはどうも解せない。 八幡大神は素盞嗚尊のことであると考えられる。宇佐の地は瀬戸内から九州への足がかりとなりうる地であり,素盞嗚尊一族はこの地を拠点にして北九州地方を統一したものと考えられる。

統一直前の北九州地方の実態と統一方法

 BC2世紀小国家乱立状態にあり,小国家同士の争いが起こっており,戦乱状態であった。縄文時代には縄文連絡網でまとまっていたが,中国大陸からの流入者が増えてきて,それらの人々が縄文連絡網に関係なく小国家を作った。縄文連絡網による統率が全く効かなくなり,北九州一帯は,戦乱状態になっていたのである。 

 北九州の戦乱

 BC473年中国で呉国が滅亡し最後の王「夫差」の子「忌」が、現在の熊本県菊池地方に上陸し周辺に勢力を拡大していた。この国が球磨国(熊曾)である。次にBC209年、秦徐福が佐賀平野に上陸し、国を作った(吉野ヶ里遺跡・仮称吉野国)。徐福自身は東に移動したが、残った人々が周辺に広がっていった。他に中国の戦乱を逃れたボートピープルが九州西北部海岸沿いに上陸し、小集団同士で小国家を建設していた。これが、弥生中期の初めごろ(BC200年頃)である。

 九州西北部沿岸地方にできていた小国家群は互いに相争うようになり、周辺小国家を従えるようになった。その中で最初に大規模な階級国家を作ったのが早良国(仮称・中心遺跡=吉武高木遺跡)である。BC100年頃より現春日市一帯を中心とする奴国、前原市を中心とする伊都国が勢力を伸ばしてきた。ともに早良国に勝るようになり、伊都国が併合したと思われる。

 飛騨国の方も,この状態を憂い,何とかしなければと思い,BC50年ごろから天押日命(大伴氏),天津久米命(久米氏),天背尾命(忌部氏),天狭知命(紀氏)等の後の豪族の祖となる人物が飛騨から降臨し,小国家群と婚姻関係を結ぶことにより北九州をまとめることに苦心していた。そして,BC10年頃飛騨国王ヒルメムチの夫である高皇産霊神(高天原建彦)が高良山周辺に降臨(高皇産霊神降臨)した。

 吉野国の方も周辺に勢力を伸ばし小郡市三国が丘周辺まで勢力を拡大していった。吉野国の中国での前身は徐国でこの国は球磨国の前身である呉国に滅ぼされている。その関係で吉野国と球磨国は元来敵どうしであった。北九州の遺物は熊本県北部でほとんど止まっており、南の球磨国とはほとんど交流がない状態でいがみ合っていたと想像する。北九州奴国を中心とする奴国連合の領域の遺物もあまり佐賀平野に及んでいない。奴国連合と吉野国も敵対関係にあったのであろう。奴国連合は南に進出する兆しを見せていた。

 高皇産霊尊は平和統一を模索していたが、周辺勢力が武力統一を目的として行動しており、平和統一は夢物語にすぎない状況となりつつあった。奴国連合と吉野国は筑紫野市近辺で激突した。北九州の弥生遺跡から戦死した人物のものと思われる墓が発掘されるが、それが、最も集中しているのが筑紫野市近辺である。奴国連合と吉野国との間で激しい戦いが繰り広げられたものであろう。戦いをする中で、各小国家に階級が生まれ、王墓が誕生してきたのである。吉野国・奴国連合の領域には王墓が見つかっているのもこれを裏付けている。 

 このような時に素盞嗚尊が北九州にやってきたのである。

 長崎県地方の状況

 長崎県地方には五十猛命関連伝承地が多い。これを検証してみよう。

国津意加美神社 壱岐市郷ノ浦町本村触133 神代に素盞嗚尊、韓国を巡り給ひて御帰朝の際、我が壱岐国郷之浦江上着岸ましまして後に宮殿を建てた。
曽根崎神社 対馬市上対馬町唐舟志字在所381番地 素盞鳴命御子五十猛命を従へ韓土へ往き給ひけるとき、御舟を寄せ玉ふ旧跡なれば神祠を建てて之を祭るあり(対馬神社誌)
曽根崎神社 対馬市上対馬町五根緒字平山188番地 五十猛命は素盞男命の御子なり。其神跡なれば之を祀る
那須加美乃金子神社 対馬市上対馬町小鹿字大浜520番地 素盞男尊五十猛命を率い八十木種を持って韓地曾尺茂利の所に行き、其の種を植えさせ玉ひ、帰朝の時比山に八十木種を植え玉ふより繁茂し、人の入ることを深く禁ずる處にして、実に神霊の地なり
岩立神社 対馬市上対馬町河内字藤内ケ内43番地 往昔、素盞嗚尊が韓土より帰り玉ふ時、此の浦に御船を寄せ玉ひしと云ふ
壱岐島 素盞嗚尊・五十猛命が半島と往復した際、立ち寄った島
島原 その昔、五十猛島と呼ばれていた。島原の鎮守の神は五十猛命である。
稲佐神社 杵島郡有明町大字辺田2925 天神は、その昔草木言語の時にこの地にやってきて国を創造された大神、稲佐大明神のことで、彼が着岸したところを、焼き天神といい、北御所に今も小祠あり、 御園天神と呼ばれている。また五十猛命は韓国より帰国されたとき、ここ稲佐山麓八艘帆ヶ崎に着岸され、全山に植林し、農耕開拓の道を教えられた。よって住民は、その神徳をたたえて、 天神の社に五十猛命と妹の大屋津姫を合祀し、三所大明神として崇敬した。
妻山神社 杵島郡白石町大字馬洗(もうらい)2490 五十猛命がカラ国から樹木の種を持って来て杵島山に播種し、杉、樟などの発芽を見てから紀伊の熊野に行った。 やがて全山が緑に覆われて木の島と呼ぶようになった。そこで五十猛命の徳を称えるため神社を創建し妹の抓津姫命を合祀した。
荒穂神社 佐賀県三養基郡基山町大字宮浦2050 基山の伝承
「五十猛がある日、基山の「霊霊石」に腰をおろして四方を眺めていた。すると小川で一人のきれいな娘が洗濯しているのが目にとまった。そこでさっそく結婚することになり、山の西にそびえる山の頂で夫婦の契りを結んだ。そのために人々は、その山のことを「契り山」と言うようになった」
基山は五十猛命を祀る霊山であると伝えられている。五十猛命は筑紫、出雲、紀伊の順番でと植林をしていった。
荒穂の神と高良の神とが投げ合った石がある。

 肥前国の神社伝承をまとめてみると、この国を統一したのは五十猛命であることが分かる。五十猛命は素盞嗚尊とともに朝鮮半島から、対馬・壱岐と滞在し、壱岐から松浦→佐世保→大村→島原→杵島→基山と行動しているようである。稲佐神社の伝承より素盞嗚尊と合流したのは杵島であることが推定される。瀬戸内海沿岸地方には五十猛命の活躍伝承が見られないために、素盞嗚尊が瀬戸内海沿岸地方を統一しているときに、この肥前国を統一したのではないかと思われる。五十猛命が肥前国を統一したのは紀元前後からで、AD5年頃、杵島に宮を作っていたと思われる。

 豊国・遠賀川・宗像地域の状況

 この頃、戦乱のあったと思われる伊都国・奴国・筑後川流域地方以外では王墓らしきものが見つかっていない。遠賀川流域、豊国領域には王墓がなく、階級ができていなかったようである。これは、この地域の人々は戦乱がなく安定した生活を営んでいたものと推察される。これらの戦いをきらい、この地域から逃れた人々が若干遠賀川流域に進出していたと思われる。飯塚市の立岩遺跡の人々は高良国から別れた人々のようである。

 北九州の宗像近辺は遺物の出土状況が周辺とまったく異なるのである。中期末に当たるこの頃、宗像地域には王墓は存在せず、他地域からよく出土する祭祀系銅鉾も出土しない。その代わり瀬戸内・山陰系遺物がよく出土する。伊都国中心域では出土しない楽浪系遺物がよく出土するのである。これは、宗像地方が素盞嗚尊の出雲勢力に早くから取り込まれて、海外交易の実権をすでに握っていたことを意味している。素盞嗚尊がBC10年頃朝鮮半島から新技術導入するための拠点として宗像を確保したと考えればつじつまが合う。また、中期によく出土する細型銅剣をはじめとする武器型青銅器はその成分分析から朝鮮半島の青銅が使われているが、祭祀系青銅器は華北の青銅が使われていることが分かっている。素盞嗚尊が楽浪郡との交流経路を切り開き交流を継続し、出雲・瀬戸内勢力が銅鉾を祭器化したと考えれば説明がつく。また、これは、中心域の王墓からは出土しないので、中心域の勢力は楽浪郡との交流はできなかったと判断される。

 弥生時代中期後半までは朝鮮半島南端部から夥しい量の弥生系土器が出土する。伊都国・奴国周辺の土器がほとんどであるという。ところが、この傾向は弥生時代中期末に一変するのである。朝鮮半島南端部からの弥生系土器は急減し、楽浪系遺物の出土が始まるのである。これは、それまで、北九州周辺域の有力豪族が我先にと朝鮮半島南端部と交流していたが、その実権を瀬戸内系勢力に奪われてしまったと解釈できる。また、北九州中心域を外して楽浪系遺物が出土するので、中心域が周辺から仲間はずれにされている状況が浮かび上がってくる。

 銅鉾祭祀が始まり、大量の銅鉾・銅戈が埋納されている地域はこの戦乱地域から外れている。素盞嗚尊はこの戦乱地域を避けて銅鉾祭祀を広め、倭国に加盟させたのであろう。遠賀川流域は饒速日尊関連伝承地が多く、また、後に天孫降臨随伴メンバーとして大和に連れて行った物部一族の出身地は遠賀川流域地方の人々が多く、この地域は大歳命(饒速日尊)が統一したのであろう。大歳命は拠点の宇佐市近辺を出発して遠賀川流域にやってきたのであろう。遠賀川流域の人々は、筑紫平野一帯での戦乱を避けてきており、また、何れ戦乱がこの地方まで広まってくることを恐れていたのではないだろうか。そのために、大歳命が訪れ、倭国に加盟するように言われて喜んで加盟したと思われる。当時、倭国が瀬戸内海一帯を統一した巨大国家であることは、人々に知れ渡っていたであろうし、朝鮮半島から手に入れた先進技術を持っていたので、この地方の人々を倭国に加盟させるのはそれほど難しくなかったのではないかと思われる。

 筑紫平野の戦乱の収拾

 素盞嗚尊関連伝承・遺物が優勢な領域は中津平野、大分県地方、南四国地方、佐賀平野であり、大歳関連伝承・遺物が優勢な領域は遠賀川流域、筑後川流域、熊本県北部地方であり、 五十猛命関連伝承が優勢な領域は長崎県地方である。これら、中広銅矛・銅戈の集中出土地域、神社伝承を考慮すると、北九州地方の統一順路は次のようになる。
 素盞嗚尊・五十猛命は山陽地方が統一完了した時、再び朝鮮半島に渡りさらなる先進技術を導入した。五十猛命はさらに漢帝国の首都である長安まで行き、桃・杏などの果物の木の種を多量に手に入れて戻った。五十猛命は素盞嗚尊が山陽地方を統一している間、石見国でBC10年の渡航で手に入れた技術の伝達を実験的に行っていたとみられる。その結果、さらなる技術の必要性、木の種などが分かり、それを入手のために再び朝鮮半島に渡ったのである。
 五十猛命は素盞嗚尊から木の種を配って、長崎地方から統一せよとの命を受けてそれを実行した。五十猛命は壱岐から松浦半島あたりに上陸し海岸線に沿って現在の長崎県領域を統一して佐賀平野西端の杵島を拠点として活躍していた(AD5年頃)。杵島から東に進もうとすると、高良国が統一の障害になっていたのであろう。素盞嗚尊は新技術を以て宗像に赴いた。北九州中心域の戦乱状態を把握した。その結果一刻も早く北九州を統一しなければ日本列島平和統一という夢がかなえられなくなるばかりか、日本列島を戦乱の列島にしてしまう危険性が考えられた。素盞嗚尊は五十猛命の協力を得るために、彼の滞在している杵島に上陸したのであろう。これが稲佐神社の伝承であろう。戦乱地帯の収拾のためには五十猛命の協力が必要と判断したためと思われる。
 弥生時代後期になると武器の出土が極端に少なくなることからこのあたり一帯が平和状態に移行したことが分かる。素盞嗚尊が戦乱状態を収集したと思われるがどのようにして収集したのであろうか。

 戦乱が最も激しかったのは遺跡の分布状況から筑紫野市周辺であると思われる。この真っ只中に筑紫神社があり、白日別命(素盞嗚尊)・五十猛命を祀っているのである。また、白日別命は筑紫の国魂と呼ばれており、ここの地名筑紫が国名にまでなっているのである。素盞嗚尊によるこの戦争状態の収集が九州の人々の心を強く引き付けたものと思われる。

素盞嗚尊による筑紫平野の戦乱の収拾と思われる伝承
『御笠郡筑紫神社縁起』・・・「筑前国と筑後国の境に荒ぶる神がいて、往来のものの命を奪うので困り果て、筑紫神として祀ってこれを鎮めた。」
『筑後國風土記』・・・「昔、筑前と筑後の境の鞍韉盡坂(したくらつくしのさか)に、麁猛神がおり、往来の人々の半数を殺してしまう。筑紫の君と肥の君らが占いによって、 甕依姫を巫女として、その神を祀らせた。それ以後、人々が殺されることはなくなった。」
基山伝説・・・「木の山(基山)の東に、山道を通る人たちの半数を 殺す悪神達が住んでいたが、五十猛命に退治された」
契山伝説・・・「五十猛がある日、基山の「霊霊石」に腰をおろして四方を眺めていた。すると小川で一人のきれいな娘が洗濯しているのが目にとまった。そこでさっそく結婚することになり、山の西にそびえる山の頂で夫婦の契りを結んだ。そのために人々は、その山のことを「契り山」と言うようになった」

 これらは次のように解釈できないだろうか。
「昔、筑前(奴国連合)と筑後(吉野国)の境で、戦争(麁猛神)があり、多くの人々が戦死した。筑紫の君(奴国王)と肥の君(吉野国王)らが占い(素盞嗚尊の仲裁)によって、平和になった。それ以後、人々が殺されることはなくなった。」
風土記の伝承と基山の伝承は同根のものと思われる。五十猛命が悪神を退治したというのは和平成立に反対した一部の豪族を五十猛命が退治したことを意味するのではないだろうか
 契山伝説も奴国連合と吉野国との和平を意味しているようにも思える。

 戦争状態収集法を探るために、この周辺一帯がこの前後でどのように変化したかを見てみたい。次のような変化が表れている。

 
伊都国 西暦紀元前後に奴国(春日市)一帯から王墓が消滅。伊都国に王墓はさらにしばらく継続する。伊都国は独立を保ったものと考えられる。
奴国 奴国は王墓が消滅し、祭祀系青銅器が造られている。倭国に加盟したものと思われる。
高良国 高良国王は高皇産霊神である。現在の高良大社の地に拠点を持っていたが、高良玉垂命(素盞嗚尊)に統治権を譲っている。
高木神社 高皇産霊神は北九州一帯の高木神社に祭られているが、この高木神社は遠賀川城流域を中心に分布している。英彦山にも高皇産霊神は祀られている。
春日神社 田川市の春日神社に饒速日尊降臨伝承があるが、同じ地に高皇産霊神が最も長い名で祀られている。
三国が丘 戦乱中心域のすぐ南の小郡市に三国が丘があり、中期までは遺跡が集中して栄えていたが、後期になると消滅している。人々は他に移動したようである。ここは高良国の前進基地とみられる。
天孫降臨 饒速日尊が九州から大和に天孫降臨しているが、このとき、高皇産霊神の子のほとんどが饒速日尊に随伴している。神話を見ても高皇産霊神は日本列島統一に積極的に動いていることが分かる。高皇産霊神は素盞嗚尊・饒速日尊に大変協力的である。

 素盞嗚尊の日本列島統一は平和的に行われている。この戦闘状態にある地域にやってきた素盞嗚尊は双方の国に和平提案をしたと思われる。上の変化をみると高良国、奴国はともに素盞嗚尊の和平提案を受け入れているようである。

 弥生時代の人々と言えど好きで戦争をしているわけではあるまい。戦争は多くの人々を死に至らせ、多くのものを失うものである。やむなく戦っていたと思われる。 それぞれの国の王も敗れれば殺され、国を失うことになる。それは耐えられないからこそ戦うのであろう。国と国との間に強弱関係がはっきりしていれば、 強い国の王の占有欲が考えられるが、高良国と奴国連合は長期にわたって戦っているようなので、占有欲ではなく互いの利害の衝突であり、 場合によっては滅亡の危機と闘っていることになるであろう。戦いに敗れることは自らの滅亡を意味するからやめられないのである。 他国と戦争をするとなれば強いリーダーシップを持った人物が必要となる。そういった事情の中で王が誕生するのであろう。北九州主要部の王墓には副葬品が数多く 副葬されているが、その副葬品は伝世された様子がなく、その王が直接集めたもののようで、世襲されている様子が見られない。強いリーダーシップを持った人物が 連合国の王として君臨し、周辺の小国家はその王のもとに一致団結して外敵と戦っていたのであろう。それが奴国王であろう。奴国・早良国・伊都国等が所属している連合国と思われる。

 一方高良国はどうなのであろう。高良国王の始祖は徐福である。徐福が佐賀平野に上陸して、その子孫が吉野ヶ里の地に住んだ。吉野ヶ里遺跡である。徐福は北の方角を聖なる方角としていたが、吉野ヶ里遺跡の墳丘墓は祭祀施設の真北に存在している。往時の北墳丘墓の規模は南北約40m、東西約27m以上で平面形が長方形に近い形になるものと推定されている。北墳丘墓は黒色土を1.2mに盛った上に幾層にも様々な土を突き固めた版築技法で築かれている。4.5m以上の高さを持った墓であった可能性があると言われている。

 これまでの調査で、弥生時代中期前半から中頃にかけての14基の大型成人甕棺が墳丘内から発掘されており、そのうち8基の甕棺からは、把頭飾付き有柄細形銅剣や中細形銅剣を含む銅剣8本やガラス製管玉79個など、被葬者の身分を示すと考えられる貴重な副葬品が出土している。また、埋葬されていたのは成人だけであったため、おそらく特定の身分、それも歴代の首長および祭事をつかさどる身分の人の墓ではないかと思われ、世襲があったことが伺われる。その時期はBC三世紀末から紀元前後までと思われる。まさに素盞嗚尊が北九州に登場する直前までと言える。高良国は吉野ヶ里の地を聖地として、周辺に勢力をのばしていた。甕棺の出土状況から判断して佐賀平野、筑後平野一帯はその支配下であったと思われる。その両地域を一望できるのが高良山であり、現在高良山には高良大社が存在しており、当初の祭神は高皇産霊神であった。高皇産霊神が高良国王であったと判断する。

 この高良国は徐福がもたらした高度な技術を持っており、その勢力範囲を広げていた。奴国連合としてはそれが脅威であったと思われる。いつしか奴国連合との戦いが繰り広げられるようになり、筑紫野市あたりに戦死者のものと思われる人骨が多量に見つかるようになったのであろう。小郡市の三国丘陵に大規模な弥生遺跡があるが、これが、高良国の前線基地ではないかと思われる。三国丘陵はもともと一つの国であったようであるが、高良国に併合されたのであろう。この丘陵は弥生時代後期になると消滅している。素盞嗚尊による統一によって意味をなさなくなり消滅したものと考えられる。

 縄文人の活躍

 不思議なことが一つ存在している。北九州地方が渡来人を主体とした弥生人の国々に支配されているのであるが、言葉は日本語(縄文語)のようである。弥生人が集団で来て、そのままその国を支配したのであれば、その母国の言葉(中国語)が通用する領域になっているはずである。日本語と中国語とは文法構造が全く異なるので、単語などはまじりあっても、文法構造そのものは交じり合うことのない言語と考えられるが、日本語に取り込まれているのである。これはどうしたことであろうか?

 これは、弥生人の流入が常に小集団であり、上陸した弥生人たちは、縄文人と交流することによって生活をしていたと思われる。縄文人たちは縄文連絡網を持っていたので、遠くの地域から先進技術を手に入れるために、弥生人たちの上陸地に遠征に来ることもよくあり、縄文人との交流は活発なものだったと考えられる。そして、弥生人たちはその交流の中で、中国語を捨て日本語を使うようになっていったのであろう。その後次々に上陸してくる弥生人たちは、先に上陸した日本語を用いる弥生人との交流をするようになり、日本語が通じる領域となっていったのであろう。 

 そのうち新しい先進技術もなくなり、弥生人たちが一大勢力になってくると、縄文人たちは北九州の地を離れていった。 北九州地域は次第に弥生人たちの支配地域になっていったのである。北九州地方に住んでいた縄文人たちは、次第に住みにくくなっていく状況を飛騨国に報告するようになった。飛騨国王は縄文連絡網を通してこの状況を知ることになり、このままにしておいたのでは、弥生人たちに日本列島は支配されてしまう恐怖を感じたことであろう。

 北九州地方を支配していた弥生人たちに戦いを仕掛けても勝てるはずもなく、飛騨国は北九州地方をどうするかの対策を考える必要があった。飛騨伝承では、北九州の外来勢力によって北九州が落ち着かなくなったので瓊々杵尊を降臨させたと伝えている。
 出雲の方の外来勢力に対しては、統一国家ができていたので、その王家と婚姻関係を結ぶことによって、危機を乗り越えることができたが、北九州の場合は統一国家ができていないので、婚姻関係で乗り切ることはできそうになかった。しかし、北九州の危機を乗り切るには弥生人との協力関係を得る以外に方法はなかったのである。そこで、飛騨国が考えたのが高皇産霊神の高良国との協力関係である。高良国は他の北九州一帯の諸国よりも高度な先進技術を持っていた。他の弥生人たちはボートピープルなので、組織的に持ち込んだ技術ではなかったが高良国は徐福が3000人もの童男童女とともに組織的に持ち込んだものなので、先進技術の洗練度は他の諸国とは全く違ったのである。
 飛騨国としてはBC40年ごろの出雲王朝との婚姻関係の構築に成功したことに自信をつけ、BC10年ごろ高良国との婚姻関係を作ろうとしたのではないだろうか。

 高皇産霊神の活躍 

 高皇産霊神は徐福の子孫と考えている。徐福自身は甲斐国に移動して亡くなったが、北九州には徐福の子孫が残されており、その人物を高皇産霊神と考えている。吉野ケ里遺跡の統治者である。高皇産霊神は徐福が持ち込んだ高度な先進技術を持っていた。その先進技術が狙われ、周辺諸国から度々と襲撃を受けていたと思われる。そのため、吉野ケ里遺跡は防衛を重視した環濠遺跡である。また、遺跡内には戦死したと思われる人物が埋葬されている。

 高良国の先進技術はおそらく門外不出であったと思われる。戦乱時代に先進技術が漏れてしまえば、高良国が滅ぼされる危険性が高くなるためである。高良国はその先進技術のために周辺諸国から狙われていたのであろう。高良国としては、このような状況をいつまでも続けるわけにはいかないので、何とかして、この危機を脱却したいと考えていたのであろう。日本列島が平和的に統一できれば、戦乱は無くなるので、何とかして平和統一できないものかと考えていた。そのためには飛騨国の持つ縄文連絡網は絶対に必要なものであった。
 ここで、高良国と飛騨国の思惑が一致したのである。この当時の高良国の支配者高皇産霊尊と飛騨国王の娘(ヒルメムチの妹?)が結婚が決まった。このようにして飛騨国と高良国は互いの協力国となっていった。神皇産霊神の正体

 高皇産霊尊はBC10年頃飛騨国との交流を開始している。飛騨国から縄文人が数多く高良国にやってきている。神皇産霊尊の子とされている天御鳥命・天櫛玉命・天津久米命などが高良国に滞在していたと考えている。滞在の目的は徐福のもたらせた先進技術の習得ではないだろうか。

 飛騨国は弥生人の日本列島への多量流入から、飛騨国を守ろうとしており、そのために出雲国と婚姻関係を作り高良国とも婚姻関係を作っていた。しかしながら、高良国も飛騨国と協力して日本列島の平和統一を考えていたが、北九州中心域の奴国連合との戦乱状態を収拾できない状態が続いていた。

 そこへ素盞嗚尊が瀬戸内勢力を引き連れてやってきて、先進技術を広めることによる日本列島平和統一を提案したのである。素盞嗚尊も飛騨国と関係のある人物であり、素盞嗚尊の協力が得られれば、日本列島平和統一は大きく前進することになり、高良国王高皇産霊尊は素盞嗚尊の提案に賛成したのである。

 高良大社の伝承によると、もともと高皇産霊神が鎮座していたが、どこからかやってきた高良玉垂命(素盞嗚尊)に一夜の宿を貸すとそのまま乗っ取られたことが伝えられている。高皇産霊神は素盞嗚尊に高良山周辺の支配権を譲ったと判断される。高良国は倭国に加盟したのである。

 素盞嗚尊は北九州一帯の戦乱を収拾しなければ、日本列島統一の夢は実現しない。素盞嗚尊は奴国連合・高良国を回り戦乱の状況をつかみ、戦乱を治める方法を考えたに違いない。それが、和平交渉であったのであろう。その協力者に五十猛命が必要と判断し、杵島に赴き、五十猛命を基山に連れてきた。基山は五十猛命が滞在したと言われる地でその北側にある天拝山麓の城山(きやま)も五十猛命が基山から一夜にして飛んできたという伝承がある。共に筑紫平野一帯を一望できる展望地である。城山は筑紫神社の旧地でこの地で、和平交渉が行われたとみている。AD5年頃のことである。
 素盞嗚尊はこの城山の地に双方の国王を呼び出し仲裁に立ったと思われる。双方の国王としても当時名が知れ渡っていたであろう倭国王素盞嗚尊の呼び出しであるために、無碍にもできず呼び出しに応じたものであろう。素盞嗚尊は中立的立場に立って双方の言い分を聞いたと思われる。その時、自らが倭国王であることを示しているであろう。無名の人物では交渉すらできないであろう。双方の国王は瀬戸内海沿岸地方を統一した新興連合国家である倭国の存在は知っていたであろうし、その技術力も知らないわけではなかったと思われる。双方の言い分を聞いて和平調停をしようとしたのではないだろうか。その時、倭国の最終目的(平和的な日本列島統一)も持ちだしたと思われる。高良国王高皇産霊神及び奴国の王はこれを受け入れたのであろう。しかし、伊都国は倭国に加盟するのを拒否したと思われる。

 高良国及び奴国共に素盞嗚尊が示した和平提案を受け入れ、戦争状態は消滅した。互いの国は倭国に加盟して、倭国の日本列島統一に共に多大なる協力をするようになったのである。奴国は祭祀系青銅器を多量生産し、高良国は統一作戦を立案しているのである。共に日本列島統一に協力的になっていることから、統一に協力することを条件に倭国に加盟したようにも思える。この会議が北九州統一の柱になっており、その会議の場所は城山(筑紫神社旧地)となり、素盞嗚尊は白日別命(筑紫の国魂)と崇められるようになったのであろう。

 奴国連合に加盟していたと思われる伊都国は、この和平に賛成しなかったようである。基山の伝承では悪神を五十猛命が退治しているが、伊都国には五十猛命を祀る神社が数多い。ところが、その神社は志摩半島の沿岸部(野北・吉田・今津)か、日向峠の近くであり、周辺部に限られる。奴国連合所属の各国が和平提案を受け入れて倭国に加盟する中で、伊都国だけがそれに反対したのであろう。伊都国が和平提案に従わないので、五十猛命は伊都国を攻めようと北は志摩半島の野北より、及び南は日向峠より攻め込んだが共に伊都国に敗れ伊都国を倭国に加盟させるのはひとまず断念したのであろう。そのため、弥生時代後期初頭になっても伊都国から王墓が見つかることになるのである。伊都国が倭国に加盟するのは半世紀ほど後になる。

 素盞嗚尊が北九州の戦乱を収めたのは周辺の人々に与える影響が大きかったようである。これをきっかけとしてそれまでの青銅製武器が祭器化したのである。素盞嗚尊が北九州地方の人々にとって守り神となり、そのシンボルとして青銅製武器が巨大化し、祭器となったのである。北九州一帯は平和になり、強いリーダーシップを持った王も必要なくなり、伊都国を除く北九州一帯から王墓が消滅したのである。吉野ヶ里遺跡の北墳丘墓も祭祀対象から外れたのであろう。このように考えると、北九州一帯の考古学的変化が説明できる。

 高皇産霊尊の協力

 記紀神話でも高皇産霊神は高天原で天照大神以上にさまざまな指示を出して活躍している。高皇産霊尊は徐福の子孫であり、かなりの知恵を持っていたようである。素盞嗚尊の日本列島統一構想に激しく同意し、最大限協力することを申し出たと思われる。素盞嗚尊は自らの子のうち最も信頼できる大歳命を出雲から呼び寄せた。そして、大歳命を高皇産霊尊に合わせたのである。高皇産霊尊も大歳命の能力を高く買い、ここを拠点として球磨国の統一をすることになり、高皇産霊神の本拠地である高良大社の地を素盞嗚尊に明け渡した。高皇産霊尊自体はそれまでほとんど門外不出であった徐福がもたらせた秦の高等技術を紹介し、この技術で持って、大歳命と共に遠賀川流域に進出しその地域を統一した。
 高皇産霊尊は徐福の子孫であり、徐福自体が東日本に移動した関係で、日本列島各地に徐福の子孫が散らばっており、その子孫とは定期的に連絡を取っていたようである。そのために、東日本地域の状態をよく知っており、東日本地域を統一するには多数の技術者が必要であることが分かっていた。そのために、遠賀川流域を中心として門外不出の技術を受け継いだ技術者を多数育てることとしたのである。これが後の物部氏(マレビト)である。大歳命改め饒速日尊にその先導をさせ大和に降臨させることになるのである。これが真実の天孫降臨である。

 大歳命はこの時饒速日尊と改名した。高皇産霊尊の持っていた技術は朝鮮半島や楽浪郡の技術に勝るものがあった。徐福の一団は秦の最高技術者を集めた一団だったので、楽浪郡や朝鮮半島の技術力に勝っていたのである。饒速日尊は自らその技術を学ぶと同時に遠賀川流域の人々にその先進技術を伝え、同時にその技術者を育てていった。この時の本拠地が田川市の春日神社の地であろう。

 熊本県地方の統一

 素盞嗚尊は高皇産霊神の協力を得て、高良大社の地を拠点として、南へ統一していった。しかし、その南は球磨国であり、高良国とは敵対していたのである。統一には全く協力が得られず、ひとまず断念することとなった。

疋野神社 熊本県玉名市立願寺457
熊本県最古の神社である。球磨国の本拠地の入口に位置しており、饒速日尊が滞在し、この地を拠点として倭国に加盟する交渉をしたと思われるが、不調に終わった。

 今後の統一計画

 北九州中心域は伊都国以外は無事統一され倭国に加盟した。倭国内の国家体制作りは高皇産霊尊が引き受け、テキパキと体制固めをした。これにより、倭国内に急激な技術革新が起こったのである。銅鉾を祭器化して統一のシンボルとすることを考えたのも高皇産霊尊であろう。楽浪郡を介して華北の青銅を多量に輸入し、それをもとに奴国で祭祀系青銅器の多量生産を始め、倭国加盟のシンボルとして周辺地域に配って回ったのである。朝鮮半島南端部の高霊を盟主としてこの地域を倭国に所属させた。朝鮮半島南端部に多く住んでいた人々は秦から逃れてきた人々で、徐福の子孫である高皇産霊尊とは同郷である。朝鮮半島南端部の人々も徐福のことは知っていたであろうから、この地域を倭国に加盟させるのはさほど難しいことはなかったと思われる。この地域に倭国から役人を送り込み、南端部の統一に向けて努力させた。これによって、それまでばらばらであったこの地域がまとまり始めたのである。

 素盞嗚尊は豊国(宇佐地方)の統一に向かった。この地方はまだ未統一の四国地方、南九州地方への玄関口となるので大変重要な地域である。高皇産霊神から受け取った銅鉾を持って、豊国を統一した。今の宇佐神宮の地に拠点を作った。

 饒速日尊は八女地方一帯を統一後、肥後国に入った。肥後国の北部地方は何とか統一できたが、現熊本市以南は統一に失敗した。饒速日尊は東に方向を変え阿蘇盆地に入ったが、この地域も倭国に加盟させることはできなかった。阿蘇盆地を超えて、高千穂に出た。高千穂も統一できなかったが、五ヶ瀬川下流域は倭国に加盟してきた。

 北九州統一関連地図

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