出雲王朝の誕生

古事記にはスサノオを初めとする出雲王朝が15代続いたことが記録されている。これについて考察してみたい。

出雲王朝系図

  スサノオ─①ヤシマジヌミ─②フハノモジクヌスヌ─③フカブチミズヤレハナ─④オミズヌ─⑤アメノフニギヌ─┐
  ┌────────────────────────────────────────────┘
  └⑥オオクニヌシ─⑦トリナルミ─⑧クニオシドミ─⑨ハヤミカノタケサハヤジヌミ─⑩ミカヌシ─┐
  ┌──────────────────────────────────────┘
  └⑪タヒリキシマルミ─⑫ミロナミ─⑬ヌノシトリナルミ─⑭アメノヒベラオオシナドミ─⑮トオツヤマザキタラシ

代数 王名 王妃名 王妃の父 王妃の祖父 よみ 推定没年
八島士奴美 木花知流比賣 大山津見 ヤシマジヌミ
布波能母遅久奴須奴 日河比賣 淤迦美 フハノモジクヌスヌ BC80
深淵之水夜禮花 天之都度閇知泥神 布怒豆怒 フカブチミズヤレハナ BC50
淤美豆神 布帝耳神 刺国大 オミズヌ BC20
天之冬衣神 刺国若比賣 アメノフニギヌ AD10
大国主 鳥耳 八島牟遅 オオクニヌシ AD40
鳥鳴海 日名照額田毘道男伊許知邇 トリナルミ AD70
国忍富 葦那陀迦 クニオシドミ AD100
佐波夜遅奴美 前玉比賣 天之甕主 ハヤミカノタケサハヤジヌミ AD130
10 甕主日子 比那良志毘賣 淤加美 ミカヌシ AD160
11 多比理岐志麻流美 活玉前玉比賣 比比良木之其花麻豆美 タヒリキシマルミ AD190
12 美呂浪 青沼馬沼押比賣 敷山主 ミロナミ AD220
13 布忍富鳥鳴海 若尽女 ヌノシトリナルミ AD250
14 天日腹大科度美 遠津待根 天狭霧 大山津見神 アメノヒベラオオシナドミ AD280
15 遠津山岬多良斯 トオツヤマザキタラシ AD310

出雲王朝系図(古事記)

大山津見──木花知流比賣
          ├───布波能母遅久奴須奴
素盞嗚尊──八島士奴美     ├───深淵之水夜禮花  
          淤迦美──日河比賣      ├─────淤美豆神
               布怒豆怒──天之都度閇知泥神    ├─────天之冬衣神
                               刺国大──布帝耳神      ├─────大国主
                                                 刺国若比賣    ├─────鳥鳴海
                                                   八島牟遅──鳥耳        ├─────国忍富
                                                         日名照額田毘道男伊許知邇
  国忍富
   ├────佐波夜遅奴美
  葦那陀迦    ├────甕主日子
  天之甕主──前玉比賣    ├────多比理岐志麻流美
         淤加美──比那良志毘賣    ├────美呂浪
         比比良木之其花麻豆美──活玉前玉比賣   ├────布忍富鳥鳴海
                           敷山主──青沼馬沼押比賣   ├────天日腹大科度美
                                               若尽女      ├────遠津山岬多良斯
                                      大山津見神──天狭霧──遠津待根

 ①のヤシマジヌミはスサノオの長男でスサノオが国家統一事業を始めて倭国の経営に乗り出しているとき、出雲国を治めていたといわれている。また、 ④オミズヌは出雲風土記によれば国引きをしたことで知られている。(国引きとは国土開発と解釈している。)、さらに、 オオクニヌシはスサノオの末子であるスセリヒメと結婚している。すなわちヤシマジヌミとオオクニヌシは同世代となるのである。また⑤天之冬衣神は天葺根ともいい スサノオのおろち退治のアマテラス大神に剣を献上する使者になっている。このようなことから①から⑥までは同世代とも考えることができるが、 古事記にある通り直系だとするとどのようなことになるのであろうか?

 出雲朝第6代大国主命は素盞嗚尊の娘スセリヒメの婿になっている。吉田大洋氏「出雲帝国の謎」で大国主はクナト大神の子であり、クナト大神は出雲本来の神として扱われている。 出雲の神社では本来クナト大神を祀っていたものが素盞嗚尊に取って代わったと言い伝えられている。素盞嗚尊は朝鮮半島から渡来した父布都より誕生しているので出雲としては よそ者となる。そのため、出雲国風土記では扱いが小さくなっており、大国主が大きく扱われていることになる。 また、出雲王朝の人物を古事記では「命」ではなく「神」という尊称を使っている。このことも出雲王朝が特別な存在であることを意味している。 出雲王朝は本来の出雲の王家の系統を表わしているのではあるまいか? 古事記編纂において素盞嗚尊の系統につないだため、このような不自然な系図になったものと推定される。この出雲王朝の王をクナト大神と表現しているものと推察する。

 それでは出雲王朝初代は八島士奴美である。八島士奴美は素盞嗚尊の長子とされているが神社伝承において八島士奴美の具体的行動伝承が全く存在していない。第6代の大国主命が素盞嗚尊の娘と結婚しているなど年代が全く合わないのである。これは、素盞嗚尊以前に存在した出雲王朝を素盞嗚尊に繋いだために生じたことではないのだろうか?八島士奴美の活躍年代は直系であるとすればBC100年ごろの人物となる。BC108年に漢の武帝が朝鮮を滅ぼした時、朝鮮半島から多数の人々が日本列島に流れ着いているが、八島士奴美は活躍時期から推察するに、 そのなかの一人かもしれない。 これを元にオロチ退治以前の出雲の状態を推定してみよう。

 出雲国風土記によると出雲朝第4代淤美豆神の時国引きをしている。活躍時期はBC30年ごろで、素盞嗚尊の父布都の活躍時期と重なるのである。 淤美豆神は朝鮮半島からやってきた布都の協力を得て勢力範囲を拡大していったとも考えられる。そのなかで奥出雲の豪族ヤマタノオロチとの対立関係が生まれ、オロチ一族に 押されぎみだったところ、布都の子素盞嗚尊の活躍によりオロチが滅ぶにより、出雲王朝は素盞嗚尊の建国した連合国家の一構成国になったのであろう。 素盞嗚尊のオロチ退治の時出雲朝第5代天冬衣命が協力している。これは天冬衣命と素盞嗚尊がほぼ同世代であることを意味しており、その後、大国主が素盞嗚尊の娘スセリヒメや孫の鳥耳命と結婚するに及び正式に第二代倭国王に任じられ、出雲王朝の系統が出雲国全体を治めることになったのであろう。

出雲王朝その後

 大国主以後の出雲王朝も直系だとすれば出雲王朝最後の第15代遠津山岬多良斯はいつごろの人物となるのであろうか?最初は倭の大乱によって出雲王朝は廃止されたと考えていたが、 そのためにはかなりの同世代継承が必要になってくる。それも考えられないことはないが、倭の大乱は出雲国の完敗ではなく、和平交渉により終結しているのであるから、 出雲王朝廃止ということを出雲が簡単に承服するとも思えず、出雲王朝廃止はそれよりも後としたほうが自然であると判断した。 1世代30年程として直系の場合第15代遠津山岬多良斯は310年ごろ没となる。  出雲王朝が直系であるとすると、出雲王朝廃止は4世紀前半と推定される。出雲王朝廃止となれば、その影響がどこかに出ているものと考え、それらしきものを挙げてみよう。

① 出雲王朝廃止時と同時期と思われる第12代景行天皇(オオタラシヒコオシロワケ)、第13代成務天皇(ワカタラシヒコ)、第14代仲哀天皇(タラシナカツヒコ)、  神功皇后(オキナガタラシヒメ)の和名に出雲朝第15代遠津山岬多良斯「トオツヤマサキタラシ」と共通名「タラシ」が含まれている。
② 出雲地方には方墳が作られており、前方後円墳は出現していないが、このころ(古墳時代前期後半)より、出雲地方に前方後円墳が出現するようになる。
③ 東海地方もこのころより前方後円墳が出現し、近畿地方ではこのころ以降前方後方墳が作られなくなった。
④ 大物主神の妻の地位である卑弥呼・台与(この時期没と考えられる)に続く第三代の大物主妻がいない。このころ大物主妻の地位も廃止されている。  大物主神妻の地位は倭の大乱時出雲と大和朝廷の双方により共立されたものであり、それが廃止されることは、出雲勢力の後退を意味している。
⑤ 倭の大乱時孝霊天皇が滞在した鳥取県大山町宮内の高杉神社に孝霊天皇とともに景行天皇が祭られている。

 これらのことから推察するに出雲王朝を廃止したのは第12代景行天皇(AD297~AD325)ではないかと思える。景行天皇は九州遠征や日本武尊の東国征伐に見られるように 朝廷の支配を受けようとしない地域に対して徹底的に武力で制圧している。出雲王朝も朝廷の指示に従わない存在のはずであり、日本武尊を派遣して朝廷に従うように廃止させたものと 考えられる。大物主妻の地位もいつまでも出雲を意識していたのでは朝廷の自主性が保てないとの判断で廃止。その流れとして、近畿地方での前方後方墳築造の廃止や出雲や東海地方に 強引に前方後円墳を作らせる施策を実施したものと考えられる。第12代景行天皇以降の天皇の和名に「タラシ」がついているのは大和朝廷の天皇が出雲王朝の王を兼任するという様な 意味が含まれているためではないかと考える。

倭の大乱時の出雲王朝の国王は平均在世年数から出雲朝第10代甕主日子(160年ごろ没と推定)及び第11代多比理岐志麻流美(190年ごろ没と推定)あたりと考えられる。

 ⑮トオツヤマザキタラシは愛知県犬山市の鳴海神社で祭られている。これは出雲王朝廃止後、東海地方の人々が、出雲王朝の王を偲び祀ったものと判断する。

 出雲朝初代八島士奴美の活躍時期がちょうど衛氏朝鮮が滅ぼされた時期と重なっている。日本列島に来て国を作るとなればそれ以前に国の経営に関して経験がある人物と考えられるので、根拠は薄いが時期が重なるので八島士奴美が衛氏朝鮮の最後の王の子であると仮定してみよう。

 衛氏朝鮮

 紀元前4世紀ごろ、燕は朝鮮半島北部に隣接して国を作っていた。紀元前284年、燕は自国内に郡制を設け上谷から遼東までを5郡とし、東胡を防ぐためその北に東西二千里の長城を築き、朝鮮半島は燕の配下に入った。秦が中国を統一した時、燕は秦に滅ぼされて、朝鮮半島はは秦の属領となり、遼東郡の保護下になった。紀元前209年、陳勝呉広の乱が起こると中国全土は大混乱となり、燕国は韓広を王として再び独立を成し遂げた。紀元前206年、秦が滅ぶと、天下の覇権を握った項羽によって臧荼が燕王に立てられ、燕は復興した。

 紀元前202年、燕王臧荼は反乱を起こして前漢高祖により処刑され、代わって盧綰を燕王に封じたが、紀元前197年に盧綰が漢に背いて匈奴に亡命した。それにより、漢は遼東郡を含む燕の旧領を直轄化した。その際、燕人の衛満も亡命し、清川江を南にこえ、千人余りの徒党と共に朝鮮に入り、燕・斉の亡命者と原住民の連合政権を樹立、王険城(平壌)を首都として王位に就いた。衛氏朝鮮の建国である。

 漢の遼東大守は皇帝の裁可を得てこの政権を承認したため、衛満は自分の支配地域と漢との交易を独占することになり、強大化した。その勢力圏は平安北道を除く朝鮮半島のほぼ全域と中国東北地方に及んだ。

 三代目、孫の衛右渠に至る。右渠は漢の意のままにはならなかったため武帝は朝鮮を帰服させようとし、紀元前109年-紀元前108年、遠征を行い、衛氏朝鮮は滅ぼされた。その故地には楽浪郡、真番郡、臨屯郡、玄菟郡の漢四郡が置かれ漢の領土となった。

 八島士奴美来朝

 母国衛氏朝鮮が滅び、衛右渠の子と思われる八島士奴美は朝鮮半島南端部から出雲に上陸した。八島士奴美の妻は縄文人と思われる大山津見命の娘木花知流比賣である。

 飛騨口碑によると、この頃、飛騨国以外に出雲に巨大政権が存在し、出雲の伊弉冉尊が飛騨国の伊弉諾尊に政略結婚で嫁入りしたとされている。縄文国家飛騨国が出雲国に近づいているということは飛騨国は弥生人の高度な技術を吸収しようとしていたあかしであり、同時に出雲の情報が飛騨国に伝わっていたことを意味している。

 八島士奴美は出雲に上陸時、瀕死の状態にある時、縄文人の大山津見命に助けられ、後にその娘木花知流比賣と結婚したことが推定される。大山津見命は飛騨国から派遣されてきていた縄文人で、その当時も飛騨国と情報交換をしていたと思われる。八島士奴美は朝鮮半島の先端技術で持って出雲王朝を立てるとともに、大山津見命を介して飛騨国と連携を取るようになっていった。

 出雲王朝の成長

 八島士奴美は出雲王朝を建て、初代国王になった。その都は関連伝承の集中度から現在の出雲大社の周辺と思われるが正確にはわからない。二代目布波能母遅久奴須奴はその支配領域を拡大したと思われる。石見国に統一伝承が見つからないことから、出雲王朝の支配領域は現在の島根県(出雲国+石見国)及び鳥取県東部(伯耆国)ではないかと推定する。この当時の山陰地方には有力豪族がいなかったために、未開地が多く、出雲王朝による統一は簡単だったと考えられる。国家経営にはその先祖の衛氏朝鮮のノウハウを用いていたであろう。

 この王の代で出雲王朝の経営が安定し、飛騨国までその情報が伝わることとなった。飛騨口碑でもこの当時日本列島内での安定した国は飛騨国と出雲国だとされている。北九州の小国家群は互いに相争っていたので、安定した国にはなっていなかったと思われる。

 

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飛騨国と出雲国の接近
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国の位置

ウガヤ王朝の正体