日向国の日向津姫

 西都原の伝承地

 西都原は西都原古墳群に代表されるように古代南九州の中心地として栄えたところである。しかし、日向津姫がこの地を訪れた時はまだ未開の地だったようである。西都原には瓊々杵尊に関する数多くの伝承が伝わっている。日向津姫がこの地を訪れた1世紀ごろのものと思われる伝承地を挙げてみよう。

 

名称 住所 伝承
御舟塚 西都市大字三宅 瓊々杵尊一行が高天原から地上に降り立った後、舟に乗って着いたところで、その時の舟が祀られていると云われている。
御舟塚のある一帯は、当時、奥深い海の入り江であり、「笠沙碕」はこの地であると伝えられている。
逢初川 西都市大字三宅 児湯の池から流れ出る小川で、瓊々杵尊がこの川に水を汲みにきた木花開耶姫と初めて出会った処と伝えられている。
八尋殿 西都市大字三宅 瓊々杵尊と木花開耶姫の新婚生活のために建てられた御殿の跡といわれている。
無戸室 西都市大字三宅 木花開耶姫が出産のために造った産屋の跡と伝えられています。たった一夜で子を身ごもったことを瓊々杵尊から疑われた木花開耶姫は、身の潔白を証明するため、戸の無い産屋に入り、燃えさかる炎の中で3人の皇子を生んだといわれている。
児湯の池 西都市大字三宅 炎の中で生まれた火照命(海幸彦)、火須勢理命、火遠理命(山幸彦)の3神の産湯に使われたところと伝えられている。
また、この池の名が児湯郡の地名の由来になっている。
都万神社 西都市大字妻 木花開耶姫を祀り、地元では「妻萬様(さいまんさま)」と呼ばれている。また、木花開耶姫が子育てのために、お乳の代わりに甘酒を与えたという言い伝えから、清酒発祥の地と伝えられている。
童子丸神社 西都市童子丸 天孫・天津彦穂瓊々杵尊が笠狭崎に行幸した祭、大山祇命の二女木花開耶姫命を皇妃と定め三皇子を生んだ。本村は三皇子ご生育の地であるところから、古くから童子丸というと語り伝える。

 この伝承は瓊々杵尊・木花開耶姫とその三皇子(火照命、火須勢理命、火遠理命)のものであるが、高皇産霊神・日向津姫とその三皇子(瓊々杵尊、日子穂々出見尊、鵜茅草葺不合尊)のものと考えられないだろうか。

 日向津姫の謎

 日向津姫は撞賢木厳之御魂天疎向津媛命が正式名称で、天照大神荒御魂、瀬織津姫、日向大明神とも呼ばれている。名称から判断して日向地方で活躍した人物と思われるが、記紀編纂時天上(高天原)に上げられてしまったため、地上の関連伝承地が高皇産霊神とともに抹消されてしまったようである。そのため、具体的行動伝承を伴う伝承地が存在していないのである。

 日向津姫はAD32年頃に南九州に高皇産霊神とともにやってきたと思われるが、その伝承地は存在していない。AD32年頃から国譲りが起こるAD45年頃までの日向地方での伝承が探れないのである。

 この頃、大和では饒速日尊がヒノモトを建国して統一事業を推進しており、出雲では、第二代倭国王大国主命が中国・四国・北九州地方の開拓をしていたという伝承が共に複数存在している。高皇産霊神はその子萬幡豊秋津師姫と天忍穂耳命とを結婚させ、土佐国に派遣した。暫く後、忍穂耳は福岡県の吾勝野に移動しその周辺を開拓をしている。高皇産霊神は日向津姫とともに南九州に移動しているが、その拠点は北九州にあるので、北九州と南九州を往復していたものと考えられる。

 AD32年頃からAD45年頃までの間、南九州にいたと思われる日向津姫の行動の痕跡が全く見られない。この期間南九州のどこかが統一されたという伝承も存在していない。その子瓊々杵尊、日子穂々出見尊、鵜茅草葺不合尊が成人するまでの間である。ただひたすらこの三人を育てていたのであろうか。

 この時期は倭国の中心は出雲にあり、倭国王は大国主命である。南九州地方は現在の鹿児島神宮の地にあった出雲屋敷にいた役人がこの地を統治していたようである。

 この時期の高皇産霊神は自分の養子とした素盞嗚尊の子天忍穂耳尊を次期倭国王にするように奔走していたようである。土佐国統治を経験させ、吾勝野の開拓をさせていた。少彦名命を亡くし目標を失った大国主命を北九州に呼び寄せ、天忍穂耳尊とともに田川一帯を開拓させた。

 このようにAD30年頃よりAD45年頃までの瓊々杵尊・日子穂々出見尊・鵜茅草葺不合尊の三皇子が成人するまでの期間、日向津姫の行動の痕跡を見つけることができない。ただ一つ見つかったのが童子丸神社の三皇子生育の地である。この三皇子が日向津姫の三皇子であるとすれば、日向津姫のこの期間の所在が判明するのである。

 夫である高皇産霊神は時々やってきたにすぎないのであろう。

 瓊々杵尊・日子穂々出見尊・鵜茅草葺不合尊の三皇子は西都の地で成長したものと推定する。

 日子穂々出見尊誕生

 日子穂々出見尊は記紀においては、瓊々杵尊の子であるが、古代史の復元においては高皇産霊神と日向津姫との間の子と推定している。AD33年頃生誕と思われるが、生誕地はどこであろうか。

① 宮崎県西都市無戸室
② 宮崎県宮崎市村角 高屋神社
③ 鹿児島県南さつま市加世田 竹屋ヶ尾
④ 鹿児島県南さつま市金峰町 双子池
⑤ 宮崎県宮崎市木花 木花神社

 ③④⑤はこの当時の日向津姫の生活圏外なので、候補地から外れる。①か②が有力候補地となる。 

①無戸室 宮崎県西都市三宅字石貫
 無戸室跡は石貫神社から約200m程離れたところにある。当地では火柱殿とも呼んでおり、木花開耶姫が、自らの貞淑と潔白を証明するために、戸の無い完全な密室となる産屋に隠れ、自ら火を放った産殿の跡と伝えられる。 一辺が約30m四方の敷地の中央に、無戸室跡と刻された石碑が建っている。敷地のにはかつての土塁の跡とおもわれる土が盛り上がっている。
②高屋神社 宮崎県宮崎市村角
 祭神 彦火々出見命、景行天皇、豊玉姫命
 神社に関する縁起並びに棟木等によれば、人皇106 代後陽成天皇の御宇慶長16年(1613年)に社殿の改築の棟木あり、また、神官の系図により仁明天皇の嘉祥 2年(849 年)に神官となりし事記載有、このことによって、その由緒が伺える。
 更に神社の西方に小高き所あり、彦火火出見尊の山陵と言い伝える。即ち日本記に言う日向の高屋の山陵に葬るとあるは即ち是なり、鵜戸山寺建立並びに再興年代録に景行天皇筑紫に座すこと 4ヵ年日向宮崎郡村角と言う所、天皇仮皇居地の霊山なり、高屋という。神武天皇社(現在の宮崎神宮)に近し、日向五郎八院旧元集に景行天皇がこの高屋の宮を定めて功臣武内宿称をして、彦火火出見尊の山陵を定めて鎮祭し高屋八幡宮という記録がある。
 右御陵より約 50m北方に母場御前という処有、そこは彦火火出見尊御誕生のとき竹刀で臍の緒を切った後その竹刀を投ぜ給ひし処で、中古までは其の辺りに孟宗竹ありしも、今は絶えてなく明治8年12月開墾して、むら役詰所の家屋を新築せり。
 北西の約 100m隔てて、宇安尊と言う処有、彦火火出見尊御誕生あらせ給いし処と云い伝う。東の方50m程隔てて胞之尊と言う処有、彦火火出見尊の御胞を納め奉りし処と云い伝え、今は宅地となりしが其の庭中に高屋神社祭典の節は御奉納所と申し奉りて奉幣する処有、 また、天神川、御手洗川という川あり、天神川は彦火火出見尊に献る御飯を炊きし処と云い伝えて村民この川上の水口にて手足を洗うことなし。御手洗川は天神川の下流で同命御誕生のとき鹿葺津比売命が臍の緒を切って御手を洗い給いし処と云い伝う 右の外に中尊、橘尊、京尊、高尊、ウ尊、クモ尊、正政所、助政所などと称するところがある。 祭典の日神輿東方松林の内に行幸し給う行宮所あり。 この所は仮の皇居といい、また、当宮を西方へ600mの処に犬ヶ城と言う処有、狗人の住み給うところなり、即ち火酢芹命の旧地といい伝えられる。
    <神社説明版より>

 両者は直線で22㎞程離れており、2日の行程である。共に可能性があると言えよう。日向津姫の宮跡と思われる都万神社の地により近いのは無戸室ではあるが、高屋神社の方がはるかに具体的である。誕生地は高屋神社の方と考えてよいであろう。ここから北東に1.5km程離れたところに江田神社が存在している。ここは、伊弉諾尊、伊弉冊尊が素盞嗚尊と出会い倭国加盟の交渉をした聖地であり、日向津姫は別名罔象女命として祭られている。日向津姫はこの地の近くを日子穂々出見尊の誕生地として選んだのであろう。

 鵜茅草葺不合尊生誕

鵜茅草葺不合尊も高皇産霊神と日向津姫の間の子と思われる。生誕伝承地は宮崎県日南市の鵜戸神宮しか探したが見つからない。

 鵜戸神宮
 身重だった豊玉姫命は「天孫の御子を海原で生むことは出来ない」と、鵜戸の地上陸し、岩窟に急いで産殿を造ったが、鵜の羽で屋根を葺終わらないうちに御子が誕生した。それ故にこの御子の名を鵜茅草葺不合尊(ウガヤフキアエズ)という。神宮名の鵜戸は「産殿」から来たという。

 鵜戸の地は海から上陸できるようなところではなく、産湯をつかうのにも難のあるところである。鵜戸神宮は鵜茅草葺不合尊の生誕地というには不自然な地というほかない。鵜茅草葺不合尊の真実の生誕地はどこなのであろうか?

 伝承がないので全く分からないが、西都市の無戸室ではないかと推察する。無戸室は日子穂々出見尊誕生伝承地ではあるが、日子穂々出見尊は高屋神社で誕生したと推定しているので、無戸室は日子穂々出見尊ではない誰かの生誕地ということになる。伝承上該当人物は鵜茅草葺不合尊しかいないことになる。鵜茅草葺不合尊の場合も江田神社近くの聖地で誕生させるつもりであったのが、急に早産となって宮の近くで生むことになったのではあるまいか。

 三皇子生育の地

 宮崎県西都市童子丸の童子丸神社が三皇子の生育の地と言われている。この三皇子は火照命、火須勢理命、火遠理命とされているが、同じ三皇子でも瓊々杵尊、日子穂々出見尊、鵜茅草葺不合尊ではないかと推定している。三皇子はこの地でAD40年頃まで生育したのであろう。

 日向津姫はこの間あまり動いた形跡が見られないので、この三皇子を育てるのに力を注いでいたと思われる。時々は周辺を巡回していたと思われ、周辺の人々も日向津姫がいるので安定していたのではあるまいか。

 瓊々杵尊初期宮跡

 宮崎県児湯郡木城町大字高城2729番に日子神社がある。この神社近くの古墳が瓊々杵尊御陵伝承を持っている。明らかに時代が異なるので御陵ではないが、この伝承はこの神社が瓊々杵尊の宮跡であることを示しているのではないだろうか。西都にごく近い場所なので、ここが瓊々杵尊の最初の宮跡と考えられる。

 宮崎県都城市高崎町東霧島1560に東霧島神社がある。この神社には次のような伝説がある。

神石 伊弉諾尊は亡くなった妻イザナミの尊を恋い慕う悲しみの涙で凝り固まったのが、『神石』である。イザナギの尊が「十握の剣でこの石を今後再びこのような災難に世人が遭わないように‥‥と、深き祈りの心を込めて三段に切ったという。
『十握の剣』は当神社の神宝である。
去川 東諸県郡高岡町に去川という地名があるのはこの飛び去った神石の一片のことを示したもので、古文書の延喜式に去飛、神石云々とある。
皇都伝承 伊弉諾尊の神世の皇都と言われている。瓊々杵尊の皇都伝承もある。
石階段 その昔、善良なる土民に悪の限りを尽くしていた、この地方を治めていた鬼といわれるほど恐れられた豪族がいた。
 この善良なる土民の一人に、気品ある娘がいた。この豪族は、その娘を嫁にしようと、再三口説いたが娘に拒否された。ついには田畑を荒らし、土民を困らせた。
土民はほとほと困り果て、ついには守り神である霧島の神様に救ってくれるように頼んだ。
 霧島の神は鬼どもを集めていはく。『この神殿に通ずる階段を一夜にして一千個の石を積み上げたならば、お前たちの願いをかなえ、もし、そのことがなし得られない時は、この地を去れ』と契約した。
 鬼どもは早速、約束の石段作りに取りかかった。集った鬼どもはあの怪力をもって!!あれよ あれよ!!という間に石段を積み上げていったという。
 霧島の神は困って、このままでは悪がはびこり、善はすたると思い、東の空を明るくし、長鳴き鳥を集めて鳴かした。鬼どもは夜明けと勘違いし、九百九十九個の石を積み上げたところでそうそうに退散したという。
この石階段を鬼磐階段(おにいわかいだん)と言い、振り向かずにこの階段を心を込め願い事をとなえながら登ると願いが叶うと言い、『振り向かずの坂』とも言う。
なお、今でも霧島の神には鶏を殺し、御供えすることを禁じている。

 この地は素盞嗚尊が日向地方にやってきたAD15年頃、伊弉諾尊はこの地域を倭国に加盟させ、自らも都城盆地に進出しこの地方を統一した。この時の都跡がこの東霧島神社の地と考えている。

 その後も伊弉諾の後継者がこの地を統治していた。それから、25年ほどたったAD40年頃10代前半と思われる瓊々杵尊がこの地にやってきたのであろう。おそらく、日向津姫が瓊々杵尊に経験を積ませるために派遣したものであろう。

 瓊々杵尊の結婚

 宮崎市北方に奈古神社がある。古事記にいう阿多の長屋でここから妻木花咲耶姫を娶ったとあるが、瓊々杵尊は後に薩摩半島で阿多津姫(木花咲耶姫)と結婚している。この伝承が真実であるならば、瓊々杵尊は2回結婚していることになる。神話伝承では磐長姫と木花咲耶姫の二人を結婚しようとしたが、磐長姫を返している。この奈古神社の結婚相手は磐長姫ではないのだろうか?磐長姫は瓊々杵尊から返されたあと、悲しんで米良の地で密かになくなっている。米良の地はこの奥地に当たる。

 AD42年頃、12歳ほどになった瓊々杵尊に縁談があった。奈古神社の地に住んでいた髪長姫である。

 瓊々杵尊の宮居伝承地は宮崎大学の近くの木花神社にもある。出雲国譲りの後、日向津姫の子供たちは遠くに出て行っているため、木花神社に居を構えたのは出雲国譲りの前で、42年頃~46年頃までの期間であろう。瓊々杵尊は奈古の磐長姫を娶り木花神社の地で新婚生活を送っていたと推定する。
 木花神社の社に向かって左側に無戸室(うつむろ)址がある。古来神聖視しており人が入ることを許さないという。また、社の東側の坂道の途中に桜川という産湯の跡がある。

 日向津姫は瓊々杵尊を早く一人前にしようと早めに結婚させたのであろう。木花神社は日向津姫生誕伝承地である加江田神社と目と鼻の先である。若き夫婦に統治の楽な伊弉諾尊旧地を統治させることで自信をつけさせようとしたのではあるまいか。

 近くに霊山嶽があり、ここは瓊々杵尊の御陵と言われている。しかし、御陵ではないであろう。昔有力人物が住んでいた伝承地の近くに御陵伝承地があることが多い。逆にたどれば、宮跡伝承地の近くに御陵伝承を作ったとも考えられる。御陵伝承の方が宮跡伝承よりも残りやすいので御陵伝承のみ残ったところもありそうである。おそらく、瓊々杵尊は霊山嶽に登って周辺の地理を知ったものと推定される。

  伊比井神社 日南市大字伊比井1991 祭神 瓊瓊杵尊,木花開耶姫命
 海辺に続く尾崎の山があり、これを天神の尾という、瓊々杵尊が高千穂峯にご降臨ののち、海辺に遊幸され、大山祇命の娘木花咲耶姫をご覧になった所と伝える。

 日南海岸沿岸にある神社である。ここに瓊々杵尊住居伝承がある。木花神社を拠点としている時、日南地方の巡回を行っているのであろう。日南地方往復する時立ち寄った場所と考える。

 日子穂々出見尊初期宮跡

 西都市都於郡町高屋に城跡がある。ここは日子穂々出見尊御陵伝承地であるが、ここに日子穂々出見尊の宮跡伝承がある。御陵伝承は宮跡から推定されたものであろう。この宮跡伝承地は日向津姫の宮伝承地都万神社からかなり近いので初期の日子穂々出見尊が住んでいたところで、時期はAD45年頃と推定。

 鵜茅草葺不合尊について

 瓊々杵尊・日子穂々出見尊に関する初期の宮跡と思われる伝承地は存在しているが、鵜茅草葺不合尊に関しては伝承地が見つからない。おそらく、まだ幼かったために日向津姫のものにいたのではあるまいか。

 南九州における日向津姫

 日向津姫は撞賢木厳之御魂天疎向津媛命が正式名称で、天照大神荒御魂、瀬織津姫、日向大明神、八十禍津日神とも呼ばれている。木花開耶姫も日向津姫の別名と思われる。名称から判断して日向地方で活躍した人物と思われるが、記紀編纂時天上(高天原)に上げられてしまったため、地上の関連伝承地が高皇産霊神とともに抹消されてしまったようである。そのため、具体的行動伝承を伴う伝承地が存在していないのである。

 日向津姫はAD27年頃に南九州に高皇産霊神とともにやってきたと思われるが、その伝承地は存在していない。AD30年頃から国譲りが起こるAD45年頃までの日向地方での伝承が探れないのである。

 この頃、大和では饒速日尊がヒノモトを建国して統一事業を推進しており、出雲では、第二代倭国王大国主命が中国・四国・北九州地方の開拓をしていたという伝承が共に複数存在している。高皇産霊神はその子萬幡豊秋津師姫と天忍穂耳命とを結婚させ、土佐国に派遣した。暫く後、忍穂耳は福岡県の吾勝野に移動しその周辺を開拓をしている。高皇産霊神は日向津姫とともに南九州に移動しているが、その拠点は北九州にあるので、北九州と南九州を往復していたものと考えられる。

 AD30年頃からAD45年頃までの間、南九州にいたと思われる日向津姫の行動の痕跡が全く見られない。この期間南九州のどこかが統一されたという伝承も存在していない。その子瓊々杵尊、日子穂々出見尊、鵜茅草葺不合尊が成人するまでの間である。ただひたすらこの三人を育てていたのであろうか。

 この時期は倭国の中心は出雲にあり、倭国王は大国主命である。南九州地方は現在の鹿児島神宮の地にあった出雲屋敷にいた役人がこの地を統治していたようである。

 この時期の高皇産霊神は自分の養子とした素盞嗚尊の子天忍穂耳尊を次期倭国王にするように奔走していたようである。土佐国統治を経験させ、吾勝野の開拓をさせていた。少彦名命を亡くし目標を失った大国主命を北九州に呼び寄せ、天忍穂耳尊とともに田川一帯を開拓させた。

           素盞嗚尊┓ ┏市杵島姫
               ┃ ┃
呉太白・・・伊弉諾尊┓    ┣━╋天忍穂耳尊
          ┣日向津姫┫ ┃
      伊弉冉尊┛    ┃ ┗天穂日命
               ┃
               ┃ ┏瓊々杵尊
               ┃ ┃
               ┣━╋日子穂々出見尊
秦徐福・・・・・・・高皇産霊神┛ ┃
                 ┗鵜茅草葺不合尊━┓
                          ┣神武天皇
飛騨王家・・・・・・・・・・・豊玉彦━━━━玉依姫━┛
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