国譲り会議

 大己貴命関連地図

 九州は倭国から分裂し独立した。

国譲り会議

 倭国の不安定化

 朝鮮半島の技術は素盞嗚尊の活躍によって取り入れることができたが、それだけでは不十分であり、さらに進んでいる後漢の技術の習得し、 その技術を使って残された未統一地域の統一がこの危機を乗り切るのに急務であった。そのためには、指導力のある強力な国王が必要であったが、出雲にその人材がなかった。倭国全体を治めることのできる人物は素盞嗚尊以外にはいないのである。そのため素盞嗚尊祭祀を強化する必要があった。倭国の建て直しのためには、倭国の政治体系と祭祀体系を確立しなければならないのである。日向津姫、高皇産霊神が何とかしようと思っても出雲からの指示待ちでは何もできず、倭国の分裂は明らかで戦乱の時代が来ることが予想された。日向津姫、高皇産霊神の発言力は倭国全体には及ばなかったのである。そこで、高皇産霊神は日向津姫と相談し倭国から九州を独立させることを提案した。
高皇産霊神の考えをまとめると次のようなものである。
  1. 出雲中心域での素盞嗚尊祭祀の確立。
  2. 猿田彦命による出雲の統治権の確立。
  3. 忍穂耳命を国王として九州を倭国から独立させる。
  4. 対馬の豪族を取り込み後漢の技術を取り入れる。
  5. 九州内の未統一地域を統一し国力を充実させる。
  6. 東倭と再び合併する。
  7. 最終的に東の日本国と合併し、列島内の統一政権を作る。

 大国主の子である鳥鳴海命が出雲王家を引き継いだが、出雲王家=倭国王ではなく、出雲6代王の大国主命が素盞嗚尊より第二代倭国王に任じられていたにすぎないのである。そのため、鳥鳴海命が倭国全体を統治するには反対意見もあった。出雲も落ち着かない状態になっていったのである。第三代倭国王をすぐにでも決定しなければ倭国が分裂してしまうことは避けられない。カリスマ性を持っていた素盞嗚尊ほどの統治者はいないのである。やはり倭国全体を治めるには素盞嗚尊しかいないのである。そこで、素盞嗚尊祭祀の形で神となった素盞嗚尊の言葉を伝える人物(出雲国造家)をつくり、神(素盞嗚尊)の言葉として政治を行うと倭国全体が治められるのではないかと高皇産霊神は考えた。出雲中心域では素盞嗚尊の祭祀が散発的にしか行われていなかったのである。出雲中心域で本格的な素盞嗚尊祭祀を創める必要があった。国を治めるには祭祀を強化すると同時に強力な支配者が必要である。この支配者が出雲にはいないのである。

 大国主命の子供は以下のように整理される。
 
スセリ姫 子なし 大国主命は結婚後スセリ姫の激しい性格をきらい、近づかなかったようである。地方巡回に精を出したのも彼女から逃げると云う目的もあったと思われる。
八上姫 木俣神 スセリ姫の激しい嫉妬から八上姫は故郷に帰ってしまった。
奴奈川姫 タケミナカタ 越国に派遣している時に生まれた。越国王として活躍しており、出雲にはいなかった。
タギリ姫 アジスキタカヒコネ 別名三穂津姫で、高皇産霊神の娘である。大国主命ではなく、饒速日尊の妻となった。味鋤高彦根命は別名賀茂大御神=賀茂健角身命で大山祇命の子であり、饒速日尊の養子と推定。
トトリ姫 鳥鳴海 トトリ姫は素盞嗚尊長男八島野命(実際は五十猛命)の娘。出雲王朝第7代国王
カムヤタテ姫 事代主命
下照姫
カムヤタテ姫は大国主命ではなく大物主命の妻である。したがってこの二神は大国主命の子ではない。

 大己貴命は倭国王だったころ出雲にいたことはあまりないので、その後継者として考えられるのは実質、五十猛命の娘トトリ姫と大己貴命との子である鳥鳴海命しかいないことになる。この人物は出雲王朝第7代国王になっているのであるが、九州地方では全く知られていない人物である。出雲の統治には問題ないが第三代倭国王にするにはかなり無理があるといえる。

 国譲会議の必要性

 第三代倭国王の決定、倭国の安定統治、倭国と日本国の大合併構想など、難題が山積みになっている状態となった。しかしながら、有力者が各地に分散しているようでは意思決定ができないし、それぞれが勝手に取り組んだのでは争いの種となりかねない。関連人物を一か所に集めて会議を行う必要が出てきたのである。

 国譲会議の場所

 このような複雑な事情を解決するための会議はどこで行い、どのような人物を集めるのがよいのであろうか。之を示す神話が以下のものである。

<古事記>
 高天原から、最初は天穂日命が、次には天稚彦が国譲りの交渉役に遣わされるが、どちらも大国主命に従って、高天原に帰ってこない。そこで武甕槌神と天鳥船神(『日本書紀』では武甕槌神と経津主神)が遣わされ、稲佐の浜に剣を突き立てて国譲りを迫った。
 大国主命は、ふたりの息子に意見を求めた。釣りに出ていた事代主神は国譲りに承諾したが、健御名方神は反対した。そこで、健御名方神と武甕槌神の間で力競べが行われ、建御名方命が敗れてしまい、国譲りが実行された。敗れた健御名方神は諏訪まで逃げ、その地に引き籠もって諏訪神社の祭神になったとされている。

<日本書紀一書>
 大国主命のもとに高天原のふたりの神がきて、「あなたの国を天神に差し上げる気があるか」と尋ねると、「お前たちは私に従うために来たと思っていたのに、何を言い出すのか」と、きっぱりはねつけた。すると、高天原の高皇産霊尊は、大国主命の言葉をもっともに思い、国を譲ってもらうための条件を示した。
  その一番の条件は、大国主命は以後冥界を治めるというものです。さらに、大国主命の宮を造ること、海を行き来して遊ぶ高橋、浮き橋、天の鳥船を造ることなどを条件に加えた。大国主命はその条件に満足し、根の国に行った。

<出雲国風土記>
 国譲りにさいして、大国主命は、
「私が支配していた国は、天神の子に統治権を譲ろう。しかし、八雲立つ出雲の国だけは自分が鎮座する神領として、垣根のように青い山で取り囲み、心霊の宿る玉を置いて国を守ろう」
 出雲以外の地は天孫族に譲り渡すが、出雲だけは自分で治める、と大国主命は宣言している。譲るのは、出雲の国ではなく、葦原中つ国そのもの、すはわち倭国の支配権というわけである。

 この三種の国譲りを見て言えるのは戦闘が主ではなく、話し合いが主である。話し合いで互いに条件を出し合い交渉をして、国譲りを実現していることが分かる。日本書紀一書にある、大国主命が以後冥界を治めるということは、大国主命がこの時すでに亡くなっていることを意味している。大国主命が会議の後処刑されたことも考えられなくはないが、これら文章はそんな殺伐としたものに見えない。すでに亡くなっていると考えた方が前後がスムーズにつながる。

 倭国の将来を決定づける重要な話し合いである。遠く離れた地で交渉するのも不自然である。一か所に集まって会議をしたと見るのが自然であろう。参加した人物は上の文章から判断して、高皇産霊神(日向国代表)、饒速日尊(=武甕槌神・ヒノモト代表)、事代主命、建御名方命(越国代表)である。前後の出来事を考えると、他に五十猛命(紀伊国代表)、天忍穂耳命(北九州東部代表)、猿田彦命(北九州西部代表)、鳥鳴海(出雲国代表)、賀茂建角身命(飛騨国代表)が加わっていると判断する。

 会議の場所はどこであろうか、出雲国が倭国の中心地なので出雲国のどこかと思える。次の伝承が参考になる。
 「島根県口碑伝説集・十六島の岬」の記事
 大国主命は国譲りの問題が起こると、子供の建御名方命を信州から呼び寄せ、協議した。建御名方命は承知せず、信州諏訪の湖へ走らんとした。そこで、天神軍は天鳥船に追及させた。この時、建御名方命は事のいきさつを事代主命に諮らんとして、今の十六島の岬から上陸して、今の東万田(島根県出雲市万田町)に着いた

 この伝承は建御名方命を出雲に呼び寄せたことを意味している。信州から呼び寄せたことになっているが、この時点では越国にいたはずなので、越国から呼び寄せたものであろう。「建御名方命は承知せず、信州諏訪の湖へ走らんとした。そこで、天神軍は天鳥船に追及させた。」を削除すれば、全体の意味が素直につながり、「十六島から上陸して東万田に着いた」というのが、会議に参加するために来たという意味にとれる。

島根県出雲市湖陵町差海891にある佐志武神社の伝承
「出雲国譲の際に、両祭神(建御雷神・経津主神)が当地から進み(ススミ)出たという。ススミ、ススム、サシムと変化した。」
両祭神は、国譲りの交渉のため当地へ上陸(あるいは降臨)したとおもわれる。ちなみに『神国島根』によると、上古は出雲大社の西の杵築浦から、当社の南の田儀浦までを稲佐の浜と呼んだという。

 斐川町鳥井の鳥屋神社(祭神建御名方命)。この神社は大きな岩の上にある。この岩は建御名方命が建御雷命との多芸志の小汀の決戦で建御名方命が投げた岩と言われている。多芸志の小汀とは今の出雲市武志町と言われており、その位置に鹿島神社がある。

 古事記によると「国譲りの大国主命の条件を受けいれて高天原の神々は出雲の多芸志の小浜(武志町)に立派な宮殿を造り水戸の神(水門の神)の孫の櫛八玉命(くしやたま)が膳夫(料理を含めた接待役)を掌り、姿を鵜に変え海中に入って藻や魚をとって料理し、土で器を造りもてなした」とある。
 武志町には板御膳原(いたごぜんばら)という地名がある。昔の膳夫神社跡である。度々の水害で、明治44年(1911)鹿島神社に合祀されたという。この伝承は国譲会議の時の食事を意味しているのではあるまいか。

 これらの伝承を総合して判断すると会議が行われたのは出雲市武志町の鹿島神社の地と思われる。斐伊川の河口付近である。饒速日尊は先に日向国の高皇産霊神と会い根回しをしていたと思われる。饒速日尊と高皇産霊神は一緒に湖陵町差海に上陸し、建御名方命は十六島を経由して河下湾に上陸して、出雲市武志町までやってきたのであろう。ここで、一同が会して国譲会議(日本列島統一会議)が行われたと考える。

 国譲会議の決定事項

 第一議題 倭国分割について

 日向で急死した大国主命の子は木俣神、建御名方命、鳥鳴海の3神である。第三代倭国王の条件としては素盞嗚尊の血統かどうかが重要である。須勢理姫との間に子があれば一切問題はないのであるが、須勢理姫との間に子がなかったのである。木俣神、建御名方命は素盞嗚尊との血縁はない。素盞嗚尊と血縁を持つのは鳥鳴海命である。該当するのは鳥鳴海命しかいない。鳥鳴海命が第三代倭国王の候補となるべきであるが、日向の日向津姫や高皇産霊神にとっては無関係な人物であり、日向勢は猛反対するであろう。鳥鳴海命は出雲古来の王家出雲王朝第7代国王を引き継いだ。大国主命は須勢理姫と結婚したため、倭国王と兼ねることができたが、鳥鳴海命の場合は日向勢の反対のため、出雲王家が倭国王を兼ねることができなかったのである。

 出雲で国王となれる人物は九州には全く知られておらず、九州で国王となれる人物は出雲では全く知られていないという状態であった。このままでは、だれが第三代国王になったとしても国中を治めることはできないことが確認された。そこで、高皇産霊神は倭国の分割を提案した。

 倭国を分割することのメリット

 素戔嗚尊の最終目標は日本列島の平和統一である。高皇産霊神をはじめとする倭国を代表する人々の思いも同じであった。理想は、倭国を安定統治し、倭国王とヒノモト国王との政略結婚による国の対等合併で日本列島を一つにまとめることであった。ここで、倭国を分裂させてしまえば、目標から遠ざかるように思えた。しかし、誰を国王にしても倭国全体が統治できない状態で無理に第三代国王を決定したとしても、いずれ分裂してしまうことは明らかである。それよりは、いずれ政略結婚による合併をすることを前提としてそれぞれの国を充実させたほうがまとまりやすいのではないかと考えたのである。

 また、南九州地方の問題もあった、南九州地方はこの時点でまだ統一されていなかったのである。南九州地方を統一するにはかなり労力を必要とすることもわかっていた。南九州を統一するには政略結婚がかなり有効と思われたが、出雲中心ではかなり難しく、国王自身が九州を拠点として動く必要があった。そうすれば、出雲が不安定化することになるのである。

 素盞嗚尊が九州を統一してから九州中心として倭国が動いており、故国出雲はほとんど放置状態で、出雲の人々としてはそれが不満であった。これが、AD25年ごろ素盞嗚尊は出雲に帰還することになった一要因である。出雲を放置していたのでは出雲の倭国からの分離独立の危機があったのである。素盞嗚尊が出雲に帰還することによって分裂の危機は回避できたが、第二代倭国王大己貴命が都を出雲に遷すことによって、出雲は落ち着くことになった。しかし、今度は九州が分離独立の危機を迎えることになるのであった。

 倭国が巨大化しすぎたので、一つにまとめるには難しい情勢だったのである。まだ未統一の地域がある状態で出雲と九州の対立を抱えるのは将来のためにならないと判断し、倭国を分割することに会議参加者は納得し、倭国の分割が決まった。

 出雲を中心とするのは、山陰地方、瀬戸内海沿岸地方、紀伊国、越国、丹波国であり、以後東倭と呼ぶことにし、九州を中心とするのは、九州地方、南四国地方であり、以降西倭と呼ぶことにする。

 第二議題 分割後のそれぞれの国王の決定

 東倭王の決定

 倭国が分裂したとしてもいずれ合併するのであるから、互いに関係を持った人物が国王になる必要があった。東倭王の候補として鳥鳴海命があったが、統一事業に参加していなかったので、出雲国内しか知られていなかった。瀬戸内海沿岸地方の豪族の発言力も強かったと思われ、彼らが反対していたと思われる。

 素盞嗚尊の子のうち、出雲・日向の人々から最も信頼されているのは饒速日尊(大歳)命である。東倭王としては饒速日尊の子しかいないことになった。該当するのは北九州で活躍している猿田彦命と大和で誕生した事代主命である。末子相続の原理からすると事代主命となる。事代主命が出雲国の統治者としてふさわしいと思われた。饒速日尊の子の事代主命は二人おり、弟の事代主命(玉櫛彦命)ヒノモトの後継者なので、兄の積葉八重事代主命が出雲国の後継者に推薦された。この当時10歳前後と思われ、倭国王とするのは無理である。後見人として猿田彦が選ばれることとなった。

 猿田彦命は素盞嗚尊の孫であり、饒速日尊の子である。伊邪那美命が出雲にやってきたAD15年頃、佐太大社の地で合議制の政治をしており、住民から絶大な人気を誇っていた。出雲に伊邪那美命がやってきた時、伊邪那美命を向かい入れ、伊邪那美命の世話していたのではないだろうか。このように、出雲にいるころ活躍しており、出雲の人々には絶大な人気があったのである。この猿田彦命が出雲を治めるとなれば出雲の人々が反対することはないと予想された。

 西倭王の決定

 西倭国の方は天忍穂耳尊で異論はなかった。素盞嗚尊と日向津姫との間の子で、両親ともに九州地方でよく知られていた。南四国地方も天忍穂耳尊が一時期統治していたので、西倭国全域を統治するにはふさわしい人物であった。

 西倭の統治者を忍穂耳命としたのは、忍穂耳命は素盞嗚尊と、日向津姫の間にできた子であるというのに加え、 高皇産霊神の娘婿であるという要素が強かったに違いない。

 紀伊国・越国のヒノモトへの所属替え

 倭国を分割することになったが、紀伊国と越国の扱いが問題となった。原案では共に東倭に所属することになっていたが、東倭王に決定した事代主命・後見人の猿田彦命共にこの両地域の人々には認識がないのである。また、出雲から遠く離れており、独立論が出る危険性が考えられた。むしろヒノモトの支配領域にしたほうがうまく治まると考えられ、この両国のヒノモトへの所属替えが決まった。

 紀伊国王である五十猛命は納得し、出雲に帰還することになったが、越国王の建御名方命は納得せず、猛反対をした。

 猿田彦命統治領域の譲渡

 北九州中心領域(伊都国)は、この時点でまだ倭国に所属していないのである。伊都国を倭国に所属させるには、海外交易の利権を倭国で確実に確保する必要があった。海外交易の拠点は対馬であったが、対馬はこれまで出雲との関係が深かった。しかし、伊都国を倭国に所属させるためには海外交易の実権を握るために対馬を西倭に所属させる必要があった。海外交易の実権さえ握れば、西倭が主体になって外国の先進技術を導入し、その技術でもって伊都国を倭国に所属させることができると考えていた。

 西倭が海外交易の実権を握るには猿田彦命の統治領域の北九州北西部の統治権を譲ってもらわなければならなかった。猿田彦命は譲渡に賛成した。

 素盞嗚尊祭祀の強化

 この考えを実行するためには、まず、出雲の人々を承諾させねばならなかった。そのために、日向津姫の次男である穂日命を出雲に派遣しすることにした。根回しが完了した時、猿田彦は北九州東部(豊国)の忍穂耳命に北九州西部(筑紫国)を譲り渡して東倭王に就任し、忍穂耳は西倭王となる事の大体の了承が得られた。

 反対したと思われるのが出雲統治者の鳥鳴海と、越国の建御名方命であろう。大国主命は第二代倭国王である。その王の子にはそれなりの立場が必要であったが、素盞嗚尊との血縁関係を考えると難しい問題が起こったのである。第一子の木俣神は徳島の八倉姫の葬儀の時に出てくるので阿波国に派遣されていると思われる。鳥鳴海命と建御名方命はそれなりの立場を考える必要があった。

 そこで考え出したのが祭政分離である。鳥鳴海は古来からの出雲王朝の血を引いているので、出雲国王として今後代々出雲国を治める権限を与えようとしたが、鳥鳴海命自身出雲国以外にはほとんど無名であり、広大な倭国を統治するには不安があった。鳥鳴海命は出雲国(狭義で現島根県東部地方)のみの王とし、東倭王は事代主命とし、その後見人を猿田彦命とした。これは、出雲風土記の大国主命の言葉、
「私が支配していた国は、天神の子に統治権を譲ろう。しかし、八雲立つ出雲の国だけは自分が鎮座する神領として、垣根のように青い山で取り囲み、心霊の宿る玉を置いて国を守ろう」
この言葉から推定したものである。以降鳥鳴海の子孫が出雲国王として出雲国を治める様になった。

 この提案に鳥鳴海命は納得し、以降出雲王朝が第15代トオツヤマサキタラシまで、代々継続することになった。

 収まらないのが建御名方命である。大国主命の後を継ぎ越国王として、越国をまとめてきた。素盞嗚尊に対する憧れがあったのか、日本国に所属することに反対した。最後まで建御名方命が納得することはなかった。やむを得ず、越国はそのまま倭国に所属するという形で結論を出した。

 倭国全体では素盞嗚尊に対する信頼は絶大なものであったが、素盞嗚尊はもうこの世にいないわけである。しかしながら、死後でもその威力を発揮してもらうには素盞嗚尊に対する祭祀を強化して、その祭祀者の言葉として倭国全体を統治できないものかと考えた。倭国は分裂することになったわけではあるが、いずれ合併しなければならない。素盞嗚尊の言葉となれば倭国の人々はそれに従うのである。東倭・西倭共通の陰の統治者として素盞嗚尊祭祀を強化することを提案した。これが、熊野大社の創始であろう。

 第三議題 日本列島の統一(倭国と日本国との大合併)

 素盞嗚尊の最終目標は日本列島をひとつの国として統一することであった。これを最終目標とすることには誰も異存はなかったが、具体的手法に関しては意見がまとまらなかったのである。

 高皇産霊神にとって最も不安に感じていたのが、ヒノモトの饒速日尊である。成り行きとはいえ倭国とは別の国を作ってしまったということが、将来日本列島を二分割し、互いに争い、どちらかが相手を滅ぼすという最終戦争につながることを最も恐れていた。饒速日尊もその気持ちは一緒であった。饒速日尊はこれが議題になった時、次のような会話が想定される。

 饒速日尊:「大和を統一する時、縄文連絡網の活用に必要性から、やむなく、ヒノモトを作った。今、私は東日本一帯の統一事業を行っている。あと数年で統一できると思う。その後なんとかして大合併を実行する。」
 高皇産霊神:「具体的にはどのようにして大合併するのか。」
 饒速日尊:「互いの後継者通しを政略結婚させたらどうだろうか。」
 高皇産霊神:「それは良い考えだが、その時期はいつ頃か。」
 饒速日尊:「5年後ぐらいに互いの後継者を選定し、10年後ぐらいに大合併ではどうか。」
 高皇産霊神:「了解。それでは東倭国はどうするか」
 饒速日尊:「西倭国と日本国が大合併してしまえば、体制が決まるので、その時の話し合いでなんとかなるのではないか」
 高皇産霊神:「その時まで我々は生きていないだろうから、後継者をしっかりと育てよう」

 もっともこの内容に関しては、国譲会議の時ではなく、饒速日尊が先に高皇産霊神のもとに赴いていることから、すでに根回しができていたのではないかと思われる。

 大合併に関しては、大筋の合意が得られたので、5年後ぐらいに再び話し合うことで決着した。各自それぞれの国に帰り、決定事項を実行することになった。

 饒速日尊、高皇産霊神の娘三穂津姫と結婚

 日本書紀記録

 高皇産霊尊が大物主神(大国主の奇魂・和魂)に対し「もしお前が国津神を妻とするなら、まだお前は心を許していないのだろう。私の娘の三穂津姫を妻とし、八十万神を率いて永遠に皇孫のためにお護りせよ」と詔した

 この日本書紀の記録は何を意味しているのであろうか。

 饒速日尊の妻とされている人物はこの時までに岐佐貝姫・天道日女・天知迦流美豆比売・御炊屋姫の4人いるが、いずれも飛騨系の縄文人(国津神)である。弥生系の人物は一人もいなかった。ヒノモトは饒速日尊を中心として日の出の勢いであり、それに対して倭国は分裂の危機である。倭国は成長したヒノモトに吸収合併されてしまうのではないか、あるいは、饒速日尊を創始者をするヒノモトが倭国を無視して完全な独立国になってしまうのではないかということである。

 高皇産霊神はその不安を解消するために自らの娘三穂津姫と結婚することを勧めた。この三穂津姫は時期からして、おそらく、高皇産霊神と日向津姫の間の娘ではないかと考えている。

 饒速日尊自身は最終的に倭国とヒノモトの合併に同意していたが、高皇産霊神の不安解消のために、三穂津姫と結婚することを承諾した。

 饒速日尊は結婚後の新婚旅行先として、静岡県の三保の松原を選んだのであろう。

 御穂神社(三保松原)伝承

 「大己貴命は豊葦原瑞穂国を開きお治めになり、天孫瓊々杵尊が天降りなられた時に、自分の治めていた国土をこころよくお譲りになったので、天照大神は大国主命が二心のないことを非常にお喜びになって、高皇産霊尊の御子の中で一番みめ美しい三穂津姫命を大后とお定めになった。そこで大国主命は三穂津彦命と改名されて、御二人の神はそろって羽車に乗り新婚旅行に景勝の地、海陸要衛三保の浦に降臨されて、我が国土の隆昌と、皇室のいや栄とを守るため三保の神奈昆(天神の森)に鎮座された。これが当御穂神社の起一般民衆より三保大明神として親しまれています。彦神は国土開発の神様で、姫神は御婦徳高く、二神は災いを払い福をお授けになる神様として知られています。」

 この伝承では大国主命となっているが饒速日尊の事であると思われる。

 

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