高皇産霊神の正体

 古代史の復元に於いて、おもな人物の出自はほとんど判明した。しかし、重要人物でありながら、いくら調べても正体不明なのが、この高皇産霊神である。古代史を復元する過程で、素盞嗚尊が北九州を統一する時にいきなり登場してくるのである。北九州の豪族の一人ではあると思うが、高天原では天照大神を凌ぐほどの位置にいる。実質的に高天原最高神と言ってもよいような存在である。地方の神社にもよく祭られているが、その実態はなかなかわからない。古事記では天御中主神・神皇産霊神と共に造化三神を形成している。ここでは、この高皇産霊神の正体をわかる範囲で推定してみる。

古事記の記述
天地が初めてできたとき、高天原に現れた神の名は天之御中主神。次に高御産巣日神。次に神産巣日神。この三柱の神は、みんな独神で、身を隠された。

日本書紀(一書の四)
天地が初めて分かれて、初めて共に生まれた神がいた。國常立尊言う。次に國狭槌尊 。
また、高天原において生まれた神の名を、天御中主尊と言う。次に高皇産霊尊。次に神皇産霊尊 。

 これら記事を見ると天御中主神・高皇産霊神・神皇産霊神は三神が一体となっているようである。隠身・独神であることも併せて、特殊な位置にある。神話上でも他の神と立場が異なるようである。 天御中主神は神話上の行動実績が全く見られないが、高皇産霊神・神皇産霊神は色々と神話上に登場している。

 系図上の考察

 高皇産霊神には伝承上6人の子がいる。思兼命、栲幡千千姫命、天忍日命、三穂津姫、天太玉命、天活玉命である。この御子たちの思兼命・天忍日命・天太玉命・天活玉命の4人は饒速日尊と共に大和に降臨して以後マレビトとして活躍している。思兼命は信濃国阿智族の祖であり、天忍日命は大伴氏の祖、天太玉命は忌部氏の祖である。天活玉命は越国に降臨していると思われ、三穂津姫は出雲国譲り後に饒速日尊の妻となり、やはり、大和に降臨している。栲幡千千姫命は日向津姫の長子天忍穂耳命の妻となっている。このように子どもたちは日本各地に赴き、後世に名が残るような氏族の祖となっている。また、高皇産霊神が神話上では天孫降臨、国譲神話、神武天皇東遷時と統一事業にかかわる場面での登場が多い。これは、高皇産霊神が日本列島統一に大変な熱意を持っていたことをうかがわせる。

 高皇産霊神がかかわっている重要な神社を挙げてみると以下のようなものである。

 春日神社(田川市宮尾町6番13号)
 祭神 豊櫛弓削遠祖高魂産霊命(とよくしゆげのとうそたかみむすびのみこと)他、この地は饒速日尊降臨伝承地である。高皇産霊神が最も長い名で祀られている。

 高良大社(福岡県久留米市御井町1番地)
 式内社・名神大社で筑後国一宮である。福岡県久留米市の高良山にある。古くは高良玉垂命神社、高良玉垂宮などとも呼ばれた。主祭神の高良玉垂命は、武内宿禰説や藤大臣説、月神説など諸説あるが、古えより筑紫の国魂と仰がれていることから素盞嗚尊と思われる。筑後一円はもとより、肥前にも有明海に近い地域を中心に信仰圏を持つ。高良山にはもともと高皇産霊神(高牟礼神)が鎮座しており、高牟礼山と呼ばれていたが、高良玉垂命が一夜の宿として山を借りたいと申し出て、高木神が譲ったところ、玉垂命は結界を張って鎮座したとの伝説がある。高牟礼から音が転じ、「高良」山と呼ばれるようになったという説もある。現在もともとの氏神だった高木神は麓の二の鳥居の手前の高樹神社に鎮座する。

 高木神社(嘉麻市小野谷1580番)
 祭神 高御産巣日神、神武天皇が東遷時ここにやってきて高皇産霊神を祀った。福岡県神社誌には、「本村は往昔、英彦山神社の神領地なりし依て英彦山に於いては当社を英彦山四十八大行事社の中にして本社はその首班に位せり。各地にある大行事社今は皆高木神社という。」 とある。

以下はその高木神社であろう。
高木神社 田川郡添田町大字津野6717番の1
高木神社 田川郡添田町落合3583番
高木神社 田川郡添田町津野2227
高木神社 田川郡大任町大行事118番
高木神社 田川郡大任町大行事2496-1
高木神社 嘉麻市熊ヶ畑1075番
高木神社 嘉麻市桑野2588番
高木神社 嘉麻市小野谷1580番
高木神社 嘉麻市桑野1399番
高木神社 嘉麻市平217番
高木神社 久留米市田主丸町豊城1088番
高木神社 宮若市黒丸1572番
高木神社 京都郡みやこ町犀川上伊良原字向田308番
高木神社 京都郡みやこ町犀川下伊良原字荒良鬼1594番
高木神社 築上郡築上町船迫字水上1133番
高木神社 筑紫野市大石字上ノ屋敷569番
高木神社 筑紫野市天山字山畑241番
高木神社 朝倉郡東峰村小石原鼓978-8
高木神社 朝倉郡東峰村宝珠山24番
高木神社 朝倉郡東峰村小石原655番
高木神社 朝倉市佐田377番
高木神社 朝倉市黒川1806番
高木神社 朝倉市黒川3328番
高木神社 朝倉市佐田2953番
高木神社 朝倉市江川1201-1
高木神社 朝倉市杷木白木172番
高木神社 朝倉市杷木赤谷744番
高木神社 朝倉市杷木松末2784番
高木神社 朝倉市須川1683番

『 太宰管内志 』
「上代、彦山に領じたり地には、其神社を建て限とす。是を七大行事ノ社と云。其今ものこれり。七大行事と云は、日田郡 夜開(よあけ)郷 林村の大行事(現戸山神社・祭神大山津見神)、又鶴河内村の大行事、筑前国上座郡福井村の大行事、同郡小石原村の大行事、豊前国田川郡添田村の大行事、下毛郡山国郷守実村の大行事などなり。此社今も有て神官是を守れり」と記している。この英彦山 大行事社 は、弘仁13年(822)神領七里四方に48か所設けられたと伝承され、山内大行事社、六峰内大行事社、山麓大行事社、各村大行事社から成っており、七大行事社は山麓大行事社のことで、神領の最も外側にあり、またそれは参道の入口ともいえるところに作られている」

 英彦山産霊神社(英彦山山頂付近) 
 往古高皇産霊尊鎮座の旧地であるという伝承があって、文武天皇時代に再建されたという。

 昔の英彦山の神領域の境界に大行事社を作り、その大行事社が高木神社であるというのである。地図上にプロットしてみると福岡県側にしかなく、すべて英彦山の北西部一帯の英彦山を中心とする半径45kmの北西部半円内に収まっている。前述の春日神社、高良大社もこの領域にある。また、高木神社の首班と言われている嘉麻市小野谷の高木神社を中心とする半径30kmの円内にすべての高木神社及び春日神社、高良大社が収まっている。

 嘉麻市小野谷の高木神社はすべての高木神社の首班であると同時に神武天皇が創始している。神武天皇はわざわざこの地にやってきて、高皇産霊神を祀っているので、それなりの由緒ある場所であることには間違いがないであろう。

 高良大社の伝承では本来ここには高皇産霊神が祭られており、饒速日尊がやってきてこの地を譲ったことになっている。饒速日尊(この時は大歳命)がこの地にやってきたのはAD5年頃で饒速日尊15歳程であったと思われる。これは、この地がもともと高皇産霊神の支配地域であったが、素盞嗚尊・饒速日尊の日本列島統一事業の考え方に強く同調し、自らの土地を献上したと考えられる。高皇産霊神は日本列島統一事業によほど強く同意したのであろう。そうでなければ自分の支配地を快く献上するなどと言うことは考えられない。高皇産霊神は自分の支配領域を献上した後、饒速日尊の天孫降臨に自らの子を4人も参加させるなど統一政策に積極的にかかわっているのである。

 高皇産霊神に関して他の神と異なる点がいくつか存在している。高天原の事実上の最高神であること。皇居内八神殿の第二殿で祀られていること。数多くの神社に祭られていながら、具体的行動を示す伝承が存在しない。などである。また、娘の栲幡千千姫命を天忍穂耳命の妻としているので、日向津姫や饒速日尊とほぼ同世代で西暦紀元頃の誕生と考えられる。饒速日尊死後大合併論議の中で、大和に使者の味耜高彦根命を送っているので少なくともAD70年頃までは生存していたと思われる。

 高皇産霊神の子孫の世代ごとの該当人物を見てみると

一世 二世 三世 四世 五世
AD紀元頃生誕 AD25年頃生誕 AD50年頃生誕 AD75年頃生誕 AD100年頃生誕 AD125年頃生誕
高皇産霊神 思兼命 天表春命 阿豆佐美命 加弥夜須命 阿智別命 阿智氏
栲幡千千姫命
三穂津姫
天太玉命 天櫛耳命 天櫛耳命
天鈿女命
天富命 弥麻爾支命 忌部氏
天活玉命 天神立命
天三降命
陶津耳命
菟狭津彦命
玉依彦命 剣根命 葛城氏
宇佐氏
天忍日命 天津彦日中咋命 道臣命 味日命 稚日臣命
日向津姫
饒速日尊
事代主命
天忍穂耳命
鵜茅草葺不合尊
猿田彦命
神武天皇 神武天皇 綏靖天皇
安寧天皇
懿徳天皇
孝昭天皇

 大体世代が一致している。天神立命は高皇産霊神の子であるという異説もあり、この神もマレビトと思われる。天三降命は宗像三女神との説もある。また、天富命は神武天皇時代に活躍したことが伝えられている。これらの神の系統は上の表で一列左にずれる可能性を持っている。そうすると、天櫛耳命も高皇産霊神の子である可能性が出てくる。神武天皇と同世代と思われる人物は三世の人物なのである。これらの系図が正しいとなれば高皇産霊神はもう一世代上で、素盞嗚尊と同世代(BC30年頃生誕)でなければならないことになる。さらに複雑となっているのは大伴氏の系図である。

一般に大伴氏は高皇産霊神→天忍日命→天津彦日中咋命→道臣命と言われているが、『古屋家家譜』によると、
高皇産霊神→安牟須比命─香都知命─天雷命─天石門別安国玉主命─天押日命─天押人命─天日咋命─刺田比古命─道臣命
となっている。道臣命が神武天皇と同世代なので、AD50年頃誕生とすれば、高皇産霊神は9世前なので、一世平均30年とするとBC220年頃の生誕の人物となる。

 賀茂氏系図では 高魂命-伊久魂命-天押立命-陶津耳命(神武天皇と同世代)より、高魂命はBC40年頃生誕となる。

 このように高皇産霊神の子孫から逆算した高皇産霊神の生存年代がばらばらになってしまうのである。BC40年頃生誕でAD70年頃まで活躍したとすれば、高皇産霊神は100歳程度生きたことになる。絶対にあり得ないとは言わないが、まず、あり得ない話である。古事記には高皇産霊神は独神で隠身であったと言われていることから、この神は特定の人物を指しているのではなく、系統名ではないかと考えられる。おそらく天御中主神・神皇産霊神も系統名であろう。

 秦の徐福

 それでは、高皇産霊神はどういった人々の系統に属するのであろうか。『古屋家家譜』による大伴氏の系統をたどるとBC200年頃の人物となること、元の本拠地が高良大社の地であること、日本列島平和統一に対して異常な執念を燃やしている、ことなどを総合して考えると、浮かび上がって来る人物が存在する。それは、秦の徐福である。ここで、高皇産霊神=秦徐福の系統であるとして、その可能性を追ってみたいと思う。

 中国での徐福

 徐福は秦の時代の中国でBC278年に誕生したと言われている。徐福の身分は方士で、不老長寿の呪術、祈祷、医薬、占星術、天文学に通じた学者であった。
中国では1982年に江蘇省連雲港市において「徐阜(じょふ)村」が発見され、そこが以前は「徐福村」と呼ばれており、現地で確かに徐福伝説が伝承されていることが確認され、 徐福出生の地として「徐福祠」が建設された。伝説上の人物ではなく、歴史上の人物として認定されたのである。

当時中国は秦と呼ばれた時代で始皇帝が中国を支配していた。始皇帝は不老不死の仙薬を求めており、徐福に仙薬の入手を命じたのである。
徐福は秦に滅ぼされた斉の国の出身であったが、始皇帝の命に背くことは出来ず、東方に仙薬を求めて渡海することを決心した。

司馬遷の『史記』に、
「東方の遥か海上に蓬莱(ほうらい)・方丈(ほうじょう)・瀛州(えいしゅう) という3つの神山があり、ここには仙人がすんでいます。
童男童女とともに不老不死の仙薬を捜しに行くことをお許し下さい。」
と徐福が願い出たと記述されている。
始皇帝は、童男童女三千人、五穀の種子、百工(各種技術者)を派遣し、徐福に託した。
徐福は紀元前219年、童男童女三千人、職人百人及び武士を引き連れて、五穀の種とシルクを船に乗せ、東に向かって渡航したのである。

 日本上陸

徐福一行は途中様々な苦難を乗り越えて、杵島の竜王崎(佐賀県佐賀市白石町)に最初にたどり着いた。ここは上陸するには困難な場所であった。上陸が困難なので、徐福一行は海岸線をたどって佐賀県の諸富町大字寺井津字搦(からみ)に初めて上陸したとされている。一行が上陸した場所は筑後川河口にあたり、当時は一面の葦原で,それを手でかき分けながら進んだという。

 一行はきれいな水を得るために井戸を掘り、上陸して汚れた手をその水で洗ったので「御手洗井戸」と呼んだ。この井戸は今でも寺井地区の民家の庭に残っている。寺井の地名は「手洗い」が訛ったものと言われている。この井戸は言い伝えに基づいて大正時代に調査が行われ,井の字型の角丸太と5個の石が発見され,徐福の掘った井戸に間違いはないとされた。

 しばらく滞在していた徐福一行は,漁師が漁網に渋柿の汁を塗るため,その臭いにがまんができず,この地を去ることにした。去るとき,何か記念に残るものはと考え,中国から持ってきた「ビャクシン」の種を植えた。樹齢2200年以上経った今も元気な葉をつけている。この地域では,新北神社のご神木でもあるビャクシンは国内ではここと伊豆半島の大瀬崎一帯にしかないと言われ,共に徐福伝説を持っている。このことも徐福伝説が真実であることを証明している。

 一行は北に向かって歩き始めたが,この地は広大な干潟地であり,とにかく歩きにくい所だったので、持ってきた布を地面に敷いてその上を歩いた。ちょうど千反の布を使い切ったので,ここを「千布」と呼んだ。使った布は,千駄ヶ原又は千布塚と言うところで処分したという。
 千布に住む源蔵という者が,金立山への道を知っていると言ったので、不老不死の薬を探すために,徐福は源蔵の案内で山に入ることにした。
 百姓源蔵屋敷は田の一角にあった。現在その場所は不明だが、源蔵には阿辰(おたつ)という美しい娘がいました。徐福が金立町に滞在中,阿辰が身の回りの世話をしていたが,やがて徐福を愛するようになった。徐福は金立山からもどったら,「5年後にまた帰ってくるから」と言い残して村を去ったが,阿辰は「50年後に帰る」と聞き間違え、悲しみのあまり入水してしまった。村人はそんな阿辰を偲んで像をつくり,阿辰観音として祀った。
 徐福はいよいよ金立山に入った。金立山の木々をかき分けて不老不死の薬を探したが見つけることは出来なかった。

 やがて徐福は釜で何か湯がいている白髪で童顔の仙人に出会った。この仙人に不老不死の薬を探し求めて歩き回っていることを伝え,薬草はどこにあるかと尋ねると、「釜の中を見ろ」と言われた。そこには薬草があり、仙人は「私は1000年も前から飲んでいるから丈夫だ。薬草は谷間の大木の根に生えている」と言うと,釜を残して徐福の目の前から湯気とともに一瞬に消えてしまった。こうして徐福はついに仙薬を手に入れることに成功した。
 仙人が釜で湯がいていたのはフロフキという薬草だった。フロフキは煎じて飲めば腹痛や頭痛に効果があると言われているカンアオイという植物で,金立山の山奥に今でも自生している。

金立山には金立神社がある。祭神は保食神,岡象売女命と徐福である。以前は徐福だけを祭神としていたそうである。

 徐福は金立山で不老不死の仙薬を探し求めたが結局見つけることができなかったので、ここを出発し、各地方に人々を派遣し薬を探し求めた。徐福は山梨県の富士吉田市までたどり着いたが、薬は見つからなかった。このまま国へ帰ることができず,徐福はここに永住することを決意した。連れてきた童子300~500人を奴僕として河口湖の北岸の里で農地開拓をした。この地の娘を妻として帰化し,村人には養蚕・機織り・農業技術などを教えたが,BC208年ここで亡くなったという。亡くなって後も鶴になって村人を護ったので,ここの地名を都留郡と呼ぶようになった。
富士吉田市には「富士古文書(宮下古文書)」が残っており,徐福の行動が詳しく記されている。
 「甲斐絹」は山梨の織物として知られている。富士吉田市を含む富士山の北麓は千年以上前から織物が盛んだった。この技術を伝えたのが,中国からやってきた徐福であったと伝えられているのであっる。富士山北麓地域の人たちは富士吉田市の鶴塚を徐福の墓としている。

 以上が徐福伝承のあらましである。徐福はこのほか九州から関東までの太平洋岸と日本海岸では丹後と秋田・青森に伝承を残している。この地域で不老不死の薬を探しまわったのであろう。

 吉野ヶ里遺跡

 徐福自身は山梨県の富士吉田市で亡くなっているようであるが、佐賀県の金立山周辺には一行の何人かが残ったと思われる。この徐福伝承地のすぐそばに吉野ヶ里遺跡がある。両者は直線距離で8km程離れている。

 吉野ヶ里遺跡は徐福が来日した紀元前3世紀ごろに急に巨大化している。吉野ヶ里遺跡は発掘されている巨大遺跡であるが、神話伝承とのつながりが全くない。素盞嗚尊・饒速日尊の統一事業の前に巨大化していたためと思われる。出土した人骨を分析した結果によると、中国の江南の人骨と吉野ヶ里の人骨とが非常に似ているということが分かった。また、吉野ヶ里から発見された絹は、前二世紀頃江南に飼われていた四眠蚕の絹であり、当時の中国は養蚕法をはじめ、蚕桑の種を国外に持ち出すことを禁じていた。それが日本国内で見つかったということは、吉野ヶ里遺跡を形成した一族は単なるボートピープルではなく、余程の大人物が中国から最初に持ちだしたことを意味する。時期、場所を考えるとその人物が徐福一行である可能性は高い。徐福と別れ、この地に残った人々が吉野ヶ里遺跡を形成したと考えられるのである。

 吉野ヶ里遺跡はかなり戦闘を意識した遺跡である。弥生時代最大級の環濠集落であり、巨大な物見櫓、高床式倉庫群、そしてひしめく住居跡や、幾重にもめぐらした環濠跡ある。また、埋葬されたおびただしい数の甕棺墓の中には、頭部のないものや矢を打ち込まれたものなど戦死者と考えられる人骨が多数存在している。

 弥生時代中期までは戦闘を目的とした武器が出土する。北九州は集落どうしの戦闘状態にあったことは確かであろう。ところが、素盞嗚尊・饒速日尊が訪問してきた弥生時代中期末以降急速に、平和状態になったようである。武器は祭器化し、環濠集落も消滅したのである。

 高良大社との関係

 吉野ヶ里遺跡から直線で16km程離れた位置に高良大社がある。現在でも高良大社は吉野ヶ里遺跡付近に住む人々の信仰対象となっているのである。高良大社の背後にある高良山は筑紫平野一帯を一望できる山である。吉野ヶ里遺跡に住んでいる人たちは、その持っている先進技術のためか、周辺の集落から襲撃をよく受けていたのではないだろうか、出土状況はそれを裏付けている。そのような時、周辺の集落の動向を探るには高良山は理想の位置にある。吉野ヶ里遺跡に住んでいる人々が高良山を支配下に置こうとするのは理解できる。高良山から四方を見渡して、周辺の集落の動向を探っていたことは十分に考えられるのである。

 饒速日尊がこの地にやってきたのはAD10年頃で、徐福がいたころから200年ほどたっている。1世代30年ほどとして、200年は7世ほどである。当然ながら200年前の記憶は残っていたであろうし、この地に住んでいた人々は徐福の子孫であることを自負していたのではないだろうか。
 徐福がこの地に着いて、吉野ヶ里遺跡を形成してから、周りからの襲撃を頻繁に受けており、戦いにはうんざりしていたことであろう。また、徐福は中国にいる頃、中国の戦国時代で戦いの中で育ってきており、秦に敗れた斉の出身である。戦争の悲惨さは身にしみて感じていたと思われる。しかし、吉野ヶ里遺跡の状況からみて防御中心であり、周辺の集落を襲撃して国として統一しようとしていたようには見えない。吉野ヶ里遺跡の人々は先進技術を持っている上に武士を引き連れていたのであるから、周辺の国々を併合して統一国家を作ることは可能だったと思われる。戦いを好まない徐福の性格が、ここの人々に侵略戦争を仕掛けてはならないことを伝えていたのであろう。
 この人々こそ高皇産霊神と呼ばれた人々ではないかと考えている。高皇産霊神としては、頻繁に襲撃を受けてはたまらないがこちらから戦争をしかけてはならない。こういった状況は何とかならないかと思っていたことであろう。そういったところに素盞嗚尊・饒速日尊が平和統一の提案をしたのである。高皇産霊神としてはこの案に飛びつくのは当然である。迷うことなく、自らの造った国をすべて献上して、饒速日尊の統一事業に協力するというより、主体的に動くことになるのである。

 高皇産霊神は筑紫平野一帯を主体的に統一し、自らの持つ先進技術を周辺の国々に伝えていった。高皇産霊神の尽力により北九州は一部を除いて一挙に統一されたのである。AD25年頃、饒速日尊が大和に降臨して東日本全域を統一する計画を持ちかけた時、自分の子をはじめとする、多くの人々を従えさせた。饒速日尊が率いていったと言われる物部氏の旧蹟地は、上記の高木神社の存在範囲とほぼ完全に一致している。これも高皇産霊神の協力があったことをうかがわせる。また、BC200年頃、徐福一行が立ち寄った地にはその子孫が生活していることであろうから、それらの人々に協力させることも行ったと思われる。徐福伝説地は東日本太平洋岸に多いが、この地域の統一に饒速日尊は大して苦労した様子もないことから、これら人々の協力があったのかもしれない。

 飛騨王家は神皇産霊神に相当し、徐福の子孫は高皇産霊神に相当する。共にムスビの神である。協力し合って、日本列島統一をしたので、このように呼ばれることになったのかもしれない。皇居八神殿の第一殿に神皇産霊神、第二殿に高皇産霊神が祭られているのも当然であろう。姿が見えない神であるというのも系統を指しているためと理解できる。

 秦氏

 徐福の子孫と言われているのが秦氏である。その根拠はないが、そう伝えられているのである。この秦氏が大々的に祭祀した神社は、
① 松尾大社
② 伏見稲荷大社
③ 木嶋坐天照御魂神社

 松尾大社の祭神は大山咋命で、大歳神の子神である。この神は大歳命(饒速日尊)の子猿田彦命と思われる。伏見稲荷大社の祭神は宇迦之御魂大神で、この神は饒速日尊と思われる。木嶋坐天照御魂神社は天御中主命・大国魂命であるが、『神社志料』によると、天火明命となっている。何れも饒速日尊と考えている。他に四国の「金刀比羅宮」は、昔「旗宮(秦宮)」と呼ばれており、秦氏の神社と考えられ、白山信仰や愛宕信仰も開祖が修験者の「三神泰澄(秦泰澄)」であり、白山神社や愛宕神社も全国に末社を持ち、これも秦氏関連神社と取れる。愛宕神は火雷神で、建御雷神=饒速日尊と思われる。これらより、秦氏は饒速日尊を強く祭祀していることが分かる。

 秦氏の氏神社とされる大酒神社は仲哀天皇8年(日本書紀356年)、秦の始皇帝の14世の孫という功満王なる人物が、中国の戦乱を避け、日本列島へ渡来してこの地に神社を勧請したのが始まりと伝えられている。また、大酒神社は昔、大避神社と読んでいたが、これは功満王の「戦乱を避ける」の 「避」にちなんだ社号だといわれている。
 さらに応神天皇14年(日本書紀372年)、功満王の息子にあたる弓月王(ゆんづのきみ)という人物が、百済から127県18670人の人々を 従えて、大和朝廷に帰化した、と社伝や『記紀』にも記載されている。秦氏はこれら中国系住民を指し、各地に住んで機織りなどの技術で多大の貢献をすることになった。

 しかし、秦氏が多く住んでいたとされる地域から発掘された瓦はそのほとんどが「新羅系」であり、秦氏の氏寺として知られる「広隆寺」にある「弥勒菩薩半迦思惟像」も、朝鮮半島の新羅地区で出土した弥勒菩薩半迦思惟像とそっくりである、また、広隆寺の仏像の材料として使われている赤松は、新羅領域の赤松であることが判明している。これは秦氏は新羅系の一族と言うことになり、これが定説となっている。

 秦氏が新羅からの渡来人だとすると、なぜ、日本古来の神の饒速日尊を大々的に祭祀したのであろうか?大きな疑問として残る。越智─河野氏の家伝書『水里玄義』の「越智姓」の項の「内伝」では、秦の徐福を祖とするとあり、一方、「外伝」として、『新撰姓氏録』(弘仁六年〔八一五〕の成書)には神饒速日命を祖とする越智直の記述があると書かれている。また、この家伝書の編者・土井通安は、「秦忌寸、神饒速日命より出つ、越智直も同神に出つ」と述べている。これだけを見れば、饒速日尊=徐福と取れるような内容である。

 これらの秦氏にかかわる謎はどう解釈すればよいのであろうか。秦始皇帝の子孫、新羅の一族・徐福(饒速日尊)の子孫の3系統存在するようである。そのどれも一方的に否定してしまうと説明できない矛盾を生じてしまうのである。そこで鍵となるのが功満王が秦の始皇帝の14世の孫ということである。1世平均28年程度とすると、14世は約400年に該当し、AD180年頃の人物になってしまうのである。大酒神社の伝承とは約200年のずれが生じる。14世というのが誤りであるとすれば問題ないが、真実ならどうなるのであろうか、仲哀天皇8年は日本書紀の年代では199年に相当、180年にかなり近い年代である。実際に来日したのはこの年ではないだろうか。AD199年頃は中国で黄巾の乱が起こり、三国時代の始まりの時期で戦乱期に当たる。戦乱を避けた人々は、日本列島だけでなく朝鮮半島にも多数流れ込んだことであろう。功満王・弓月王一族が大挙来日したのは、日本で倭の大乱が終結した直後ではないだろうか、倭の大乱終結後、日本列島では吉備国を中心として古墳(初期形式)の築造が始まるなど中国系の新技術がかなり導入されており、この頃中国からの大量移民があった可能性がある。この頃は記紀の記述が欠け落ちているので、199年という年代そのままで、仲哀天皇の時代に移動されている可能性も考えられる。そして、応神天皇の時代に新羅から朝鮮半島に退避していた功満王の子孫が大挙日本列島にやってきて、日本国内で両者が再び出会ったと考えれば、秦始皇帝の子孫、新羅の一族の両側面を持つことが説明できる。
 魏書辰韓伝の古老伝は、秦からの脱国民が「馬韓の東」に住みついて、それが辰韓だとしている。この辰韓のあとが新羅である。新羅文化には、秦に滅ぼされた徐福の故国である斉の文化が含まれていると思われ、朝鮮半島を経由して応神天皇の時代に来日した秦一族が新羅文化を持っていることが裏付けられる。
また、魏志倭人伝によると卑弥呼は国産の絹を魏王に献上している。これも、199年に秦一族が来日しているとすれば説明できる。

 徐福の子孫はその姓「徐」を名乗ることを禁止されていた。「徐」を名乗ることによって始皇帝からの追求をされることを恐れたからである。そのため、日本列島内でも徐福の子孫のその後については、謎になっているのである。国内でこの三系統の秦氏が一体化していることは秦始皇帝の子孫の功満王というのも実は徐福の子孫ということも考えられる。徐福の子孫なら、自ら徐福の子孫であることを名乗るはずもなく、徐福の王であった始皇帝の子孫と名乗る可能性は十分にある。そうだとすれば三系統の秦氏はすべて徐福の子孫となり、時代の違いを超えて日本列島で再会したと言える。これが真実だとすれば、上記の矛盾は一つを残してすべて解決するのである。

 最後の疑問、それは秦氏に饒速日尊の影があることである。秦忌寸の徐福の子孫、饒速日尊の子孫とはどういうことであろうか。秦忌寸が徐福の子孫であれば饒速日尊の子孫にはならない。饒速日尊と徐福は明らかに別系統のためである。ところが秦一族は饒速日尊と大々的に祭祀しているのである。祖先でもないのになぜ祭祀するのであろうか?通常は考えられないのであるが、唯一つ、秦一族が饒速日尊から大変な恩義を受けていて、かつ親戚関係にあったとすれば、このようになることが考えられる。

 饒速日尊から恩義を受けている氏族の筆頭は物部氏であろう。物部氏の祖は饒速日尊であるが、単純にそれだけではない。饒速日尊が大和に降臨する時に数多くのマレビトを連れてきているが、このマレビトも物部氏なのである。秦忌寸の祖がこのマレビトであったとすると秦忌寸の祖は秦徐福であると同時に饒速日尊と伝えられることは十分に考えられる。このマレビトの故郷は北九州の遠賀川上中流域・筑後川流域に集中している。まさに、この領域こそ高木神社が分布している領域なのである。また、高皇産霊神は自らの子6人のうち3人(思兼命・天太玉命・天活玉命)をもマレビトとして饒速日尊に随伴させている。また、娘の三穂津姫を饒速日尊の妻としているのである。高皇産霊神と饒速日尊は大変深い関係にあることになる。このことから、秦忌寸の先祖はこの高皇産霊神と考えるのが最も自然となる。

 秦氏と関係の深い氏族を挙げると第一に賀茂氏の名が挙がってくる。「伏見稲荷大社」は、全国の稲荷大社の総本山である。そして、それを創建したのが 秦伊呂具と言う人である。その伊呂具の父は「秦鯨」と呼ばれている。また、賀茂氏には、賀茂久治良なる人物がおり、賀茂氏の伝承によれば、両者は同一人物で、秦伊呂具も、もとは賀茂伊呂具と言ったそうである。その兄弟が賀茂都理で、後に秦都理を名乗ったとされ、彼らは、同じ一族で、姓を使い分けていたようである。そして、下鴨神社は、最初に秦氏が祀っていたが、賀茂氏が秦氏の婿となり、祭祀権を賀茂氏に譲ったと伝承されている。これによると秦氏は賀茂氏の分派と言うことになる。

 賀茂氏の系図は2系統ある。

①高魂命-伊久魂命-天押立命-陶津耳命-玉依彦命
      (生魂命) (神櫛玉命)(建角身命)        
                    (三島溝杭耳命)
                                 ┌鴨建玉依彦命
②神皇産霊尊-天神玉命-天櫛玉命-鴨建角身命┤
                          (八咫烏) └玉依姫─賀茂別雷命

 この2系統をつなぐものとして鴨氏始祖伝がある。

高皇産霊尊   ┌高皇産霊神――天太玉命――天石戸別命――天富命
   ├――――┤
神皇産霊尊   └天神玉命―――天櫛玉命――天神魂命――櫛玉命――天八咫烏

 両者をつなぐと次のように推定される。

高皇産霊尊   ┌高皇産霊神――天太玉命――天石戸別命――天富命
   ├――――┤
神皇産霊尊   └天神玉命―――天櫛玉命――天八咫烏
            (天活玉命・神魂命)      (鴨建角身命)

 このように考えると矛盾しているように見える上の2系統がつながるのである。先に高皇産霊神はBC30年頃誕生でAD70年頃まで生存して、その期間が長すぎることを述べたが、この系図が真実だとすると、その疑問は解消する。高皇産霊神は2代続いた名であるということである。これも高皇産霊神が系統名であることを示している。

 

呉太白・・・ 伊弉諾尊┓       ┏瓊々杵尊
           ┣━日向津姫━┓┃
       伊弉冉尊┛      ┣╋日子穂々出見尊
                  ┃┃
                  ┃┗鵜茅草葺不合尊━神武天皇
                  ┃
                  ┃
           ┏━高皇産霊神┻━栲幡千千姫命
           ┃
           ┣━━━天太玉命┓
           ┃       ┣━━━天櫛耳命━天富命(安房国)
           ┃ 天比理刀咩命┛
           ┃
           ┃
秦徐福・・・高皇産霊尊╋━天忍日命━━━天津彦日中咋命━道臣命・・・(大伴氏)
           ┃
           ┗━思兼命━┓┏━天御影命
       伊弉諾尊┓     ┣┫
           ┣━和歌姫━┛┗━天表春命
       伊弉冉尊┛ (丹生都姫)

上の系図のように高皇産霊神が2代存在すれば、周辺人物の年代がすっきり収まるのである。

 高皇産霊神の系譜

 『古屋家家譜』によると、
高皇産霊神→安牟須比命─香都知命─天雷命─天石門別安国玉主命─天押日命─天押人命─天日咋命─刺田比古命─道臣命

 となっており、高皇産霊神の系譜が最も詳しく伝わっている。正しいという証明はできないが、これが正しいとすると、徐福につながる系譜の可能性がある。徐福につながると仮定して系譜を復元してみよう。

 この系譜の高皇産霊神=徐福だとすると、BC200年頃没と推定され、道臣命の推定没年のAD100年頃まで約300年となる。この間9世なので、1世平均33年となる。高皇産霊神が徐福の子だとすれば、1世平均30年となり、代数欠落の可能性もあるが、ほぼ妥当である。

 この系譜は大伴氏の系譜であり大伴氏の始祖は天忍日命であり、この人物は『古屋家家譜』によると、天押日命と考えられる。

 高皇産霊尊の子供たち

 高皇産霊尊

 高皇産霊尊はBC30年頃誕生しており、饒速日尊が北九州統一に来る前は高良山の麓の高良大社の地を本拠地として周辺を統治していたと思われる。AD10年頃饒速日尊がこの地を訪れ平和統一の交渉をした時、高皇産霊尊はこの考えに強く感銘し、自らの統治領域を献上した。饒速日尊から遠賀川流域・筑後川流域・豊国の統治を任され、この地方を中心に統治し、自らの持つ徐福から受け継いだ技術、饒速日尊から受け継いだ技術を周辺の人々に伝授し各種技術者を次々と育て上げた。

 高皇産霊尊の持つ先進技術は素盞嗚尊・饒速日尊が朝鮮半島から取り入れた先進技術以上のものがあったのではないかと推察している。徐福は秦の学者であり、当時の中国における最高の技術を持った人物である。また、それを補佐する人物を3000人も日本列島に連れてきているのである。BC200年頃とはいえ、中国から朝鮮半島に流れ込む技術よりも早く、日本列島にたどり着いていることが容易に想像できる。日本列島に高度な技術が流入するのに最高の条件だったと言えよう。その高度な技術は徐福から門外不出とされており、周辺の地域には伝わっていなかった。そして、その高度な技術ゆえに吉野ヶ里は周辺国からよく襲撃されていたのではないだろうか。そういった事情があったために饒速日尊の日本列島平和統一に強く感銘し、徐福の子孫として高皇産霊尊が一族を挙げて全面協力すべき大事業と考えたのであろう。

 徐福の元来の目的が不老長寿の薬探しであるから、地方に散っていった徐福の子孫たちはそのうちの誰かが不老長寿の薬見つけることができた時、他の同族たちと連携をとる必要があったと思われる。このため、高皇産霊尊は東日本地域に移動していった同族たちと数年置きぐらいに互いに連絡を取り合っていたと思われる。饒速日尊の日本列島統一の考え方に同調した高皇産霊神は当然ながら地方に散っていった仲間たちにもそのことを連絡し、饒速日尊に協力することを要請したと思われる。徐福が上陸したと言われている地域は東海地方の太平洋沿岸地域に多く、饒速日尊はこの地域をかなりスムーズに統一しているようなので、このことが裏付けられる。

 高皇産霊尊は饒速日尊に東日本の情勢を知らせ、彼にマレビトを連れて大和に降臨することを勧めたのではないだろうか?AD25年頃、饒速日尊はマレビトを連れて高皇産霊尊の統治領域と重なる地域から数多くの人々を引き連れて大和に降臨している。このマレビトは高皇産霊尊に育て上げられた技術者であろう。高皇産霊尊は自らの子の思兼命・天活玉命・天忍日命をマレビトとして饒速日尊に随行させたのである。高皇産霊尊は饒速日尊一行の出立を見届けてからAD25年頃、亡くなったものと思われる。このとき、出雲の猿田彦命に北九州西半分の統治権を譲ったのであろう。

 高皇産霊神

 名前からして高皇産霊神が嫡子であると思われる。記紀に記述されている高皇産霊神とはこの人物であろう。紀元前後に誕生し出雲国譲りを決行し、西倭国・日本国の大合併を企画した人物で神話では天照大神と共に行動している。高皇産霊神は高皇産霊尊の統治領域をそのまま引き継いだ、AD15年頃には高皇産霊尊より豊国地方を任されていたと思われる。豊国の宇佐地方は素盞嗚尊の北九州統一の拠点となった処で、重要地域であったが、素盞嗚尊は高皇産霊神を信頼し、彼に統治を任せたのであろう。その後素盞嗚尊は豊国地方の安心院を倭国の都にしようとして、ここで日向津姫と共に生活することになった。高皇産霊神はさまざまの面で協力していたことであろう。素盞嗚尊が出雲に去った後は日向津姫と共に倭国の統治をすることになった。

 AD25年頃日向津姫が南九州薩摩・大隅地方統一のために日向に向かうことになった。これを勧めたのも高皇産霊神と思われる。高皇産霊神は娘の栲幡千千姫命を日向津姫の長子である天忍穂耳命と結婚させ、天忍穂耳命を自らの養子として育てた。高皇産霊神は天忍穂耳命を引き連れて、今川を遡り吾勝野の開拓をした。高皇産霊神は天忍穂耳命と共に英彦山に頻繁に登頂したことであろう。英彦山山頂から自らの統治領域を眺めていたと思われる。高皇産霊神・天忍穂耳の活躍した領域は現在の田川市・飯塚市・嘉麻市・朝倉市・うきは市あたりであろう。

 AD45年頃大国主命が亡くなり、出雲国譲り会議を出雲で主催し、今後の日本列島統一の道筋を話し合った。この会議で天忍穂耳命を西倭国王とすることになっていたが、天忍穂耳命はこの時急死してしまった。高皇産霊神は急遽次子瓊々杵命に北九州全域を任せることにし、猿田彦に国を譲らせた。

その後自らは日向津姫と共に国分の鹿児島神宮の地で倭国統一のために尽力し、AD70年頃この地で亡くなったものであろう。また、高皇産霊神は天照大神(日向津姫)が皇祖神となる以前の皇祖神といわれており、日向津姫の末子である鵜茅草葺不合尊は素盞嗚尊ではなく、高皇産霊神と日向津姫との間にできた子である可能性が高いといえる。

 思兼命

 思兼命の伝承はホツマツタエに詳しい。ホツマツタエはどこまで正確かわからないのであるが、「紀伊国に住んでいた天照大神の妹の和歌姫に恋い焦がれ、紀伊国にて和歌姫と結ばれた。その後、野洲宮で新婚生活を送り、信濃国の阿智にて亡くなった。」と言うようなことが記されている。

 和歌姫と言うのは稚日女命で別名「丹生都比売大神」とも云われている。丹生都比売神社の由緒によると、「神代に紀ノ川流域の三谷に降臨、紀州・大和を巡られ農耕を広め、この天野の地に鎮座された。」となっている。彼女が紀州の地で独身時代に住んでいた宮の跡は、和歌山県和歌山市和歌浦中3-4-26の玉津島神社の地とされている。

 この和歌姫とは誰なのであろうか、天照大神の妹と言われているが、天照大神が日向津姫であるなら九州から饒速日尊と共にやってきたマレビトの1人となるが、女性であるからマレビトとは考えにくい。ホツマツタエでは伊邪那岐・伊邪那美命の娘となっているが、紀伊国に最初から住んでいた人物のようである。伊邪那岐・伊邪那美命は素盞嗚尊と共に紀伊国統一のためにやってきている。伝承によると三重県熊野市有馬町1814の産田神社で誰かが生まれている。神社には「伊奘冉尊が、ここで軻遇突智を産み亡くなったので、花の窟に葬った」と伝えられているが、伊邪那美命は紀伊国では亡くなっておらず、日本書紀の記述が入り込んだものと考えられる。この産田神社で生まれた人物が和歌姫ではないだろうか?

 思兼命はこの和歌姫(丹生都姫)と結婚した。思兼命はマレビトなので、結婚後近江国野洲川河口付近の野洲宮(五社神社・滋賀県近江八幡市牧町)に滞在し、周辺の人々に最新技術を伝えた。二人の子が天御影命、天表春命である。天御影命はこの地に残り近江国の開拓に尽力した。思兼命は暫らく後、天表春命と共に美濃国美濃加茂市伊深町2635番地の2の星宮神社(祭神思兼神)の地に移動しそこを本拠として周辺を開拓した。美濃国には高皇産霊神を祭神とする神社が多く、この周辺にその子孫が滞在していたことが推察される。

 AD50年頃、信濃国統一に人材不足を感じた饒速日尊から、信濃国を統一してほしいと頼まれ、一族を率いて神坂峠を越えて信濃国に入り、阿智族として信濃国伊那地方を開拓し、この地で亡くなり、 長野県下伊那郡阿智村智里奥宮山 497の阿智神社奥宮の奥の川合御陵に葬られた。

 天忍日命 

 天忍日命は天孫降臨時瓊々杵尊の先導をした人物とされている。そして、その孫の道臣命が神武天皇の東遷時に活躍しているので、瓊々杵命に従ったのではないかと思ったのであるが、神武天皇東遷伝承でも道臣命が登場するのは紀伊半島迂回時からで、それ以前には登場していない。饒速日尊と共に大和降臨したのかもしれないと思い、近畿地方の大伴氏関連神社を調べてみると次のようなことが分かった。

 刺田比古神社(和歌山市片岡町二丁目九番地・祭神道臣命・大伴佐比古命)には、「佐比古命(狭手彦命)は百済救済の武功により、道臣命の出身地たる岡の里の地を授かったという。」と記録されている。これは、道臣命は和歌山におり、神武天皇が紀伊国にやってきた時、東遷団に合流したことを意味している。これは、天忍日命も饒速日尊に従ったマレビトであり、現在の和歌山市近辺が天忍日命の任地であったことを示している。

 降幡神社(南河内郡河南町山城)は『河南町誌』によれば、当地は古代豪族大伴氏の原郷であり、その祖神を祭ったとする。また、伝説によると、「太古天忍穂耳尊この地にて暫し休息せられし時この幡を降し給ひしを以て此の幡を祀りたり。」とあるが、祭神は天之忍日命であり、天忍穂耳命ではない。この伝承における天忍穂耳尊は天忍日命の間違いであると思われる。これも天忍日命がマレビトであったことを意味している。

 以上より、天忍日命は父の高皇産霊尊よりマレビトになることを命じられ、饒速日尊に従って近畿地方に降臨した。淀川河口付近で饒速日尊と別れ、海岸に沿って南下し、河南町で休息し、和歌山市に赴き、その周辺にマレビトとして入り込んで技術導入して土地開発を行った。その孫の道臣命は神武天皇の名草の戦いのときに功績を挙げ、以降神武天皇に付従って大和に侵入した。その子孫は大伴氏として栄えたことが分かる。

 高皇産霊神の子供たち

 栲幡千千姫命

 AD25年頃誕生しており、天忍穂耳命の妻となり、天忍穂耳命は高皇産霊神の養子となっている。天忍穂耳命がAD45年頃25歳前後で亡くなっている。その後の人生は不明である。おそらく天忍穂耳命が高皇産霊神の後継者であったのであろう。

 三穂津姫

 饒速日尊の妻となっている。静岡県の御穂神社は羽衣で有名だが、「天孫瓊々杵尊が天降りなられた時に、自分の治めていた国土をこころよくお譲りになったので、天照大神は大国主命が二心のないことを非常にお喜びになって、高皇産霊尊の御子の中で一番みめ美しい三穂津姫命を大后とお定めになった。そこで大国主命は三穂津彦命と改名されて、御二人の神はそろって羽車に乗り新婚旅行に景勝の地、海陸要衛三保の浦に降臨されて、我が国土の隆昌と、皇室の弥栄とを守るため三保の神奈昆(天神の森)に鎮座された。」と記録されている。新婚旅行でこの地を訪れたことになっている。 

 饒速日尊と結婚した時期はいつ頃であろうか、新婚旅行で来るということはこの地方が統一されていたはずであるからAD40年頃以降であろう。AD40年頃以降で饒速日尊が高皇産霊神と接触したと思われるのは、出雲での国譲り会議の時である。AD45年頃の国譲り会議の直後に結婚したものと考えられる。

 島根県の美保神社で事代主命と共に、京都府亀岡市の出雲大神宮に三穂津彦と共に祭られている。三穂津姫はAD30年頃の誕生ではないかと思われ、饒速日尊死後も活躍していたと思われる。事代主命の母ではないが、事代主命が出雲に赴く時一緒に出雲に行ったのではないかと思われる。

 天太玉命

安房神社の社伝「天太玉命の孫の天富命は、神武天皇の御命令を受けられ、肥沃な土地を求められ、阿波国(現徳島県)に上陸、そこに麻や穀を植えられ開拓を進められました。その後、天富命御一行は更に肥沃な土地を求めて、阿波国に住む忌部氏の一部を引き連れて海路黒潮に乗り、房総半島南端に上陸され、ここにも麻や穀を植えられました。この時、天富命は上陸地である布良浜の男神山・女神山という二つの山に、御自身の御先祖にあたる天太玉命と天比理刀咩命をお祭りされており、これが現在の安房神社の起源となります。」

 天太玉命は忌部氏の祖である。饒速日尊に追従してマレビトとなった。具体的行動は不明である。

神皇産霊神

 神皇産霊神の子孫は賀茂氏である。賀茂氏の祖は飛騨王朝である。ということから神皇産霊神は飛騨王を意味していることになる。系図から代数を遡ってみると、ウガヤ王朝第67代春建日媛天皇(天照大神)に該当する。

           
           ┏━少名彦命
           ┃     
           ┣━天御食持命━━天道根命・・・紀氏
  飛騨王朝     ┃
     神皇産霊神━╋━天活玉命━━━鴨建角身命・・賀茂氏
   (67代春建日姫)┃(68代宗像彦・大山祇命)
           ┣━天津久米命━━大久米命・・・久米氏
           ┃
           ┣━天日鷲命━┓
           ┃(天背男命)┣━大麻彦━由布津主・・忌部氏
           ┃  矢倉姫━┛
           ┃
           ┗━天比理刀咩命┓
                   ┣━天櫛耳命━天富命(安房国)
      高皇産霊神━━━━天太玉命┛

 神皇産霊神の子供たちも高皇産霊神の子と同様に天孫降臨のメンバーになっている人物が多い。飛騨国から九州に派遣され、饒速日尊と共に天孫降臨したものと考えられる。

 天御中主神

 高皇産霊神は秦徐福系の人々、神皇産霊神は飛騨王家の人々を指すと推定した。それでは、その神々よりも先に登場した天御中主神は何者であろうか。伊勢神道によると伊勢外宮では豊受大御神が天御中主神と伝わっている。天御中主神も饒速日尊の影を感じるが、同じように姿が見えない神なので、これも系統を示していると考えられる。

 日向の伊邪那岐命系が考えられる。この系統は呉の太白の子孫と言われており、紀元前5世紀に日本列島にやってきたと思われる。徐福や素盞嗚尊よりも明らかに先に日本列島に上陸しているのである。また、神武天皇はこの日向族の系統なので、高皇産霊神や神皇産霊神より上に位置するのも納得できるところがある。

  大和朝廷は天御中主神(日向系)、高皇産霊神(徐福系)、神皇産霊神(飛騨系)の人々の協力のもとで成立したと考えられるのである。

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