高皇産霊神の正体

 高皇産霊神は古代史を復元する過程で、素盞嗚尊が北九州を統一する時にいきなり登場してくるのである。北九州の豪族の一人ではあると思うが、高天原では天照大神を凌ぐほどの位置にいる。実質的に高天原最高神と言ってもよいような存在である。地方の神社にもよく祭られているが、その実態はなかなかわからない。古事記では天御中主神・神皇産霊神と共に造化三神を形成している。ここでは、この高皇産霊神の正体をわかる範囲で推定してみる。

古事記の記述
天地が初めてできたとき、高天原に現れた神の名は天之御中主神。次に高御産巣日神。次に神産巣日神。この三柱の神は、みんな独神で、身を隠された。

日本書紀(一書の四)
天地が初めて分かれて、初めて共に生まれた神がいた。國常立尊言う。次に國狭槌尊 。
また、高天原において生まれた神の名を、天御中主尊と言う。次に高皇産霊尊。次に神皇産霊尊 。

 これら記事を見ると天御中主神・高皇産霊神・神皇産霊神は三神が一体となっているようである。隠身・独神であることも併せて、特殊な位置にある。神話上でも他の神と立場が異なるようである。 天御中主神は神話上の行動実績が全く見られないが、高皇産霊神・神皇産霊神は色々と神話上に登場している。

 系図上の考察

 高皇産霊神には伝承上6人の子がいる。思兼命、栲幡千千姫命、天忍日命、三穂津姫、天太玉命、天活玉命である。この御子たちの思兼命・天忍日命・天太玉命・天活玉命の4人は饒速日尊と共に大和に降臨して以後マレビトとして活躍している。思兼命は信濃国阿智族の祖であり、天忍日命は大伴氏の祖、天太玉命は忌部氏の祖である。天活玉命は大和に降臨していると思われ、三穂津姫は饒速日尊の妻となり、最終的に出雲に降臨している。栲幡千千姫命は日向津姫の長子天忍穂耳命の妻となっている。このように子どもたちは日本各地に赴き、後世に名が残るような氏族の祖となっている。また、高皇産霊神が神話上では天孫降臨、国譲神話、神武天皇東遷時と統一事業にかかわる場面での登場が多い。これは、高皇産霊神が日本列島統一に大変な熱意を持っていたことをうかがわせる。

 高皇産霊神がかかわっている重要な神社を挙げてみると以下のようなものである。

 春日神社(田川市宮尾町6番13号)
 祭神 豊櫛弓削遠祖高魂産霊命(とよくしゆげのとうそたかみむすびのみこと)他、この地は饒速日尊降臨伝承地である。高皇産霊神が最も長い名で祀られている。

 高良大社(福岡県久留米市御井町1番地)
 式内社・名神大社で筑後国一宮である。福岡県久留米市の高良山にある。古くは高良玉垂命神社、高良玉垂宮などとも呼ばれた。主祭神の高良玉垂命は、武内宿禰説や藤大臣説、月神説など諸説あるが、古えより筑紫の国魂と仰がれていることから素盞嗚尊と思われる。筑後一円はもとより、肥前にも有明海に近い地域を中心に信仰圏を持つ。高良山にはもともと高皇産霊神(高牟礼神)が鎮座しており、高牟礼山と呼ばれていたが、高良玉垂命が一夜の宿として山を借りたいと申し出て、高木神が譲ったところ、玉垂命は結界を張って鎮座したとの伝説がある。高牟礼から音が転じ、「高良」山と呼ばれるようになったという説もある。現在もともとの氏神だった高木神は麓の二の鳥居の手前の高樹神社に鎮座する。

 高木神社(嘉麻市小野谷1580番)
 祭神 高御産巣日神、神武天皇が東遷時ここにやってきて高皇産霊神を祀った。福岡県神社誌には、「本村は往昔、英彦山神社の神領地なりし依て英彦山に於いては当社を英彦山四十八大行事社の中にして本社はその首班に位せり。各地にある大行事社今は皆高木神社という。」 とある。

以下はその高木神社であろう。
高木神社 田川郡添田町大字津野6717番の1
高木神社 田川郡添田町落合3583番
高木神社 田川郡添田町津野2227
高木神社 田川郡大任町大行事118番
高木神社 田川郡大任町大行事2496-1
高木神社 嘉麻市熊ヶ畑1075番
高木神社 嘉麻市桑野2588番
高木神社 嘉麻市小野谷1580番
高木神社 嘉麻市桑野1399番
高木神社 嘉麻市平217番
高木神社 久留米市田主丸町豊城1088番
高木神社 宮若市黒丸1572番
高木神社 京都郡みやこ町犀川上伊良原字向田308番
高木神社 京都郡みやこ町犀川下伊良原字荒良鬼1594番
高木神社 築上郡築上町船迫字水上1133番
高木神社 筑紫野市大石字上ノ屋敷569番
高木神社 筑紫野市天山字山畑241番
高木神社 朝倉郡東峰村小石原鼓978-8
高木神社 朝倉郡東峰村宝珠山24番
高木神社 朝倉郡東峰村小石原655番
高木神社 朝倉市佐田377番
高木神社 朝倉市黒川1806番
高木神社 朝倉市黒川3328番
高木神社 朝倉市佐田2953番
高木神社 朝倉市江川1201-1
高木神社 朝倉市杷木白木172番
高木神社 朝倉市杷木赤谷744番
高木神社 朝倉市杷木松末2784番
高木神社 朝倉市須川1683番

高木神社の位置

『 太宰管内志 』
「上代、彦山に領じたり地には、其神社を建て限とす。是を七大行事ノ社と云。其今ものこれり。七大行事と云は、日田郡 夜開(よあけ)郷 林村の大行事(現戸山神社・祭神大山津見神)、又鶴河内村の大行事、筑前国上座郡福井村の大行事、同郡小石原村の大行事、豊前国田川郡添田村の大行事、下毛郡山国郷守実村の大行事などなり。此社今も有て神官是を守れり」と記している。この英彦山 大行事社 は、弘仁13年(822)神領七里四方に48か所設けられたと伝承され、山内大行事社、六峰内大行事社、山麓大行事社、各村大行事社から成っており、七大行事社は山麓大行事社のことで、神領の最も外側にあり、またそれは参道の入口ともいえるところに作られている」

 英彦山産霊神社(英彦山山頂付近) 
 往古高皇産霊尊鎮座の旧地であるという伝承があって、文武天皇時代に再建されたという。

 昔の英彦山の神領域の境界に大行事社を作り、その大行事社が高木神社であるというのである。地図上にプロットしてみると福岡県側にしかなく、すべて英彦山の北西部一帯の英彦山を中心とする半径45kmの北西部半円内に収まっている。前述の春日神社、高良大社もこの領域にある。また、高木神社の首班と言われている嘉麻市小野谷の高木神社を中心とする半径30kmの円内にすべての高木神社及び春日神社、高良大社が収まっている。

 嘉麻市小野谷の高木神社はすべての高木神社の首班であると同時に神武天皇が創始している。神武天皇はわざわざこの地にやってきて、高皇産霊神を祀っているので、それなりの由緒ある場所であることには間違いがないであろう。

 高良大社の伝承では本来ここには高皇産霊神が祭られており、饒速日尊がやってきてこの地を譲ったことになっている。饒速日尊(この時は大歳命)がこの地にやってきたのはAD5年頃で饒速日尊15歳程であったと思われる。これは、この地がもともと高皇産霊神の支配地域であったが、素盞嗚尊・饒速日尊の日本列島統一事業の考え方に強く同調し、自らの土地を献上したと考えられる。高皇産霊神は日本列島統一事業によほど強く同意したのであろう。そうでなければ自分の支配地を快く献上するなどと言うことは考えられない。高皇産霊神は自分の支配領域を献上した後、饒速日尊の天孫降臨に自らの子を4人も参加させるなど統一政策に積極的にかかわっているのである。

 高皇産霊神に関して他の神と異なる点がいくつか存在している。高天原の事実上の最高神であること。皇居内八神殿の第二殿で祀られていること。数多くの神社に祭られていながら、具体的行動を示す伝承が存在しない。などである。また、娘の栲幡千千姫命を天忍穂耳命の妻としているので、日向津姫や饒速日尊とほぼ同世代で西暦紀元頃の誕生と考えられる。饒速日尊死後大合併論議の中で、大和に使者の味耜高彦根命を送っているので少なくともAD70年頃までは生存していたと思われる。

 高皇産霊神の子孫の世代ごとの該当人物を見てみると

               高皇産霊神間連系図

             ┏━天御影命      
       ┏思兼命━━┫        
       ┃     ┗━天表春命・・・(阿智氏)      
       ┃
       ┃     ┏━天櫛耳命━━━天富命・・・(忌部氏)
       ┣天太玉命━┫
       ┃     ┗━猿女君
       ┃
       ┃     ┏━天三降命━━━菟狭津彦命・・・(宇佐氏)
       ┣天活玉命━┫
       ┃     ┗━天神立命━━━賀茂健角身命━玉依彦━剣根命・・・(賀茂氏)
 高皇産霊尊━┫         
       ┣天忍日命━━刺田比古命━━━道臣命・・・(大伴氏) 
       ┃
       ┣栲幡千千姫命
       ┃
       ┗三穂津姫
         
              神武天皇関連系図

 伊弉諾尊━━━日向津姫━━鵜茅草葺不合尊━神武天皇┓
                          ┣━━綏靖天皇
 素盞嗚尊━━━饒速日尊━━玉櫛彦命━━━━五十鈴姫┛

 大体世代が一致している。天神立命は高皇産霊神の子であるという異説もあり、この神もマレビトと思われる。天三降命は宗像三女神との説もある。また、天富命は神武天皇時代に活躍したことが伝えられている。これらの神の系統は上の表で一列左にずれる可能性を持っている。そうすると、天櫛耳命も高皇産霊神の子である可能性が出てくる。神武天皇と同世代と思われる人物は三世の人物なのである。これらの系図が正しいとなれば高皇産霊神はもう一世代上で、素盞嗚尊と同世代(BC30年頃生誕)でなければならないことになる。さらに複雑となっているのは大伴氏の系図である。

 賀茂氏系図では 高魂命-伊久魂命-天押立命-陶津耳命(神武天皇と同世代)より、高魂命はBC40年頃生誕となる。

 このように高皇産霊神の子孫から逆算した高皇産霊神の生存年代がばらばらになってしまうのである。BC40年頃生誕でAD70年頃まで活躍したとすれば、高皇産霊神は100歳程度生きたことになる。絶対にあり得ないとは言わないが、まず、あり得ない話である。天活玉命については、賀茂氏の正体で高天原建彦と大山祇命との2代の連続名であると推定している。この天活玉命=高皇産霊神とすれば、高皇産霊神も2代連続名としてこの謎は解ける。

 

 秦の徐福と高皇産霊神との関係

 それでは、高皇産霊神はどういった人々の系統に属するのであろうか。『古屋家家譜』による大伴氏の系統をたどるとBC200年頃の人物となること、元の本拠地が高良大社の地であること、日本列島平和統一に対して異常な執念を燃やしている、ことなどを総合して考えると、浮かび上がって来る人物が存在する。それは、秦の徐福である。ここで、高皇産霊神=秦徐福の系統の可能性を追ってみたいと思う。秦徐福の来日過程

 高良大社との関係

 吉野ヶ里遺跡から直線で16km程離れた位置に高良大社がある。現在でも高良大社は吉野ヶ里遺跡付近に住む人々の信仰対象となっているのである。高良大社の背後にある高良山は筑紫平野一帯を一望できる山である。吉野ヶ里遺跡に住んでいる人たちは、その持っている先進技術のためか、周辺の集落から襲撃をよく受けていたのではないだろうか、出土状況はそれを裏付けている。そのような時、周辺の集落の動向を探るには高良山は理想の位置にある。吉野ヶ里遺跡に住んでいる人々が高良山を支配下に置こうとするのは理解できる。高良山から四方を見渡して、周辺の集落の動向を探っていたことは十分に考えられるのである。

 饒速日尊がこの地にやってきたのはAD10年頃で、徐福がいたころから200年ほどたっている。1世代30年ほどとして、200年は7世ほどである。当然ながら200年前の記憶は残っていたであろうし、この地に住んでいた人々は徐福の子孫であることを自負していたのではないだろうか。
 徐福がこの地に着いて、吉野ヶ里遺跡を形成してから、周りからの襲撃を頻繁に受けており、戦いにはうんざりしていたことであろう。また、徐福は中国にいる頃、中国の戦国時代で戦いの中で育ってきており、秦に敗れた斉の出身である。戦争の悲惨さは身にしみて感じていたと思われる。しかし、吉野ヶ里遺跡の状況からみて防御中心であり、周辺の集落を襲撃して国として統一しようとしていたようには見えない。吉野ヶ里遺跡の人々は先進技術を持っている上に武士を引き連れていたのであるから、周辺の国々を併合して統一国家を作ることは可能だったと思われる。戦いを好まない徐福の性格が、ここの人々に侵略戦争を仕掛けてはならないことを伝えていたのであろう。

 大伴氏との関係

 高良大社の伝承において高良山は紀元前後における高皇産霊神の本拠地とされている。高良山は吉野ケ里遺跡と8km程しか離れていないので、高皇産霊神と深い関係があると思われる。ところが、高皇産霊神の系図におかしなところが存在するのである。

 記紀においては
 高皇産霊尊━━━天忍日命━━━天津彦日中咋命━━━━道臣命
 とされているが

 『古屋家家譜』によると、
 高皇産霊神━━安牟須比命━━香都知命━━天雷命━━天石門別安国玉主命━━天押日命━━天押人命━━天日咋命━━刺田比古命━━道臣命
 となっており、高皇産霊神の系譜が最も詳しく伝わっている。

 この系譜は大伴氏の系譜であり大伴氏の始祖は天忍日命であり、この人物は『古屋家家譜』によると、天押日命と考えられるが年代が合わない。この二つの系譜を比較すると、天忍日命=天日咋命となるのである。天忍日命はAD25年ごろに饒速日尊とともに近畿地方に天孫降臨しているので伝承もはっきりしている。時期的にも該当するのは天日咋命のはずである。

 高皇産霊神は縄文人でBC20年頃飛騨王朝より派遣されてきた人物と推定している。『古屋家家譜』の天押日命は単純計算でBC20年頃没となる。この二人が同じ時に出会っている可能性は考えられる。互いに意気投合し、天押日命の子天押人命と高皇産霊神の娘と結婚し、天日咋命が誕生したとすると、天押人命は高皇産霊神の子となり、天日咋命は孫となる。両系譜はつながるのである。

 天忍日命 

 天忍日命は天孫降臨時瓊々杵尊の先導をした人物とされている。そして、その孫の道臣命が神武天皇の東遷時に活躍しているので、瓊々杵命に従ったのではないかと思ったのであるが、神武天皇東遷伝承でも道臣命が登場するのは紀伊半島迂回時からで、それ以前には登場していない。饒速日尊と共に大和降臨したのかもしれないと思い、近畿地方の大伴氏関連神社を調べてみると次のようなことが分かった。

 刺田比古神社(和歌山市片岡町二丁目九番地・祭神道臣命・大伴佐比古命)には、「佐比古命(狭手彦命)は百済救済の武功により、道臣命の出身地たる岡の里の地を授かったという。」と記録されている。これは、道臣命は和歌山におり、神武天皇が紀伊国にやってきた時、東遷団に合流したことを意味している。これは、天忍日命も饒速日尊に従ったマレビトであり、現在の和歌山市近辺が天忍日命の任地であったことを示している。

 降幡神社(南河内郡河南町山城)は『河南町誌』によれば、当地は古代豪族大伴氏の原郷であり、その祖神を祭ったとする。また、伝説によると、「太古天忍穂耳尊この地にて暫し休息せられし時この幡を降し給ひしを以て此の幡を祀りたり。」とあるが、祭神は天之忍日命であり、天忍穂耳命ではない。この伝承における天忍穂耳尊は天忍日命の間違いであると思われる。これも天忍日命がマレビトであったことを意味している。

 以上より、天忍日命は高皇産霊尊よりマレビトになることを命じられ、饒速日尊に従って近畿地方に降臨(天孫降臨)した。淀川河口付近で饒速日尊と別れ、海岸に沿って南下し、河南町で休息し、和歌山市に赴き、その周辺にマレビトとして入り込んで技術導入して土地開発を行った。その孫の道臣命は神武天皇の名草の戦い(神武天皇東遷熊野迂回経路)のときに功績を挙げ、以降神武天皇に付従って大和に侵入した。その子孫は大伴氏として栄えたことが分かる。

 このように天忍日命は単純に高皇産霊神の子ではないと思われる。詳細は神皇産霊神の正体にゆずる。

ウガヤ系図における高天原建彦の出自

 ウガヤ系図における高天原建彦

 ウガヤ王朝(ウガヤ王朝の正体)の系図において高皇産霊神とされているのはヒルメムチとされる春建日姫の夫である高天原建彦である。春建日姫は第67代ウガヤ王(飛騨国王)を継承し、飛騨口碑では第35代上方様に該当する人物である。この高天原建彦は飛騨口碑では高皇産霊神(思兼神)と呼ばれている人物である。第64代ウガヤ王豊日豊足彦天皇の子天浮船乗知の子である。共に後付けされた名と思われるが名がその人物の特徴を表していると考えてよいであろう。高天原建彦の父は天浮船乗知で、これは、全国を巡回した人物と取れる。高天原建彦は、高天原(飛騨王朝)を再建した人物という意味にとれる。神話でいう高皇産霊神と同じく飛騨王朝の知恵袋だったのではないかと考えられる。

 ウガヤ系図では天浮船乗知は第64代ウガヤ王豊日豊足彦天皇の子とされているが、個人名としてはあまりに不適切であろう。ウガヤ王朝は王の系統しかなく、それを支える周辺豪族が存在しないのである。大和朝廷でも物部氏・賀茂氏・大伴氏・久米氏をはじめ多くの豪族が朝廷を支えていたのであり、王朝を維持するのに豪族が存在しないことはありえず、様々な豪族が王朝を支えていたはずである。おそらく、豪族たちはウガヤ王朝の系図に組み込まれてしまったために存在しなくなったのではないかと推定している。その豪族の一つが天浮船乗知なのではないだろうか。

 大和朝廷でもそれぞれの豪族が専門とする特技を持ち、その特技で朝廷を支えていたように、天浮船乗知は海外渡航を特技とする飛騨王朝の豪族の一つであったのではないだろうか。しかし、その子が第67代ウガヤ王春建日姫の夫となっている。ウガヤ王朝も皇室と同じく男系でつながっていると思われるので、高天原建彦の血筋が飛騨王朝から遠く離れた人物とは考えにくく、飛騨王朝の直系の系統から分かれたのは、この数代前と考えられる。

 高良山の高皇産霊尊

 福岡県高良山に高良大社がある。この神社によると、この地にはその昔高皇産霊神が住んでいたが、高良玉垂命に土地を譲ったとされている。この高皇産霊神と高天原建彦はどのような関係にあるのだろうか。双方ともにBC40年頃からBC20年頃に生存したと推定され、ほぼ同時期に活躍したことになる。 

 高良山は吉野ケ里遺跡に近いことから、高皇産霊神は秦徐福の系統ではないかと推察していた。しかし、高良山の北麓で筑後川の南側に縄文前期~後期に栄えた九州でも屈指の大遺跡である野口遺跡があることが分かった。周辺には縄文遺跡・弥生遺跡が多く、人々は縄文時代から弥生時代にかけて継続的にこの地域に住んでいたことが分かる。また、筑後川を利用して海運の要所でもあり、おそらくこの遺跡は高良山をピラミッドとする縄文連絡網の拠点だったと思われる。この内容に関しては高皇産霊神降臨 に詳しい。

 野口遺跡が高良山をピラミッドとする縄文連絡網の拠点であるとすると、飛騨王朝の要人がいたことが予想される。しかも、近くには当時国内最大級の徐福系と思われる吉野ケ里遺跡が存在しているのである。ここで、高天原建彦と高皇産霊神は同一人物ではないかという仮説が成り立つ。

 二代目高皇産霊神とされる大山祇命(大山祇命の正体大山祇命倭国降臨)は飛騨から北九州にやってきたとき、すんなりと初代高皇産霊神と入れ替わっている。これも、この両者が親子だとすると、スムーズに説明でき、しかも大山祇命の系統は、そのまま神武天皇につながり、現皇室まで男系でつながっているのである。Y染色体ハプログループはD1a2aで縄文人の系統である。高天原建彦から現皇室まで男系でつながってることになるので、この仮説は正しいと思われる。

 高皇産霊神と賀茂系図の関係

 このように考えると矛盾しているように見える上の2系統がつながるのである。先に高皇産霊神はBC40年頃誕生でAD70年頃まで生存して、その期間が長すぎることを述べたが、この系図が真実だとすると、その疑問は解消する。高皇産霊神は2代続いた名で天活玉命と同じである。(賀茂氏の正体)

 伝承では高皇産霊神が、皇祖ということになっている。当初、高皇産霊神は徐福系と考えていたが、天皇家のY染色体ハプログループの系統がD1a2aであることが判明し、神武天皇以下の系統は縄文系であることが確定した。その男系の先祖であるこの高皇産霊神は縄文系ということになる。また、この系図における賀茂氏(賀茂氏の正体)は縄文系である。

 吉野ケ里遺跡(秦徐福の来日過程)の人々は徐福によってもたらされた高度な技術を持っていた。日本列島統一には高度な知識が必要なのであるが、吉野ケ里遺跡の人々は、周辺との関係からこの技術は門外不出のものとしていた。高皇産霊神はこの技術を日本列島統一に使わせてもらおうと、吉野ケ里遺跡の首長と交渉することになった。BC20年ごろのことであろう。

 BC20年頃飛騨王朝の高天原建彦(高皇産霊神)は、徐福系の吉野ケ里遺跡の人々が持つ新技術の導入を図るために高良大社の地に赴任してきた。吉野ケ里遺跡の首長(後の大伴氏)に自らの娘を嫁がせることによって、婚姻関係を持つことができ、徐福のもたらせた新技術を日本列島統一のために使うめどが立ったといえる。吉野ケ里遺跡の人々は、この後大伴氏として日本列島統一に協力することになったのである。

 高皇産霊神・神皇産霊神を祖とする豪族が多い。それらを矛盾が最小限になるようにまとめたのが下の系図である。神皇産霊神・高皇産霊神ともに2代にわたる名のようである。数多くの豪族の祖がこの時期に集中しているので、実際はさらに数代前に飛騨王朝から別れたものかもしれないが、特定できないので、年代を考えて、それぞれどちらの世代に該当するかを判断した。神皇産霊神の子とされているのは基本的に飛騨地方を都としていた時代に飛騨王朝から別れた豪族を意味し、高皇産霊神の子とされているのは高天原建彦が九州赴任後に九州の娘との間に生まれた子及び、2代目高皇産霊神(大山祇命)の子を指している。

               高皇産霊神間連系図

 BC30      AD1        AD30      AD60      AD90

                  日向津姫┓   ┏瓊々杵尊
                      ┃   ┃
                      ┣━━━╋日子穂々出見尊
                      ┃   ┃
               ┏━━━━━━┛   ┗鵜茅草葺不合尊━神武天皇━━┓
               ┃                         ┃
               ┃  饒速日尊━━━━┓ (味鋤高彦根命)     ┣綏靖天皇
               ┃          ┣━事代主命┓        ┃
高天原建彦━━┓       ┃ ┏天知迦流美豆比売┛     ┣━媛踏鞴五十鈴姫┛
(高皇産霊神)┣━大山祇命━━╋┓┃(三穂津姫)   ┏玉依姫━┛
春建日姫━━━┛(高皇産霊神)┃┣╋賀茂健角身命━━━┫
(神皇産霊神)  豊建日稚媛━━┛┃         ┗玉依彦━━━八咫烏
               ┃ ┃
               ┃ ┗天三降命━━━━━━━━━┓
               ┃               ┣━菟狭津彦命
               ┃  日向津姫━┓ ┏━市杵島姫┛      
               ┃       ┣━┫
         素盞嗚尊━━┃━━━━━━━┛ ┗━天忍穂耳命━┓
               ┃                 ┣
               ┣━━━━━━━━━━━栲幡千千姫命┛
               ┃
               ┃  天比理刀咩命━┓
               ┃ (天背尾命娘) ┣━━━天櫛耳命━天富命
               ┣━━天太玉命━━━┛
               ┃
               ┗━━思兼命━━━━┓┏━天御影命 
                (天津彦根命)  ┣┫
                  和歌姫━━━━┛┗━天表春命
                (丹生都姫・日向津姫妹)

上の系図のように高皇産霊神が2代存在すれば、周辺人物の年代がすっきり収まるのである。

 高皇産霊尊(高天原建彦)

 高皇産霊尊(高天原建彦)はBC40年頃誕生しており、妻であり飛騨王でもあった春建日姫(第67代ウガヤ王=第35代上方様)と生活を共にしていたが、ヤマタノオロチを退治した素盞嗚尊からのアドバイスにより混乱状態にある日本列島を再統一するためには新技術こそ絶対に必要なものと考え、当時最先端の技術を持っていた吉野ケ里遺跡の人々の持つ技術を日本列島統一に使わせてもらおうと計画した。そして、九州に降臨した。高皇産霊神降臨 

 高皇産霊尊は飛騨から高良大社の地に移動し、吉野ケ里遺跡の人々(秦徐福到来)と交渉を重ねた。徐福の持つ先進技術は素盞嗚尊・饒速日尊が朝鮮半島から取り入れた先進技術以上のものがあったのではないかと推察している。徐福は秦の学者であり、当時の中国における最高の技術を持った人物である。また、それを補佐する人物を3000人も日本列島に連れてきているのである。BC200年頃とはいえ、中国から朝鮮半島に流れ込む技術よりも早く、日本列島にたどり着いていることが容易に想像できる。日本列島に高度な技術が流入するのに最高の条件だったと言えよう。その高度な技術は徐福から門外不出とされており、周辺の地域には伝わっていなかった。そして、その高度な技術ゆえに吉野ヶ里は周辺国からよく襲撃されていたのではないだろうか。そういった事情があったために高皇産霊尊が日本列島再統一の大事業に必要だと考えたのであろう。

 高皇産霊尊(高天原建彦)はBC14年頃九州降臨後、吉野ケ里遺跡の首長と全国統一の必要性について話し合い、全国統一の同意を得ることができ、先に降臨した大伴氏や久米氏(神皇産霊神の正体)の活動を補佐し、全国統一の素地を作った。高皇産霊尊は、この後、素盞嗚尊・饒速日尊に各地域の統一を指示し、彼らが統一した九州各地の豪族たちに徐福のもたらせた新技術を伝え、大和への天孫降臨団(天孫降臨準備)に加わるマレビトを育てた。

 高皇産霊尊(高天原建彦)の子供たち

 高皇産霊神(大山祇命)

 天皇家のY染色体ハプログループの系統がD1a2aであることが判明し、神武天皇以下の系統は縄文系であることが判明した。その直系の先祖であるこの高皇産霊神は縄文系ということになる。この高皇産霊神は大山祇命ともいい、神皇産霊尊(春建日姫)と高皇産霊尊(高天原建彦)の間にできた子で、第68代ウガヤ王を継承している。饒速日尊に九州各地のマレビトを集めて大和に天孫降臨することを指示した。

 AD30年頃日向津姫が南九州薩摩・大隅地方統一のために日向に向かう(日向津姫日向国へ帰還)ことになった。これを勧めたのも高皇産霊神と思われる。高皇産霊神は娘の栲幡千千姫命を素戔嗚尊と日向津姫の長子である天忍穂耳命と結婚させ、天忍穂耳命を自らの養子として育てた。高皇産霊神は天忍穂耳命を引き連れて、今川を遡り吾勝野の開拓(宗像三女神と天忍穂耳命)をした。高皇産霊神は天忍穂耳命と共に英彦山に頻繁に登頂したことであろう。英彦山山頂から自らの統治領域を眺めていたと思われる。高皇産霊神・天忍穂耳の活躍した領域は現在の田川市・飯塚市・嘉麻市・朝倉市・うきは市あたりであろう。

 AD45年頃大国主命が亡くなり、出雲国譲り会議(国譲会議)を出雲で主催し、今後の日本列島統一の道筋を話し合った。この会議で天忍穂耳命を西倭国王とすることになっていたが、天忍穂耳命はこの時急死してしまった。高皇産霊神は急遽次子瓊々杵命に北九州全域(瓊々杵尊北九州統治)を任せることにし、猿田彦に国を譲らせた。

 その後自らは日向津姫と共に西都市の都万神社(日向国の成長)の地で倭国統一のために尽力し、AD50年頃、大和国高天彦神社(味鋤高彦根命大和へ)の地に移動し、ヒノモトの発展に協力し、この地で亡くなったものであろう。また、高皇産霊神は天照大神(日向津姫)が皇祖神となる以前の皇祖神といわれており、日向津姫の末子である鵜茅草葺不合尊は高皇産霊神と日向津姫との間にできた子である。

 高皇産霊神(大山祇命)の子供たち

 高皇産霊尊(高天原建彦)と高皇産霊神(大山祇命)父子は、記紀神話において同じ名で呼ばれているために、この両者の区別が難しい。記紀神話で高皇産霊神の子とされている人物で、活躍年代から大山祇命の子であると推定できた人物をあげてみる。

 豊建日稚姫(飛騨時代)との子供たち

 大山祇命は高天原建彦と春建日姫との間にBC16年頃飛騨で生まれている嫡子である。紀元前後に飛騨王朝の系統の豊建日稚媛と結婚し、賀茂健角身命(味鋤高彦根命)・天知迦流美豆比売(市杵島姫)・天三降命が誕生している。

 賀茂健角身命

 賀茂健角身命(賀茂建角身の正体)は、AD11年ごろ生誕し、成長後、大山祇命の跡を継ぎ、飛騨王として活躍し賀茂氏の祖となった。熊野山中で神武天皇を先導したという八咫烏の別名ともされているが、明らかに世代が合わない。別人である。

 天知迦流美豆比売(市杵島姫・三穂津姫)

 天知迦流美豆比売(市杵島姫)は、AD元年ごろ飛騨で生誕した。AD16年頃、丹波国統一後の饒速日尊と結婚(饒速日尊の妻たち)し、AD20年頃父の大山祇命・饒速日尊とともに九州に降臨(大山祇命倭国降臨)した。降臨途中に厳島に立ち寄り(安芸国統一)、拠点を作った。後に大和に下った饒速日尊に従って東日本統一事業に参加した。積葉八重事代主命・玉櫛彦命(事代主命)・下照姫の母である。

 天三降命

 天三降命はAD5年頃飛騨で生誕し、AD20年頃大山祇命が九州降臨するときに伴って九州に降臨し、AD25年頃、天孫降臨団を見送った後の宇佐の地を統治した。後に宗像から戻ってきた素盞嗚尊の娘である市杵島姫(安芸国の謎)とAD50年頃結婚し、宇佐津彦を儲け宇佐氏の祖となっている。

 母不明(吉野ケ里遺跡の首長の娘と推定)の子たち

 思兼命

 思兼命の伝承はホツマツタエに詳しい。ホツマツタエはどこまで正確かわからないのであるが、「紀伊国に住んでいた天照大神の妹の和歌姫に恋い焦がれ、紀伊国にて和歌姫と結ばれた。その後、野洲宮で新婚生活を送り、信濃国の阿智にて亡くなった。」と言うようなことが記されている。

 和歌姫と言うのは稚日女命で別名「丹生都比売大神」(近江国開拓)とも云われている。丹生都比売神社の由緒によると、「神代に紀ノ川流域の三谷に降臨、紀州・大和を巡られ農耕を広め、この天野の地に鎮座された。」となっている。彼女が紀州の地で独身時代に住んでいた宮の跡は、和歌山県和歌山市和歌浦中3-4-26の玉津島神社の地とされている。

 この和歌姫とは誰なのであろうか、天照大神の妹と言われているが、天照大神が日向津姫であるなら九州から饒速日尊と共にやってきたマレビトの1人となるが、女性であるからマレビトとは考えにくい。ホツマツタエでは伊邪那岐・伊邪那美命の娘となっているが、紀伊国に最初から住んでいた人物のようである。伊邪那岐・伊邪那美命は素盞嗚尊と共に紀伊国統一(紀伊半島統一)のためにやってきている。伝承によると三重県熊野市有馬町1814の産田神社で誰かが生まれている。神社には「伊奘冉尊が、ここで軻遇突智を産み亡くなったので、花の窟に葬った」と伝えられているが、伊邪那美命は紀伊国では亡くなっておらず、日本書紀の記述が入り込んだものと考えられる。この産田神社で生まれた人物が和歌姫ではないだろうか?

 思兼命はこの和歌姫(丹生都姫)と結婚した。思兼命はマレビトなので、結婚後近江国野洲川河口付近の野洲宮(五社神社・滋賀県近江八幡市牧町)に滞在し、周辺の人々に最新技術を伝えた。二人の子が天御影命、天表春命である。天御影命はこの地に残り近江国の開拓(近江国開拓)に尽力した。思兼命は暫らく後、天表春命と共に美濃国美濃加茂市伊深町2635番地の2の星宮神社(祭神思兼神)(濃尾平野巡回)の地に移動しそこを本拠として周辺を開拓した。美濃国には高皇産霊神を祭神とする神社が多く、この周辺にその子孫が滞在していたことが推察される。

 天御影命は思兼命の子であるが、天津彦根命の子ともされているので、思兼命=天津彦根命という図式が出来上がる。天御影命は天目一箇神とも言われており、製鉄の神である。伊吹山麓は製鉄が盛んなところで、この周辺で製鉄を普及させたと考えられる。

 AD50年頃、信濃国統一に人材不足を感じた饒速日尊から、信濃国を統一(信濃国統一)してほしいと頼まれ、一族を率いて神坂峠を越えて信濃国に入り、阿智族として信濃国伊那地方を開拓し、この地で亡くなり、 長野県下伊那郡阿智村智里奥宮山 497の阿智神社奥宮の奥の川合御陵に葬られた。

 天太玉命

 安房神社の社伝「天太玉命の孫の天富命は、神武天皇の御命令を受けられ、肥沃な土地を求められ、阿波国(現徳島県)に上陸(阿波国統一)、そこに麻や穀を植えられ開拓を進められました。その後、天富命御一行は更に肥沃な土地を求めて、阿波国に住む忌部氏の一部を引き連れて海路黒潮に乗り、房総半島南端に上陸され、ここにも麻や穀を植えられました。この時、天富命は上陸地である布良浜の男神山・女神山という二つの山に、御自身の御先祖にあたる天太玉命と天比理刀咩命をお祭りされており、これが現在の安房神社の起源となります。」

 天太玉命は忌部氏の祖である。饒速日尊に追従してマレビトとなった。具体的行動は不明であるが、『古語拾遺』では、天太玉命に従った5柱の神を「忌部五部神」として、各忌部の祖としており、各地の開拓をしているので、地方開拓に力を入れていたようである。

 出雲忌部・・・島根県松江市東忌部町・西忌部町周辺を本拠とし、祖神は櫛明玉命である。玉造を職とする。忌部神社(島根県松江市) 鳴神社(和歌山県和歌山市)
 紀伊忌部・・・紀伊国名草郡御木郷・麁香郷を本拠とする。彦狭知命を祖とするが、天道根命の系統と思われる。宮殿・社殿造営を専門とし、鳴神社(和歌山県和歌山市)
 阿波忌部・・・阿波国麻植郡忌部郷を本拠とし、祖神は天日鷲命である。木綿・麻布の貢納を専門とする。大麻比古神社(徳島県鳴門市)
 讃岐忌部・・・讃岐国を本拠とする。手置帆負命が祖神である。盾の貢納を専門としている。粟井神社(香川県観音寺市) 、 讃岐神社(奈良県北葛城郡広陵町)が関係しており、阿波国との関係が深いので、天日鷲命から分離したものではないかと思われる。
 他に筑紫・伊勢に天目一箇命を祖神とする忌部氏が存在する。これは思兼命の系統と思われる。

 高皇産霊尊(高天原建彦)と高皇産霊神(大山祇命)父子は、記紀神話において同じ名で呼ばれているために、この両者の区別が難しい。記紀神話で高皇産霊神の子とされている人物で、活躍年代から大山祇命の子であると推定できた人物をあげてみる。

 栲幡千千姫命

 AD25年頃誕生しており、天忍穂耳命の妻となり、天忍穂耳命は高皇産霊神の養子となっている。天忍穂耳命(瓊々杵尊北九州統治)がAD45年頃25歳前後で亡くなっている。その後の人生は不明である。おそらく天忍穂耳命が九州地方での高皇産霊神の後継者であったのであろう。

 三穂津姫

 饒速日尊の妻となっている。静岡県の御穂神社は羽衣で有名だが、「天孫瓊々杵尊が天降りなられた時に、自分の治めていた国土をこころよくお譲りになったので、天照大神は大国主命が二心のないことを非常にお喜びになって、高皇産霊尊の御子の中で一番みめ美しい三穂津姫命を大后とお定めになった。そこで大国主命は三穂津彦命と改名されて、御二人の神はそろって羽車に乗り新婚旅行に景勝の地、海陸要衛三保の浦に降臨されて、我が国土の隆昌と、皇室の弥栄とを守るため三保の神奈昆(天神の森)に鎮座された。」と記録されている。新婚旅行でこの地を訪れたことになっている。 

 饒速日尊は高皇産霊神(大山祇命)の娘,天知迦流美豆比売(市杵島姫)とAD20年ごろに結婚している。三穂津姫と天知迦流美豆比売は共に高皇産霊神の娘なので同一人物であると推定した。御穂神社の地に新婚旅行に来るのは時期的に矛盾するが,饒速日尊は天知迦流美豆比売を伴って東海地方の統一をしているので,この時の伝承が新婚旅行と誤ったのではないかと推定する。

 三穂津姫は島根県の美保神社で事代主命と共に、京都府亀岡市の出雲大神宮に三穂津彦(饒速日尊)と共に祭られている。事代主命が出雲に赴く時一緒に出雲に行ったのではないかと思われる。

 日向津姫との間の子

 記紀神話においては、天照大神(日向津姫)は、天の岩戸神話前は天照大神が単独で登場するが、天の岩戸神話後は必ず天照大神と高皇産霊神がペアで登場する。これは、天の岩戸神話後に高皇産霊神と日向津姫が夫婦になったことを意味している(日向津姫日向国へ帰還)。古代史の復元では、天の岩戸前の宴会は天孫降臨団見送りの儀式と考えている。日向津姫はその後、日向の西都に宮居しており、この宮居跡が都万神社と推定している。このとき高皇産霊神が共にいたはずなのであるが、日向地方に高皇産霊神の伝承が全く存在していないのである。日向津姫は西都では木花咲夜姫として伝えられているので、その父である大山祇命こそが高皇産霊神ではないかと推定した。そうすると、日向三代である瓊々杵尊(日向津姫日向国へ帰還)・日子穂々出見尊・鵜茅草葺不合尊(日向国の成長)は高皇産霊神と日向津姫との間にできた子ということになる。

 

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神皇産霊神の正体
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