賀茂建角身命の正体
賀茂建角身命は八咫烏として伝承されているが、この人物に関しては多くの謎がある。その謎と八咫烏の正体に迫って見よう。
賀茂建角身命の活躍時期
賀茂建角身命の系図は下のようになっている。
① 古代豪族系図集覧 神皇産霊尊━天神玉命━天櫛玉命━━鴨建角身命━┳━鴨建玉依彦命 (八咫烏) ┃ (三島溝杭耳命)┗━玉依姫命━━━賀茂別雷命 ② 高魂命━━━伊久魂命━天押立命━━陶津耳命━━━━玉依彦命 (生魂命)(神櫛玉命)(建角身命) (三島溝杭耳命) ③ 三島鴨神社 大山祇神━三島溝咋耳命━━━三島溝杙姫┓ ┣━姫鞴五十鈴姫 事代主神┛ ④ 溝咋神社 ┏━天日方奇日方命 溝咋耳命━━━━玉櫛媛命━┫ ┗━媛蹈鞴五十鈴媛命 ⑤ 賀茂一族系図(三輪高宮家系譜) |
世代ごとにまとめてみると次のようになる。
系統 | 1世 | 2世 | 3世 | 4世 | 5世 |
素盞嗚尊系 | 素盞嗚尊 | 饒速日尊 | 事代主命 | 姫鞴五十鈴姫 | |
日向系 | 伊弉諾尊 | 日向津姫 | 鵜茅草葺不合尊 | 神武天皇 | 綏靖天皇 |
三島鴨神社 | 大山祇神 | 三島溝咋耳命 | 三島溝杙姫 | 奇日方天日方命 | |
賀茂氏系図 | 高魂命 | 伊久魂命 天押立命 陶津耳命 |
玉依彦命 玉依姫 |
賀茂別雷命 | |
古代豪族系図 | 神皇産霊尊 | 天神玉命 天櫛玉命 鴨建角身命 |
鴨建玉依彦命 | ||
丹波 | 丹波神野神 | 伊賀古夜比売 | 大山咋命 |
賀茂建角身命は三島溝咋耳命、陶津耳命の別名を持ち饒速日尊と同世代のようである。伝承をまとめると以下のようになっている。
賀茂角身命一族は日向高千穂に住んでいたが、建角身命の代に神武東征の際、日向の山中で高皇産霊神からの天啓を受け、神武天皇の元に赴いて、紀州熊野から大和へ至る道を先導した。これにより天皇より八咫烏(やたがらす)の称号を得た。 |
賀茂建角身命が日向国の曾の峰(そのたけ)に降臨し、八咫烏に化身して神武天皇の東征を導いた後、奈良の葛木を経て、山城国久我から鴨川をさかのぼって、現在の上賀茂神社がある愛宕郡の賀茂に移住してきたといわれる。 妻
伊可古夜日売(イカコヤヒメ)との間には、玉依日子(タマヨリヒコ)と玉依日売(タマヨリヒメ)が授けられた。玉依日子は、後に、賀茂県主となる |
御祭神は、日本の黎明期において、早くから京都地方を開拓し農耕殖産の道を教え、更に正邪を糺して裁判の基を開かれた。かの神武天皇の御東遷に際しては、金鵄・八咫烏としてその霊徳を現され、建国創業をたすけ、民生の安定に貢献されたことは古典や伝承の示すところである。 <久我神社 平成祭データ> 延喜式内の古社。神武天皇御東進の際、八咫烏と化って皇軍を導き給い、賊徒の平定に功をたて、のち山城国に入り、この地方に居を定めて専ら国土の開発、殖産興業を奨め給うた最初の神であって、賀茂県主の祖神である。 <久我神社由緒> |
賀茂建角身命の妻は丹波国の神野(兵庫県丹波市氷上町御油)の神伊可古夜日売でこの姫との間に玉依彦・玉依姫がいる。玉依姫は三島溝杙姫ともいい、事代主命の妻である。伝承では神武天皇東遷後に妻を娶ったことになっているが、明らかに時代が合わない。賀茂建角身命の活躍年代は饒速日尊と同世代でなければならない。そうなると、神武天皇在世時の賀茂建角身命の伝承は別人のものとなる。
伝承による賀茂建角身命の行動は
日向国曽の峰に降臨→神武天皇先導→大和の葛木山→山代国岡田の賀茂→久我国の北山基→丹波国神野の伊賀古夜姫命を娶る→玉依日子・玉依日売誕生
である。
玉依日売が神武天皇皇后五十鈴姫の母である。五十鈴姫誕生はAD55年頃と推定されるので、その母玉依日売誕生はAD35年~40年頃であろう。丹波国神野の伊賀古夜姫命と結婚したのはAD30~40年頃と推定できる。賀茂建角身命は結婚してから茨木市の溝咋神社の地に移動していると思われ、この地で玉依姫は事代主命と知り合い結婚している。賀茂建角身命が溝咋神社の地を拠点としていたのはAD30年頃からAD50年頃であろう。賀茂建角身命の生誕は結婚時期から推定してAD10年頃と考えられる。
そうなると、神武天皇が即位する頃は75歳前後となっており、熊野山中を先導しその後、山城国に移動するのは不可能と考えてよい。大和の葛木山→山代国岡田の賀茂→久我国の北山基は賀茂建角身命が結婚する以前か、AD50年以降と考えてよいであろう。孫である賀茂別雷命と一緒に住んでいたようなので、AD50年以降山城国に滞在していたと考えられる。その結果、賀茂建角身命が伝承上に登場したのは饒速日尊が大和に降臨した直後辺りからとなる。
玉依姫は貴船神社(京都府京都市左京区鞍馬貴船町180)の伝承によると、
「玉依姫命が、黄船に乗って、淀川・賀茂川・貴船川をさかのぼり、当地に上陸し、水神を祭った。玉依姫命が乗ってきた船は、小石に覆われ奥宮境内に御船型石として残っている。」
玉依姫は三島溝杙姫であり、大阪府茨木市の溝咋神社の地で誕生していると思われるので、貴船神社の伝承はここから山城国に移動した時の伝承であろう。AD50年頃のことと思われる。
次に日向国曽の峰に降臨した時期を推定してみよう。日向国曽の峰に降臨した目的はやはり高皇産霊神・日向津姫と会うためではなかろうか。そうなると、賀茂建角身命が溝咋神社の地にいた時期と重なり、AD30年頃からAD50年頃であろう。
賀茂建角身命に関する最古の伝承は「丹波国神野の伊賀古夜姫命を娶る」となる。AD30~40年頃と思われる。この後、溝咋神社の地に拠点を移し、娘玉依姫誕生後、日向国曽の峰(高千穂峰)に降臨し、数年後、溝咋神社の地に戻ってきた。AD50年頃、大和葛木山→山代国岡田の賀茂→久我国の北山基に移動したものと考えられる。
大和葛木山→山代国岡田の賀茂→久我国の北山基の伝承は以下のとおりである。
御祭神 高皇産霊尊(別名 高天彦神) 由 緒 本社は大和朝廷に先行する葛城王朝の祖神、高皇産霊尊を奉斎する名社であります。 神話では天照大神の御子の天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)に、本社の御祭神の娘の栲幡千々姫命(たくはたちちひめのみこと)が嫁がれ、その間にお生れにになった瓊々杵尊(ににぎのみこと)が高天原からこの国土に降臨されます。 その天孫降臨にあたって、国つ神の征討に赴く武士の派遣から、天孫の降臨命令まで、すべて本社の御祭神がお世話申し上げたのであります。 日本民族が太古から神々の住み給うところと信じていた 「 高天原 」 も、実は御祭神の鎮まるこの高天の台地であります。 御本社の背後には美しい円錐状の御神体山が聳えていますが、社殿ができる以前は、この御神体山の聖林に御祭神を鎮め祀っていました。 古杉の聳える参道は北窪・西窪の集落に通じていますが、そこがかっての葛城族の住地であります。 彼らは背後にひろがる広大な台地を、神々のいますところと信じて 「 高天原 」 と呼び、その名称が神話として伝えられてきたのです。 葛城族は弥生時代中期に、現在の御所市柏原の地に移って水稲農耕を始めました。 そして葛城川流域の鴨族と手を結んで部族国家を形成しました。 神武天皇が橿原宮で帝位につかれたというのも、この柏原の地であります。 <パンフレット高天彦神社より> |
岡田鴨神社 京都府相楽郡加茂町北小鴨村44 本社は、延喜式内の古社に列せられ、「日本三代実録」によると、貞観元年(859)正月27日、岡田鴨神に従5位上を授くと記されている。明治6年郷社に列せられた。「釈日本紀」の山城風土記の逸文によると、建角身命は日向の高千穂の峰に天降られた神で、神武天皇東遷の際、熊野から大和への難路を先導した八咫烏が、すなわち御祭神の建角身命で、大和平定に当たり数々の偉勲をたてられた。大和平定後、神は葛城の峰にとどまり、ついで山城国岡田賀茂(現在の加茂町・江戸時代までは賀茂村と書く)に移られ、その後洛北の賀茂御祖神社(下鴨神社)に鎮まるのである。賀茂氏族の発展を祈り岡田賀茂の地に洛北より賀茂明神を勧請し賀茂氏族の祖神、建角身命が祀られた。当社の御鎮座は、崇神天皇の御代と伝えられている。境内は、元明天皇の岡田離宮の旧跡と伝えられ、村人が離宮の旧跡を保存するためにこの地に天満宮を創祀したと伝えられる。和銅天平時代には、現在の木津川(古名-加茂川)は岡田山(流岡)の北側を流れていたが、その後木津川が南側を流れるように変化し、水害が頻繁になり、式内岡田鴨神社を旧社地より岡田離宮の跡である天満宮の境内に遷された。 <平成祭データ> |
久我神社略史 由緒 神社の旧記によれば、八世紀末、平安遷都に先立ち、桓武天皇が山背長岡に遷都され た延暦三年(七八四)頃、王城の艮角の守護神として御鎮座になった(秘伝神書抄) と伝えられ、以来千二百年の星霜を経た延喜式内社であり、久何神社とも号する。 一説には当社は往古、山背久我国造として、北山城一帯に蟠踞した久我氏の祖神、興 我萬代継神(三代実録)を祀った、本市における最も古い神社の一つであり、久我氏 の衰頽後、賀茂氏がこれに代わってその始神を祀ったのではないか。また、他の説で は、起源は古く、平安・長岡遷都以前に遡り、「山城国風土記」逸文に云う賀茂氏が 大和から木津川を経て、この久我国(葛野乙訓にわたる地方の古称)の伏見地方に居 をすえ、祖神を祀ったのが、当久我神社であり、更に賀茂川を北上して今の賀茂の地 に鎮まったと考えられる。と。 これらの事から、いずれにしても、歴史的に頗る深い由緒と信仰の跡を偲ぶことがで きるのである。尚、興味あることとして当地方の西の方(乙訓座火雷神)から丹塗矢 が当社(玉依比売命)にとんできて、やがて別雷神が生まれられたとも、此の里では 伝承されている。 |
大和葛城山は饒速日尊が大和に天孫降臨をしたとき、その従者天活玉命(大山祇命)の拠点である。賀茂建角身命が日向から戻ったとき、この地を訪れているということは、高皇産霊神の伝言を伝えたということが考えられる。その内容は日本列島統一に関するものであったろう。
この後、賀茂建角身命は山城国開拓に赴いたのであろう。久我神社の地に滞在しているときに溝咋神社の地で成長していた玉依姫がこの地にやってきて共に住んでいたものであろう。久我神社略史にある丹塗矢とは饒速日尊の子である事代主命のことであると思われる。
このように伝承を整理してみると、賀茂建角身命に関するもっとも古いと思われるものは、伊賀古夜姫命との結婚となるのである。賀茂建角身命はこれまでどこに住んでいて何をしていたのであろうか。これに関して伝承は全く存在しない。故意に隠されたとしか考えられない。賀茂建角身命の化身と伝えられている八咫烏はAD80年頃活躍した人物であり、賀茂建角身命自身であるならば、その年齢は70歳を超えていなければならない。ありえないとは言わないが、可能性は低いであろう。八咫烏は賀茂建角身命が育てた古代忍者集団と考えている。
賀茂建角身命と飛騨王国の関係
賀茂氏系図①②によると、賀茂建角身命は高皇産霊神或いは神皇産霊神のひ孫となっている。これら神のひ孫の代は神武天皇と同世代となり、数多くの伝承と時期が一致することになるが、賀茂建角身命の以降の代が一致しなくなる。これは明らかに系図が創作されているとみられる。
出自がはっきりしないということは故意に隠されていると判断して良いであろう。饒速日尊の系統は隠されることが多いが、そのほとんどは大国主命と置き換えられているので、この場合は判断しやすい。次によく隠されているのが飛騨王国の系統である。
玉依姫の謎
そのカギとなるのが玉依姫である。日向にも大和にも同一名「玉依姫」を名乗る別人がいて、共に大和朝廷につながる血筋である。これに関して検討してみよう。
玉依姫の伝承は以下のようなものである。
① 神武天皇の母としての玉依姫。豊玉彦の娘で、吾平山陵に鵜茅草葺不合尊と共に葬られている。
② 福岡県宝満山の竈門神社の祭神。周辺の宝満神社はこの神社からの勧請と思われる。山頂に玉依姫御陵があると言われている。東遷前の神武天皇が訪問。神武天皇誕生後に宝満山を訪れたと伝える。この玉依姫は神武天皇の母である。
③ 神武天皇皇后姫鞴五十鈴姫命の母で事代主命の妻。陶都耳(三島溝杭=賀茂建角身命)の娘。
④ 賀茂建角身命の娘で火雷命(事代主命)の妻となり賀茂別雷命の母。
①②の玉依姫はともに神武天皇の母であり、同一人物と思われる。③④も配偶者が共に事代主命と思われ、これも同一人物と判断できる。玉依姫は日向と大和両方に存在しており、しかも神武天皇及び皇后の双方の母となっているのである。
神武天皇の母としての玉依姫
飛騨高天原伝承では、「九州に天照大神の娘を3人降ろした」と伝えられている。神武天皇が即位の儀式に位山の笏木を使う、位山の主は神武天皇に天皇の位を与える、など皇位継承にかかわる伝承がある。飛騨国が皇位継承に深くかかわっていることを意味しているが、3人の娘が九州に降りたことと何か関わり合いがあるのだろうか。飛騨国もこれだけの歴史を持っているのであるから、簡単に日本国に取り組まれるとも思えない。余程重い条件があったと思われる。文字のない時代最も重い継承とは血のつながり以外に考えられない。つまり、神武天皇に飛騨王家の血筋が入っているということである。位山の主(飛騨国王)は神武天皇に天皇の位を授けているが、これは飛騨国王の位を神武天皇に譲ったとみてよいのではないか。これは神武天皇に飛騨王家の血筋が入っている場合のみ可能であろう。飛騨王家は長い歴史を持っているはずで、大和朝廷成立後に飛騨王家が残っていたのでは、後に大戦争が起こる可能性を残してしまう。未来永劫平和な日本列島として統一するには何としても飛騨王家の位を神武天皇に譲ってもらわなければならないのである。
神武天皇の系図上の人物で飛騨王家の血筋と考えられるのは玉依姫以外にはいない。神武天皇に飛騨王家の血筋が入っているとすれば、玉依姫は飛騨王家の娘となる。飛騨高天原伝承に「娘を3人降ろした」とあるので、この3人は瓊々杵尊・日子穂々出見尊・鵜茅草葺不合尊の妻となった吾多津姫・豊玉姫・玉依姫ではないか。 そうなれば一大政略結婚である。他の玉依姫も飛騨王家の娘ではないかと思える。
この説の可能性を考えてみよう。徐福の子孫である高皇産霊神は方々に散っていった一族と連絡を取り合っており、飛騨に国が形成され、相当古い歴史を持っていることを知っていたと思われる。歴史が古いということはこの人々を連合国家に取り込むのが極めて難しいことを意味している。倭国・日本国に加盟すればその長い歴史が断たれることになるので、簡単に加盟することはあり得ない。それでも無理に日本列島統一に臨めば戦争で滅ぼす以外に手がなくなる。どうしてもそれは避けたいと思った高皇産霊神は窮余の一策としての政略結婚を考えたのではないだろうか。瓊々杵尊・日子穂々出見尊・鵜茅草葺不合尊が自分の子であるためにできたことであろう。自ら率先して日向津姫との間にできた自分のすべての子に飛騨王国の娘と結婚させたのであろう。また、大和の饒速日尊の後継者の事代主命にも飛騨王家の娘と結婚させ、神武天皇・皇后の双方に飛騨王家の血を入れたのである。これだけ飛騨王家の血が入れば、飛騨王家が王位を神武天皇に譲ることもあり得るのである。そうでなければ飛騨王家が皇位継承に深くかかわっていること、日本国に加盟したことなど簡単には説明できない。
飛騨王家は三人の娘を一族と共に九州日向に向かわせた。この当時西倭国の都は国分の鹿児島神宮の地である。その近くで、祭祀すべきピラミッド型の山(開聞岳)のある薩摩半島最南端の山川に上陸した。上陸後豊玉姫と玉依姫は開聞神社の地に宮を作り一族と共に住み着いた。AD50年頃のことであろう。吾多津姫は大山祇命と共に加世田に住みついた。この三人の娘と瓊々杵尊・日子穂々出見尊・鵜茅草葺不合尊が政略結婚したものと考える。
この移動時期の直前に賀茂建角身命が日向に降臨しているのである。賀茂建角身命の日向降臨目的はその道筋を建てることにあったと考えられる。
宝満山の玉依姫について
玉依姫は北九州一帯において宝満神社として祭られており、相当強い信仰があったものと考えられる。伝承ではこの玉依姫は日向で神武天皇を誕生させた後、宝満山にやってきたことになっている。神武天皇誕生がAD58年で、神武天皇東遷時AD80年頃宝満山を訪れているが、この時玉依姫がいた節はない。玉依姫が北九州で活躍したのはAD60年頃からAD70年頃であろう。AD70年頃夫である鵜茅草葺不合尊が亡くなっているので、この時、日向に戻ったのではあるまいか。
玉依姫は何を目的として北九州にやってきたのであろうか。縄文国家飛騨国とのかかわりが考えられる。当時の北九州には弥生人が大挙して押しかけてきており、縄文人は細々と生活していたのではないだろうか。北九州は縄文人にとって日本列島内で最も住みにくい土地となっていたと思われる。玉依姫自身縄文人の血筋でありながら弥生人に嫁いであり、しかも将来の日本国王の母となろうとしているのである。弥生人と縄文人の仲立ちをするには最適の人物である。おそらく、弥生人と縄文人の仲立ちをして回ったのではあるまいか。
事代主妻の活玉依姫について
③の神武天皇皇后姫鞴五十鈴姫命の母で事代主命の妻。陶都耳(三島溝杭)の娘は活玉依姫といわれており、この人物も玉依姫である。事代主命は日本国王饒速日尊の後継者である。この後継者の妻も玉依姫なのである。この姫も飛騨王家の娘と考えている。
大山祇神━三島溝咋耳命━三島溝杙姫━━┓ (賀茂建角身命)(活玉依姫) ┣━姫鞴五十鈴姫 事代主神━━┛ |
大阪府の三島鴨神社では上のような系図が伝えられている。「大山祇神は九州から上陸したと伝えられており、大山祇神と饒速日尊は同世代と考えられ、また、事代主命は饒速日尊の子なので、饒速日尊の子と孫が結婚したというおかしな系図となる。鹿児島県加世田の大山祇神社の神は明らかに饒速日尊ではなく縄文人のようである。また、素盞嗚尊の妻となった稲田姫の祖父も大山祇神であるが、これは、土地の人物のようである。このように大山祇神はさまざまな人物の姿を併せ持っている神である。三島鴨神社の大山祇神は飛騨王家の縄文人を示しており、この地饒速日尊の上陸地なので、饒速日尊の姿も併せ持つようになったのではないかと推定する。 また、賀茂建角身命自身も日向曾の峰に降臨後この地に上陸していると思われる。
賀茂建角身命の娘としての玉依姫について
神皇産霊尊━天神玉命━天櫛玉命━鴨建角身命━┳━鴨建玉依彦命━五十手美命━麻都躬之命━看香名男命 ┃ ┗━玉依姫命━━┓ ┣賀茂別雷命 火雷神━━┛ |
天知迦流美豆比売は「天を領する、生命力に満ちた太陽の女」に由来するといわれている。大年神の妃神。川で洗濯をしていると、 丹塗矢が流れてきて懐妊したという。
また、三輪山の大物主神が丹塗矢に変じ,溝を流れて用便中の勢夜陀多良比売(せやだたらひめ)に近づき,のちに美男子に姿を変えて比売と結ばれたという話が見え,
《山城国風土記》逸文にも玉依日売が川を流れ下ってきた矢を床の辺に持ち帰って火雷神の子, 可茂別雷命を生んだという話がある。
これらは同じ説話のようである。そして、この系図上の玉依姫命は天知迦流美豆比売であることを意味している。猿田彦(佐太大神)誕生の際、その母・
枳佐加比目売(キサカヒメ)命が金の弓矢で、闇い窟に光をもたらすべく岸壁を射通したのが、 島根県の加賀潜戸と言われており、この話もよく似ている。枳佐加比目売の親も神皇産霊尊である。
枳佐加比目売、天知迦流美豆比売、玉依姫は同系統の女性すなわち飛騨王家の系統ではないかと考えている。
これらをもとに系図をまとめると、
┌────鴨建角身命┐ ┌─鴨建玉依彦命────五十手美命──麻都躬之命 │ ├──┤ │ 伊可古夜姫┘ └─玉依姫命──┐ ┌賀茂別雷命(天日方奇日方命) │ ├──┤ 高天原建彦┐┌大山祇命┤ 饒速日尊┐ │ └姫鞴五十鈴姫─┐ ├┤ │ ├────火雷神───┘ │ 春建日姫┘│ └─天知迦流美豆比売┘ (事代主命・大山咋命) │ │ ├綏靖天皇 (天照大神)└真鳥風───────豊玉彦───────玉依姫命─┐ │ ├─────神武天皇─┘ 鵜茅草葺不合尊─┘ |
飛騨国との交渉
賀茂建角身命は飛騨王家の系統の人物と推定する。明確な根拠は見いだせないが、系統が改竄されていること、行動の異常性、日向大和双方の玉依姫、飛騨国とのかかわりからこのように推定する。
飛騨王家=ウガヤ王朝と考えているのでウガヤ王朝の系図の中に賀茂建角身命がいるはずである。該当するのは天照大神の孫とされているウガヤ朝第69代神足別豊鋤天皇である。下の系図がウガヤ朝・飛騨口碑・賀茂系図をつないだ推定系図である。
ウガヤ朝・飛騨口碑・賀茂系図をつないだ系図 (出雲朝4代) (出雲朝5代) (出雲朝6代) ┏淤美豆神━━━━━━天之冬衣神━━━大己貴命 ┏積羽八重事代主命(出雲へ) ┃ ┃ ┃ 素盞嗚尊━━━饒速日尊━━━━━━━━━━━━━━┓ ┣春日建櫛甕玉━┓┏賀茂別雷命(天日方奇日方命) ┃ ┣━┫(事代主) ┃┃(72代) (出雲朝3代) ┃ ┏━━━━━矢野姫━━━┛ ┗下照姫 ┣┫ 豊葦原大彦┫ (神皇産霊神) ┃ (天知迦流美豆比売) (若彦妻) ┃┗五十鈴姫━┓ (深淵之水夜禮花)┃ 高天原建彦┓ ┃ ┏━鴨建玉依彦 ┃ ┃ ┗天津豊日足媛┓ (高皇産霊神)┣┳68代宗像彦天皇╋━69代神足別豊鋤天皇━━━┫ (70代)┃ ┃ (伊弉冉尊) ┣67代春建日姫天皇┛┃ (大山祇命)┃(鴨建角身命・味耜高彦根命)┗━活玉依姫━━┛ ┣綏靖天皇 66代豊柏木幸手男彦天皇┛ (天照大御神) ┃ (天活玉命)┃ (71代) ┃(74代) (伊弉諾尊) ┃ ┣━天津国玉━━━━━━━━━━御中若彦 ┃ ┃ ┃ (天若彦) ┃ ┃ ┗━━━━━━━阿多津姫┓ ┃ ┃ ┣━ ┃ ┃ 瓊々杵尊┛ ┃ ┃ ┃ ┗━━━真鳥風━━━━━━━━早草綿守┳━━━━━玉依姫━━┓ ┃ (豊玉彦)┃ ┣━神武天皇━┛ ┃ 鵜茅草葺不合尊━━┛ (73代) ┃ ┗━━━━━豊玉姫━━┓ ┣━穂高見命 日子穂々出見尊┛ |
飛騨王家と饒速日尊の最初の接触は饒速日尊が丹波国を統一する前のAD15年頃であろう。この直後饒速日尊は丹波国を統一し大国主命が越国を統一しており、北陸地方との交流が活発になっている。高皇産霊神は飛騨王国との交渉が日本列島統一の最大の壁であることも承知していたことであろう。このことから高皇産霊神が饒速日尊に飛騨王国との交渉に入るように指示していたと思われる。その指示を受け、丹波国統一前に、現在の富山県より神通川をさかのぼり、飛騨王と最初の交渉に入ったと推定する。
饒速日尊の母の神大市姫はおそらくウガヤ朝67代春建日姫天皇の妹であり、饒速日尊は春建日姫の甥にあたる。AD15年頃、饒速日尊は春建日姫に日本列島を平和的に統一する目標を持っていることを伝えた。春建日姫は饒速日尊を養子とし、孫の鴨建角身命(味耜高彦根命)を饒速日尊の養子としたのであろう。それぞれの王家の政略結婚による一体化によって平和的に日本列島を統一しようとしたのである。
鴨建角身命は味耜高彦根命として、幼少時饒速日尊に伴って出雲に行き、出雲で生活していたのである。AD15年頃からAD20年頃までであろう。その後、AD25年頃饒速日尊の天孫降臨団に実父の大山祇命と共に加わり、大山祇命と共に三島鴨神社の地に上陸したと思われる。その後AD30年頃丹波国を巡回している時に丹波国神野の伊賀古夜姫命を娶る事になったのであろう。
賀茂建角身命の降臨(八咫烏の正体)
この当時(AD30年頃)、九州に倭国、大和中心にヒノモトができていた。この2国はいずれ合併して日本列島統一王朝を作る計画があった。賀茂建角身命はその合併交渉の役割を負ったのである。そのために、AD40年頃賀茂建角身命は日向に降臨することになった。
賀茂建角身命は九州日向国に降臨し九州地方一帯の情報を集めると同時に高皇産霊神・日向津姫と話し合い、両社の三皇子(瓊々杵尊・日子穂々出見尊・鵜茅草葺不合尊)と飛騨王国の姫を政略結婚させることで話が決まった。AD40年頃のことであろう。
ところが日向にいた第二代倭国王が交渉に入る直前に蝮に咬まれて急死したのである。その後の出雲国譲り交渉に参加することになり、出雲国譲りが完了してAD50年頃再び大和に帰還した。
数年後賀茂建角身命は三嶋鴨神社の地に戻ってきた。この時葛城山麓にいた天活玉命や饒速日尊に高皇産霊神からの伝達事項を伝えたものであろう。また、飛騨国に三人の娘を日向に降臨させるように伝えたものと考える。
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