水主神社

H17.03.26

 伝承
 社伝によると、倭迹迹日百襲姫命都の黒田宮にて、幼き頃より、神意を伺い、まじない、占い、知能の優れたお方といわれ、7歳のとき都において塵に交なく人もなき黒田宮を出られお船に乗りまして西へ西へと波のまにまに播磨灘今の東かがわ市引田安堵の浦に着き、水清きところを求めて、8歳のとき今の水主の里宮内にお着きになり成人になるまでこの地に住まわれた。土地の人に弥生米をあたえて、米作り又水路を開き、雨祈で、雨を降らせ、文化の興隆をなされた御人といわれる

引田の安堵浦(倭迹迹日百襲姫上陸伝承地

引田の安堵浦沖より上陸地点を臨む

推定
 倭迹迹日百襲姫はAD168年ごろ大和の黒田宮にて誕生した。彼女は今で言う非凡な大天才に相当し幼い頃から他の人とはまったく異なり、神の子と思われていた。171年孝霊天皇が伯耆国に派遣されたのに合わせて、倭迹迹日百襲姫は讃岐国に派遣された。当時の讃岐国は凶作の年が続き人々は苦しんでいた。彼女のアイデアで次々と農業開発が行なわれ人々の生活は次第に潤っていった。当時の成人は当時の計算で25歳(現12歳・AD183年)までこの地に住んでいて、その後高松の船山神社の地に移動し、今度はそこで農地開発を進めた。このとき、溜池を作ることを考え出したのではないだうか。
 当時は倭の大乱の前後で、生活苦から各地に鬼が出没していたが讃岐国は彼女の働きにより鬼が少なかったと推定する。

 神社本殿真後ろに孝霊天皇を祭った社があった。本殿真後ろということは孝霊天皇はこの水主神社にとって特別な人物であることを意味しているのではないだろうか?孝霊天皇は倭迹迹日百襲姫の父親ではあるが、それだけではないのでは?伝承には伝えられてはいないが、孝霊天皇もこの地を訪問されともに住んでいた時期があったのではないだろうか。
 孝霊天皇はAD179年西国平定のために大和から吉備中山に移動しているが、その経路は不明であった。孝霊天皇は大和から淡路島経由(伊弉諾尊=孝霊天皇の国生みは淡路島→伊予二名島の順である)でこの讃岐国を訪れ、しばらく倭迹迹日百襲姫とともに暮らした。その後孝霊天皇は吉備中山に、倭迹迹日百襲姫は高松の船岡山に移動したと考える。

田村神社

H17.03.26

田村神社は讃岐一ノ宮で倭迹迹日百襲姫を祭っている神社です。讃岐に倭迹迹日百襲姫の行動を伝える神社がいくらか存在しています。倭迹迹日百襲姫の正体を探るために参拝してきました。
 

 祭神      倭迹迹日百襲姫命、吉備津彦命、猿田彦大神、天隠山命、天五田根命
                    この五柱の神を田村大神という。

由緒  倭迹迹日百襲姫は吉備津彦命と西海鎮定の命を奉じ讃岐路に下り給ひよく鎮撫の偉功を立て当国農業殖産の開祖神となられた。
関連伝承は伝えられているようである。
  1.  境内の西側に花泉がある。倭迹迹日百襲姫命が手を洗ったところと伝える。
  2.  境内の東側に袂井(たもとい)がある。倭迹迹日百襲姫がこの地にこられたとき、里人の奉る鳥芋(ごや)を食し熱病にかかった。このとき侍女が袂を浸して水を奉ったと伝える。
  3.  神社の東三丁のところにある。休石は倭迹迹日百襲姫命が憩はれた石と伝えられる。

 倭迹迹日百襲姫命は農業・水の神と伝えられている。香川県は全国有数の雨の少ない県である。そのために溜池が多い。農業・水とくれば香川県では溜池を連想する。溜池をはじめて作ったのが倭迹迹日百襲姫ではないだろうか。



桃太郎神社

H17.03.26

 桃太郎神社は鬼無にある神社で熊野神社が正式な名だったようである。周辺に桃太郎(吉備津彦)に関する伝承が多いので、桃太郎神社と改名したとか。

神社拝殿です。桃太郎神社と書かれています。
 ここでいう桃太郎は、孝霊天皇の兄大吉備諸進命の二皇子の弟稚武彦命(吉備武彦) であろう。命の兄が吉備津彦命である。孝霊天皇の皇女、倭迹迹日百襲姫命(田村神社祭神)といい、当時讃岐に住んでいた。そこで、弟稚武彦命は鬼退治 のためにやってきたいわれる。  鬼というのは、当時(2世紀後半)瀬戸内海の島々を中心にあばれていた海賊のことである。  桃太郎に供である犬、猿、雉は、それぞれの土地の人たちで、犬は岡山県の沖にある犬 島の人々であり、猿は香川県綾南町猿王の人々で、雉は鬼無町雉ヶ谷の人たちであると伝えられているが岡山県ではそれに該当する人物が、猿は楽楽森彦、雉は留玉彦、犬は犬飼氏となっている。岡山県のほうが具体的である。

 鬼退治伝承
 生島湾近くに大きな泉があって鬼の子分が島から水をくみにきていた。木出とい う。桃太郎らはここで鬼の子分をとりおさえ、鬼ヶ島(女木島)へ行く道案内 をさせた。鬼が島周辺で大海戦がおこなわれ、鬼どもは島の岩窟に逃げこんだが、桃太郎は岩窟内に攻め込み鬼を降参させた。桃太郎は鬼の持っていた宝物を積んで中津の港にかえってきた。しかし、鬼の残党が香西の海賊城にあつまって、再び攻めてきたので木出で合戦になった。桃太郎は大いそぎで仲間に使を走らせて、弓と矢をも ってこさせた。この弓矢を作っていた人たちの墓が、弓塚、矢塚といってのこっている。また 、威かくのため弓の弦を鳴らしたところから、弦打と名づけた。本津川一 帯で激しい戦いがおこなわれた。鬼どもはついに討たれて死んでしまった。その屍を埋めたと ころが、鬼ヶ塚である。鬼がいなくなったことから、木出を鬼無と改名した。

 

桃太郎及びその従者の墓といわれている。なんかうそっぽい。


吉備中山で鬼退治をして吉備国内がある程度安定した頃、弟稚武彦は瀬戸内海の海賊退治の最中倭迹迹日百襲姫命に会いに来たと思われる。倭迹迹日百襲姫命は倭の大乱終結に際し、和解案を提示している思われるので、倭の大乱終結に関する倭迹迹日百襲姫命の知恵を借りに来たのではないかと推定している。
 倭迹迹日百襲姫命はこの当時(AD185ごろ)は田村神社の地に済んでいたのではあるまいか。この当時の施政者は少し高い高台に住んでいたようであるが、田村神社は平地のど真ん中である。初期天皇の宮と同じく、農地開発を住民と共同作業するために農地のすぐそばに宮を作ったと考えた。



船山神社

H17.03.26

香川県高松市仏生山町甲1147
由緒
 倭迹々日百襲姫命、上古讃岐の東部に来り給い、更に移りて当地船山に登り給う。比の地讃岐の中央にして好き所なりと賞でし給いしにより祠を之を奉ず地名百相(倭名鈔百相毛毛奈美)は命の御名によって起れり。創建は天平年間といい初め浅野村船岡山に鎮座あり、船岡山は古く百相郷に属し船山と称す。



 船山神社の祭神は田村神社とまったく同じである。倭迹々日百襲姫命は東かがわ市の水主神社の地から、この地に船で移動してきてこの神社周辺の船岡山に宮を作ったと思われる。船岡山で讃岐地方の農業開発を指示し、自らも開発に従事するために田村神社の地に移動したと考えられる。

 艪掛神社

 祭神 倭迹々日百襲姫命
 倭迹々日百襲姫命が舟を留めて休息したという伝承を伝えている。倭迹々日百襲姫命は安堵浦に上陸し、そこから水主神社のほうへ移動している。この地は、水主神社から高松方面に船出するときの出港地に最適の位置にある。そのことから、水主神社に住んでいた倭迹々日百襲姫命が船岡山に移動する時に、ここから出港したのではあるまいか?

 船岡山

 船岡山(手前は船岡池)

 船岡山は水主神社から倭迹々日百襲姫命がこの周辺に移動して来て最初に住んでいたと伝えられるところ。山の向こう側に船山神社がある。倭迹々日百襲姫命はこの地で農業振興のために溜池を作ることを思いついたと思われ、手前の船岡池が最初に作られたため池ではないかと考えている。倭迹々日百襲姫命はこの後田村神社の地に移動している。

鬼ヶ塚

 

 鬼ヶ塚

 鬼ヶ塚は讃岐の倭迹々日百襲姫命を訪問した吉備津彦が周辺の鬼を退治し、壊滅させたところ。

 黒田宮址

 

孝霊天皇黒田宮址 孝霊神社

 孝霊天皇は大和田原本町の黒田宮で政務を司ったと伝えられている。倭の大乱の時期であり、この宮に住んでいたのは、即位前の15歳から19歳までと即位直後の数年間と思われる。倭迹々日百襲姫命や吉備津彦がこの地で誕生したと伝えられている。孝霊神社は当初黒田宮跡にあったが現在は少しはなれたところにある。(祭神 孝霊天皇)

 孝霊天皇陵

  

 孝霊天皇馬坂陵

 孝霊天皇の本当の御陵は広島県府中市南宮神社と推定しているが、大和に公的な御陵がある。後で大和にも作られたものと思われる。

 孝安天皇

   

 孝安天皇室秋津島宮跡                       孝安天皇陵

 神武天皇社

  

 神武天皇社

 大和の神武天皇社は御所市柏原にある。神武天皇が初代天皇として即位の儀式を行なった地である。橿原市の橿原神宮とは少しずれたところにある。 

 孝元天皇

  

 孝元天皇宮跡                   孝元天皇陵

橿原市見瀬町牟佐座神社の地は安寧天皇及び孝元天皇の宮跡伝承地である。宮跡から北東へ約1kmのところに孝元天皇陵がある。