鹿島宮創設

 相模国関連連地図

 毛野国関連地図

 神宮の伝承

 饒速日尊は磯長国を出発後、順次東進せず、いきなり鹿島に上陸したようである。

 深見神社 祭神 武甕槌神 神奈川県大和市深見3367

 武甕槌神、東國鎮撫のために常陸鹿島に在られた時、舟師を率 いてここに進軍され、伊弉諾神の御子、倉稲魂神、闇龗神の二神をして深海を治めさせられた。両神は深海を治めて美田を拓き、土人を撫して郷を開かれた。即ち深見の名の起った所以である。

 武甕槌神は饒速日尊の別名である。深見神社は相模国にありながら、統一は鹿島から行われているのである。ここまで、饒速日尊は西から東にかけて順次巡回していたようであるが、ここで、一挙に常陸国の鹿島を統一し、そこを拠点として、関東地方一帯を統一しているのである。つまり、東から西へと今までと逆の巡回コースなのである。

 また、鹿島神宮・香取神宮に伝わる伝承でも「神は海からやってきた」となっており、関東地方東端の鹿島の地には東(海)から上陸したことがうかがわれる。

 鹿島神宮 祭神 武甕槌大神  茨城県鹿嶋市宮中2403
創祀 神武天皇御即位の年に神恩感謝の意をもって神武天皇が使を遣わして勅祭されたと伝えられる。
御神徳  神代の昔天照大御神の命により国家統一の大業を果たされ建国功労の神と称え奉る。
また韴霊剣の偉徳により武道の祖神決断力の神と仰がれ関東開拓により濃漁業商工殖産の守護神として仰がれる外常陸帯の古例により縁結び安産の 神様として著名である。更に鹿島立ちの言葉が示すように交通安全旅行安 泰の御神徳が古代から受け継がれている。
<鹿島神宮由緒書より>

 香取神宮 祭神 経津主大神 千葉県佐原市香取1697
 大神は天照大御神の御神意を奉じて、鹿島の大神と共に出雲国の大国主命 と御交渉の結果、円満裡に国土を皇孫に捧げ奉らしめ、更に国内を御幸して荒振る神 々を御平定され、日本建国の基を御築きになり、又東国開拓の大業を完遂せられて、 平和国家の建設と民生の安定福祉に偉大なる御神威を顕わされた。<香取神宮御由緒>  

 弥生時代の関東平野

 海岸線

 「flood maps」 を用いて海抜6mの海岸線(弥生時代の海岸線)を調べてみた。弥生時代の海岸線は推定6m程度と思っているので実行してみると、現在の利根川に沿って海面下になり、手賀沼の取手市あたりまで入り江となっている。また、東京湾は東京都区部東半分は海面下で春日部市あたりまで広がっている。実際にその推定海岸線に沿って遺跡が分布しているので、この推定海面はほぼ間違いがないであろう。

 弥生時代の関東平野はかなりの湿地帯と言える。非常に広いのであるが湿地帯も広く、この状態では人々の移動は陸路はほとんど無理で、船で移動ということになるであろう。そうなれば、その拠点となるのが現在の利根川の河口付近となる。他の地に移動する人々は必ずこの地を通ることになり、その奥地に住んでいる人々との連携をとるには最も良い地となる。この河口付近の北岸に鹿島神宮が、南岸に香取神宮があるのである。この両神宮に挟まれた海域を通過しなければ、外界に出られないのであり、鹿島神宮と香取神宮はまさに交通の拠点を抑えているのである。

 関東平野の河川

 現在の利根川は銚子付近の太平洋に流れ込んでいるが、弥生時代は現在の荒川と合流し江戸湾(東京湾)に流れ込んでいた。渡良瀬川は独立河川として現在の江戸川に沿って流れていた。現在の利根川の下流の流れは鬼怒川の流れであった。利根川が暴れ川で洪水のたびに流路が変わり、その周辺には人が住める状況にはなかった。そして、江戸時代に現在の流路に付け替えられたのである。

 
農業農村工学会より

 現在の鬼怒川に沿った流域が太平洋に流れ込む川を形成していたが、この流域は印旛沼・手賀沼をはじめ、霞ケ浦、北浦等の湖沼が非常に多い。この流域は、これらが緩衝材となり利根川に比べ、流量が安定しており、農地開発には適した地域であるといえる。

 広い関東平野でも、弥生時代に人が住みやすかったのは、鬼怒川流域、利根川・渡良瀬川上流域、および高台となる。高台は水田を作るには不向きであり、農地開発に最も適しているのは鬼怒川流域となる。おそらくマレビトはこの流域に多く入植していたのではあるまいか。そうであれば、現在の利根川の河口(銚子)付近が拠点を作るのに最適の場所となる。

 それに対してより近くの江戸湾(東京湾)沿岸地方は、この当時、利根川や江戸川の河口があり、交通の拠点となりやすい場所ではあるが、饒速日関連伝承地が見当たらない。おそらく、洪水がよく起こり、人があまり住んでいなかったのであろう。遺跡から判断して、人が住んでいたのは河川からかなり離れた高台である。灌漑には不向きだったのではないだろうか。

 饒速日尊は磯長国に賀茂健角身命とともに滞在しているとき、関東平野一帯から来ていた人々や中里集落の人々から関東平野の地理を確認していたはずである。検討した結果、銚子付近に拠点を作るという計画を立てたと思われる。当時拠点となっていたと思われる磯長国の川勾神社の地から、出港し、三浦半島から房総半島にわたり、半島東海岸沿いに銚子の河口に達し、鹿島神宮と香取神宮の地に拠点を作ったのであろう。

 総国

 この辺りは総国(ふさのくに)と呼ばれており、後に上総国と下総の国に分かれた。下総国の方が北にあるので逆ではないかと思われるが、畿内から出発して先に到着するほうが「上」である。畿内から総国を訪れるには黒潮に乗り、房総半島の先端に着くのが先になるので、南側が上総国になるのである。饒速日尊もこの時このコースを通ったと考えられる。上総国南部は後に安房国となって分離することになる。

 上総国・安房国は饒速日関連伝承地が調べた範囲では見つからない。そのまま通過したのであろう。この周辺は神武天皇即位後に開拓されることになる。

 常陸国北部に関して

 常陸国那珂川以北に関しては、関東地方他地域と状況が異なってくる。以下の神社のような伝承がある。下の神社伝承はいずれも那珂川河口近くの神社である。そして、那珂川以北には開拓伝承を持つ神社がほとんど存在せず、平定伝承を持つ神社が多くなる。

 大洗磯前神社 大己貴命、少彦名命 茨城県東茨城郡大洗町磯浜町字大洗下6890
祭神が霊夢に顕れ「我はこれ大己貴、少彦名神也。昔この國を造り東海に去ったが、東國の人々の難儀を救う為に再びこの地に帰ってきた」と仰せられた。当時の記録によると度々地震が発生し人心動揺し、國内が乱れて居り、大國主神はこうした混乱を鎮め平和な國土を築く為に後臨された。
即ち大洗磯前神社は御創立の当初から関東一円の総守護神として、大國主神御自ら此の大洗の地を選び御鎮座になったのであります。

 大甕神社 祭神  建葉槌命、 甕星香々背男 茨城県日立市大みか町6-16-1
 下総国一宮である香取神宮の祭神経津主神と常陸国一宮である鹿島神宮の祭神武甕槌神の二柱の神が邪神をことごとく平定したが、星の神の香香背男だけは従わなかった。そこで倭文神建葉槌命が使わされ、これを服従させた。

 常陸二ノ宮 静神社 建葉槌命 茨城県那珂市静2
 祭神建葉槌命は天照大神に仕えて国土の平定に貢献した。中でも、鹿島・香取両神宮の神を助けて久慈郡久慈村の天津甕星神(星神香々背男)を征伐した際、石名坂にあった雷断石という巨石を蹴ったところ石は三つに割れ、一は石神村(東海村)に、一は石崎村(河原子村)に、一は石井(笠間市)に飛んだとされる(『栗田先生雑著』栗田寛著)。かつて七月一〇日に古徳、中里、鹿島で行われていた火のついた麦稈人形と麦稈人形をぶつけあう「大助人形」という行事は、この神話に由来するとされる(『瓜連町史』)
<静神社HPより>

 これらを見ると、武甕槌大神・経津主大神がこの辺りを平定しようとしたが、反対勢力に拒まれたことがうかがわれる。ここまでの統一事業に関して戦いの伝承はなく、平和的に順調に実行されていたが、この地以北は戦いの伝承が含まれるようになる。

 ここまでは、マレビトがそれぞれの地に入植し、その人々が新技術を示すことにより生活が楽になり、統一国家建設に協力したため、反対勢力が少なく順調に行ったものと判断できる。ところが、那珂川以北は入植者がほとんどいなかったために、戦いをしなければならない状況になったのではないだろうか。

 しかし、本格的に那珂川以北を統一したのは、2回目の訪問時のことであり、最初の訪問時は訪問してみたが、反対されたので、そのまま退却したというような状況ではなかったかと思われる。

 この時の饒速日尊は那珂川以北はそのままにして、鬼怒川流域の統一に向かったものと考えられる。

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