天穂日命の出雲降臨

 天穂日命は素盞嗚尊・日向津姫の二男である。長男が西倭国の国王に内定しているので、二男の任務は倭国の素盞嗚尊祭祀体制の強化にあった。

 素盞嗚尊はAD30年頃出雲市唐川町で急死しており、近くの丘陵地に葬られている。その後もほとんど祭祀がなされていない状態であった。人心を一つにしておかないと倭国分裂のもととなりやすい。人心を一つにするには倭国の始祖である素盞嗚尊の祭祀を強化するのが最適であると思われた。その祭祀者は素盞嗚尊の血筋の人物が最適であり、その人物に天穂日命が任命された。

 天穂日命は出雲に下る前はどこにいたのであろうか。天穂日命の行動を示す神社は以下のとおりである。

 天穂日命滞在伝承を持つ神社

山直神社 岸和田市内畑町3619番地 当神社は延喜式内社で昔時天穂日命の創立と伝えられている。
天神社 大阪市北区国分寺1-4-1 天穂日命は此の地方開拓の守護神と言われている。
芦屋神社 芦屋市東芦屋町20-3 天穂日命が国情偵察に天降り大国主命に承認を得ようと出雲に出向する途中この天神山に天降った。その時、この山上に於て自ら皇祖天神を祀って出発した。
夜比良神社 龍野市揖保町揖保上391 葦原醜男命此地に天穂日命と國占の論ありしより見れば早くより此地開拓の祖神として祀られしものならむ。
鷲宮神社 埼玉県久喜市鷲宮1丁目6番1号 神代の昔、天穂日命が東国を経営するために武蔵国に到着し天穂日命のお供の出雲族27人の部族と地元の部族が当地の鎮守として大己貴命を祀ったのに始まる。

 これらの伝承を見ると天穂日命は大阪湾岸地方の開拓をしていたようである。天穂日命はAD22年頃の生誕と思われ、饒速日尊とともに大和に降臨するには若すぎる。高皇産霊神が天穂日命にいろいろと経験させようと、大和に降臨させたものであろう。時期はAD35年頃ではないだろうか。
 鷲宮神社の伝承より、天穂日命は関東地方の開拓事業を行っていたことが分かる。AD40年頃饒速日尊が関東地方の統一事業を行っているので天穂日命もそれに追従して関東地方にやってきたものと思われる。天穂日命は地元の縄文人と思われる部族と協力して関東地方の開拓を行ったあのであろう。
 天穂日命は出雲の素盞嗚尊祭祀者に最適であるということから大和より九州に呼び戻されたのであろう。

 福岡県添田町の添田神社に天穂日命が祭られている。この神社はその昔岩石山上にあったそうである。ここは天忍穂耳命の滞在地でもあるので、天忍穂耳命と天穂日命は一緒に吾勝野に住んでいたことが伺われる。

 山口県佐波郡徳地町船地にある八幡宮に天穂日命が滞在したという伝承が残っている。この地は、山口県防府市から佐波川を遡り阿東町を経て津和野に出る経路上にある。天穂日命はこの経路を通って出雲に移動したと思われる。AD45年頃のことであろう。

 天穂日命は出雲到着後どこに住んでいたのであろうか。天穂日命の出雲派遣の目的が素盞嗚尊祭祀の強化にあるので、出雲市唐川町の素盞嗚尊の墓を訪れたと思われる。しかし、この地は山奥であり、大々的な祭祀をするには無理であった。素盞嗚尊祭祀強化には代わりとなる素盞嗚尊の痕跡となる場所が必要であった。シンボルとなる高い山があること、人口の多い地域に近いこと、そして何より素盞嗚尊が大切にしていた場所である条件を満たしているところであった。天穂日命は、その条件を満たす地を探したところ、熊野山が最適であることがわかった。

 この山は周辺で最も高い山であり、かつて素盞嗚尊は奥出雲地方の巡回時この山に登って周囲を見渡していて、素盞嗚尊の心が留まっていると思われた。天穂日命は早速この山をシンボルとして祭祀を行うことにした。これが、後の熊野大社である。

 松江市大庭にある神魂神社は現在は伊弉諾尊・伊弉冊尊を祀っているが、本来は、熊野大神の遥拝所だったそうである。近くに出雲国庁、国分寺などが存在しており、716年に出雲大社ができるまではここが出雲の祭祀の中心地であったとされている。

 当社は大庭大宮とも云ひ出雲国造の大祖天穂日命が、此地に天降られて御創建、伊弊冊大神を祀り、 出雲大神、出雲国の総産土大神、として天穂日命の子孫(大社町、北島、千家両国造)は元正天皇霊亀二年 (716)に至る二十五代果安国造迄祭主として奉仕、斉明天皇の勅令により、出雲大社の創建なるや、杵築 (大社)へ移住したる。 
 しかし、国造就任の印綬とも云ふべき神代ながらの神火相続(おひつぎ)式、並に新嘗祭 を執行の為め、現在も当社に参向されている。 従って大国主命の国譲も、出雲朝廷のもと国造として祭政を 執った当社が古代出雲の神都であり、毎年十月には全国の八百万の神々が集ひ給ふ神在祭も行はれている。
 本殿は民族祖先の独創になる日本最古の建築様式で天地根元造の形態を有する大社造として 国宝(本殿。内殿。古代心の御柱の一部共)に指定され全国に現存する大社造としても最古(正平元年) のもので素朴雄大、本殿内は狩野山楽土佐光起の筆とも伝えられる大壁画九面にて囲まれ、天井の九重雲は (出雲大社は七重雲)日本建国の創業を物語る貴重な神話を伝う。          <神魂神社 由緒>

 天穂日命は神魂神社の地で素盞嗚尊祭祀を開始した。その聖地が素盞嗚尊が愛していた熊野山山頂磐座であった。

 出雲に来た天穂日命は出雲最大の聖地(熊野山=素盞嗚尊御陵)に熊野大社を建立し、その参道沿いに遥拝所を儲けた。 八雲村大石の旧能利刀社の地に素盞嗚尊の言葉を聞く施設を作り、職言綾根を設けた。 穂日命はそこの対岸の広場の布吾弥社の跡地に人々が集まって言綾根の言葉を聞く施設を作った。そして、 さらに少し離れた松江市大庭町神魂神社の地を神都として東倭各地から代表者を集め旧暦10月に代表者会議を行うようにした。 その会議で決定されたことを代表者は各地に戻りその地方を統治した。このときの出雲国代表者が出雲国造家である。出雲国の素盞嗚尊祭祀者(後の出雲国造)はこの地での 火継ぎ(日嗣)の儀式を経ないと勤めることができないようにした。この出雲国の聖地で行われる儀式は、後の時代に熊野大社に移り現在は出雲大社へと変遷している。 素盞嗚尊祭祀者を神聖化することにより東倭を治めることに成功したのである。

 天穂日命は祭祀体制を固めたのち、この地を九州からやってきた子の武夷鳥命に譲り、自らは安来市能義町の能義神社の地に移動した。能義神社は天穂日命の館跡にたてられた神社で、「天穂日命はこの地に至り、農耕を勧めて庶民を導き、産業福祉の開発に尽くした神である。」と伝えられている。

 天穂日命の活躍により出雲の人心は一つにまとまりかけていた。AD47年頃のことであろう。

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