崩御山

H16.09.11 調査記録

 今回の調査は鳥取県日南町宮内の崩御山から始めた。崩御山は孝霊天皇がこの地に滞在中、その皇后細姫が孝霊71年にこの地でなくなり、この崩御山に葬られたというものである。西楽々福神社の裏山であるということはわかっていたが、具体的な山塊は不明であった。後ほど神社の東北部の山であることがわかったので今回その写真を撮ることにした。



 宮内の楽々福神社は東と西に分かれている。孝霊天皇がしばらく滞在したようであるが、地勢を調べてみると滞在していたのは西楽々福神社の地であることが推定される。東楽々福神社の地は傾斜地にあり、多人数が滞在するのには不向きと思われる。神社の記録でも天皇が東に移ったのは皇后が崩御した後ということである。


崩御山には峰が二つあり、東側と西側であるが写真は西側の部分である。
東側の峰は標高は高いのであるが神社からかなり離れており、神社との関連が薄れそうである。神社からすぐに登山できそうなのは写真の山である。

 山頂部には御陵らしきものがあるそうであるが、今のところ調査予定はない。



御墓山

H16.07.02

 今まで何度か島根県広瀬町西比田の御墓山周辺に行ったが、その位置すら確認できていなかった。国土地理院の地図にもこの山の名前は載っていなかった。今回この山の標高758mより、2万5千分の1の地図にて位置確認ができた。この周辺の山でも最も西側にある峰であった。すぐそばに鳥取県日南町阿毘縁側から島根県広瀬町西比田に抜ける山道もあることがわかった。この道は山頂までは続いてはいないようである。地図でさらに確認するとその道の入り口付近に神社があった。ほかのイザナミ御陵伝承地には熊野神社が存在しているので、これはおそらく熊野神社であろうと推定した。
 早速現地調査することにした。早朝広島を愛車FJ1200で出発し8:30ごろ現地に到着した。日南町印賀から大菅峠に向けてゆっくりとFJを走らせていくと、右側に神社が見つかった。

 思ったとおり、この神社は熊野神社であった。熊野神社は素盞嗚尊命を祭っており、比婆山も伯太町も和歌山も八雲村もすべて近くに熊野神社が存在している。和歌山および八雲村はイザナミ御陵よりも熊野神社のほうが有名である。ほかの2箇所はイザナミ御陵の登山道の入り口に存在しているのに対し、この2箇所はむしろ熊野神社のほうが背後に存在する。
 私は、素盞嗚尊はイザナミを気遣ったためにイザナミ御陵を守るように熊野神社が配置されていると考えているので、イザナミ御陵への入り口に熊野神社が存在するほうが正規のものであると考えている。それから考えると、この御墓山への正規の参拝は鳥取県側からのものと考えられる。このことから、第7代孝霊天皇が御墓山へ参拝したという伝承があるが、このときは日南町側から参拝したと推定できる。
 孝霊天皇はこの後、出雲国へ侵入しているが、その進入経路は大菅峠ではなく、御墓山のそばを通る登山道ではないかとも思える。

 熊野神社を後にしていよいよ御墓山への登山を考えた。安全を考えて登山道が整備されていない場合は中止しようと決めていた。実際に登山道を進んでいくと途中から道の痕跡はあるが草ぼうぼうで荒れ果てていた。「これはだめだ」と登山中止を決定した。
 大菅峠を通過し広瀬町西比田に抜けた。西比田から御墓山の方向を見ると、御墓山が初めて具体的に確認できた。
以前御墓山であろうと思って撮った写真は別の山であることがわかった。

 上の写真はイザナミが住んでいたと思われる西比田の殿の奥と呼ばれている場所から撮影したものである。


H16.09.11調査

 御墓山は前回調査し、具体的な山塊が特定できた。しかし遠くから見た姿しかわからないので、どこから見たのが最も近くから見ることができるかと、国土地理院の二万五千分の一の地図をよく見てみると、阿毘縁の大菅峠のところからほぼ真北の位置にあり、障害物はなさそうで、しかもかなり近いことがわかった。今回の調査ではこの位置から御墓山を観察することにした。


 大菅峠に到着したら早速方位磁石で北のほうを確認しそのほうを見たら確かに一つの山塊があった。かなり近くから見ることができた。これこそ御墓山である。山頂部を拡大した写真が左の写真である。山頂部をくっきりと撮影することができた。
 ここには、御陵らしきものがあるといわれている。戦前は山稜祭が行われていたそうであるが現在は行われていない。山頂までの道の痕跡もあるであろうから、いつか山頂に上ってみたいと思った。

 










H16.10.22 鳥取県立図書館の書物による調査

 この山の登山道が大菅峠近くにあることが判明、近々調査予定。
この山周辺は昔日向山(ヒナヤマ)といっていたそうである。それが訛って比婆山(ヒバヤマ)になったとか。

H17.04.09
 御墓山登山         登山日記

 今まで御墓山だと思っていた山は実は違う山であることが判明した。真の御墓山を登山する計画を改めて立てなければならない。

比太神社

H16.09.11 調査



 比太神社はイザナミが生前住んでいたという殿之奥の中心に位置している神社である。祭神は吉備津彦命で伊弉諾命・伊弉冊命が合祀されている。この比太神社が生前住んでいた地ではないかと思い、今回調査してみた。
 

比太神社は殿之奥のほぼ中央にある小山上にある。北側にある参道から参拝するようになっていた。上の写真は比太神社参道である。この参道を登りきると、拝殿および本殿があった。


 神社は山頂部ではなかったので山頂部に上ってみると、別の神社があった。石碑を見ると天照大神・少彦名命のようである。参道も南からになっており、比太神社とは直接関係がないように思えた。
 この神社は御墓山と関係があるように思えて仕方がないので、神社の方向を方位磁石で確認してみた。真南より30度西であった。ここから御墓山が見えないので見える位置まで動いて御墓山の方向を方位磁石で確認してみた。やはり真南より30度西であった。トランシットを使って精度よく測ったわけではないが、おそらく誤差は5度とないであろう。つまり、比太神社は御墓山を背後に見るように鎮座しているのである。明らかに御墓山を意識しており、御墓山の遥拝所だったと思われる。山頂部にある神社も御墓山を向いているかもしれないと思って山頂部の神社もその方位を調べてみたがこちらは10度以上ずれていた。どうも関係はないようである。


上の写真の左側は比太神社(左の山塊)から見た御墓山、右側は西側から見た殿之奥(中央が比太神社のある小山)である。

H16.10.22
 比太神社参道が御墓山山頂と方向が重なっている写真を撮ろうとしたが、背後が山であったために、よいアングルとなる場所にいけなかった。しかし、その近くでは、参道と御墓山山頂がかなり接近した方向にあることだけは確認できた。

比太神社の祭神は吉備津彦命である。最初弟稚武彦であろうと思っていたが、御墓山の祭祀施設らしいということからこの吉備津彦命は兄の稚武彦を指しているのではないかと思った。


日登

H16.09.11 調査

 いろいろと調べてみると、ヤマタノオロチ伝承は単なるひとつの事件を表しているとは思えない関連伝承が多く見つかる。まず、第一に素盞嗚尊が豪族オロチを退治したこと、第二に吉備津彦が出雲振根を征伐したということ、第三に後の世たたらが始まり、たたらを行うために上流の砂鉄採集を行い、下流の農耕民との対立したということ。これらが重なっているように思える。詳しい分析は以降行なうとして、まず、古代の木次郷である木次町日登から宇谷にかけての地域を調査してみた。この周辺は古代の三成へ続く道があったそうでヤマタノオロチにかかわる伝承地が多い。


素盞嗚尊がヤマタノオロチを退治するとき大変強い酒を造ったとされているが、その酒を作った跡とされている釜石の遺跡に行ってみた。この地域の聖山とされている素盞嗚尊が一時住んでいたという御室山の中腹にある。写真の右側が釜石に行くための山道である。この先100mほどのところに左の写真のような釜石がある。こんなに山奥でやらなくてもと真実性は低いように思える。


写真左側は御室山中腹の布須神社(祭神 須佐之男命・稲田姫命)である。ヤマタノオロチ退治の前に御室を作って宿ったところとされている。右側は日登の集落である。正面がJR木次線日登駅である。このあたりが古代の木次郷の中心地であったと思われる。
 素盞嗚尊がオロチを退治したのは木次町里方の八本杉とされているのであるがこの地は洪水が多いところである。このようなところにオロチの館があったとは思えず、八本杉は、むしろ、出雲振根の終焉の地ではないかと思えるのであった。周りの伝承からしてオロチの館はこの日登にあったのではないかと思えたりする。しかし、次の斐伊神社をしらべたところそれは違うことが判明した。

斐伊神社・八本杉

H16.09.11 調査

 斐伊神社(祭神 須佐之男命・稲田姫命・伊都之尾羽張命)は倭の大乱において吉備津彦と出雲振根の激戦地であったと推定している木次町里方にある。ここにオロチ屋敷があったと推定していたが洪水が多いところなので、出雲振根の終焉の地ではないかと思って斐伊神社にやってきたが、由緒を見ると、第5代孝昭天皇の時代に創建されたことになっていた。孝昭天皇の時代は倭の大乱よりも前である。出雲振根の終焉の地として建てられた神社であればそれ以降に創建されているはずである。やはりオロチの屋敷跡か?


 斐伊神社は左の写真のとおり少し高台にあった。また、右の写真は神社の階段から八本杉を見たものである。正面の森が八本杉である。このように斐伊神社の目と鼻の先に八本杉があるのである。たしかに八本杉は過去に何度も洪水で流されており、今では堤防があるために洪水になることはないであろうが、堤防がないとほぼ毎年でも洪水があるのではないかというようなところにある。このようなところにオロチの屋敷があったとはとても思えず、この斐伊神社の高台の上にあったのではないかと思うようになった。それでは出雲振根の終焉の地はどこであろうか?斐伊川周辺で討たれたことは記録にあるがどこで討たれたのかいまだにわかっていない。
 この日この後島根県立図書館に行って、古代出雲関係の書籍を調べた。その結果、雲陽誌によると出雲振根は加茂町神原に墓があるとのことであった。その場所の特定にはいたっていないが神原は激戦地と推定している木次町里方から国道54号線に沿って4kmほど北にある。斐伊川の支流の赤川の流域である。確定的なことはいえないが、出雲振根はこの神原の地で討たれたのではないだろうか。そうした場合、木次町里方で吉備津彦軍と衝突したが、形勢不利となり北方へ逃避行したことになる。吉備津彦の追撃により神原の地で討たれたことが想像される。


神魂神社

H16.09.11 調査


 神魂神社は神都として古代から言い伝えられ、10月に地方の神が集まって会議をしただの、火継ぎの儀式をおこなっただのという伝承が伝えられている。天穂日命が高天原からこの地にやってきて祖母である伊弉冊命を祀ったものとされている。その本殿は現在国宝に指定されている。島根県立図書館を後にして神魂神社に行ってみた。ここは以前より何回か来ているが神都として訪問するのは始めてである。


 写真の左は国宝の本殿である。右は境内社で左側から大国主命、天照大神、素盞嗚尊である。素盞嗚尊の社が大きいことに注目。神社の記録によると、第25代出雲国造(出雲広島=風土記時代)までは、ここが出雲の中心であったそうな。古来は神在祭や、火継式がここで行なわれていたが、後に熊野大社や出雲大社のほうに移ったとされている。古代の遺跡分布を考えてもまさにここが古代出雲の中心地と考えられる。
 神社の正面(北東側)に広場がある。ここで地方から集まってきた代表者が会議を開いていたのであろうか。

布吾弥・能利刀社跡地

H16.09.11 調査


 熊野大社は古代出雲最高の聖地であった。素盞嗚尊命の御陵のある熊野山に元宮が存在したが現在は規模縮小され麓に鎮座している。摂社もその周辺にあったが現在は熊野大社に合祀されている。熊野大社の過去の姿に少しでも迫ろうとその摂社の跡地うち、最も意宇川の下流にある布吾弥社跡地・能利刀社跡地を調査した。

 古代(大和朝初期1世紀から2世紀ごろ)の出雲は上の神魂神社を政治の中心地として熊野大社を信仰の中心地として栄えていた。熊野大社は元宮の熊野山を最奥地として大石地区の布吾弥社跡地・能利刀社跡地までの領域が聖地として扱われていた。意宇川に沿う現在の県道53号線は熊野大社への参道であった。推定であるが神都にいた出雲国首長が熊野大社に参拝するには、意宇川に沿って参道を進み大社の玄関になっている大石地区の布吾弥社に参拝する。各地の代表者はおそらくここまでしか入れなかったのではあるまいか。そのために布吾弥社は他の摂社に比べて広いのであろう。ここで、その向かいの能利刀社にいた素盞嗚尊の言葉を伝える言代主の言葉を聞く儀式が行なわれていたのではないだろうか。ここから奥地は特別の人物しか入れなかったと推定する。


 左側の写真が布吾弥社があったと伝えられている高台である。この上に神社があったそうである。右側はその高台からみた北側の広場である。往古ここに熊野大社参拝の人々に対する宿舎や参拝施設があったのだろうか。

 左の写真は布吾弥社があったと伝えられている高台の現在の様子である。ここに神社が建っていたそうである。みぎは神社への参道にあった灯篭である。神社そのものは跡形もなくなっているがこの灯篭だけは現存している。
 

 布吾弥社から意宇川を挟んで反対側に能利刀社の跡地がある。ここで言代主(天児屋根)が素盞嗚尊の言葉を聞いていたと推定している。

左側の写真が布吾弥社跡地からから見た能利刀社の跡地である。この写真では正面に見える建物のちょうど向こう側に跡地がある。その跡地は右側の写真であり、田の中で、神社のあったと思われる部分だけ竹林が張り出していた。まさにここに能利刀社があったのである。


 この写真は能利刀社の跡地から見た熊野山である。この日の熊野山は山頂部に雲がかかっていてあまりはっきり見えないが、遠方にかすかに見えるのが熊野山である。古代能利刀社の言代主はこの山を崇拝しながら素盞嗚尊の言葉を聞いていたのであろうか。
 この言代主が能利刀社で熊野山を崇拝しながら素盞嗚尊の言葉を聞き、それを出雲国首長(後の出雲国造)に布吾弥社で伝えるという政治体制は出雲国譲事件(AD50年頃)から倭の大乱(AD180年頃)まで続いたと推定している。
 倭の大乱以降言代主は廃止され、元宮も麓におり往古の壮大なる熊野大社は次第に衰退していった。


 今回は熊野山登山を予定していたが、ほかのところで時間をとりすぎたことや雨天の次の日だったので次回以降に延期とした。

 韓竈神社

韓竈神社 神社へはここを通っていく

 由緒
 出雲国風土記には韓かま(金至)社、延喜式神名帳には韓竈神社と記されており、創立は不詳であるが非常に古い由緒を持つ神社である。
 社名のカラカマは朝鮮から渡来した釜を意味するとされている。すなわち祭神の素盞嗚尊が御子たちとともに、新羅に渡られ「植林法」を伝えられるとともに「鉄器文化」を開拓したと伝えられていることと関連があろう。また当社より奥部の北山山系が古くからの産銅地帯といわれ、金堀り地区の地名や自然銅、野たたら跡、などが見られることと鉄器文化の開拓と深い関係があるといわれている。
 「雲陽誌」によると、当社は素盞嗚尊を祀るとして、古老伝に「素盞嗚尊が乗給いし船なりとて、二間四方ほどの平石あり、これを「岩船」という。この岩は本社の上へ西方より屋根の如くさしかざしたる故に雨露も当たらず世俗に「屋方石」という。又、岩船の続きに周二丈余、高さ六間ほどの丸き立岩有り、これを「帆柱石」という。社の入口は横一尺五寸ばかり、高さ八尺ほどの岩穴となっており、奥の方まで二間ばかり、これが社までの通路となっている」と記されている。
      神社の説明板より

 山の中腹急斜面にある。鉄あるいは銅の産出地で開祖素盞嗚尊を祀ったものと推察される。

 摩陀羅神社

 鰐渕寺の境内にある。その昔この近くに素盞嗚尊の墓といわれるところがあった。ある農夫が掘り起こしたところ人骨が出てきた。その骨を祀っていると伝えている。

 慈覚大師が請来したと伝えられる守護神 摩陀羅神を祀る神社、江戸時代までは出雲大社の裏の北陀(現在の唐川町後野)にあった。旅の安全(特に船旅)と風邪の神として信仰を集めている。
      神社の説明板より

 かなり山奥であり人里とは言いにくい。やはり金属器生産のために素盞嗚尊がここに来ていて亡くなったものか。唐川町後野は韓竈神社のすぐ近くである。

 熊野山

熊野山山頂付近の磐座 熊野山中腹の祭祀場跡
熊野山頂から中海を臨む 熊野山頂から出雲方面を臨む

 熊野山は天宮山・天狗山ともいい、この周辺での最高峰(610m)である。周辺の見晴らしは非常に良い。祭祀の対象としては最高の場所であろう。
祭祀対象の磐座は山頂の北東200mほどのところにある。中腹の祭祀場跡は正確に磐座のほうを向いている。熊野大社の奥宮である。

 佐世神社

 由緒
 祭神 須佐能袁命 奇稲田姫命
 延喜式神名帳並びに風土記所載の神社にして、上佐世下佐世両村の産土神として明治4年郷社に列せらる。須佐能袁命八岐大蛇を退治して後、歓喜の余り奇稲田姫命と神舞をなされた時、頭に挿していた佐世の木の葉が落ちた。命が地にさせと申され、刺した木が今の佐世の社なり。故にこの地を佐世と言う。後出雲八所八幡の一社佐世八幡を合祀し崇敬されている神社である。
  神社前の石碑より

 素盞嗚尊が木次でヤマタノオロチを退治した後、日登の大森神社、布須神社の地と逃避行した後この神社の地にたどり着いた。この後八雲村経由で八重垣神社の地まで逃避行したものと考えられる。

 比婆山神社(伯太)

比婆山山頂の御陵 比婆山山頂の久米神社

 島根県伯太町に比婆山がありその山頂に伊邪那美命の御陵がある。御陵は土盛がしてあり古墳のようにも見える。近くには日次(ヒナミ)という地名があり日向(ヒナ)の転化とも考えられる。

 母塚山


母塚山山頂

 「伊邪那岐神・伊邪那美神の男女両性が現れて盛んに国生みが始まった。母親神の伊邪那美神は火の神を生んで焼け死なれたので、出雲の国と伯伎の国との堺の比婆山に葬った。」と古事記に記されてある。そこが母親山で現在の母塚山であると伝えられている。
 母親神の伊邪那美神を葬った八百萬の神々が、穢れを祓う禊をしようとされたが良い水がなく、この時女神が現れ、手に持った杖を地に立てられたらたちまち清水が湧き出て神々はその泉で身を清められた。
 泉は古来渇水の記録のない谷川の「ふろや」で今もなお清冽な水が滾々(こんこん)と湧き出ている。(この谷を清水谷という)
 大正時代まで山頂付近に、伊邪那美神を祭る社があり、現在は福田正八幡宮に合祀されている。昭和初期、弘法大師の熱心な信者により大師像と薬師地蔵などを寄進し八十八の札所が設けられた。母塚山(276m)は地方の神名備山として、人々の特別の関心を集めた山である。
            天津クラブ 看板より