越国統一

 AD18年頃出雲に帰還した素盞嗚尊は饒速日尊を丹波王国の統一に向かわせた直後、第二代倭国王に就任したばかりの大国主命に最初の仕事として、越国統一を命じた。素盞嗚尊は大国主命が越国へ出発するのを見送ってから、倭国の都建設のために、宇佐に戻った。

 大国主命の越八口平定伝承 

北陸地方の大国主命関連伝承
布宇神社 八束郡玉湯町の宍道湖畔 天下造り坐し大名持命越の国に向かわんとしての途次、この郷の樹木の繁茂しているのを見そなわして、わが心の『波夜志なり』と詔い、この地の名称となった。」
気多大社 石川県羽咋市 七尾市所口にある能登生國玉比古神社が、本宮と云われ、上世の昔、大己貴尊が出雲より因幡の気多崎に至り、そこから当国へ渡って平定し、その後、所口に鎮祭され、孝元天皇の頃に宮社を建立。」
『羽咋郡誌』気多神社の「創立の由緒
 「大己貴である気多神は、越の北島(現在の羽咋市近辺)からまず鹿島郡神門島(能登金剛)に着き、七尾の小丸山を経て口能登、さらに鳳至珠洲二郡の妖賊・衆賊を平らげ、現社地に至った。」
・ 神社名鑑による気多大社御由緒
御祭神大己貴大神は国土修営のため越の北島より船で七尾小丸山に入り、宿那彦神等の協力を得てこの地方の賊徒を平定せられた。その恩典を慕いこの地に奉祭した」
久延比古神社 石川県鹿島町久江 祭神の久延毘古神は、大己貴命、少彦名命とともに越の北島から当地に来て、邑知潟の毒蛇を退治して、久延の谷内に神霊を留めたという。
能登生國玉比古神社 石川県七尾市所口町ハ48 祭神・大己貴神が出雲国より所口の地に至り、人々を苦しめていた、湖に棲む毒蛇を退治し、当地に垂迹した。よって当社を本宮と称す
能登生国玉比古神社 鹿島郡中能登町金丸セ35 祭神多食倉長命は神代の昔、能登国に巡行された大己貴命 少彦名命と協力して国土の平定に神功をたてたまい、能登の国魂の神と仰がれた。その姫神市杵嶋姫命(又の名伊豆目比売命)は少彦名命の妃となって菅根彦命を生み給うた。これ金鋺翁菅根彦命で金丸村村主の遠祖である。神主梶井氏はその裔である。
能登部神社 鹿島郡中能登町能登部上ロ70 当社は能登国造の祖能登比古神及び能登臣の祖大入杵命を祀る。
 社伝に大己貴命 当地に巡行ありて、わが苗裔たれと、式内能登生国玉比古神社は当社なり。
 その後 崇神天皇の皇子大入杵命、当地に下向あり殖産興業の道を開き給う。薨し給うや郷民その徳を慕い郷土開拓の祖神として崇め祀る。
鎌の宮神木 鹿島郡鹿西町金丸正部谷 祭神 建御名方命は、大巳貴命の御子神で、大己貴命、少彦名命の二神と力をあわせ、邑知潟に住む毒蛇化鳥を退治、能登の国平定の神功をたてられた。
宿那彦神像石神社 石川県鹿西町金丸村之内宮地奥ノ部一番地< 社記に依れば、上古草味当国に妖魔惟賊屯集し殊に邑知潟には化鳥毒蛇多く棲みて、人民の疾苦言はん方なし。 ここに少彦名命、大己貴命は深く之を憂へさせ給いて、是の上に降り誅伐退治し給いければ、国内始めて平定し人民少々安堵するを得たれども、後患をおもんばかりて少彦名命は神霊をこの地の石に留め、大巳貴命は気多崎に後世を鎮護し給えり。 是社号の由て起こる所なりと
御門主比古神社 七尾市観音崎 大己貴命が天下巡行の時、能登の妖魔退治のため、高志の北島から神門島(鹿渡島)に渡ってきた。その時、当地の御門主比古神が、鵜を捕らえて大己貴命に献上、あるいは、櫛八玉神が御門主比古神と謀って鵜に化け、魚をとって、大己貴命に献上したという
高瀬神社 富山県南砺波市 在昔、大己貴命北陸御経営の時、己命の守り神を此処に祀り置き給いて、やがて此の地方を平治し給ひ、国成り竟(お)えて、最後に自らの御魂をも鎮め置き給いて、国魂神となし、出雲へ帰り給ひしと云う
牛嶽神社 富山市旧山田村鍋谷 昔、大国主命が越の国平定の際、牛に乗って牛岳に登り長く留まったと云われている。牛岳の名の由来は昔、大国主命が越の国平定の為、くわさき山(牛岳の古名)、三っケ峰に登り、谷々の悪神を服従させていた時、乗ってきた牛を放したことから名づけられたという。麓の人々は祭日を決め田畑で採れた物を供え、大国主命を敬った
気多神社 富山県高岡市伏木 祭神 大己貴命・奴奈川姫。大国主命は伏木港より船出して越の国、居多ヶ浜(上越市)に上陸したという。
居多神社 新潟県上越市 大国主命は、居多ケ浜に上陸し身能輪山あるいは岩殿山を根拠地とし、越後の開拓や農耕技術砂鉄の精錬技術などを伝えたという

奴奈川姫関連伝承

居多ヶ浜 上越市 大国主命が上陸した所
身能輪山 大国主命の宮殿があり、そこから奴奈川の里にやってきたのであるが、姫と歌を交わした日は身能輪山の宮殿に一度帰った。翌朝早く再び出発し、奴奈川姫命を訪れ、結婚した。命はしばらくこの里で暮らし、翡翠の加工技術や販売の指導などしたという。この仕事が軌道に乗ると后の姫を連れ身能輪山の宮殿に戻った。
岩殿山 岩殿山の岩屋で建御名方命が誕生した。この時産婆役をしたのが乳母嶽姫命といい、ヒカゲノカズラを襷に岩屋から湧き出す清水を産湯にしたという。明浄院という寺の境内に岩屋がある。岩屋は胎内岩と呼ばれ、一帯は子産殿(こうみど)といわれている。

奴奈川姫との結婚伝承(伝承でつづる奴奈川姫命物語より)

 結婚に先立ち奴奈河姫の住む里を見ようと身能輪山を出た大国主は鳥ケ首岬を過ぎたところで姫の里が見えたので大声で「奴奈河姫」と叫び浮き名が立ってしまつた。そこで名立という地名ができた。ところで結婚はすんなりいつたわけではない。地元豪族がこれに反対した。能生の夜星武は日本海の海賊だつたが、結婚に反対したので大国主は后の一人(因幡姫)を彼の嫁にくれたところ鬼と言われた夜星武が舞って喜んだので鬼舞の地名ができた。
 また、後に大国主が訪れたところ彼はもらった后を連れて出迎え服従を誓ったので鬼伏せという地名ができた。美姫奴奈河姫に想いを寄せていた根知の根知彦は大国主の出現にひどく怒り身能輪山に乱入した。周囲の酋長が仲裁に入り山の上からの飛び比べに勝った方が奴奈河姫を娶ることとなった。場所は奴奈河の里の奥山駒ヶ岳でおこなわれた。青光する神馬に乗ってとんだ根知彦は別所まで飛び岩にひずめの後を残した。続いて牛に乗った大国主が飛んだ所根知彦のひずめの後より少し先へ飛んだので大国主の勝ちということになったが根知彦はもう一度勝負を提案し二回戦が行われた。根知彦が再び飛んだ瞬間当たりが暗くなり「オー」という天の神の声とともに稲光が走り根知彦の神馬にあたった。神馬は石と化し山の中腹に落ちた。その神馬は駒ヶ岳の山腹に飛んだ姿のまま今ものこっている。大国主の勝ちは決定し姫と結婚することになつた。そこで飛び比べのあつた山を駒ヶ岳と呼ぶようになったとか。


奴奈川姫のその後の伝承(伝承でつづる奴奈川姫命物語より)

          不吉な知らせ
大国主命と奴奈川姫命の間に我が社の御祭神建御名方命がお生まれになり、豊かな暮らしがつづいていたがそこへ、大国主の父が亡くなったという知らせが長男八重事代主命より届いた。命は心配する高志の酋長たちにこの国は息子建御名方命に任せるので後見を頼み、出雲へ帰ることになった。帰るに当たり命は姫に一緒に出雲へ行くよう説得する。しかし、姫は出雲へ行くことを嫌った。出雲にはイナダ姫、須世理姫など美しい多くの后がおり、イナダ姫は中でも嫉妬深い后であったからであり、また姫には大切な翡翠を守らねばならないという願いが強かった。承知しない姫に困った大国主は家来に命じ、姫の夜眠っている間に船に乗せ七尾港に運ばせた。翌朝目を覚ました姫は船の中にいることに驚き、事態を覚った姫は何とか脱出しようとチャンスをねらった。

            姫の逃走
七尾港で一週間ほどたった暗い夜幼少のころから仕えていた人たちが小舟で助けに来た(出雲から逃げてきたという話もあるようだ)。脱出した姫はまず故郷の福来口の洞窟に逃げたが、姫を連れ戻すよう命令された大国主の追っ手が早くもやってきた。姫は姫川の対岸へ逃げようとした。しかし姫は対岸に渡ろうとせず川上の今井に逃げた。そこでこの川を姫めが渡るのを厭がったので厭川と名が付きその後糸魚川となったとか。今井は姫を育ててくれた乳母の里で一行は西姥が懐で休息し、東姥懐でも休息。福来口と今井との間には子供のころ遊んだ船庭の池もあって昔を懐かしむ間もなく追ってに追われ姫川に沿って根知谷に逃げた。伝承に残るところをつなぐと、別所、大久保を経て、小谷村後悔が原に潜む。そこへ息子が来て出雲に行くよう勧めたが断った。息子は仕方なく身輪山の宮殿に戻った。姫は自分攻めた、そこで後悔が原という地名ができたとか。その後姫が淵(姫が淵は白馬にもあるようである)までやってきて姫は淵に身を投げたがお供のものに救われた。

          夜星武、姫を助ける
そこで姫は再び息子のいる宮殿の方に行こうと根知谷の方に戻り御前山から山伝いに逃げ平牛山にきたここで姫は食器などを追っ手に気づかれないよう埋めて隠した。ここに飯塚の森という塚がある。追っ手が来たので稚児が池に逃げそこに飛び込んだがまたお供の者に助けられ、池の周りの茅の中に身を隠した。追手は茅原を囲んで探したが見つからない。そこで茅に火をつけ出てくる所を捕らえることとした。しかし焼き払っても姫は出てこなかった。姿も見えない。死んだものとしてジンゾウ屋敷を作り裏山に剣を埋め姫の霊を祀った。しかし、姫は死んでいなかった。能生の海賊夜星武(よぼしたける)が茅の原に穴を掘って助けたのである。姫は島道の滝の下まで逃げてきた。ここは姫誕生の地と言われ胎内岩屋がある。産湯に遣ったという岩井口清水がある。姫はここでしばらく逗留した。

          吉が浦の宮殿で天寿を全う
追手がこないので安心した姫は大沢山の山頂に護身の矛をもう使わないと言って共の者に奉納させた。それからこの山を矛が岳と呼ぶようになったとか。
また、追ってが来たという知らせで姫は矛が岳に逃げようと決心。権現岳からその山を目指した。権現岳の下で水を飲むため杖で岩盤をつくと清水がわいたここを横清水と呼んでいる。岩盤を登りはじめたが滑るのでくつを脱いだ。ここをわらじのぎというそうだ。追手がこないと知り、ませ口の源泉のところに下り、眺めのよいここに逗留すこととした。ここは宮地と呼ばれた。ここに息子健御名方命がやってきた。宮殿に帰ることを勧めたが承知しないので吉が浦に宮殿を建ててあげた。姫はここで天寿を全うした。この宮殿跡が姫の墓と言われている。その後、源義朝の家来が沖から神像を引き上げその墓の上に姥が嶽姫として姫を祀た。現在姥が嶽神社となっている。

これらの伝承をもとに大国主命の越平定の経路を推察すると、
AD20年ごろ、出雲国斐伊川河口付近を出港→八束郡玉湯町→鳥取県気多岬→越の北島(羽咋)→能登金剛→鳳至珠洲→七尾市観音崎(御門主比古神社)→七尾市小丸山→高岡市伏木→居多神社(奴奈川姫との結婚)→高瀬神社→七尾市所口(能登生國玉比古神社)→邑知潟(久延比古神社)→口能登(羽咋・気多大社)→出雲帰還
期間は5年程といったところであろうか。大国主命の越訪問の目的は賊徒平定というよりは、高度な技術を示して越の国を倭国連合に加盟させることであろう。饒速日尊の努力により飛騨国からの協力が得られており、さらに越地方はこの頃まだクニと呼ばれるほどのものはなく、比較的簡単に国としてまとめあげることができたと思われる。しかし、考古学的には出雲の影響はほとんど見られず、むしろ畿内とのつながりが深くなっている。おそらく、大国主命が越をまとめてすぐに饒速日尊のまとめたヒノモトとの交流が盛んになったためであろう。 出雲としては出雲国譲り事件が起こったために越との交流は以後断たれてしまったと思われる。その時期はAD30から40年頃と推定する。

 大国主命は越国にいる時に縄文人(飛騨国関係者か?)の奴奈川姫と結婚し建御名方命を設けた。大国主命は第二代倭国王になる予定の人物である。飛騨国王春建日媛も大国主命と縄文人との血縁関係を要求したのではないか?しかし、現地の縄文人の中には弥生人との結婚に反対する勢力もあり、伝承にあるような対立が起こったと考えられる。

 出雲に帰還した理由が大国主の父が亡くなったからと言われているが、大国主の父とは誰であろうか?実父は天冬衣命で、義父は素盞嗚尊である。素盞嗚尊が亡くなったのはAD30年頃で、素盞嗚尊の死が元で帰還したのであれば、大国主命は10年ほど越国にいたことになる。そう考えても大きな矛盾はないが、この後の倭国巡回を考えると出雲に帰還した時、素盞嗚尊は健在だった方が自然である。また、素盞嗚尊の死であれば伝承に於いて素盞嗚尊という名が出てきてもおかしくないと考える。よって、この大国主の父とは天冬衣命と判断する。また、その知らせを長男事代主命が知らせたとあるが、大国主命の長男は木俣神であり、事代主命は饒速日尊の子である。また、この時事代主命はまだ生まれていない(40年頃誕生)とおもわれる。父の死を知らせたのは木俣神であろう。この伝承により、建御名方命は出雲には行かなかったことになる。建御名方命はこれ以降越国の王として活躍することになる。大国主命が父の死の知らせを受けた時、おそらく高岡市の気多神社の地に滞在していたものと判断する。

 大国主命はAD25年頃、出雲に帰国した。

 越八口平定伝承関連地

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大国主命地方開拓
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越国国譲り