出羽国統一

 信濃国統一を終えた饒速日尊は諏訪で建御名方命・事代主命と別れ、越国の居多神社の地まで戻った。ここで、出羽国統一の準備を行い、ほどなく日本海岸に沿って出羽国統一に向かった。

 神社伝承

神社 住所 祭神 判定 備考
越後国 一宮 居多神社 新潟県上越市 大国主命 奴奈川姫 建御名方命 饒速日尊 大国主命は、居多ケ浜に上陸し身能輪山あるいは岩殿山を根拠地とし、越後の開拓や農耕技術砂鉄の精錬技術などを伝えたという
圓田神社 新潟県上越市柿崎区岩手1089 國常立尊 大己貴神 大山咋神 譽田別尊 饒速日尊 大己貴神、国土平定のため高志に来たり給う時、この円田沖に船を入れ龍ケ峰に船を繋ぎ上り、この峰に一祠を立つこれが神社の初めなり。
斐太神社 新潟県妙高市宮内241 大國主命・ 矢代大神・ 諏訪大神 饒速日尊 大國主命が国土経営のため御子言代主命・建御名方命を従へて当国に行幸し、国中の日高見国として当地に滞在した。大國主命・建御名方命は山野・田畑・道路を、言代主命は沼地・河川を治め水路を開いた。積羽八重言代主神は矢代大明神と称し、矢代川の名の由来となつたといふ。
宇奈具志神社 新潟県三島郡出雲崎町乙茂字稲場762 天穂日命 大国主命 古神官松永氏ノ話ニ、天穂日命、大國主神ノ御跡ヲ慕ヒ来テ鎮座ノ御社ニテ、天ノ神ト称シ来ル。
御嶋石部神社 新潟県柏崎市西山町石地1258 大己貴命 饒速日尊 祭神(大己貴命)が頚城郡居多より船にて、石地の浜に着岸し、石部山にとどまり、遣わされた宝剣を神体として祀ったという。 その昔、命が北陸東北方面平定の為に出雲より水路にて当地を通られた時、岩の懸橋が海中より磯辺まで続いているのを不思議に思われ、 船を寄せてみると、当地の荒神二田彦・石部彦の二神が出迎え卮(さかずき)に酒を盛り、敬意を表した。当神社の祭礼神輿が陸から島に御渡りになり、その時、御神酒を捧げる吉例は此処に由来する。また、命が残していかれた御佩(はかせ)の剣は当神社の御神体として崇奉り鎮守となっている。地元の人々は大鹿島とよんでいる。
物部神社 新潟県柏崎市西山町二田602 二田天物部命 天孫降臨の後、当社祭神(二田天物部命)は、天香山命とともに当地に来臨。その上陸の地を天瀬(尼瀬)という。居るべき地を求めていた時に、多岐佐加の二田を献上する者あり、その里に家居したという。後、当地で薨じ、二田土生田山の高陵に葬られた。
石井神社 新潟県三島郡出雲崎町石井町583 御井神 饒速日尊 神代の昔、各地を平定した大国主の命が、この地に来られ佐渡ヶ島を平治しようとしたが、海を渡る船がない。そこで、石の井戸の水を汲んで撒くと一夜にして12株の大樹が茂った。その霊樹で船を造り海を渡って平治したと伝えられており、その時、大小の魚が船を守り助けたので12株の大樹の辺(現在の井鼻)に宮を造り海上守護の大神を祀った。祭神 大国主命 神名帳考證では御井神(饒速日尊と推定)。北条の石井神社(相模の寒川神社からの勧請)は小鹿島(饒速日尊と推定)という。
一宮 弥彦神社 新潟県西蒲原郡弥彦村弥彦2898 天香山命 祭神天香山命は又の御名を高倉下命と申し、神武天皇御東征の時、紀伊国にて?霊の神劔を奉り皇軍の士気を振起して大功を立て給い、後勅を奉じて遠く越後国に下り、今の三島郡野積浜に上陸して国内を鎮撫し、漁塩耕種の法を授け大いに生民の幸福を増進し弥彦山東麓に宮居して徳を布き、統を垂れ給うた
船江神社 新潟県新潟市中央区古町通一番町500 天照大神 豐受大神 猿田彦大神 大彦命 当時、この里がまだ貝操といわれていたころに、海上より一隻の船が浜に流れ着きました。今まで見たこともない形の船でしたので、村人たちが周りを取り囲んでおりましたところ、船の中に一人の白髪の老人が座っておりました。村人たちが不思議に思い尋ねましたところ、「私は猿田彦大神といいます。この里を守護するよう使わされました。これより末永く産土神として鎮まりましょう。」とお告げになり、煙のごとく姿を隠されました。
石船神社 新潟県村上市岩船三日市9番29号

饒速日命 水波女命 高?神 闇?神

饒速日尊 饒速日命は物部氏の祖神で、天の磐樟舟(アメノイハクスフネ)に乗ってこの地に上陸され、航海・漁業・製塩・農耕・養蚕の技術をお伝えになったといわれます
西奈弥神社 新潟県村上市瀬波町大字瀬波字町4-16  気比大神 饒速日尊 祭神気比大神は、敦賀から五臣を供に下向。背の方からの波で、この地にお着きになった。よってこの地を、背波と呼んで興産民生の基を開かれた。祭神おかくれの後、五臣は産土神と仰いでここに社殿を建てた。
出羽国 一宮 鳥海山大物忌神社 山形県飽海郡遊佐町大字吹浦字布倉1 祭神 大物忌大神 月山神 饒速日尊 祭神・大物忌神については、倉稲魂命・豊受大神・大忌神・広瀬神などと同神とする考えがある。鳥海山は古代日本の北の境界に位置し、異狄に対して神力を放って国家を守ると考えられている。
二宮 城輪神社 山形県酒田市城輪字表物忌35 倉稲魂命 饒速日尊 二宮古今記』によれば、祭神城輪大明神は倉稲魂命のことで鳥海山大物忌神社と同体であり、用明天皇の御宇に鳥海山大物忌神社を一宮とする題額の宣旨が給われた頃から当社は二宮と称するようになった、二宮とは第2王子のことである、
三宮 小物忌神社 山形県飽海郡平田町大字山楯字三之宮48 級長津彦命、級長津姫命、豐受比賣命 饒速日尊 もとは「三之宮大座明神」と称し、古来より鳥海山大物忌神社の第3王子とであるとされ、鳥海山大物忌神社が「春物忌」を行った後に当社においても3日間の「物忌」を行うのが慣わしになっていたと言う。
月山神社 山形県東田川郡庄内町大字立谷沢字本沢31 月讀命 饒速日尊 出羽三山は共に山そのものが神であり、神の住居である。
出羽神社 山形県鶴岡市羽黒町手向字羽黒山33 伊弖波神 稻倉魂命 饒速日尊 出羽と書いて「いでは」と読む。出羽の由来は、越国の先端(出で端)にあるためとか。出羽国国魂神を祀った神社
湯殿山神社 山形県鶴岡市田麦俣字六十里山7 大山祇命 大己貴命 少彦名命 饒速日尊 出羽三山奥の宮
唐松神社 秋田県大仙市境字下台94   饒速日命 玉鉾神 愛子神 饒速日尊 物部氏祖神である饒速日命は、鳥見山(鳥海山)の「潮の処」に天降った。
その後、逆合川の地・日殿山(唐松岳)に「日の宮」を造営し、大神祖神・天御祖神・地御祖神を祀ったという。
三倉神社 協和町船岡字合貝 饒速日尊 饒速日命の居住していた場所は、御倉棚と呼ばれ、十種神宝を納めていた。当地で、饒速日命は住民に神祭、呪ない、医術を伝え、後に大和へ移ったという
古四王神社 秋田県秋田市寺内字児桜81 武甕槌神 饒速日尊 、四道将軍の一人・大彦命が蝦夷平定の際、北門鎮護のため武甕槌神を祀り、「鰐田浦(あぎたのうら)の神」として祀ったのがはじめ
岩木山神社 青森県弘前市百沢字寺沢27 顯國魂神 多都比姫神 大山祇神 坂上刈田麿 宇賀能賣神 饒速日尊 昔、大己貴命(=顯國魂神)が、この地に降臨し、180人の御子を生み、穀物の種を蒔いて、子遊田と名づけた。
その田の中で、白く光る沼があり、田光沼(たっぴぬま)と言った。ある時、童女が沼の中から「珠」を見つけ、大己貴命に献上した。
その珠の名を国安珠といい、童女を国安珠姫という。大己貴命は、国安珠姫を娶り、往来半日(一名洲東王)を生んだという
 顯國魂神は奥津軽と陸奥国を統一した神と伝えられている。

 越後国統一経路

 居多神社を出発後、柿崎の圓田神社の地に滞在、ここまで約20km。30kmほど進んだ柏崎市西山町の三島石部神社の地に到達した。この神社の伝承は

「居多より船にて、石地の浜に着岸し、石部山にとどまり、遣わされた宝剣を神体として祀ったという。 その昔、命が北陸東北方面平定の為に出雲より水路にて当地を通られた時、岩の懸橋が海中より磯辺まで続いているのを不思議に思われ、 船を寄せてみると、当地の荒神二田彦・石部彦の二神が出迎え卮(さかずき)に酒を盛り、敬意を表した。当神社の祭礼神輿が陸から島に御渡りになり、その時、御神酒を捧げる吉例は此処に由来する。また、命が残していかれた御佩(はかせ)の剣は当神社の御神体として崇奉り鎮守となっている」

 祭神は大己貴命となっているが、「北陸東北方面平定したこと」、「二田彦・石部彦の二神が出迎たこと」などからこの神は饒速日尊と判断する。大国主命は越国を統一しているが、弥彦神社の地まででそこより先は饒速日尊が統一している。また、二田彦・石部彦は物部氏であり、饒速日尊が大和に降臨した時に引き連れてきたマレビトである。大国主命がこの地に来たのはAD20年頃で、饒速日尊が大和に降臨したのはAD30年頃なので、マレビトがここまで来たのはそれより後となる。これらから、この大己貴命は大国主命ではあり得ず、饒速日尊となる。

 三島石部神社から4km程進んだところに石井神社がある。ここの伝承は

 「神代の昔、各地を平定した大国主の命が、この地に来られ佐渡ヶ島を平治しようとしたが、海を渡る船がない。そこで、石の井戸の水を汲んで撒くと一夜にして12株の大樹が茂った。その霊樹で船を造り海を渡って平治したと伝えられており、その時、大小の魚が船を守り助けたので12株の大樹の辺(現在の井鼻)に宮を造り海上守護の大神を祀った。祭神は神名帳考證では御井神(饒速日尊と推定)。北条の石井神社(相模の寒川神社からの勧請)は小鹿島(饒速日尊と推定)という。」 

 祭神御井神は、大国主命の子木俣神を指すと言われているが、この地に来た記録はない。御井神は大和国宇陀郡にある御井神社に祭られている神でこの神社の記録では気比神として祀られており、同時にこの地は饒速日尊の滞在伝承地である。これから、御井神=気比神=饒速日尊となる。この伝承より、饒速日尊がここから佐渡島に渡り、佐渡島を統一したことが分かる。

 次は50kmほど先の新潟市信濃川河口付近にある船江神社である。

 当時、この里がまだ貝操といわれていたころに、海上より一隻の船が浜に流れ着きました。今まで見たこともない形の船でしたので、村人たちが周りを取り囲んでおりましたところ、船の中に一人の白髪の老人が座っておりました。村人たちが不思議に思い尋ねましたところ、「私は猿田彦大神といいます。この里を守護するよう使わされました。これより末永く産土神として鎮まりましょう。」とお告げになり、煙のごとく姿を隠されました。

 と記録されている。ここでは猿田彦大神となっているが、猿田彦大神もこの周辺に来た記録がない。この神も饒速日尊ではないかと推定している。

 さらに50km程進んだ村上市に、岩船神社がある。この神社は直接の名饒速日尊で祀られている。「天の磐樟舟(アメノイハクスフネ)に乗ってこの地に上陸され、航海・漁業・製塩・農耕・養蚕の技術をお伝えになったといわれています。」とある。また、5km程先に西奈弥神社があり、「気比大神は、敦賀から五臣を供に下向。背の方からの波で、この地にお着きになった。よってこの地を、背波と呼んで興産民生の基を開かれた。」とある。気比大神とは饒速日尊と推定している。饒速日尊はこのあたり一帯を開拓したと思われる。

 以上越後国の饒速日尊と思われる伝承地を挙げたが、海岸線を一直線に出羽国に向けて進んでいるようである。内陸部には伝承地は全く見当たらない。その代わり、越後国は弥彦神(天香語山命・高倉下命)の伝承地が越後国各地に散らばっている。これはどうしたことであろうか

 饒速日尊の信濃国統一段階ですでに人材不足に陥っていたと思われる。土地開拓をするにはその土地に長期間数十年単位で滞在しなければならない。その間に周辺の人々に新技術を伝えていくのである。それができる人々を大阪湾岸から各地に連れて行ったもののさすがに人がいなくなってしまったものと考えられる。饒速日尊もこの時60歳程に達していたと思われ、余命がそれほどないことは饒速日尊にも分かっていたであろう。自分の生きている間に列島全域を統一するには時間が足りないことを感じてきたのではないだろうか。そのために、比較的統一が楽に思えた越後国は後世の人物(自らの子)に任せて先へ進んだものと考える。 

 越後国内陸部は饒速日尊が統一しなかったために、大和朝廷成立直後神武天皇が天香語山命に越後国開拓の勅命を下したのであろう。

 出羽国(山形県の実態)

 越後国を通過した饒速日尊は出羽国に入ったと思われるが、山形県内に饒速日尊に関する伝承は、今のところ全く見当たらない。しかし、一宮の鳥海山大物忌神社(大物忌神)、二宮の城輪神社(倉稲魂神)、三宮の小物忌神社(級長津彦命)はいずれも祭神が饒速日尊の別名と推定している神である。また、聖地である出羽三山(月山、湯殿山、羽黒山)に祭られている神もこれまた、饒速日尊の別名と思われる神たちである。出羽国式内社9社のうち8社までが、饒速日尊と思われる神を祀っている。残りの一社も饒速日尊関連人物を祀っているという説が存在している。このように出羽国(山形県)内には饒速日尊伝承は存在しなくても、彼が深くかかわり、統一していたことは間違いないであろう。

 秋田物部文書概略

 秋田県大仙市境字下台94 に唐松神社がある。この神社には秋田物部文書が伝わっており、この文書に饒速日尊の行動が記されている。 

物部文書が伝えるところの饒速日尊の行動

 秋田物部氏の遠い祖先、饒速日命は、天の鳥船に乗って豊葦原中ツ国の千樹五百樹が生い茂る実り豊かな美しき国を目指して鳥見山の山上、山上湖(鳥ノ海)・潮の処に降臨したという。この鳥見山とは出羽国の鳥海山であった。この国を巡った後、逆合川を遡り日殿山山頂に「日の宮」を造営、 天地の神々である大神祖神・天御祖神・地御祖神を祀った。これが唐松神社の由来である。このとき、 饒速日命の居住していた場所は御倉棚と呼ばれ、ここに十種の神宝を奉じ、 当地では住民に神祭、呪術、医術を教えたと伝えられ、その跡地(大仙市協和船岡字合貝)には、 現在、三倉神社が鎮座している。現在、唐松神社にはその十種の神宝の内の五種、奥津鏡・辺津鏡・十握剣・生玉・足玉が残されているという。十握の剣は鎌倉時代の作のようだが、 鏡は黒曜石製、玉は玄武岩のような固い黒い色をした石でできているらしい。

 この地を拠点として東国を平定した饒速日命は更に南下、大和まで侵攻した。当時の大和国では先住民族の「安日彦(あびひこ)、長髄彦(ながすねひこ)兄弟」が治めていた。そこに天津神 「ニギハヤヒの命」が入ってきたのであるが、別に争いをするでもなく、「ニギハヤヒの命」は長髄彦の妹を娶り平和に共存の道を歩むことにした。 しかし、この平和に暮らしていた大和国に突然、 戦闘的な天孫族イワレヒコの命(神武天皇)の東征軍が現れ、戦争を仕掛けられ、安日彦・長髄彦・ ニギハヤヒの命らは、果敢に応戦したが、戦の最中ニギハヤヒの命が叛意した。ニギハヤヒの命は戦の最中に、イワレヒコの命が天津神「天照大神」直系の皇子であることがわかり従わざるえなくなり、 王位継承権の証である「天津瑞(あまつしるし)」 を献上し配下に下ったためである。この寝返りの結果、安日彦・長髄彦軍は総崩れとなり、長髄彦は討ち死に、安日彦はかろうじて逃れることができ、丹波より船で日本海を北上し、 津軽十三湊に着き先住民族を束ね 古代東北王朝を築き、のちの安東氏=秋田氏の始祖となった、とされている。

 このとき、饒速日命は畿内だけではなく自ら平定した東国をも神武天皇に献上した。神武天皇はその恭順の意を容れ、 饒速日命の子・真積命(ウマシマヂ)を神祭と武の長に任じたという。 ここに物部氏は始まり、物部氏は祭祀と軍事の両面から大和朝廷を補佐し、蘇我氏との対立に敗れるまで、その威勢を振るう事になる。

物部文書の実態

 神功皇后のいわゆる三韓征伐の時、饒速日命から数え八代目の物部瞻咋連(いくいのむらじ)はこれを助け、懐妊した皇后のために腹帯を献じたといい、 その後、神功皇后は朝鮮半島から日本海を渡って、 この蝦夷の地に至り、日の宮に詣でた上、これと対になる月の宮の社殿を造営したと伝えている。 神功皇后は神威によって、新羅・百済・高句麗の三韓を服従させたことを記念しての 社殿造営から、以来、その社を韓服宮(唐松宮)と呼んだとされる。

 欽明天皇は仏教を歓迎し有力者に是非を問うたら、大臣(おおおみ)だった「蘇我稲目」は賛成したが、大連だった「物部尾輿」や連の「中臣鎌子」は、 国津神の怒りを招く、と強く反対。 かねてから朝廷の祭祀・軍事部門を担ってきた物部氏と、渡来系一族で物部氏より少し遅れてきただけに過ぎない蘇我氏の確執は「物部守屋」の代で決定的となった。 三十一代用明天皇は疱瘡で死んだとされ、病の床で用明天皇が仏教に帰依したいと願ったことから、大臣「蘇我馬子」は賛成し、「物部守屋」は反対して双方が兵を繰り出す騒ぎになった。 用明天皇崩御(587年)の後、物部守屋は穴穂部皇子を天皇につけようと画策しましたが、崇峻天皇をたてて聖徳太子と組んだ蘇我馬子との戦いに敗れ、皇子は殺害され、 守屋の屋敷も襲撃されましたが、守屋は襲撃からはなんとか逃げたものの、部下の裏切りにあい殺されてしまう。 このようにして長い間、大和朝廷を古くから支えてきた物部氏は滅び、 歴史の表舞台から消された。

  『物部文書』では、「物部守屋」戦死後、守屋の一子、那加世(三歳)は物部家の家臣捕鳥男速(とっとりのおはや)に抱かれて東方に逃げ延び、秋田仙北郡(現、大仙市協和町) の日殿山に入った。そして年を経て、その那加世の末裔が「秋田の唐松林」(大仙市協和町上淀川)に定住した 現在の唐松神社宮司家物部氏は、この那加世を初代として、現在まで六十代以上続いている。 物部家では、代々の当主がこの文書を一子相伝で継承し、 余人に見せることを禁じてきたといい、その一部だけが公表された。しかし、 その大部分は依然、未公開のままである。物部守屋が蘇我馬子に襲撃されて一族は滅亡したとされているが、『秋田物部文書』の伝承によれば、その事件で殺された当主物部守屋の子のなかに、 当時三歳になる‘那加世’という名の子があったという。

 東日流外三郡誌概略

あらすじ

 今から約2700年前に津軽古代王国が生まれ、次いで古代アラバキ王国が成立した。このころ、日本ではこれら幾多の部族が互いに侵略しあっていたが、安日彦・長脛彦の兄弟がそれを統一し、耶馬台国を建国した。そこにあるとき、日向族という渡来人の一派が九州にやってきた。日向族は比未子という呪術者を使って土着民の心を惑わし、しだいに勢力を拡大していった。
 稚三毛淳麻命(神武天皇)が即位する8年前の癸丑の年に、九州の日向から東征軍を挙動したニギハヤヒノ命と日子瀬命(いつせのみこと)は、耶馬台国の長髄彦・安日彦軍と戦って敗北。日子瀬命は討死した。その為ニギハヤヒノ命は吉備(岡山県)で神武天皇に加勢を頼み、戊午2年に再び追攻。この時、長髄彦軍は敗北して安日彦に越国(北陸地方)で救われ、耶馬台国は神武天皇に平征された日向族のリーダー神武天皇は東征を開始した。安日彦・長脛彦は勇敢に戦ったが、ついに敗れ、畿内から追い払われた。敗れた安日彦・長脛彦は、津軽地方へ逃れた。

 津軽地方には縄文時代、阿蘇辺族という民族が住んでた。そこに中国大陸や朝鮮半島から漂着した津保毛族や、中国の王族も亡命してきた。耶馬台一族を引き連れてきた安日彦・長脛彦は、これらを糾合し、荒覇吐(あらはばき)の神を崇める荒覇吐族(あらはばきぞく)を名乗った。荒覇吐族は耶馬台一族の農耕技術と津保毛族の優れた騎馬戦術が合せて強大になり、幾度か大和に攻めのぼった。
 第6代孝安天皇の時、荒覇吐族は大軍で大和に進攻。倭国は大いに乱れた為、天皇が空位となり、第10代崇神天皇が登場するまで、神武系の皇位を退けて荒覇吐系の天皇を次々と即位させたという。第7代孝霊天皇、第8代孝元天皇や第9代開化天皇は荒覇吐系の天皇である。

 開化天皇は北九州の筑紫を除く日本全土を統一することに成功した。しかし彼はその後、荒覇吐神の信仰を捨て、出雲族や日向族の神を崇めたために、畿内の荒覇吐族と奥州の荒覇吐族との間で争いが起こり、日本は二つに割れた。荒覇吐族が仲間割れを起こしているうちに、騎馬民族を率いて海を渡って攻めてきたミマキイリヒコによって開化天皇は敗れ、ミマキイリヒコは天皇(崇神天皇)に即位した。そして、律令制等を整えることで国力を強化し、奥州の諸勢力を服属させていった。

東日流外三郡誌の実態

東日流外三郡誌は、青森県五所川原市在住の和田喜八郎氏が、自宅を改築中に「天井裏から落ちてきた」として1970年代に発表された。編者は秋田孝季と和田長三郎吉次とされ、数百冊にのぼるとされるその膨大な文書で、古代の津軽地方には大和朝廷から弾圧された民族の文明が栄えていたという内容である。

 東日流外三郡誌については、記述内容が考古学的調査との矛盾していたり、「古文書」でありながら、近代の学術用語である「光年」や「冥王星」「準星」などの天文学用語が登場するなど、文書中にあらわれる言葉表現の新しさ、また、和田家建物は1941年(昭和16年)建造の家屋であり、古文書が天井裏に隠れているはずはなく、古文書の筆跡が和田喜八郎の物と完全に一致する、編者の履歴に矛盾がある、他人の論文を盗用した内容が含まれている、等の証拠により、偽書であると言われている。

 この2種類の古文書のうち物部文書は一部しか公開されていない。その真偽は不明である。東日流外三郡誌は内容を見てみれば明らかであるが、他の伝承とは全く相いれないものがある。また、当時日本列島内は戦乱の嵐のような内容となっているが、この当時の戦乱を意味する遺跡はほとんど存在しない。武器を意味する出土物もほとんどない状態である。これらから三郡誌は真実から大きくずれていると判断してよいであろう。しかし、いくら偽書であると言っても100%の偽書は造ること自体が難しいと思われる。その本質的なところには真実があったが、書き写したりしている間に創作が入り込んでしまうのであろう。人間は体制側も反体制側も都合がよいように書き換えてしまうことが多い。だからこそ複数の伝承で確認する必要がある。両者の共通点は安日彦が神武天皇即位後大和から逃れて津軽にたどり着き、勢力回復を図ったというところである。この部分は正しいと判断する。

 出羽国統一経路の推定

 この伝承から、饒速日尊の行程を推定すると、出羽国に入った饒速日尊は、霊峰鳥海山が目に入ったことであろう。早速鳥海山の麓である山形県飽海郡遊佐町吹浦の月光川河口辺りに上陸したと思われる。饒速日尊は初めての国に到達した時、その国で最も高い見晴しの好い山に登って周りの地勢を確認している。出羽国でその目的に叶う山は鳥海山をおいてほかないであろう。吹浦に上陸した饒速日尊は月光川を遡り、鳥海山の山上湖である鳥ノ海に降臨した。これは秋田古文書にも記載がある。鳥海山山頂から周辺を見渡した饒速日尊は、酒田市・鶴岡市周辺を巡回していると思われるが、直接的伝承は認められない。秋田古文書では「この国を巡った」と記されている。この周辺に出羽国一宮「鳥海山大物忌神社」・二宮「城輪神社」・三宮「小物忌神社」が集中している。何れも主祭神は饒速日尊と思われる神である。ここは越後国の岩船神社から約100kmの位置である。

 吹浦を出港した饒速日尊は70km程北上し、雄物川河口辺りに上陸した。この時期の縄文人の人口密度はかなり低く、適当に川を遡っていたのでは人がいない可能性が高く、東日本を統一しようとしている饒速日尊にとっては無駄足となる。このあたりはまだ弥生文化がほとんど浸透せず縄文終末期の状態であったと思われる。この頃の縄文人の人口は10万人程度と予想されており、縄文人はぽつぽつと存在する縄文集落で生活していたのである。河口付近に人工物が流れ着いているかどうかで上流に人がいるかどうかを判断し、人工物が流れ着いている川を遡ったのであろう。神話でも素盞嗚尊が斐伊川の河口付近で箸が流れていることから上流に人がいることを確認している。饒速日尊はこれと同じような感覚で、河口付近に流れ着いているものから上流に人がいるかどうかを判断していたのではないだろうか。

 吹浦を出港した饒速日尊は70km程北上し、雄物川河口辺りに上陸した。雄物川河口付近に人工物が何か流れ着いていたのであろう。雄物川を遡って、今の大仙市協和境と言う処に縄文集落を発見した。饒速日尊はこの地にしばらく滞在して色々な新技術を現地の人たちに伝えた。饒速日尊が滞在していたという三倉神社は唐松神社から北北西に1.7km程の位置にある。

 当然ながら失われてしまった伝承もあると思われるので、実際の経路はもっと複雑ではなかったかと思われるが、残っている伝承から推定するとこのようになる。

 唐松神社が饒速日尊の統一事業の最北端かと思っていたら青森県の岩木山神社に饒速日尊ではないかと思われる伝承が見つかった。
 岩木山神社伝承「大己貴命(=顯國魂神)が、この地に降臨し、180人の御子を生み、穀物の種を蒔いて、子遊田と名づけた。その田の中で、白く光る沼があり、田光沼(たっぴぬま)と言った。ある時、童女が沼の中から「珠」を見つけ、大己貴命に献上した。その珠の名を国安珠といい、童女を国安珠姫という。大己貴命は、国安珠姫を娶り、往来半日(一名洲東王)を生んだという」、「顯國魂神は奥津軽および陸奥国を統一した神」

 このようなものである。陸奥国を統一した人物は陸奥一宮の鹽窯神社の伝承では武甕槌命である。武甕槌命=饒速日尊なので、顯國魂神=饒速日尊となる。出雲の大国主命はこんなところまでやってきてはいない。ここにある大己貴命とは饒速日尊のことと判断される。岩木山神社の伝承より饒速日尊は奥津軽地方も統一したことがわかる。奥津軽地方とは岩木山周辺から津軽半島までを指しており、津軽半島から弘前市一帯を統一したものと考えられる。巖鬼山神社の地を本拠地として暫らく滞在したようであるが、180人の子を産んだとあるのは何であろうか?饒速日尊がここにいたとしても最大限数年程度でそれ以上は考えられない。また、180人もの人を連れてきているとも思えない。これは、饒速日尊が養成した技術者ととらえたいがどうであろうか。

 唐松神社の地にいた饒速日尊は当然ながら周辺の縄文人の集落の位置を聞き出したと思われる。縄文人を案内人として周辺の縄文集落を訪問していることであろう。そのいくつかの伝承は失われているが、この岩木山神社には残っていたということであろう。経路を推察すると、唐松神社の位置から雄物川の河口に移動し、そこから北上。津軽半島の十三湖に到達し、そこから岩木川に沿って遡ったものであろう。途中秋田市・八郎潟・能代市近辺の縄文集落にも立ち寄っていると思われるが、伝承はない。

 物部文書の内容は古代史の復元と一部を除きよく一致していることに驚いた。饒速日尊が東国平定(実際は平和統一)したこと、神武天皇に東日本全体を譲ったこと(実際は政略結婚による対等合併)などである。

 安日彦の謎

 物部文書にある安日彦・長髄彦兄弟についてであるが、饒速日尊が大和に降臨したAD30年頃長髄彦の妹の三炊屋姫を娶っている。結婚適齢期を考えると、長髄彦はAD10年頃誕生したものと考えねばならない。神武天皇が即位したAD83年には70歳を超えているはずである。あり得ないことではないので、長髄彦には問題はないが、安日彦については問題がある。長髄彦と兄弟であるなら、AD10年頃の誕生と思われるが、AD83年以降も生き延びているのである。しかも津軽で活躍している。これはどのように解釈すればよいのであろうか。

 一つ考えられるのは安日彦は長髄彦の歳の離れた弟である。昔のことであるから20歳ぐらい下の弟がいてもおかしくはない。あるいは、長髄彦の子である可能性も考えられる。何れにしても長髄彦とは年が離れていなければならない。神武天皇即位後安日彦が十三湊にやってきているが、このことから、饒速日尊の出羽国統一団の一員に安日彦がいたものと判断される。安日彦は饒速日尊に就いて、出羽国を統一する時、饒速日尊と共に十三湖から岩木川を遡り岩木山神社の地を訪問していたのであろう。そうすると、神武天皇即位後安日彦が大和を逃れてこの津軽の十三湊にやってきた理由が分かる。

 安日彦は長髄彦と共に饒速日尊に心酔しており、饒速日尊が統一した日本国を日向からやってきた見も知らぬ人物に手渡してしまうのがどうにも我慢ならず、最後まで抵抗した。しかし、長髄彦が殺害されるにおよび、もはやこれまでと、自分の立場を理解してくれそうな、津軽の人々のもとに旅立っていったと考えれば、自然につながるのである。

 北東北地方は統一後大和朝廷支配下から外れる

 「東北地方北部まで饒速日尊が統一したのに、後の大和朝廷の勢力下から外れたのはなぜか」という疑問が沸く。大和朝廷勢力下にあったのは東北地方では福島県地方のみである。方形周溝墓も出現していないし、古墳も築造されていない。明らかに北東北地方は大和朝廷支配下に含まれていないのである。これはどうしたことか?

 これは、饒速日尊統一時に人材不足だったためではないかと考える。他に地域は、国土開発に日数を要するために、その地に入植し何年もかけてその土地を開拓していったのである。東日本地域は縄文人が住んでいた地域であるが、4500年前から気候は寒冷化しはじめ、2500年前には現在より1度以上低くなり、日本の人口の中心であった東日本は暖温帯落葉樹林が後退し、人口扶養力が衰えた。そしてまた、栄養不足に陥った東日本人に大陸からの人口流入に伴う疫病の蔓延が襲いかかり、日本の人口は大きく減少し、たと推測されている。鬼頭宏氏「人口から読む日本の歴史」によると2500年前は日本列島の人口は8万人と推計されている。人口密度は0.2人/km2となる。この密度は各県当たり1600人で、各県に30集落程度があり、5km四方に一集落程度あったと思われる。しかも縄文人は、やや高地に住んでいる。水田稲作を中心とする弥生人とは生活する基盤が異なり、弥生人が大挙して入植しても、土地がガラガラにあいているうえに生活基盤が異なるので衝突はほとんどなかったと思われる。それよりも、入植者が周辺の縄文集落に赴いて、新技術を伝えれば、その地域を統一するのはかなり楽であると言える。実際は弥生人の入植者の処へ周辺の縄文人が新技術を教えてもらいにやってきたのではないかと思われる。これら入植者が役人を兼務して中央の指示を伝えればよいのである。入植者がいる限り、その国の体制は維持されるとみてよいであろう。

 しかし、人材が豊富だったのは、東海・関東・甲斐地方までで、信濃国統一時あたりから人材不足が問題になりだしたようである。東北地方統一時には入植者は全くいなかったのではないだろうか?この状態では新技術を伝えても、その地域でその技術を維持するのは難しく、長い年月のうちに失われ、しだいに日本国支配下から外れて云ったものであろう。また、神武天皇に敗れた安日彦が東北地方に退去した時。饒速日尊の恩恵を受けている東北地方の人々にとって、大和朝廷を敵視する安日彦と思いが重なりやすく、東北地方をまとめたとあっては、大和朝廷に反逆することはあっても簡単に従うことはないと思われる。大和朝廷としても、東日本地域は広く、全域を安定して統治するのは難しく、安日彦の後継者の指揮のもと反抗する東北地方を武力で抑え込む余裕もなく、統治の手が回らなかったのであろう。このような理由で、東北地方が大和朝廷支配下から外れたものと思われる。

 饒速日尊大和帰還

 物部文書によると東北地方での活動を終えた饒速日尊は大和に帰ったと記されている。ここで、いまひとつ疑問が浮かんでくる。
一つは、「饒速日尊はなぜ太平洋側に回らなかったのか」ということである。饒速日尊は大和に帰還後再び統一に出発し今度は陸奥国を統一している。大和に帰らなくても、このまま太平洋側に回って陸奥国を統一すれば済むことである。
 この時点で東日本地域で未統一の地方は、伊勢国・志摩国・伊賀国・安房国・上総国・陸奥国である。伊勢国・志摩国・伊賀国は猿田彦命が、安房国・上総国は天太玉命が統一することになる。これら地域は入植者が簡単に見つかりそうな地域なので、何れ誰か後継者が統一できることは饒速日尊も予想できたと思われる。しかし、陸奥国だけは出羽国同様に入植者が簡単に見つからず、苦労すると思われる。饒速日尊はこの時、陸奥国の統一に回らなかったのはなぜだろうか?

 饒速日尊が越国国譲りのために大和を旅立って、5年程度は立っていたのではないかと思われる。饒速日尊に課せられた使命は東日本統一だけではない。最終目標は素盞嗚尊の夢であった日本列島統一である。そのためには倭国との大合併も実現させなければならない。出雲の大国主命が亡くなった時、高皇産霊神との話し合いで大合併の準備期間が与えられていたはずで、その時期が迫っていたためではないかと推定する。饒速日尊にとっては、東日本統一に予定以上に時間がかかっていたのである。大合併を順調に行うためには、遅れていることを倭国に伝える必要がある。互いに不信を抱けば倭国と日本国との並立による大戦争が将来起こる可能性を秘めているのである。

 そのために、饒速日尊は大和帰還を優先したものと判断する。陸奥国統一は大合併の後、大和朝廷の力で実施することも考えていたのであろう。

 トップへ  目次へ 
飛騨国三娘日向に降臨
関連 越国統一
東日本統一
越国国譲り