瀬戸内海交易圏の確保
素盞嗚尊・高皇産霊神との話し合い
大和国に降臨した饒速日尊は、瀬戸内海交易圏の確保を目的として倭国に一度戻らなければならなくなった。今度は新しい妻御炊屋姫をつれて行った。素盞嗚尊・高皇産霊神にヒノモト建国の状況を報告した。
瀬戸内海交易圏の確保
大和に連合国家の拠点を作った饒速日尊は一度倭国領域に戻っている。それを示す伝承が下のものである。
浮嶋神社 温泉郡重信町牛渕583・584 宇麻志阿斯訶備比古遅神,伊弉諾大神,伊弉冉大神,大山積命
饒速日尊の長子宇摩志摩治の誕生地伝承あり<愛媛伝より>
饒速日尊の長子が誕生したのは御炊屋姫と結婚後1年程度であろう。そうすれば、AD27年前後に於いて饒速日尊は大和ではなく、伊予国にいたことになる。これはどうしたことであろうか。
大和に拠点を持った饒速日尊としては国を安定維持するためには九州と太いパイプを持っていなければならなかった。そのためには瀬戸内海の交易ルートを安定的に確保しなければならなかったであろう。伊予国周辺には越智水軍が存在し、その始祖は饒速日尊であると言われている。 これと深い関係があると思われる。
新撰姓氏禄によると越智氏は第7代孝霊天皇を元祖とする「皇別氏族」に分類されているが、旧事本紀では饒速日尊を元祖としている四国の伊予国越智郡に勢力の中心をもっていた氏族である。奈良時代以降越智郡の郡司としてこの地方に勢力をはって、大三島大山祇神社を奉祭してきた氏族である。
この神社の由緒によると、神武天皇の東征以前に大山積神の子孫である「乎千命」が四国に渡り、瀬戸内の治安を司って芸予海峡の要衝である御島(大三島)を神地と定め鎮祭したことにはじまると伝えられている。
大山祇神社の創建は明らかではないが、同系列の最古の三島神社は大阪府高槻市の三島鴨神社である。東からの流れであり、饒速日尊或いはその子孫が創設したと考えられる。
饒速日尊は大和に拠点を作った直後のAD27年頃、瀬戸内海沿岸をまわり、瀬戸内海航路を安定確保したものと考えられる。これが、越智水軍の起源であろう。
この時、饒速日尊に随伴していたのが大山祇命である。饒速日尊が瀬戸内海航路を安定確保しているとき、大山祇命は大三島の大山祇神社の地を本拠地としていたのではないかと考える。
饒速日尊はこの時、飛騨国王から預かっていた賀茂建角身(味鋤高彦根命)を父である大山祇に返したと思われる。味鋤高彦根命は出雲国に10年ほど滞在していたようである。味鋤高彦根命はこの頃15歳ほどになっており、立派に成人していた。
瀬戸内地方からの帰還
日本書紀によると,
「饒速日命,天磐船に乗り,太虚をめぐりゆきて,この郷におせりと天降りたまうとき,名づけて「虚空見日本国」という。」
とある。これによると,饒速日尊が大和に入ったときに,ヒノモトという名前を付けたようである。日本はヒノモトと読む。東大阪市に「日下」(朝,太陽が生駒山から昇ってくるその日の下という意味)という地名があり,饒速日尊は,ここから大和に入ったと伝えられている。饒速日尊は飛騨国との交渉により倭国とは別の連合国家を造ることになったために,飛騨国の要求する「太陽」の意味を持った新しい統一国家の名を考える必要がでてきた。饒速日尊が大和に入るときに見た生駒山からの日の出に感動して,その国名として「ヒノモト」を使ったのであろう。饒速日尊が生駒山西麓に住んでいたころでないと上のようなことにならないので、この頃新しい統一国家の名前をつけたのは紀元30年ごろのことであろう。
この日下からまっすぐに生駒山に登ったところにある峰が饒速日山で生駒山地の北端の峰となる。現在生駒スカイラインの料金所がある辺りである。昔は饒速日尊が祀られた神社があり、このあたりに饒速日尊の宮跡があったと伝えられている。饒速日尊はここで大和と河内の両方を統治していたのであろう。
饒速日山から東に下り、龍田川に沿って下り生駒市南端より東の山に登ると「迎ひ山」がある。この山も饒速日尊降臨伝承を持っている。おそらく饒速日尊はこの経路を通ったのであろう。白庭山を東に下ると矢田坐久志玉比古神社(奈良県大和郡山市矢田町965)がある。この神社の祭神は櫛玉饒速日神 御炊屋姫神であり、迎ひ山は、河内からやって来た神を里人が迎えた山と伝えられている。饒速日山からここまで8km程である。ここからさらに北東へ1.5kmほど行ったところに登弥神社(奈良市石木町648-1)がある。この神社は饒速日命の住居伝説があり、ここを宮として暫らく住んでいたようである。ここは以前の宮跡長弓寺より7kmほど南西にあるが、矢田坐久志玉比古神社の伝承から判断して饒速日尊は河内からやってきたものと考えられる。
矢田地区の人々は饒速日尊の喜んで迎えたようである。この土地の人々も饒速日尊の活躍を知っていたであろうから、饒速日尊による日本列島統一に理解を示していたことになる。おそらく、この周辺は簡単に統一されたことであろう。
この伝承の妻は御炊屋姫であるので、河内地方を統一する前でAD30年頃であろうと思われる。
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