和平交渉

 膠着状態になった倭の大乱

 出雲国と短期決戦をしようと、孝霊天皇は彦狭島命軍と出雲国を東から攻め、出雲聖域侵入を試みた。稚武彦軍は出雲を南から攻めた。ともに失敗し、孝霊天皇は黄泉津比良坂の地で、稚武彦軍は三刀屋の天辺の地で膠着状態になり、共に出雲軍と対峙する結果となった。

 この状況は最悪の状況であった。朝廷軍が素盞嗚尊を敵として戦ったわけであり、素盞嗚尊信仰の強い九州地方や朝鮮半島地域の豪族たちの反発を買い、日本列島が二分されてしまう危険性が生じたわけである。朝廷側は出雲から退陣するわけも行かず、このまま対峙することもできず、打つ手が無くなってしまった。

百襲姫登場

 困った孝霊天皇は百襲姫の知恵を借りようと考えた。百襲姫は稚武彦が讃岐で海賊と戦った時、海賊の動きをすべて前もって察知しており、そのアドバイスで稚武彦が苦もなく勝利を収めることができた。また、彦狭島命が、吉備国温羅の残党に苦しめられていた時もあっさりと解決している。

 百襲姫は現在でいうところの大天才であり、中国で同時期に活躍した蜀の諸葛孔明にも勝るとも劣らない存在であった。孝霊天皇も遂に百襲姫の知恵を借りることになり、讃岐の田村神社の地に住んでいた百襲姫を呼び出した。

 黄泉津平坂で伊弉冉尊が「あなたの世界の人間を毎日千人殺すぞ」と言うと、伊弉諾尊がそれでは「毎日千五百の人を生もう」と言って分かれた。これは何かの交渉を意味しているようである。倭の大乱は、魏志倭人伝によるとどちらかが勝利を収めたのではなく、卑弥呼共立というように、和平交渉をして収まったようである。このことより、 黄泉津平坂の地での伊弉冉尊と伊弉諾尊の交渉は、出雲・朝廷それぞれが条件を出し合って、和平交渉をしたことを意味していると解釈する。

 安来市黒井田町細井1297に菊理神社がある。主祭神は菊理姫命である。ククリヒメノミコトと読む。白山比咩神という別名もある。ククルとはひとつに束ねる。結ぶという意味がある。 神話では、伊弉諾尊命が黄泉国から逃げ帰ろうとして、伊弉冉尊命と黄泉津比良坂で争ったときにその中間に立って二尊の言葉を取伝え、両者の間を調和して相互の主張を 聞き入れた神と伝えられている。この菊理姫命こそ百襲姫であると考えられる。

 倭の大乱収拾のため、倭迹迹日百襲姫は讃岐国田村神社の地から吉備中山を経由して菊理神社の地にやってきて、ここで朝廷側・出雲側の言い分を聞き、双方に収拾案を提示したのである。

和平交渉 

 以前より,和平を願っていた孝霊天皇の皇女・倭迹迹日百襲姫の提案で,それぞれが条件を出し合い和解をすることになった。その和平交渉は,出雲の黄泉津比良坂周辺の東出雲町五反田の揖屋神社の地(往古の揖屋神社は五反田にあった)でおこなわれた。孝霊74年(184年) 頃のことである。

 朝廷側の条件は次の通りであった。

①出雲は青銅器祭祀をやめること。

②朝廷の役人を受け入れ,朝廷の支配下に下ること。

 出雲側の条件は次のようなものであった。

③朝廷は素盞嗚尊祭祀を行うこと。

④出雲と戦った孝霊天皇の退位。

 出雲側は新しい祭祀形態を中国からの技術導入で研究することを条件に①の条件を③の条件と引き替えに受け入れた。 その結果,荒神谷遺跡の祭器はそのままにされるようになり,山陰地方と,瀬戸内沿岸地方の青銅祭祀は終わりを告げ, そのかわり,素盞嗚尊祭祀者が全国に派遣され,出雲系土器が全国分布するようになった。そしてその双方の祭祀を統一するため, その中間地である吉備国を中心として新しい祭祀形態(巨大墳丘墓による祭祀)が始まることになるのである。

 ところが,出雲側は②の条件には,激しく抵抗を示したため,倭迹迹日百襲姫が次のような発案をした。

 「勾玉に素盞嗚尊のシンボルの鉄剣と,饒速日尊のシンボルの鏡を,平和で結びつける意味を込めて,その昔素盞嗚尊が八坂 瓊の勾玉を日向津姫に献上したのにならい、出雲は出雲大神の勾玉を造り,出雲大神の言葉を朝廷に伝えると同時に,それを朝廷に献上 する。朝廷は,その勾玉を使って政治を行い,出雲国造を天穂日命の子孫から任命する。」

 これは,素盞嗚尊を形の上で朝廷の上に位置させ,同時に朝廷が出雲国造をサルタヒコの血を引く天穂日命一族から任命するもので,双方を 立てるという苦肉の策である。これは,後の時代における神賀詞の原型である。神賀詞とは平安時代に出雲の国造が都に上り、朝廷に勾玉を献上すると共に天皇の 前で出雲大神の言葉を伝えるもので、朝廷はこのときすべての業務を停止してその言葉を聞き入ったそうである。そして、朝廷から出雲 の国造に正式に任命されるというものである。これは出雲の国に対してだけ行われており、平安時代においても朝廷が出雲の国を特別扱いしていた 証である。この時,勾玉に重要な意味が込められるようになり,後に,鉄剣・勾玉・鏡が三種の神器として定着するようになる。この後出雲で 大規模に玉造がおこなわれるようになった。出雲は,この提案を受け入れた。朝廷の役所は斐伊川下流域に設置され、出雲振根の甥(飯入根の子) である鵜濡渟命が初代出雲国造として朝廷から正式に任命された。そして、朝廷から役人が派遣され、方形周溝墓が中国地方に出現することにな る。

 このたびの戦いは出雲の素盞嗚尊祭祀と朝廷の饒速日尊祭祀の形態が違うというところに大きな原因があった。共通の祭祀形態を考える必要が出てきた。中国からの技術導入をして巨大墳墓や特殊器台を使った祭祀であるがそれを推進する人物が必要となった。その人物に選 ばれたのが,兄の稚武彦である。稚武彦は祭祀を大和でも出雲でもない地を選んで研究していく必要があり,その中間点として吉備国が最良であると 申し出た。出雲も,朝廷も共に承諾し,吉備中山周辺にその拠点を設け巨大墳墓や特殊器台の開発にかかわった。彼の墓はおそらく楯築遺跡であろう。彼は大吉備津彦と間違えられて伝えられた。

 第8代孝元天皇の出自

 孝霊天皇は和平の条件として退位をせまられた。185年(孝霊76年)のことである。孝霊天皇は素盞嗚尊の聖地を攻めたのである。出雲としては到底許しがたいことであった。出雲は孝霊天皇の退位を強く要求した。孝霊天皇としては納得しがたいことであったが、自分が退位することにより天下が治まるのであればやむを得ないと考えた。孝霊天皇の皇子たちは孝霊天皇と共に出雲を攻めているので、孝霊天皇の皇子が次の皇位に就くことも認められなかった。

 そこで名前が挙がったのが神武天皇の長男で日子八井耳命の系統の雀部臣の子である 国牽尊(クニクル)が以前より,素盞嗚尊祭祀に理解を示していた関係で第八代天皇(孝元天皇)に推挙された。

 孝元天皇は孝霊天皇と細姫の子となっているが、雀部家に伝わる伝承では、神八井耳命の子孫である武恵賀前命の御子が第八代の孝元天皇だという。原田氏は実際にこの子孫に面接して聞き出している。雀部家の記録は、持統天皇が記紀を編纂するに当たって没収されたそうである。 他に春日臣、安部氏、穂積氏等十六家の系図が没収の憂き目にあっているらしい。記紀編纂時、不都合な事は隠蔽してしまおうとしたのであろ う。

雀部家系図

神武天皇──神八井耳──武宇都彦──武速前──敷桁彦┌─武五百建
神武天皇──神八井耳──武宇都彦──武速前──敷桁彦┼─健磐龍命
神武天皇──神八井耳──武宇都彦──武速前──敷桁彦└─武恵賀前──孝元天皇
神武天皇──神八井耳──武宇都彦──武速前──敷桁彦──(崇神朝)

 この系図には矛盾がいくつかある。健磐龍命は神八井耳命の子で神武天皇の孫である。武恵賀前が崇神朝の頃の人物であることははっきりしているので、孝元天皇の父が武恵賀前であることはあり得ないことである。

 ところが、愛知県犬山市の大縣神社には武恵賀前命は神八井耳命の孫とされている。この神社の伝承の通りならば、年代的に一致する。しかし、武恵賀前命が崇神朝の人物であることは他の資料からも明らかなので、ここでは、孝元天皇の父の武恵賀前命は武速前の間違いであるとする。名前もよく似ていたので誤って伝えられたのであろう。あるいは、孝元天皇の兄にあたる敷桁彦命は彦恵賀前の別名を持っており、彦英賀前の弟が子に誤って伝えられたのかもしれない。

雀部家推定系図

神武天皇──(彦八井)┌─健磐龍命┬─速瓶玉──志貴多奈彦─建緒組命(火国造)
神武天皇┬─神八井耳┤─武宇都彦└─健稲背──健甕富命(金刺氏)
神武天皇─神八井耳─武宇都彦──武速前─(彦英賀前)
神武天皇─神八井耳─武宇都彦──武速前─(彦恵賀別)
神武天皇─神八井耳└─武宇都彦──武速前┬─敷桁彦命┬─武五百建(科野国造)
神武天皇─神八井耳──武宇都彦──武速前─敷桁彦命└─武恵賀前──建借馬(多氏)
神武天皇─神八井耳──武宇都彦──武速前─敷桁彦命└─武恵賀前──建借馬
神武天皇─神八井耳──武宇都彦──武速前└─孝元天皇──開化天皇──崇神天皇
神武天皇
神武天皇└─綏靖天皇──孝昭天皇──孝安天皇─孝霊天皇
神武天皇──

 この系図は原田常治氏が雀部家の人から直接聞き出されて、その著書「上代日本正史」の中で公開された。原田氏はこれほどのクーデター事件なのに、孝霊天皇側が反抗した形跡もないのを不思議がられていたが、倭の大乱終結のために起こったと考えれば説明がつく。

 古事記・日本書紀の編者はこの事実を隠ぺいしたかったようで、古事記・日本書紀編纂の時、豪族家に伝わる系図を没収したと伝わっている。

大乱後の出雲の統治圏

 出雲国風土記に次のような記事がある。意宇郡母里郷の項「天の下をお造りになった大神大穴持命が、越の八口を平定なさって、 お帰りになるときに、長江山においでになっておっしゃったことには、「私がお造りになって治めていらっしゃる国は、天津神の御子孫である天皇が、 平安に世をお治めになるよう、お任せする。ただ、八雲立つ出雲の国は、私が鎮座する国として、青々とした山を垣としてめぐらしになさり、玉をお置きになってお守りになる」 とおっしゃった。だからこの地を母里という。」

 この記事は出雲の国を残してそれ以外の地は天皇(大和朝廷)に譲るというもので、 出雲の国譲りに該当すると考えがちであるが、国譲りの時点では天皇はまだ存在してはいない。譲る対象は天照大神であるはずである。 このことから、この記事は倭の大乱の講和条件をあらわしていると考える。実際に倭の大乱以前、出雲統治圏(東倭)の領域は山陰地方・安芸国(神武天皇時代に朝廷に譲る。) を除く瀬戸内海沿岸地方であった。しかし、倭の大乱後は出雲国造の統治領域は出雲国のみとなっている。 この状況がこの記事と一致しているのである。そうであるとすれば、出雲神話によく登場するオオクニヌシとは出雲側の歴代国王を表わしていることになる。

邪馬台国女王卑弥呼の誕生

 百襲姫は天皇になるという道もあったが、このような混乱した時代は、天皇よりさらに強力に国を治める存在が必要とされた。神が乗り移ったと人々から思われている百襲姫が、このような存在になれば、大和・出雲双方の人々が安心して暮らせると思い始めた。

 倭迹迹日百襲姫自身もこのような時代に人々を平和に治めるには自らが大物主神の妻になってこの国の人々を導いたほうがよいと考えるようになり、 「自分は大物主神の妻である」と宣言した。双方の代表者は,倭迹迹日百襲姫が大物主神の妻として、今後もその指導力を働かせてくれれば、 日本国に平安が訪れるだろうと思い、盛大にその結婚を祝福することにした。大物主の神(饒速日尊)の妻という地位、すなわち邪馬台国女王卑弥呼の誕生である。

 当時の国内の人々に知らしめるためにも盛大なる就任の儀式(結婚式)を行なう必要があった。出雲の人々にも知らしめるためにも、 結婚式は大和ではなく出雲国の近くで行なわれる必要があった。しかし、大物主神との結婚式には三輪山がどうしても必要なのである。そこで、鳥取県の大山を 三輪山に見立てて冬至の日に大山山頂から太陽が昇ってくる位置に宮を造り盛大に就任の儀式を行なった。

 冬至の日に大山山頂から太陽が昇る位置に古い神社が見つかった。淀江町小波の三輪神社である。この三輪神社は、江戸時代の初期までは現在の場所から南東に約1キロメートル離れた小波字三輪山にあり、壮麗な社殿や大鳥居、三重塔のある神宮寺などが立ち並んでいた時期もあったということである。この旧社地こそ、大山山頂から冬至の日に太陽が昇る位置である。
 淀江町の佐陀・中間・小波・平岡地区を合わせて「大和村」と呼ばれていた。この三輪神社の氏神が大和国とつながっている由緒にもとづいています。現在、淀江公民館分館と保育園、郵便局、そして公園運動広場が「大和」の名前を残しているそうである。この事実は宇田川氏によって発見された。宇田川氏には感謝する次第である。

 この三輪神社の旧地こそ、百襲姫が大物主神との結婚の儀式を行った場所であろう。以降百襲姫は卑弥呼(日霊女)と呼ばれることになった。

 大神山神社の祭神は大己貴尊である。伝承によると、八束水臣津命とともに大山を杭として国引きをしたとき、大山山頂で神事を行なったのが始まりと伝えている。 最古の鎮座地は現在の岸本町丸山の地であったそうである。大神山は大山の旧名で、古代はオオミワノヤマと読んだそうである。漢字は後で当てはめられたものと考えられるので、 大山の本当の名は「みわやま」ということになる。「みわやま」と言えば饒速日尊の御陵で大和朝廷のシンボルとして扱われている大和の「三輪山」と同じ名である。 大和の「三輪山」の麓には「大神神社」があり、主祭神は饒速日尊の妻とされる「倭迹迹日百襲姫」である。
 大山周辺は古代の聖地であるとの言い伝えがあり、高天原であったという説も存在している。

 これにより大山は大神山(おおみわのやま)と 呼ばれるようになり、後に「神」が欠落し「大山」となった。結婚式が行なわれた跡地は大神山神社となり、祭祀の対象地になったが、200年ごろ大陸から二十四節気の導入により 一年でもっとも大切な日が冬至の日から立春の日に変わった。このとき、大神山神社の地も創始の位置から岸本町丸山の地に移った。 この地は立春の日に大山山頂から太陽が昇ってくるのを見ることができる。
 倭迹迹日百襲姫は吉備国でも結婚の儀式を行なった。その位置が総社市の三輪山から冬至の日に太陽が昇ってくるのを見ることができる正木山(麻佐岐神社)の麓である。 最後に大和の地でも盛大に結婚式を行なった。人々は百襲姫に大物主の神が乗り移ったと信じているわけであるから, 百襲姫の命令は絶対である。大物主の妻とは神に仕えるのではなくて,大和最高神饒速日尊と同等の地位に着くわけであるから, 天皇といえども逆らえず,当時の大和朝廷の実質的最高権力者となるものであった。これが邪馬台国女王卑弥呼である。

 饒速日尊の妻であれば,同時に,素盞嗚尊の娘となるわけであるから,出雲・朝廷双方の心を繋ぐにはちょうどよいのである。 また,このように人心が落ちつかない時代では,今まで以上に強く神を崇拝しなければ国が治められず,強力な祭祀者が必要になるのである。

 また,孝霊天皇も,倭迹迹日百襲姫が天皇の長女であることから納得し孝霊天皇は孝霊76 年(185年)退位した。その後は雀部臣の子である孝元天皇が第八代天皇として即位することとなった。

 退位後の孝霊天皇

鳥取県の山田神社では大日本根子彦太瓊命を元天皇と号している。孝霊天皇は退位したのである。退位した孝霊天皇はしばらくは鳥取県大山山麓の山田神社の地で隠棲し ていたが、後、岡山県井原市の青龍神社の地に滞在後、広島県府中市の南宮神社の地に移動した。晩年末子の五十狭芹彦が誕生した後、215年ごろこの地で亡くなり、南宮神社横の孝霊天皇陵に葬られた。南宮神社にこのことが伝えられている。

       孝霊天皇御陵伝説地
           (広島県府中市南宮神社)

 孝霊天皇は譲位後、なぜ、この地で隠棲をしたのであろうか。倭の大乱の直後は吉備中山を中心として吉備津彦(稚武彦)が新しい 祭祀の研究を行なっており、隣の安芸国は神武天皇が東倭から譲り受けているので比較的安定していた。新しい祭祀の研究を行なっていたのは吉備下道でその最西端に位置する場所が府中市である。稚武彦が新しい祭祀を広めるのに協力したためと思えるがさらに調査を進めたい。

孝霊天皇の享年

 孝霊天皇はいつまで生存していたのであろうか。晩年五十狭芹彦が誕生しており、その誕生年は、後の活躍年代から考えて210年頃と考えられるために、この頃までは生存していたことになる。日本書紀の128歳(現行64歳)が享年とすると、崩御は孝元52年(AD211年後半)となり、自然と説明できる。おそらく、この頃が亡くなった年であろう。

 孝霊天皇は孝安40年(AD148年前半生誕)、孝霊53年(AD174年前半)即位、孝霊76年(AD185年後半)退位、孝元52年(AD211年後半)崩御となる。在位年数は24年(現行12年)である。

出雲における祭祀の変化

 日本書紀では朝廷により振根が殺害された後、出雲大神を祭るのをしばらくやめており、朝廷の働きによりしばらく後鏡を用いた祭礼を再開したことが記録されている。これは、どういうことであろうか。
 振根は素盞嗚尊祭祀者であったために、振根亡き後は戦乱の混乱のため祭礼ができない状態にあったのではあるまいか。 倭の大乱後の和平交渉の結果、朝廷の指示の元での初代出雲国造鵜濡渟命による、新形式の素盞嗚尊祭祀が始まったのであろう。 その間に断絶があるのではあるまいか。それまでの素盞嗚尊祭祀は言代主が出雲町の能利刀社の地で熊野山を仰ぎながら、素盞嗚尊の言葉を聞き、その言葉を素盞嗚尊祭祀者に伝え素盞嗚尊祭祀者は神魂神社の地で各地の代表者を集めて、その言葉を伝えて政治を行うというものであった。言綾根はいつの間にか姿が消えており、素盞嗚尊祭祀者(出雲国造)による単独祭祀に移行しているのである。言綾根が廃止されたのもこの倭の大乱によるものではあるまいか。
 倭の大乱後吉備国を中心として稚武彦主導による新祭礼の方法が研究されたが、出雲の素盞嗚尊祭祀もその影響を受けて変化したのであろう。そうすれば、新しい祭祀形態が確立していった200年ごろまでの10年から20年ぐらいの間素盞嗚尊祭祀が中断していたことが考えられる。その試行錯誤の一環が西谷四隅突出型墳丘墓による祭礼であろう。

伯耆国のその後

 倭の大乱後(弥生時代後期後葉)以降、伯耆国には吉備系の遺物が多く出土するようになる。吉備の勢力下に入ったものと推定される。米子市近辺は黄泉国といわれており、北部には夜見という地名も残っている。黄泉津比良坂の西側も黄泉国といわれており、黄泉国とは一体何かが問題になるのであるが、推定するに、出雲を黄泉国と読んだのは大和朝廷が孝霊天皇を伊弉諾尊と考えるとき伊弉冉尊が住んでいた出雲を黄泉国と呼んだが、出雲の人々がそれに反発しその反対側を黄泉国としたのではあるまいか。

 古事記によれば三貴子が誕生後、月読命が夜の食国を治めている。月読命は兄稚武彦と推定しているが兄稚武彦は倭の大乱後吉備国を治めている。 吉備国はあまりに巨大になっているために伯耆国自体は同じ系統の人物が治めていたのではあるまいか?その人物とは、孝霊天皇が現地の妻に産ませた子供ではないかと思う。 孝霊天皇の現地の妻は孝霊山に伝わる妻木の朝妻姫、及び高杉神社に伝わる松姫、千代姫が考えられる。高杉神社にはこの松姫、千代姫が都から後からやってきて孝霊天皇の妃になった細姫に対して嫉妬の念が強く祟っているので,高杉神社には「女男女(うわなり)うち神事」が伝わっている。  この3人の女性の誰かが産んだ子が倭の大乱後の伯耆国を治めていたのであろう。古道における出雲との境にある安田関のすぐ近くに母塚山と呼ばれる山がある。 この山は別名比婆山とも言われ、伊弉冉尊の御陵という伝承がある。母塚山周辺には伊弉冉尊に関する伝承が乏しい。母塚山伊弉冉尊御陵とは考えられない。 それでは母塚山には誰を葬ったのであろうか。母塚山とは母を葬った山という意味と考えられ、孝霊天皇が伊弉諾尊命であるから、その妻が伊弉冉尊になり、現地妻の朝妻姫・松姫・ 千代姫の誰かではあるまいか?そして、母を葬った人物が伯耆国の統治者(月読命)であろう。

 米子市近辺に吉備系の遺物が出土するのは古墳時代中期ごろまでである。その後は北九州系の要素が見られるようになる。古墳時代中期、 応神天皇のころ強大になりすぎた吉備国が分割されたのを期に、吉備勢力が伯耆国から引き上げたものと考えられる。

戦後処理

朝廷側は素盞嗚尊祭祀を全国に広めることも了承し,祭祀を全国に広めるため,出雲から全国に祭祀者を派遣した。この結果,この頃より, 古墳時代初頭にかけて,出雲系土器が全国に出土するようになり,出雲の四隅突出型墳丘墓が北陸地方に出現するのである。双方がこれらの条件をすべて了解し,ここに,倭の大乱は終結したのであった。

 倭の大乱は収まったが,人々の生活が苦しいのに変わりなく,反乱(鬼の出没)は継続して発生していた。弟稚武彦を平定将軍に任じ中国・ 四国地方の鬼退治をして回った。さらに崇神10年四道将軍を派遣することで地方に発生していた鬼退治は完了した。しかし、生活改善がないため、 また鬼が出没することが予想される。大和朝廷は皇族の子孫を地方に国造として派遣して国造を神聖化し、合わせ て、地方に出没する鬼は国造に処理させようとした。これらの人物の墳墓が前方後円墳である。

 これまでの墳墓は四隅突出型墳丘墓に見られるように,周りを取り囲むようにして祭礼が行われていた。これは,王以外は皆平等であるという ことを意味しているが,この時期以後は,前方後円墳や前方後方墳に見られるように一方向からの祭礼に変わってきている。これは,階級がピラ ミッド構造をしてきたことを意味し,朝廷は人心の安定を図るために,人々の階級を細かく分けたものと考えられる。

 国造に地方での饒速日尊祭祀を強化させ,国造を神聖化するために,饒速日尊のシンボルである鏡が多量に必要となり,それまで,一大 率が中国から手に入れていた鏡を朝廷直轄にして,全国(各国造)に配るようにした。このため,九州からの鏡の出土率が下がり,各地の 墳墓からの副葬品が豪華なものに変わってきて,北九州地方に畿内系土器が集中するようになるのである。

 突線紐式銅鐸は,倭の大乱の後(後期後葉)に出現し,寒冷化した気候によって人心が穏やかでないため,大和朝廷が祭礼を強化する 政策の中で誕生したものと考える。それまでは鳴り物としての性格を持っていたが,この銅鐸は完全に見る物へと変化している。この銅鐸か らは近畿地方以東の出土になり,西日本地域からの出土はなくなっている。これは,倭の大乱によって,西日本地域が 青銅器祭祀を禁止されたためと考えられる。

 大和朝廷は皇族の子孫を地方に派遣し国造として任命した。地方に権力者を作り、彼らに権力を集中させることにより治安維持など地方を 強力に治めるように制度改革をした。大和でも中央に権力を集中するために中心となる都市が必要になった。それが纏向である。 纏向遺跡は180年ごろから大きくなり始めている。また朝廷での饒速日尊祭祀と出雲での素盞嗚尊祭祀の共通する祭祀を研究することにした。 共通の研究は出雲・大和どちらにも偏らない地で行われる必要があり,その地として吉備国が選ばれた。稚武彦がその代表者に選ばれた。 稚武彦は吉備国で新しい祭祀形態を研究した。吉備中山の真西に位置する楯築の地で中国の道教の思想を取り入 れた巨大な祭礼施設(楯築遺跡)をつくり、その地で新しい祭礼を始めた。巨大墳墓及び,特殊器台の始まりである。巨大墳墓は古墳として 特殊器台は埴輪として全国に広まり,ここに古墳時代が始まったのである。

 これらの変化はすべて卑弥呼の指示によるものと考えられる。

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