金屋子神話民俗館

H16.7.2調査

 イザナミが住んでいたと思われる島根県広瀬町西比田殿ノ奥のすぐそばに金屋子神社があり、そのそばに民俗館がある。金屋子神話と古代史とのかかわりの調査のためにこの民俗館を訪問した。この日にはほかに客もなく、受付のおばさんにお茶やお菓子をご馳走になり、いろいろと話を伺った。大変ありがたかった。
 金屋子神は当初日向から着たのではないかと思っていたが、調査した結果、金屋子神の出雲への侵入経路は播磨→吉備中山→印賀→比田であることがわかった。「この経路は吉備津彦の侵入経路そのものではないか」と思った。明らかに日向からではなく大和からの進入のようである。大和朝廷が鉄資源確保のためにその技術者を出雲に派遣したのではあるまいか。その技術者が金屋子神ではないのか。金屋子神は一族75人とともにこの地にやってきて方々に炉をつくり鉄生産をしたそうである。また、金屋子神は西を主とする神だそうであり、日向出身を伺わせる。おそらく、大和朝廷の祖先を日向一族とする技術者で朝廷から派遣されたものであろう。金屋子神は鉄生産に必要な3条件(良質の砂鉄・木炭・炉を作る粘土)がそろっているこの地を選んでやってきたそうである。
 日向出身であるために出雲でも往古イザナミがいた地を訪れ、イザナミを祀り製鉄技術を広めたと思われる。奥出雲にイザナミ御陵が複数存在しているのもこの一族が作ったものであろう。その時期は倭の大乱の後であろう。近江の伊勢遺跡は倭の大乱後衰退しているが、ここに日向一族が住み着き、金属器生産を行っていたようであり、ここからやってきた可能性もある。
 金屋子神の正体がこのようなものであることがわかってくると、日向から来たイザナミのこの地での存在が怪しくなってくるのであるが、イザナミ御陵の御墓山に孝霊天皇が訪問したという伝承があることから、数多いイザナミ御陵の中でもこの御墓山は倭の大乱以前に存在したことになり、真実のイザナミ御陵であろう。

楽々布久神社 

H16.7.2調査


 孝霊天皇は出雲国進入後飯梨川に沿って進軍したと思われるが、それを裏付けるものに乏しかった。広瀬町石原に楽々布久神社があるということがある書物により判明したので、調査することにした。地図にて位置は確認したところ、安来平野の入り口にあり、安来出雲軍の拠点であると推定している能義神社周辺の丘陵地を襲撃するのに良い位置であると思われた。実際の状況を調査することにした。
 

    

 

 御墓山調査の後この神社の調査をした。その位置は足立美術館のすぐそばであった。この神社は丘陵地にあるがこの丘陵からは能義神社を望むことができなかった。能義神社までの距離は3kmほどであるが数百mほど北側にもうひとつの丘陵があり、この丘陵が邪魔していた。しかし、考えてみると、孝霊天皇は安来出雲軍に対する奇襲を考えていたわけであるから、能義神社から良く見える位置に布陣するとは考えられないと思った。その点を考慮すると、この位置は最良の位置といえる。
 北側の丘陵地からは能義神社が良く見える。

  

 写真の左側は北側の丘陵付近から見た能義神社の丘陵で丘陵の左端に能義神社がある。右の写真は能義神社の近くから見た北側の丘陵である。この丘陵の向こう側に楽々布久神社の丘陵が存在しているがまったく見えない。
 楽々布久神社の丘陵から能義神社付近までは飯梨川が通じており、昼間に進軍すると丘陵から丸見えであるため、孝霊天皇軍は深夜に陣を出発し、未明に安来出雲軍を奇襲攻撃したのではないだろうか。

黄泉津比良坂

H16.7.2調査

 黄泉津比良坂は孝霊天皇軍が出雲国聖域(八雲村)に進入後、出雲軍の攻撃に退却してきた場所でこの周辺で和の大乱の和平交渉を行ったと推定している。黄泉津比良坂は以前までの調査ではその入り口しかわからなかったが書物によって調べたところ、峠道であり、その道は現存しているとのことであった。この道を実際に通ってみようと思い調査することにした。
 楽々布久神社を出発し国道9号線方向に向けて進路をとった。途中で八雲村方面への分かれ道があった。孝霊天皇軍は安来出雲軍を奇襲攻撃したあと、この経路を通って聖域に侵入したのだろうと思った。黄泉津比良坂が目的地であったためにこの道は通らず、国道9号線に出た。しばらく走ると東出雲町揖屋付近に達した。左側に以前の調査で確認している黄泉津比良坂への案内板があった。この案内板に沿っていった場所からは目的の峠道がわからなかったので、東出雲町附谷にある伊賦夜坂の方から調査することにした。

 附谷にある団地のほうに進んでいくと左側に案内板がすぐに見つかった。「ここか」と思い、FJをそばに止めてこの道に入ろうとすると、かなり荒れていた。どうしても調査しなければと考えていたので、無理に入っていくと、それなりの登山道になった。荒れていたのは入り口だけであった。

  

 峠道はすぐに終わり反対側の黄泉津比良坂の駐車場に出た。

帰りに黄泉津比良坂と伊賦夜坂との境(峠の最高点)が上の写真である。黄泉津比良坂側から撮ったものである。この付近に巨大な岩があると聞いていたがその存在は確認できなかった。


この黄泉津比良坂から和の大乱激戦地である八雲村の剣神社周辺までのなだらかな経路があると推定した。国道9号線に出る前に見つけた八雲村方面への道がこの南を通っているはずである。その道を走ってみることにした。

なだらかな丘陵を抜ける道で県道53号線と書いてあった。古代においてこの経路に道があったと考えることができる。しばらく走ると剣神社が見えてきた。

写真の丘陵の上に剣神社がある。この周辺が倭の大乱激戦地であると推定している。

黄泉津比良坂の神蹟においてあった比良坂神蹟保存会編「黄泉津比良坂物語」によると、大昔のこの周辺の道の経路が示されていた。まず、西へ向かうと付谷から山越えして五反田、そこから勝負を越して須田方面に向かうと記録されていた。須田から峠ひとつ超えれば八雲村東岩坂であり、倭の大乱激戦地である。また、東へ向かえば、中意東磐坂から、馬場に出て雉子谷を超えて高丸から安来市の岩舟方面に通じると記録されている。この岩船のすぐ南には楽々布久神社がある広瀬町石原である。
 孝霊天皇軍が楽々布久神社から出雲聖域の八雲村に進軍した経路はまさにこれであろう。まとめると次のコースである。

広瀬町石原(楽々布久神社)→岩舟→高丸→馬場→中意磐坂→黄泉津比良坂→付谷→五反田→勝負→須田→八雲村東岩坂

である。

 出雲軍に追われて退却した経路はこの逆である。

また、「黄泉津比良坂物語」にはイザナギを黄泉津比良坂の坂本で助けた桃の実の神オホカムヅミ命は黄泉津比良坂東方の山上にある荒神森と推定している。この地は現在平賀と呼ばれており字に坂本も残っている。この地に孝霊天皇がオホカムヅミ命を将とする軍を控えさせていたのではあるまいか。孝霊天皇軍が退却してきたとき、オホカムヅミ軍によって追っ手を食い止めることができ、この地で対陣することになったものと推定する。


吉備津彦進入経路

H16.7.2調査


 出雲調査からの帰りに仁多から三刀屋町粟谷までの吉備津彦の進入推定経路を走行してみて、地形の確認をすることにした。

吉備津彦の進入経路は飯石神社の記録にある往古吉備津彦が祭られていた神社のあった七ヶ村を地図上に書き込むことにより三成(仁多)→上山→曾木→深野→川手→神代→六重→中野→粟谷と推定している。実際にこの経路を走ってみると何箇所かの短区間を除き、なだらかな丘陵地を抜ける道であった。この経路なら古代において軍を進めることは難しくないと思った。
 難点は湯村から先である。当初川手のほうに進み、そこから大宝を通って神代へ抜ける経路を考えていたが、この道は古代としてはあまりにも険しいように思えた。出雲軍の意表をつくためにわざと険しい道を選んだことも考えられるが、やはり不自然である。湯村から直接神代まで通過したほうが良いと思える。この経路には現在歩道がある。草ぼうぼうで、この道を歩いてみることはできなかったが、進軍は可能であると判断した。下の写真はその道で神代側から撮影したものである。

この道を上りきったところの最高点付近に神代神社(祭神 国常立神=「アマテラス」によるとニギハヤヒ)が存在している。

川手村がこの経路から少し外れているように思えた。湯村から川手に向かっているときにヤマタノオロチ伝説地である。「天が淵」があった。素盞嗚尊とヤマタノオロチが戦ったといわれている場所である。ここに立ったとき、ふとある考えが浮かんだ。
 吉備津彦軍は出雲軍に対しては秘密の進軍だったのではないか、川手までは見つからずに来ていたが、この天が淵を通過するとき、出雲軍の小部隊と鉢合わせをした。そこで、戦闘が起こって出雲軍は本隊に報告のため退散した。吉備津彦はこのまま斐伊川を下れば出雲軍本隊と正面衝突になるであろうと判断し、湯村まで引き返し、そこから峠越えで神代に抜け、飯石川沿いに川を下ることになったのではあるまいか。
 この考えに対しての確証はないのであるがそのように思えるのである。
 左はその天が淵の写真である。

 



H16.09.11 調査

 吉備津彦が阿毘縁の関を破って出雲に侵入した後仁多町三成以降の経路は神社伝承から判明していたがそれまでの経路がわからなかった。古代のことであり、さらに大軍を引き連れての進軍であるから険しいところは通らないであろうと思われる。当初国道314(斐伊川)に沿うと思っていたのであるが、横田から三成までは思っていた以上に険しく古代にここを通るのは難しいと思えた。また、神社伝承にある三成以降の進軍経路も三成よりかなり南側であった。吉備津彦は本当に三成を通ったのだろうか?という疑問も起こった。地図をよく見てみると、横田町古市から西へ抜ける道があったので通ってみた。写真を撮るのを忘れてしまったが、この経路は穏やかな平坦地を抜ける経路であり、古代に大軍が進軍することは十分にできると思われた。それによると三成はやはり通らなかったことになる。今回推定した吉備津彦進軍経路は次のようなものである。
 阿毘縁→万才峠→鳥上→稲田→古市→大谷→高尾→下阿井→曾木→上山→深野→川手→神代→六重→中野→粟谷
川手から神代までの区間以外はかなりなだらかなコースである。
 吉備津彦が粟谷に陣を張ったとしたら、出雲振根との激戦地は三刀屋川が斐伊川と合流する木次町里方あたりと推定される。出雲振根の終焉の地はこの周辺ではないか、ひょっとしたら里方にあるヤマタノオロチを退治したという八本杉ではないかと推定し、八本杉を改めて調査することにした。

菊理神社

 祭神 菊理姫命(ククリヒメ)
菊理姫命は黄泉津比良坂でイザナギとイザナミが喧嘩別れするとき、仲を取り持った神であるとされている。古代史の復元において倭の大乱を収拾した倭迹迹日百襲姫と完全に重なる。倭迹迹日百襲姫=菊理姫と考えている。彼女を主祭神として祀る神社が、この菊理神社で、安来市黒井田にある。菊理姫がここに滞在していたという伝承がある。ここから黄泉津比良坂まで約10kmである。倭迹迹日百襲姫が讃岐から呼び出されて、ここに滞在し、黄泉津比良坂での和平交渉を行なったものと考えている。

大神山神社

 祭神 大国主命
 大神山神社は昔「おおみわのやまのやしろ」と呼ばれていたそうである。大神山とは大山の旧名である。国引きが行なわれたとき大山山頂で神事が行なわれたとの伝承がある。厳密な確認はしていないが、現在の里宮は大山山頂から立春の日に太陽が昇ってくるのを見ることができる線上に存在している。旧宮跡といわれている岸本町丸山も同じ線上にある。この神社の創始の地は不明であるが、倭迹迹日百襲姫が卑弥呼として即位した地ではないかと推定している。卑弥呼(大物主の妻)に就任するには三輪山が必要であるが、大山を三輪山と見立てたのではないだろうか?

山田神社

 祭神 大倭根子彦太瓊命(孝霊天皇)
 山田神社は溝口町宮原の楽楽福神社の地より5kmほど山奥(栃原)にある。孝霊天皇が活躍するにはあまりに山奥である。山田神社では孝霊天皇のことを元天皇と号している。倭の大乱の和平条件の一つに孝霊天皇の退位があり、そのために退位した天皇がしばらく滞在していた地ではないだろうか。

稲田神社

稲田姫誕生地の石碑 拝殿

 祭神 稲田姫命
 横田町稲田にあり、稲田姫の生誕地と伝えられており、稲田姫誕生地の石碑もある。しかし、この地はヤマタノオロチ退治前の素盞嗚尊命の行動範囲の外にあり、ここの稲田姫は、倭の大乱のとき、阿毘縁の関を破って鳥髪に侵入した弟稚武彦(素盞嗚尊)の妻になった女性ではあるまいか。そのほうが自然な流れとなる。

御代神社

 祭神 素盞嗚尊
 ヤマタノオロチが毒酒を飲まされてのた打ち回った後、草枕山を頭に、この地に尾を横たえたと伝える。それにより尾留大明神とも言い伝えられている。素盞嗚尊はこの地で尾を切り、ここより500mほど西の旧社地は草薙剣が出現した地と伝えている。出雲振根軍が吉備津彦軍と激戦を展開し、振根軍が壊滅した場所と推定している。(孝霊73年=185年)

八口神社

草枕山(山麓に出雲振根御陵がある) 八口神社

 祭神 素盞嗚尊
 ヤマタノオロチが草枕山を頭に横たえたとき、素盞嗚尊命が頭を切ったところと伝えている。出雲振根が吉備津彦に追い詰められ自害したところと推定している。

すくも塚

 飯入根命御陵
 神原郷神原神社すぐそばの赤川沿いにあり、この前の川で振根によって殺害されたと伝えられている。

石井谷

 吉備津彦初敗北の地
 大国主命が八十神を討伐した地と伝えられている。同時に吉備津彦がこの地で神事を行なったとも伝えられている。出雲振根を懲罰した勢いを借りて、出雲聖域目指して進軍してきた弟稚武彦軍を大国主命(第15代出雲国王トオツヤマサキタラシと思われる)が撃退した地と推定している。

石上神社

石上神社 塩津漁港

 祭神 布都御魂命
平田市塩津にあり、元宇美神社と伝えられている。素盞嗚尊の父布都御魂命を祀っている。塩津は漁港であるが絶壁に囲まれた大変狭い地である。この地に由緒深い古社があるのは通常考えにくい。布都が朝鮮半島から最初に上陸したのがこの地ではあるまいか。陸伝いにこの地に来るのは当時としてはほとんど不可能に近いと思われる。海上から上陸するしかなかったであろう。この地で産気づいた素盞嗚尊の母が素盞嗚尊を産んだと推定するのであるが・・・。しばらく後ここから、海沿いに河下湾のほうに上陸したのではないだろうか。

郡神社

郡神社 弟稚武彦御陵

 祭神 吉備稚武彦
 吉備津彦の弟(弟稚武彦)がこの地でなくなったので、神社に祀ったと言い伝えられている。すぐ近くに彼の御陵がある。

 久武神社

久武神社 素盞嗚尊と稲田姫の宮が在った所

 祭神 素盞嗚尊
 斐川町出西にあり素盞嗚尊命の若年時の宮跡と伝えている。ヤマタノオロチの横恋慕があったとき素盞嗚尊は稲田姫を300m西の稲城の森に匿い、ヤマタノオロチを退治に出発した。オロチ退治後稲城の森に宮を造り「八雲立つ 出雲八重垣 妻込めに 八重垣作る その八重垣を」の歌を読んだと伝えられている。
 ここが出雲国発祥の地であり、出雲郡、出雲郷とはこの地である。
 素盞嗚尊は若年時この周辺に住んでいたと思われる。一目ぼれした稲田姫をヤマタノオロチの横恋慕から救うために木次のオロチ屋敷(八本杉)でオロチを退治した。素盞嗚尊は稲田姫とともに逃避行して一時ここに隠れていたが、危険を感じ松江市の八重垣神社のほうに避難したと推定している。