卑弥呼関連年表

 百襲姫、卑弥呼就任より没するまでの年表(赤字は年代特定できないもの)

西暦 和暦 半年干支 日本の出来事 新羅 百済 高句麗 中国
184 73 74 癸未 甲申 倭の大乱出雲侵入(73)
倭の大乱終結
6 漢遼東太守高句麗を攻める 黄巾の乱勃発
185 75 76 乙酉 丙戌 孝霊天皇退位(76)
百襲姫大物主神妻(卑弥呼)に就任。
7
186 1 2 丁亥 戊子 孝元天皇即位(1) 4 多 婁 0 8 公孫度は後漢の実力者董卓の命により遼東太守となった。彼は遼東で勢力を拡大し、自立を強め、後漢が放棄した楽浪郡を支配下に置いた。このころ勢力を強めた高句麗第8代の伯固は遼東へ数度寇掠を行った。それにより公孫氏の不興を買った
187 3 4 己丑 庚寅 6 2 9
188 5 6 辛卯 壬辰 「中平」銘鉄刀
戸隠神社(信濃)創建
鷲峰神社(因幡)に大己貴命を祀る
思兼命阿智に降臨
8 4 靺鞨と戦い馬首山の西で勝利する(3)
靺鞨に大勝(4)
10
189 7 8 癸巳 甲午 天照大神を内原王子神社(紀伊)に祭る 10 6 靺鞨が馬首城を攻め落とす 11 公孫度は遼東太守となり、遼東で勢力を拡大し、後漢が放棄した楽浪郡を支配下に置いた。
高句麗第8代の伯固は遼東へ数度寇掠を行い公孫氏の不興を買った。
後漢・霊帝崩御
西涼の董卓により後漢少帝を保護し、朝廷の実権を手中にし、献帝を擁立
190 9 10 乙未 丙申 12 楽浪北辺に侵入(13) 8 12 董卓は洛陽に火をかけて焦土とした上で、西の長安へと引き揚げ、長安に都を移した
遼東郡太守の公孫度は中原の大混乱に乗じて、遼東地方に独立政権を立て、 朝鮮半島の西北部をもその支配下に入れた。
191 11 12 丁酉 戊戌 14 高句麗王楽浪を滅ぼす(14)高句麗本紀37年 10 13
192 13 14 己亥 庚子 16 華麗北辺に侵入。貊国に助けられる 12 14 後漢の将軍曹操は黄巾軍を討伐し、精鋭を選んで自軍に編入し、曹操は勢力を一気に増強した。
193 15 16 辛丑 壬寅 18 14 15 袁術が曹操の?州を攻めたが、劉表に背後を絶たれ、曹操に大敗し、本拠地の南陽郡を捨て、揚州の寿春に落ち延び、寿春を本拠地として割拠した。
194 17 18 癸卯 甲辰 20 16 16 曹操の親友の張?と部将の陳宮が呂布を迎え入れて、曹操に反逆し、曹操の領地である?州の大半は呂布のものとなった。しかし、曹操の部下の荀彧・夏侯惇・程昱らが曹操の本拠地を守り抜き、曹操は呂布との激戦の末に?州から呂布を駆逐し、?州を取り返した。呂布は徐州刺史の劉備を頼り、劉備の保護を受けた。
195 19 20 乙巳 丙午 22 18 17
196 21 22 丁未 戊申 24 20 18 呂布が徐州から劉備を追い出し、徐州を支配した。その後、劉備は呂布に攻められて敗走し、曹操のもとに身を寄せた。
197 23 24 己酉 庚戌 26 22 山 上 1 中国に大乱が起こる。漢人が乱を避けて投降するものが多かった。
高句麗第9代故国川王が亡くなった。高句麗の王位継承をめぐって発岐と延優(後の10代山上王)との間に争いが起こり、丸都城に拠った延優が王となって発岐の勢力を併呑した。
曹操は呂布・袁術などを滅ぼし、曹操に反逆した劉備を追い散らして河南から山東までの地域を統一する。
198 25 26 辛亥 壬子 甲佐神社に八井耳命を祀る 28 24 2
199 27 28 癸丑 甲寅 30 26 3
200 29 30 乙卯 丙辰 阿波萩原二号墳 32 28 漢城に遷都
靺鞨が北辺を侵す(28)
牛谷城を築いて靺鞨に備える
4
201 31 32 丁巳 戊午 脱 解 1 瓠公を大輔に任じる(2) 30 5
202 33 34 己未 庚申 3 夏五月、倭国と国交を結び、互いに使者を交換した。(3) 32 6 袁紹の旧勢力を吸収した曹操は圧倒的な大勢力となり、南下に乗り出す。
203 35 36 辛酉 壬戌 5 馬韓の将軍投降 34 7 公孫康は父の後を継いで遼東太守となった。
204 37 38 癸亥 甲子 百済王は、卓淳旱岐のもとへ、日本へ渡る道を知っているか三人の使者を送った 7 百済王が地境を拓定するために会見を乞うた(7)
百済が蛙山城・狗壌城を攻撃した。(8)
36 使者を新羅に派遣して会見を乞うたが聞かなかった(36)
蛙山城を攻めたが勝てなかった。(37)
8 公孫康は楽浪郡18城の南半、屯有県以南を割くとともに南方の土着勢力韓・?族を討ち、県治よりもひときわ大きな城塞都市帯方郡を作る。
倭・韓遂に帯方に属すことになった。
205 39 40 乙丑 丙寅 斯摩宿禰を卓淳國に遣す。(神功46年)
百済との交流が始まる
豊田神社(石見)創建
9 百済が蛙山城を攻めとるが奪還した(10) 38 蛙山城を攻めとったが暫らくして破れた(39) 9
206 41 42 丁卯 戊辰 11 40 10
207 43 44 己巳 庚午 13 百済が攻めてきた(14) 42 新羅を攻めた(43) 11 公孫康は曹操から襄平侯・左将軍に任命され、帯方郡も後漢の郡として追認された。
208 45 46 辛未 壬申 15 44 12 曹操軍と孫権・劉備連合軍は長江中流の沿岸の赤壁にて激突し、孫権配下の周瑜や黄蓋らの活躍により、曹操軍を破った
209 47 48 癸酉 甲戌 17 倭人が木出島に侵入し、迎え撃った羽烏が戦死して敗れた。(17)
百済が辺境を侵したのでこれを防いだ。(18)
46 日食。新羅を攻める(47年) 13 丸都に遷都
210 49 50 乙亥 丙子 唐古鍵遺跡が俄に衰退
纏向遺跡が発展
19 百済が蛙山城を落とした(19)
蛙山城を奪回した(20)
48 蛙山城を攻め落とす(48年)。新羅が奪還(49年) 14 曹操の部下の鍾?・張既は韓遂・馬騰・馬超を後漢と曹操に服属させた
211 51 52 丁丑 戊寅 21 阿食吉門が伽耶の軍と黄山津の入江で戦い千余名を捕獲する。(21) 己 婁 1 15 韓遂・馬超ら豪族連合は曹操に対して反逆し、東征し、潼関まで進出したが、曹操に大敗した(潼関の戦い)。
212 53 54 己卯 庚辰 23 3 16
213 55 56 辛巳 壬午 倭女王卑弥呼、新羅を討つ(日本書紀神功1年、推定) 婆 娑 2 5 17 曹操は魏公になる。
214 57 1 癸未 甲申 孝元天皇崩御(57)
開化天皇即位(1)
4 7 18 魏蜀呉の三国時代が始まる
215 2 3 乙酉 丙戌 天照大神を調神社(武蔵)に祭る
日御崎神社(出雲)の島上に神殿造営
6 百済が辺境を侵した(6) 9 新羅の辺境を侵す(9) 19 曹操は漢中にいた五斗米道の張魯を降伏させる。
216 4 5 丁亥 戊子 巻向石塚 8 西方の百済、南方の伽耶に対する国防強化を図った。加召城(慶尚南道居昌郡加祚面)・馬頭城(慶尚南道居昌郡馬利面)を築いた。(8) 11 20 曹操は魏王となる
217 6 7 己丑 庚寅 10 13 21
218 8 9 辛卯 壬辰 12 15 22
219 10 11 癸巳 甲午 天日矛来日
球磨国が反乱をおこす。艮神社(広島県沼隈郡)伝承。開化10年
崇神天皇生誕
14 伽耶の賊たちが馬頭城を包囲したのでこれを打ち破った。(15) 17 23 高句麗の政情不安に付け込んだ遼東太守の公孫康が高句麗へ侵攻した。高句麗はたちまち敗退し公孫氏へ降った。
劉備は漢中を奪った(定軍山の戦い)。
220 12 13 乙未 丙申 淡路垣内遺跡が消滅
阿波水銀若杉山涸渇
萩原一号墳
16 伽耶人が南の辺境を襲った。王は勇士五千名でこれを破った。捕虜や鹵獲品が甚だ多かった(17) 19 24 曹操が死に、後を継いだ曹丕はついに献帝より禅譲を受けて皇帝(文帝)となり、魏を建国した。後漢滅亡。
221 14 15 丁酉 戊戌 18 伽耶を征伐しようとしたが王が謝罪したので之を許す。(18) 21 25 劉備、蜀皇帝に即位、漢の後継者と称した。
蜀漢軍は最初のうちは連戦連勝であったが、呉の陸遜の策にはまり、大敗(夷陵の戦い)、劉備は退却し白帝城で病死した。
222 16 17 己亥 庚子 20 23 26
223 18 19 辛丑 壬寅 22 婆娑尼師今は音汁伐国を討伐し音汁伐国、悉直谷国・押督国(慶尚北道慶山市)は新羅に服属することとなった。(23) 25 27
224 20 21 癸卯 甲辰 24 27 28
225 22 23 乙巳 丙午 26 早くも悉直国は反乱したために討伐し、その遺民を南部へ移住させた。(25)
百済が和を乞う(26)
29 新羅に使者を派遣して和を乞うた(29) 29 蜀漢南征を行う。
226 24 25 丁未 戊申 28 南方へ大征を行ない、比只国(昌寧郡)・多伐国(大邱広域市)・草八国(陜川郡)を併合した。(29) 31 靺鞨が牛谷城を攻めた(32) 30
227 26 27 己酉 庚戌 30 33 東 川 1 諸葛亮は出師の表を奉り、北伐を決行した
228 28 29 辛亥 壬子 崇神天皇立太子 祇 摩 32 35 2 公孫淵は魏の曹叡(明帝)から承認を取りつけて揚烈将軍・遼東太守に任ぜられる。
229 30 31 癸丑 甲寅 2 37 使者を新羅に派遣して修交した(37) 3 呉・孫権が皇帝を名乗る
230 32 33 乙卯 丙辰 4 春2月、伽耶が南の辺境を侵すので、7月に黄山河(洛東江)を渡ったが、伏兵の待ち伏せを受けた。王はこれを突破して退却した。(4)
将兵を派遣して伽耶に攻め入らせる。王は一万名の軍を指揮したが、伽耶の守りが堅く引き返した。(5)
39 4 呉は海を渡って夷州(いしゅう)と亶州(たんしゅう)に兵を出した。
231 34 35 丁巳 戊午 6 41 5
232 36 37 己未 庚申 8 43 6
233 38 39 辛酉 壬戌 10 倭人が東辺を侵す(10) 45 7
234 40 41 癸亥 甲子 12 大和朝廷、新羅と和解(12) 47 8 魏に朝貢 陣中で諸葛亮は病に倒れ没した。
235 42 43 乙丑 丙寅 14 靺鞨に北部を侵されるも百済に助けられる(14) 49 新羅が靺鞨の侵略を受けたので救った。(49) 9
236 44 45 丁卯 戊辰 垂仁誕生 16 蓋 婁 0 10 呉の孫権が和を乞うたが、その使者の首を魏に届けた
237 46 47 己巳 庚午 18 2 11 魏に朝貢する 公孫淵は、呉の孫権に呼応し て魏に反旗を翻して独立を宣言。遼東の襄平城で燕王を自称。帯方郡も楽浪郡もそのまま燕に属したが、帯方郡と楽浪郡の太守は、燕建国時に本国の魏に逃げ戻った。公孫淵が司馬懿との戦いに集中している間に、帯方郡と楽浪郡を奪還する密命を受け、甘言を弄して韓国(三韓諸国) を味方にした。
238 48 49 辛未 壬申 卑弥呼、帯方郡の地へ、朝貢使の難升米を派遣。このとき太守は劉夏であったが、彼は郡の官吏を付けて後漢の都・洛陽まで難升米の一行 を送らせた。韓や倭といった東夷からの朝貢は公孫氏が受け取っていた。 20 4 12 魏の大尉「司馬懿」が四万の軍勢を率いて出撃、その九月に公孫淵を討ち滅ぼした。帯方郡は「後漢─魏─燕」と、形式的にはその所属に変遷があったが、実質的は一貫して公孫氏の領有下にあった。
239 50 51 癸酉 甲戌 卑弥呼は魏に朝貢を申し出ます。これにより、卑弥呼は「親魏倭王」の称号と金印・紫綬を貰います。このときの使者であった難升米もその功により、率善中郎将に任ぜられ銀印・青綬を受ける 逸 聖 0 6 13
240 52 53 乙亥 丙子 使者の掖邪狗らも率善中郎將の印綬を授かる 2 8 14 新太守となった弓遵は、魏の詔書・金印紫綬を配下の梯雋に持たせて卑弥呼のもとへ送った。
241 54 55 丁丑 戊寅 ホケノ山古墳 4 靺鞨辺境侵入 10 15
242 56 57 己卯 庚辰 6 靺鞨との戦い 12 16 高句麗は遼東西安平で寇掠を働いた。
243 58 59 辛巳 壬午 倭王は再び大夫伊声誉(崇神天皇皇子、伊邪眞若命)、掖邪狗等八人を派遣して、生口、倭錦、緑青兼 、畠系衣、帛布、丹、木付、短弓、矢を貢献した。掖邪狗らには等しく率善中郎将の印綬を授けた。 8 14 17
244 60 1 癸未 甲申 開化天皇崩御(60)
崇神天皇即位(1)
10 16 18 魏の将軍母丘倹による1回目の高句麗侵攻が行われた。高句麗東川王(位宮)は2万の兵を率いて迎え撃ったが連戦連敗し、丸都城を落とされ千人が斬首された。?は将兵の墳墓破壊を禁じ捕虜と首都を返還したが高句麗は服属しなかった。
母丘倹が高句麗首都を陥落させた。
245 2 3 乙酉 丙戌 皇帝の命により倭の難升米に黄幢を与え、帯方郡長官に授与させた。(魏志倭人伝)
都を端籬宮とする(3年)
12 20 日本海地方の人が美女を献じたので彼女を向かい入れた。新羅の北辺を侵した 高句麗は再び魏軍の侵攻を招いた。魏軍は高句麗を大いに打ち破る。東ワイも高句麗を離れ魏に服属した。韓はこの戦いに協力していた。
 辰韓八国を楽浪郡へ編入した。韓は帯方郡の崎離営を襲ったが、滅亡するに至った。
 東川王は魏軍が引き上げた後に平壌城を築城した。この城は集安市付近の城で、後の平壌ではない。
246 4 5 丁亥 戊子 疫病発生(崇神5年)
247 6 7 己丑 庚寅 女王は載斯烏越を使者として派遣して狗奴国との戦いを報告した。太守は塞曹掾史張政らを倭国に派遣(魏志倭人伝)
3月24日日没日食
豊鍬入姫、天照大神を祀る(6年)
大田田根子を大物主神を祀る祭主とする(7年)
248 8 9 辛卯 壬辰 大物主神を祀る(8年)
墨坂神・大坂神を祀る(9年)
新羅と和を結ぶ
249 10 11 癸巳 甲午 武埴安彦の乱(10年)
倭迹迹日百襲姫没(10年)
四道将軍派遣(10年)
四道将軍帰還(11年)
異俗の人たちが多数やってくる(11年)
司馬懿はクーデターを起こし、魏宗室の曹爽一派を誅滅した。これにより司馬一族は魏の権力を完全に掌握した。

 百襲姫はAD167年に誕生し、AD185年、現年齢で19歳の年に大物主神の妻になった。これが卑弥呼の誕生である。AD249年(崇神10年)83歳で世を去った。

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卑弥呼祭祀体制の強化
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