孝霊天皇と皇子
孝霊天皇の皇后と皇子たちは以下のように伝えられている。
皇后:細媛命(くわしひめ。磯城県主大目の女)
細姫は孝霊天皇即位2年に皇后に決定され、大日本根子彦国牽尊(おおやまとねこひこくにくるのみこと、孝元天皇)を産んだとされる。しかし、古代史の復元では孝元天皇は雀部臣の系統としているので、孝元天皇の母ではないことになる。
伯耆国に伝わる伝承では細姫は孝霊天皇と共に鳥取県の菅福の地にやってきて福姫を産んだ、福姫が15歳になった時目のけがで亡くなり、孝霊71年に宮内の地で110歳で亡くなり、崩御山に葬られたと伝えられている。
福姫誕生を亡くなった年齢から逆算すると孝霊56年となる。細姫は磯城県主大目の女とされているので大和の人間である。孝霊天皇が大和にいる時に孝霊天皇と結婚して、共に伯耆国を訪問したと解釈される。
孝霊天皇は孝霊45年に伯耆国を訪問し、この時は伯耆国の朝妻姫を妻としているので、細姫と結婚したのはこの後と解釈してよいであろう。
妃:春日之千千速真若比売(かすがのちちはやまわかひめ、春日千乳早山香媛)
皇女:千千速比売命(ちちはやひめのみこと。『古事記』のみ)
┌─大目─────細姫命─┐ 事代主命──鴨主命──豊秋狭太彦──五十坂彦┤ │ └─五十坂媛┐ ├───福姫 ├──孝霊天皇┘ 神武天皇─綏靖天皇───孝昭天皇──孝安天皇┘ |
妃:倭国香媛(やまとのくにかひめ、?某姉、蠅伊呂泥、意富夜麻登玖邇阿礼比売命。和知都美命の女)
古事記にては、第3代安寧天皇の子の3番目の子、師木津日子命 に二王が居て、その内の一人和知都美命が淡道之御井宮にいた。とされている。そして、その和知都美命の子に倭国香媛と妹の蝿伊呂杼が居て、どちらも第7代孝霊天皇の妃になっている。
皇女:倭迹迹日百襲媛命。のちの卑弥呼。孝霊39年(167年)生誕
皇子:日子刺肩別命。『古事記』のみ)
皇子:彦五十狭芹彦命。吉備津彦命。卑弥呼の男弟。生誕はAD200年以降で母は別人と思われる。
皇女:倭迹迹稚屋姫命(倭飛羽矢若屋比売)
妃:?某弟(はえいろど、?某姉の妹、蠅伊呂杼)
?某弟は
皇子:彦狭島命(ひこさしまのみこと、日子寤間命)
皇子:稚武彦命(わかたけひこのみこと) 吉備氏の祖。
の二人の吉備津彦と呼ばれる人物を産んでいる。古事記に記されている吉備津彦兄弟(稚武彦・弟稚武彦と思われる。吉備津彦が活躍するのは、孝安天皇が崩御し孝霊天皇が即位した直後と考えられるので孝霊61年頃のことで孝霊天皇が現年齢計算で30歳ごろのことである。吉備津彦の活躍ぶりから考えてこの両者は成人していると思われ、少なくとも現年齢で15歳以上にはなっていると推定される。この二人が孝霊天皇の皇子だと考えるには孝霊天皇との年齢差が少なすぎる。
このようなことからこの2皇子は兄の大吉備諸進命の子と考える。?某弟は大吉備諸進命の妃であろう。倭国香媛と蝿伊呂杼は姉妹であるが、結婚相手の年齢から、姉と妹が逆ではないかと思われる。
┏━━━天忍人━━━━天登目建登米━━建宇那比━━━建諸隅━━━━倭得魂彦 素盞嗚尊━━天火明┓ ┏━天村雲━┫ (饒速日尊)┣━天香語山━┫ ┗━━━天忍男━━┓ 高皇産霊神━天道媛┛ ┗━高倉下 ┃ ┣━世襲足姫┓ ┏━剣根命━━━━━賀奈良知姫┛ ┣━━孝安天皇┓ ┏大吉備諸進命━┓┏彦狭島命 大山祇命━━鴨建角身━玉依彦━━┫ ┃ ┣━┫ ┣┫ ┗━天日方奇日方命━豊秋狭太彦━五十坂彦━━━━五十坂媛┛┏┃━蝿伊呂杼━━┛┗稚武彦命 ┃ ┃┃ ┏━綏靖天皇━━━孝昭天皇┛ ┃┗━孝霊天皇━━┓┏倭迹迹日百襲媛命 神武天皇━━┫ ┃ ┣┫ (卑弥呼) ┗━安寧天皇━━━師木津彦━━和知都美命━┻━━倭国香媛━━┛┣日子刺肩別命 ┃ ┗倭迹迹稚屋姫命 |
朝妻姫と鶯王
朝妻姫は孝霊天皇が伯耆国にやってきた孝霊45年に現地妻とし、二人の間に鶯王が生まれた。その後孝霊天皇は大和に帰還し、鬼住山の戦いで鶯王が戦死している。鶯王は鬼住山の戦いの総大将として布陣している。総大将として出陣する以上は鶯王は成人していると思われる。孝霊47年に誕生したとすれば、現年齢15歳になるのは孝霊75年となるが、この時は倭の大乱が終結しているので、最後の戦いのあった孝霊73年が、鬼住山の戦いのあった年であろう。
五十狭芹彦命
五十狭芹彦命は記紀と神社伝承で数多くの矛盾点が存在している。記紀ではおおむね以下のように伝えられている。
大和の黒田庵戸宮に生まれ、崇神天皇10年、勅命により四道将軍の1人として西道に派遣されたが、任地に赴く途上で武埴安彦命(孝元天皇の皇子)の反乱に遭遇、これを大彦命(孝元天皇皇子)とともに制圧してから西道に赴き、同天皇11年に異母弟の雅武彦命(若建吉備津日子命)とともに吉備国を始め山陽道に沿う周辺域を平定、この事によって「吉備津彦」を名乗る事になった。また、同天皇60年には武渟川別とともに出雲国へ出征して出雲振根を誅滅している。<記紀伝承>
五十狭芹彦命は吉備の中山の麓に茅葺宮を造って住み、崇神60年、281歳で亡くなって中山の山頂(茶臼山)に葬られたとされている。この中山茶臼山古墳は土地の人々には「御陵」や「御廟」とも呼ばれている。<吉備津神社社伝>
五十狭芹彦命の御陵は中山茶臼山古墳であり、崇神天皇の二分の一サイズの相似形の御陵である。このことから、崇神天皇の没年と五十狭芹彦命の没年は近い時期と考えられ、崇神60年(AD274)没は確かであろう。
この年齢をそのまま信じて日本書紀の年代で逆算すると、崇神60年は皇紀623年、281年遡ると生誕は皇紀343年(孝安天皇75年=AD160年=孝霊25年)となる。この生誕年は、まさに、大吉備諸進命の王子彦狭島命(吉備津彦)の生誕年と考えられる。
彦狭島命と五十狭芹彦命が同一人物なら現年齢で114年生きたことになり、如何にも長すぎる。孝霊天皇は184年に退位して以降200年頃まで、広島県府中市南宮神社の地で隠棲生活をしていたようなので、その晩年に生誕したものと考えられる。AD200年頃の生誕であろう。
孝元天皇
孝元天皇は孝霊天皇と細姫の子となっているが、雀部家に伝わる伝承では、神八井耳命の子孫である武恵賀前命の御子が第八代の孝元天皇だという。原田氏は実際にこの子孫に面接して聞き出している。雀部家の記録は、持統天皇が記紀を編纂するに当たって没収されたそうである。他に春日臣、安部氏、穂積氏等十六家の系図が没収の憂き目にあっているらしい。記紀編纂時、不都合な事は隠蔽してしまおうとしたのであろう。
雀部家系図 神武天皇──神八井耳──武宇都彦──武速前──敷桁彦┌─武五百建 神武天皇──神八井耳──武宇都彦──武速前──敷桁彦┼─健磐龍命 神武天皇──神八井耳──武宇都彦──武速前──敷桁彦└─武恵賀前──孝元天皇 神武天皇──神八井耳──武宇都彦──武速前──敷桁彦──(崇神朝) |
この系図には矛盾がいくつかある。健磐龍命は神八井耳命の子で神武天皇の孫である。武恵賀前が崇神朝の頃の人物であることははっきりしているので、孝元天皇の父が武恵賀前であることはあり得ないことである。
ところが、愛知県犬山市の大縣神社には武恵賀前命は神八井耳命の孫とされている。この神社の伝承の通りならば、年代的に一致する。しかし、武恵賀前命が崇神朝の人物であることは他の資料からも明らかなので、ここでは、孝元天皇の父の武恵賀前命は武速前の間違いであるとする。名前もよく似ていたので誤って伝えられたのであろう。あるいは、孝元天皇の兄にあたる敷桁彦命は彦恵賀前の別名を持っており、彦英賀前の弟が子に誤って伝えられたのかもしれない。
雀部家推定系図 ┏━速瓶玉━━志貴多奈彦━━建緒組命(火国造) (彦八井)┏━健磐龍命┫ ┏神八井耳┫ ┗━健稲背━━健甕富命(金刺氏) ┃ ┃ ┃ ┃ (彦恵賀前)┏━武五百建(科野国造) ┃ ┃ ┏━敷桁彦命━┫ ┃ ┗━武宇都彦━━武速前┫ ┗━武恵賀前━━建借馬(多氏) 神武天皇━┫ ┃ ┃ ┗━孝元天皇━━━開化天皇━━崇神天皇 ┃ ┣綏靖天皇━━孝昭天皇━━孝安天皇━孝霊天皇━━━倭迹迹日百襲媛命 ┃ (卑弥呼) ┣安寧天皇 ┃ ┗懿徳天皇 |
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