大己貴命と天日槍命の国占争い

 大己貴命の播磨国開拓の最後の地が宍粟市一宮町須行名の伊和神社の地である。この地は内陸の地で、有馬近くまで統一した大己貴命がこの地に戻ってきていることになる。どうしてこのような地が播磨国開拓の最後の地になったのであろうか。

 それに関する伝承が大己貴命と天日槍命の国占め争いである。

御形神社   宍粟郡一宮町森添280
 当社のご祭神は葦原志許男神と申し、又の御名を大己貴神とも申し上げます。志許は、元気のある、武勇に優れた、或は神威赫たる神という意味であります。この神様は、今の高峰山に居られて、この三方里や但馬の一部も開拓され、蒼生をも定められて、今日の基礎を築いて下さいました。しかし、その途中に天日槍神が渡来して、国争ひが起こり、二神は黒葛を三條づつ足に付けて投げられましたところ、葦原志許男神の黒葛は、一條は但馬の気多郡に、一條は養父郡に、そして最後は此の地に落ちましたので地名を三條(三方)といひ伝へます。又、天日槍神の黒葛は全部、但馬国に落ちましたので但馬の出石にお鎮まりになり、今に出石神社と申します。やがて葦原志許男神は事を了へられてこの地を去られるに当り、愛用された御杖を形見として、その山頂に刺し植えられ、行在の標とされました。。<平成祭りデータ>

 天日槍・大己貴国占め争い関連伝承

1 揖保郡・揖保の里 粒丘 粒丘とよぶわけは、天日槍命が韓国から渡って来て宇頭川下流の川口に着いて、宿所を葦原志挙乎命に お乞になって申されるには、「汝はこの国の主たる方である。私の泊まるところを与えてほしい」と
韓国から来た天日槍命が宇頭の川底(揖保川河口)に来て、国の主の葦原志挙乎命に土地を求めたが、海上しか許されなかった。天日槍命は剣でこれをかき回して宿った。葦原志挙乎命は盛んな活力におそれ、国の守りを固めるべく粒丘に上がった。
境内に「粒丘」と彫った石標がある。<兵庫県たつの市揖保町中臣1360 中臣印達神社>
2 新良訓 昔、新羅の国の人が来朝した時、この村に宿った。だから新良訓とよぶ。
3 穴禾の郡・雲箇の里・波加の村(はか) 国を占めなされた時、天日槍命が先にこの処に来、伊和大神はその後でここに来られた。
<宍粟市波賀町 上野に明神社「天火明神」、宝殿神社「大己貴神」>
4 穴禾郡比治里奪谷 葦原志挙乎命と天日槍命が奪いあったので、奪谷と云う。
5 穴禾郡柏野里伊奈加川 葦原志挙乎命と天日槍命が国を奪い合った時、馬がいなないたので、伊奈加川と云う。
6 兵庫県姫路市一宮町須行名407 伊和大神と天日槍命が国を争い、天日槍命が先に占拠した。「度[はか]らずに先に・・」と云ったので波加村と云う。
<伊和坐大名持御魂神社「大己貴神」>
7 餝磨郡・伊和の里伊和部 積幡の郡の伊和君らの族人がやってきてここに住んだ。だから伊和部とよぶ。手苅丘とよぶわけは、 「韓人たちが始めて来たとき、鎌を使用することがわからず、素手で稲を刈ったからと言う。
<手苅丘 姫路市手柄 生矢神社「大己貴命」もとは三輪明神>
8 穴禾の郡・御方の里 葦原志挙乎命は天日槍命と黒土の志爾蒿(しにだけ)にお行きになり、お互いにそれぞれ黒葛を三条足に着けて投げあいた。その時葦原志挙乎命の 黒葛は一条は但馬の気多の郡に落ち、一条は夜夫の郡に落ち、一条はこの村に落ちた。天日槍命の黒葛は全て但馬の国に落ちた。
<姫路市一宮町北部 姫路市一宮町森添 御方神社「葦原志挙乎命 配 高皇産霊神、月夜見神、素盞嗚神、天日槍神」>
葦原志許男神と天日槍神との戦いを仲裁するべく大和から高皇産靈神がやって来て和議があいなった。そこでお三方をお祭りしたので御方神社と呼ぶ。
9 神前の郡・多駝の里(ただ)・粳岡(ぬかおか) 伊和大神と天日桙命の二人の神がおのおの軍兵を発して互いに戦った。
<姫路市船津町八幡>

 但馬国の伝承

但馬国 一宮 出石神社 兵庫県豊岡市 天日槍命・出石八前大神 859 祭神の天日槍命は新羅の王子であったが、八種の神宝を持って渡来し、但馬国に定住したと伝える。また、八種神宝を八前大神として祀っており、『延喜式神名帳』では八座とされた。
当時泥海であった但馬を瀬戸・津居山の間の岩山を開いて濁流を日本海に流し、現在の豊沃な但馬平野を現出し、円山川の治水に、殖産興業に功績を遺された神として尊崇を集めている。また、鉄の文化を大陸から持って来られた神ともいわれている。
一宮 粟鹿神社 兵庫県朝来市 彦火々出見命 不詳 粟鹿の名は、昔、粟鹿山の洞穴に住む一頭の鹿が、粟三束をくわえ、村に現われ、人々に農耕を教えたという.祭神は彦火々出見尊。あるいは、四道将軍の一人であり、日下部連の祖、丹波道主の日子坐王とする説もある。本殿裏側のこんもりとした丘が、日子坐王の墳墓という伝承も。また、近年発見された『粟鹿大明神元記』和銅元年(708)八月に、大己貴命を祖とする神直が当社の祭祀を執り行ったとある。
三宮 養父神社 倉稲魂命・大己貴命・少彦名命 崇神 地誌『但馬考』にはかつて弥高山の山頂にあったとされる上社に大己貴命、中腹の中社に倉稲魂命と少彦名命、現社地である下社に谿羽道主命を祀るとの記述がある。『特選神名牒』では大己貴命以外の4座を不詳としている。
石部神社 兵庫県豊岡市出石町下62 奇日方命、 この出石の地を拓き、国造りに貢献され、偉大な功蹟をのこ し、あまたの信望をあつめられた、天日方奇日方命を祀る。
小坂神社 兵庫県豊岡市出石町三木字宮脇1 小坂神 大正11年、祭神を忍坂漣の祖・天火明命と確定するように申請したが確証が無いとして退けられ、内務省と協議の結果小坂神に決定したという。しかし、忍坂連の祖天火明命と伝わる。
気多神社 兵庫県豊岡市日高町上郷字大門227  大己貴命 大己貴命(葦原志許男命)と(天日槍命と)国占の争ありし時、命の黒葛此地に落 ちたる神縁によりて早くより創立せられしものならむ。
小田井縣神社 兵庫県豊岡市小田井町15-6 國作大己貴命 大神は大昔、この豊岡附近一帯が泥湖であ って、湖水が氾濫して平地のないとき、来日岳のふもとを穿ち瀬戸の水門をきり開い て水を北の海に流し、水利を治めて農業を開発されました。
法庭神社 兵庫県美方郡香美町香住区下浜 武甕槌命 あるいは天照國照天火明饒速日命 旧記によると、饒速日命が大和國より兵を率いて出石郡床尾山に至り、国内に大水が氾濫しているのを見た。その後、来日山に至り、北方の山を削開して瀬戸水門を開き、平地とした。その後、西へ進み、本村の船越山に至り、船をつないだ場所に、乗場神社を創建。後、乗場が能理波と転じ、法庭となったという。

 ところが、その途中において天日槍命が新羅国からやってきて国占めの争いをすることになっている。この国占めの争いとはなんであろうか、また、天日槍命とは何者なのであろうか。

 日本書紀によると、天日槍命は第11代垂仁天皇3年(初期紀年BC27年)に新羅国よりやってきたとなっている。この年は紀年を修正して計算するとAD212年となり、明らかに大己貴命が活躍した年代とは合わない。ところが播磨国風土記、神社伝承は大己貴命とのかかわりで伝えている。また、天日槍命はどう考えても日本名であり、新羅から来た人物が名乗る名ではない。これらはいったい何を意味していうのであろうか。

 書紀紀年の天日槍来日に関しての詳細(来日は第8代孝元天皇の時代)

 神話において「アメノ」がついているのは高天原から降臨した人物がほとんどである。天日槍命も「アメノ」がついているので、高天原から降臨した人物である可能性が高い。しかし、天日槍命の故郷は新羅国であるが、この時新羅国はまだ建国されていないばかりか、新羅国に高天原伝承はない。ここにいう天日槍命は高天原(北九州)より、饒速日尊とともに降臨した人物であると考えられる。しかし、記紀に伝えられている第11代垂仁天皇の時代に新羅から来日した人物とは異なる。

 大己貴命と天日槍命の国占めの争いは高皇産霊神の仲裁で終了していること、庭田神社の伝承に「伊和の地で最後の交渉を終えられた」とあるとおり、天日槍命と大己貴命の何らかの交渉ごとのようである。

 天日槍命の正体を示す伝承がある。

法庭神社の記録
 「旧記によると、饒速日命が大和國より兵を率いて出石郡床尾山に至り、国内に大水が氾濫しているのを見た。その後、来日山に至り、北方の山を削開して瀬戸水門を開き、平地とした。その後、西へ進み、本村の船越山に至り、船をつないだ場所に、乗場神社を創建。後、乗場が能理波と転じ、法庭となったという。」

 天日槍命に関する但馬の伝承
「日槍は但馬国に船をつけると、そこに落ち着くことになった。日槍は土地の娘と結婚して、子孫も栄えていた。ところがその当時の豊岡や出石盆地のあたりは、一面が泥の海だったので、とても生活しにくい土地であった。そこで日槍は五社大明神の神々と力を合わせて、この地を開拓しようと考えた。
 まずは、来日岳の下流を切り開くことになった。そこは固くて大きな岩がさえぎっているため、水がせき止まって瀬戸になっていたのである。みんなで力を合わせて横たわっている大岩をとりのぞくと、泥水がすさまじい音をたてて日本海へと流れ出し、やがて水の引いたあとには、肥えた広々とした平野が少しずつ広がっていった。日槍も神々も大喜びであった。」

 上の二つの伝承は同じことを示しているようである。このことは天日槍命=饒速日尊という等式を示していることになる。天日槍命と饒速日尊が同一人物だとすれば天日槍命が日本名を持っており「アメノ」がついても不思議はない。この両者が同一人物であれば、時期から推察して次のようなことが考えられる。

 饒速日尊は大和に降臨して倭国とは別の国(ヒノモト)を作ることになった。AD33年頃饒速日尊は大和国三輪山麓に本拠を構えた。大己貴命との国占め争いはその直後と思われる。この当時日本列島には人はまばらに住んでおり、国と国との境界線は今と違い大雑把なものであった。国占め争いは倭国とヒノモトとの境界線を決める交渉だったのではないかと考えられる。

 播磨国は倭国とヒノモトの境界線上にある国である。どちらの連合国に所属するかによって、開拓する主体が違ってくる。将来一つにまとまるとはいっても境界線をある程度はっきりとさせておく必要があったのではあるまいか。

御方神社記録<平成祭りデータ>
 二神は黒葛を三條づつ足に付けて投げられましたところ、葦原志許男神の黒葛は、一條は但馬の気多郡に、一條は養父郡に、そして最後は此の地に落ちましたので地名を三條(三方)といひ伝へます。又、天日槍神の黒葛は全部、但馬国に落ちましたので但馬の出石にお鎮まりになり、今に出石神社と申します。やがて葦原志許男神は事を了へられてこの地を去られるに当り、愛用された御杖を形見として、その山頂に刺し植えられ、行在の標とされました。

 伊和神社の記録に「伊和大神が国を作り堅め了えられてから後、ここの山川谷峰を境界として定めるため、御巡幸なされた。」とある。この伝承は倭国・ヒノモトの境界線協議の内容を示しているのではないだろうか。高皇産霊神(大和から来たとなっているので天活玉命=高天彦と思われる)もこの協議に参加しているようであり、境界線は以下のように推定する。

 倭国倭国領域と認定されたのは、旧播磨国全域(加古川以西)、及び旧但馬国南部の養父郡・気多郡の一部、そして、大己貴命が統一した越国、素盞嗚尊の統一した紀伊国であろう。これに対してヒノモト(ヒノモト)に所属したのは但馬国海岸部、丹波・丹後・若狭・摂津・阿波と思われる。 

 丹波国の倭国からヒノモトへの所属替えについて

丹波国一宮出雲大神宮の伝承

 出雲大神宮の祭神は大己貴命・三穂津姫・少彦名命である。「出雲神社などと称へ奉り建国の所由によって元出雲といわれる」とあり、縁結びの神ということも当宮を指し、兵乱のない島根半島の大社は国譲りました大己貴大神御一柱を祀る慰霊の社にすぎないと言われている。
 三穂津姫命は天祖高産霊尊の御女で大己貴命国譲りの砌天祖の命により后神となり給う 天地結びの神即ち縁結びの由緒亦ここに発するもので俗称元出雲の所以である。日本建国は国譲りの神事に拠るところであるが丹波の国は恰も出雲大和両勢力の接点にあり此処に国譲りの所由に依り祀られたのが当宮である。

 この神社の伝承は何を意味しているのであろうか。まず、祭神に不自然なところがある。一般に三穂津姫は大己貴命の妻と言われているが、古代史の復元では饒速日尊の妻である。となれば、主祭神は大己貴命ではなく、饒速日尊である可能性が出てくる。実際はこの神宮背後の山は禁足地になっており、国常立尊の霊蹟であると伝えられている。国常立尊とは饒速日尊或いは豊受大神のことである。神宮背後の山が国常立尊の御陵であるという言い伝えもある。御陵であるなら、国常立尊は豊受大神を表していることになる。豊受大神がこの地をおとずれ、ここに住んでいたと思われる。しかし、同時に祭られている少彦名命は大己貴命と行動を共にしており、大己貴命も祭神であると言えなくはない。また、島根半島の出雲大社では大己貴命は本殿内で西向きに祭られている。参拝者は北向きに参拝するので、参拝者は大己貴命ではなく、本殿背後にある素盞嗚尊の社を参拝している形になるのである。出雲大社でも本来の祭神は素盞嗚尊ではないかともいわれているのである。出雲大神宮から神様が島根半島の出雲大社に移されたといわれている。その神様は素盞嗚尊である可能性もある。

 しかし上に述べた状況のみではこの神社が元出雲と言われる所以にはなりえない。この神社には何があったのだろうか。この神社の創建には国譲りが関係していそうである。 饒速日尊が丹波国を統一したのはAD20年頃となり、饒速日尊がヒノモトを建国する前である。ということは丹波国が統一された時、丹波国は倭国連合に加盟していたことになる。

 では、この地域が大和朝廷の支配下に下ったのはいつのことであろうか?丹後半島の野田川町比丘尼城遺跡より突線紐式銅鐸が見つかっている。後で述べるが突線紐式銅鐸は倭の大乱の後東日本を中心に広まっている銅鐸で、丹後半島が東倭の領域に含まれていたとしたら突線紐式銅鐸は出てこないはずである。そのために神武天皇東遷時には丹波国一帯はヒノモトに所属していたことになる。そうすればいつかの時点で倭国からヒノモトへの所属替えが起こっていることになる。これが国譲りであろう。

 同じように倭国からヒノモトへの所属替えが起こった地域は紀伊国・越国がある。何れも大己貴命が亡くなった後倭国が東倭と西倭に分裂しているが、この時に所属替えが起こっている。丹波国もこの時に所属替えが起こったものであろうか。そうだとすればAD50年頃となる。ところが、大己貴命と国占の争いの時但馬国がヒノモトに所属することになっている。但馬国は古代の丹波国の一部である。但馬国がヒノモトに所属するようになるのと同時に丹波国もヒノモトに加盟したと考えるのが自然であろう。そうすれば、丹波国は出雲と大和の接点にある国となる。

 そうなれば、この出雲大神宮の地は国占会議が起こるまでは倭国(出雲国)に統治されていたことになるが、所属替えが起こってからはヒノモトに統治されることになる。そして、出雲の神は出雲国に所属する領域に移すことが考えられ、此処が元出雲になることは十分に考えられるのである。

 出雲大神宮は主祭神大己貴命・三穂津姫命とされているが、古代史の復元では三穂津姫は饒速日尊の妻である。そうすると、この大己貴命は饒速日尊である可能性もある。倭国からヒノモトに所属替えが起こった時、饒速日尊はまだ生存中であり、その当時祀られている神とすれば素盞嗚尊以外には考えられない。島根の出雲大社の状況と併せて考えると本来ここに祭られていた神は素盞嗚尊ではないかと思えるのである。実際この神社の上之宮では素盞嗚尊が祭られている。

 丹後で活躍した豊受大神の御陵があるこの神社の地は素盞嗚尊・饒速日尊・大己貴命などが訪問し、滞在していることが十分に考えられる。それらの人物が後に祭神として祀られたと考える。

 出石盆地開拓

 法庭神社の記録が大和から但馬国迄の経路を伝えている。法庭神社の伝承は
 「旧記によると、饒速日命が大和國より兵を率いて出石郡床尾山に至り、国内に大水が氾濫しているのを見た。その後、来日山に至り、北方の山を削開して瀬戸水門を開き、平地とした。その後、西へ進み、本村の船越山に至り、船をつないだ場所に、乗場神社を創建。後、乗場が能理波と転じ、法庭となったという。」
である。これをもとに、
大和から但馬までの饒速日尊の通過経路を推定してみよう

 大和盆地を北に移動し木津川市から木津川流域に入る。木津川を下り、大山崎町より桂川流域に入る。ここまで桜井市から約50kmである。桂川を遡り京都市内を抜け、亀岡市に達する。日吉町殿田より胡麻川流域に入る。この経路に沿って山陰本線がとおっている。南丹市日吉町胡麻より高屋川流域に入り、川を下ると由良川に合流する。綾部市を通過し福知山市安井より牧川流域に入る。ここまで大山崎から約100kmである。夜久野町平野から礒部川流域に入り川を下る。さらに下り、和田山より円山川に入る。和田山町土田より糸井川を遡り、床尾山に至る。安井より約40kmである。北に下って出石町桐野より出石川に沿って下る。円山川に再び合流し城崎町来日より来日山に登る。床尾山より約30kmである。川をさらに下って約7kmで海に出る。海岸沿いに25km西に進むと法庭神社に達する。

 天日槍命に関しても似たような伝承がある。
日槍は但馬国に船をつけると、そこに落ち着くことになった。日槍は土地の娘と結婚して、子孫も栄えていた。ところがその当時の豊岡や出石盆地のあたりは、一面が泥の海だったので、とても生活しにくい土地であった。そこで日槍は五社大明神の神々と力を合わせて、この地を開拓しようと考えた。
 まずは、来日岳の下流を切り開くことになった。そこは固くて大きな岩がさえぎっているため、水がせき止まって瀬戸になっていたのである。みんなで力を合わせて横たわっている大岩をとりのぞくと、泥水がすさまじい音をたてて日本海へと流れ出し、やがて水の引いたあとには、肥えた広々とした平野が少しずつ広がっていった。日槍も神々も大喜びであった。

 法庭神社の伝承と天日槍命の伝承は同じ出来事を表しているようである。これが、天日槍命と饒速日尊は同一人物と判断する理由である。饒速日尊がここにやってきたのはAD38年頃と思われる。

 饒速日尊が但馬国の統一に向かったのは、土佐国から帰った直後と思われる。饒速日尊が東日本統一に出発するAD40年頃までに、阿波国・土佐国東半分・大阪湾岸地方・丹波国・但馬国・丹後国・大和国がヒノモトに加盟していたことになる。

 因幡の白兎に関して

 神話伝承に「因幡の白兎」という有名な話があるが、今までその正体がわからなかったが、この度、饒速日尊のこの頃の行動がもとになっていることが分かり、古代史の復元に取り込むことができた。以下はその詳細である。

因幡の白兎に関する伝承は鳥取県に3か所ある。

1 白兎海岸

  「因幡の白兎」は、白兎が対岸へ渡ろうとして、サメ(ワニ)をだました話である。
 騙されたワニは怒って、白兎の皮を剥ぎとってしまい、白兎は赤はだか(まるはだか)にされて泣いていると、大国主命に助けられた。

 白兎海岸には海岸の西側に突き出た気多の岬があり、岬の前に於岐島という小さな島があり、島から岸まで続く板状の岩は、ウサギに騙され列を作ったワニの背のように見える。国道9号線の南の丘陵には 白兎神社があり、この神社は16世紀に鹿野城主亀井武蔵守茲矩により再建された。

2 八頭町の伝承

 最も詳しい伝承である。

「天照大神が八上行幸の際、行宮にふさわしい地を探したところ、一匹の白兎が現れた。白兎は天照大神の御装束をくわえて、霊石山頂付近の平地、現在の伊勢ヶ平まで案内し、そこで姿を消した。白兎は月読尊のご神体で、その後これを道祖白兎大明神と呼び、中山の尾続きの四ケ村の氏神として崇めたという。
  天照大神は行宮地の近くの御冠石で国見をされ、そこに冠を置かれた。その後、天照大神が氷ノ山(現赤倉山)の氷ノ越えを通って因幡を去られるとき、樹氷の美しさに感動されてその山を日枝の山と命名された。
  氷ノ山 麓の若桜町舂米集落には、その際、天照大神が詠まれた御製が伝わるという。氷ノ越えの峠には、かつて、因幡堂があり、白兎をまつったというが、現存しない。」
wikiより

 古代史の復元では霊石山の伝承を取り上げている。

3 伯耆の白兎

中山神社(鳥取県西伯郡大山町束積)伝承

 「束積に住んでいた白兎は川を登る鱒の背を借りて、川を行き来していたが、鱒の背を踏みはずし溺れましが、さいわい流れ木につかまり遠く隠岐島まで流された。白兎は故郷帰りたい一心で鰐をだまし、皮を剥がされたたが、大国主命に助けられた。束積に帰って一休みした岩が「兎の腰掛け岩」で、流木に助けられた川を「木の枝川」が「甲川」となった。
 村人は白兎の遊び場に「素莵神社」を建てた。この社は疱瘡の守り神となり、参 拝者が絶たなかった。明治初年に社が、野火で焼失し今は中山神社境内に再建された。
 神主の細谷家では、代々「兎の肉」を食べることを禁止されていた。
 中山神社の本殿の礎石には、亀の彫刻が彫られ出雲系の神社で、大国主と田心姫(宗像三女神の一人)を祀ってる。2神は総称して大森大明神と呼ばれ、また鷺大明神が祀られている。鷺大明神(白兎神と稲背脛命)が祀られていて、中山神社は、大森大明神と鷺大明神が祀られている。」

 2の八頭町の伝承は天照大神が登場してくるので、古代史の復元のどの場面に該当するかを考えてみた。霊石山に天照大神の伝承があり、天照大神が征西した時と記録されており、天照大神は東から来たことを意味し、当初、大和朝廷成立後の話として天照大神=孝霊天皇と考えていたが、後の研究により、天照大神=饒速日尊ではないかと思うようになった。

 今回、この話は法庭神社の伝承の続きではないかと考えてみた。

 法庭神社(兵庫県美方郡香美町香住区下浜)

 饒速日命が大和國より兵を率いて出石郡床尾山に至り、国内に大水が氾濫しているのを見た。その後、来日山に至り、北方の山を削開して瀬戸水門を開き、平地とした。その後、西へ進み、本村の船越山に至り、船をつないだ場所に、乗場神社を創建。後、乗場が能理波と転じ、法庭となったという。

 この伝承はAD40年ごろと推定している。大国主命が出雲を中心として倭国の統治をしており、饒速日尊が大和を中心としてヒノモトの統治をしていたころで、饒速日尊が西方面へ勢力を伸ばしてきて、倭国の領域まで入ってくるようになり、大国主命・饒速日尊の間で国境策定の会議(国占め神話)が行われた。その直前の出来事ではないかと思える。そうすれば、この白兎は土地の豪族ということになる。

 1.3はワニとウサギの争いを伝えている。この地方での部族抗争を意味していると考えられるが、それぞれどういった素性の部族であろうか。ワニは海の支配者、ウサギは農耕部族のように見える。ワニを縄文人、ウサギは弥生人と考えられないだろうか。この時期は日本列島に弥生人が上陸するようになってだいぶたっているので、因幡・伯耆地方は弥生人主体の地域になっていたはずである。ところが、BC40年ごろ飛騨国と出雲王朝との婚姻が成立した結果、飛騨地方から多くの縄文人が出雲地方にやってくるようになったと考えられる(く にびき神話・越の八岐大蛇など)。当初は交流を目的としてやってきたものであろうが、生活習慣の違いから争いが生じたのではないかと考える。その争いを第二代倭国王となった大国主命が仲介し、その伝承が伝わったものと考えてみた。

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