半年一年暦の干支

 半年一年暦西暦対応表

番号 応神朝以前 仁徳朝以降
中国暦 半年一年暦 西暦 中国暦 半年一年暦 西暦
1 辛酉 丁丑 戊寅 1 61 121 181 241 301 361 辛酉 辛酉 壬戌 421 481 541 601 661
2 壬戌 己卯 庚辰 2 62 122 182 242 302 362 壬戌 癸亥 甲子 422 482 542 602 662
3 癸亥 辛巳 壬午 3 63 123 183 243 303 363 癸亥 乙丑 丙寅 423 483 543 603 663
4 甲子 癸未 甲申 4 64 124 184 244 304 364 甲子 丁卯 戊辰 424 484 544 604 664
5 乙丑 乙酉 丙戌 5 65 125 185 245 305 365 乙丑 己巳 庚午 425 485 545 605 665
6 丙寅 丁亥 戊子 6 66 126 186 246 306 366 丙寅 辛未 壬申 426 486 546 606 666
7 丁卯 己丑 庚寅 7 67 127 187 247 307 367 丁卯 癸酉 甲戌 427 487 547 607 667
8 戊辰 辛卯 壬辰 8 68 128 188 248 308 368 戊辰 乙亥 丙子 428 488 548 608 668
9 己巳 癸巳 甲午 9 69 129 189 249 309 369 己巳 丁丑 戊寅 429 489 549 609 669
10 庚午 乙未 丙申 10 70 130 190 250 310 370 庚午 己卯 庚辰 430 490 550 610 670
11 辛未 丁酉 戊戌 11 71 131 191 251 311 371 辛未 辛巳 壬午 431 491 551 611 671
12 壬申 己亥 庚子 12 72 132 192 252 312 372 壬申 癸未 甲申 432 492 552 612 672
13 癸酉 辛丑 壬寅 13 73 133 193 253 313 373 癸酉 乙酉 丙戌 433 493 553 613 673
14 甲戌 癸卯 甲辰 14 74 134 194 254 314 374 甲戌 丁亥 戊子 434 494 554 614 674
15 乙亥 乙巳 丙午 15 75 135 195 255 315 375 乙亥 己丑 庚寅 435 495 555 615 675
16 丙子 丁未 戊申 16 76 136 196 256 316 376 丙子 辛卯 壬辰 436 496 556 616 676
17 丁丑 己酉 庚戌 17 77 137 197 257 317 377 丁丑 癸巳 甲午 437 497 557 617 677
18 戊寅 辛亥 壬子 18 78 138 198 258 318 378 戊寅 乙未 丙申 438 498 558 618 678
19 己卯 癸丑 甲寅 19 79 139 199 259 319 379 己卯 丁酉 戊戌 439 499 559 619 679
20 庚辰 乙卯 丙辰 20 80 140 200 260 320 380 庚辰 己亥 庚子 440 500 560 620 680
21 辛巳 丁巳 戊午 21 81 141 201 261 321 381 辛巳 辛丑 壬寅 441 501 561 621 681
22 壬午 己未 庚申 22 82 142 202 262 322 382 壬午 癸卯 甲辰 442 502 562 622 682
23 癸未 辛酉 壬戌 23 83 143 203 263 323 383 癸未 乙巳 丙午 443 503 563 623 683
24 甲申 癸亥 甲子 24 84 144 204 264 324 384 甲申 丁未 戊申 444 504 564 624 684
25 乙酉 乙丑 丙寅 25 85 145 205 265 325 385 乙酉 己酉 庚戌 445 505 565 625 685
26 丙戌 丁卯 戊辰 26 86 146 206 266 326 386 丙戌 辛亥 壬子 446 506 566 626 686
27 丁亥 己巳 庚午 27 87 147 207 267 327 387 丁亥 癸丑 甲寅 447 507 567 627 687
28 戊子 辛未 壬申 28 88 148 208 268 328 388 戊子 乙卯 丙辰 448 508 568 628 688
29 己丑 癸酉 甲戌 29 89 149 209 269 329 389 己丑 丁巳 戊午 449 509 569 629 689
30 庚寅 乙亥 丙子 30 90 150 210 270 330 390 庚寅 己未 庚申 450 510 570 630 690
31 辛卯 丁丑 戊寅 31 91 151 211 271 331 391 辛卯 辛酉 壬戌 451 511 571 631 691
32 壬辰 己卯 庚辰 32 92 152 212 272 332 392 壬辰 癸亥 甲子 452 512 572 632 692
33 癸巳 辛巳 壬午 33 93 153 213 273 333 393 癸巳 乙丑 丙寅 453 513 573 633 693
34 甲午 癸未 甲申 34 94 154 214 274 334 394 甲午 丁卯 戊辰 454 514 574 634 694
35 乙未 乙酉 丙戌 35 95 155 215 275 335 395 乙未 己巳 庚午 455 515 575 635 695
36 丙申 丁亥 戊子 36 96 156 216 276 336 396 丙申 辛未 壬申 456 516 576 636 696
37 丁酉 己丑 庚寅 37 97 157 217 277 337 丁酉 癸酉 甲戌 397 457 517 577 637 697
38 戊戌 辛卯 壬辰 38 98 158 218 278 338 戊戌 乙亥 丙子 398 458 518 578 638 698
39 己亥 癸巳 甲午 39 99 159 219 279 339 己亥 丁丑 戊寅 399 459 519 579 639 699
40 庚子 乙未 丙申 40 100 160 220 280 340 庚子 己卯 庚辰 400 460 520 580 640 700
41 辛丑 丁酉 戊戌 41 101 161 221 281 341 辛丑 辛巳 壬午 401 461 521 581 641 701
42 壬寅 己亥 庚子 42 102 162 222 282 342 壬寅 癸未 甲申 402 462 522 582 642 702
43 癸卯 辛丑 壬寅 43 103 163 223 283 343 癸卯 乙酉 丙戌 403 463 523 583 643 703
44 甲辰 癸卯 甲辰 44 104 164 224 284 344 甲辰 丁亥 戊子 404 464 524 584 644 704
45 乙巳 乙巳 丙午 45 105 165 225 285 345 乙巳 己丑 庚寅 405 465 525 585 645 705
46 丙午 丁未 戊申 46 106 166 226 286 346 丙午 辛卯 壬辰 406 466 526 586 646 706
47 丁未 己酉 庚戌 47 107 167 227 287 347 丁未 癸巳 甲午 407 467 527 587 647 707
48 戊申 辛亥 壬子 48 108 168 228 288 348 戊申 乙未 丙申 408 468 528 588 648 708
49 己酉 癸丑 甲寅 49 109 169 229 289 349 己酉 丁酉 戊戌 409 469 529 589 649 709
50 庚戌 乙卯 丙辰 50 110 170 230 290 350 庚戌 己亥 庚子 410 470 530 590 650 710
51 辛亥 丁巳 戊午 51 111 171 231 291 351 辛亥 辛丑 壬寅 411 471 531 591 651 711
52 壬子 己未 庚申 52 112 172 232 292 352 壬子 癸卯 甲辰 412 472 532 592 652 712
53 癸丑 辛酉 壬戌 53 113 173 233 293 353 癸丑 乙巳 丙午 413 473 533 593 653 713
54 甲寅 癸亥 甲子 54 114 174 234 294 354 甲寅 丁未 戊申 414 474 534 594 654 714
55 乙卯 乙丑 丙寅 55 115 175 235 295 355 乙卯 己酉 庚戌 415 475 535 595 655 715
56 丙辰 丁卯 戊辰 56 116 176 236 296 356 丙辰 辛亥 壬子 416 476 536 596 656 716
57 丁巳 己巳 庚午 57 117 177 237 297 357 丁巳 癸丑 甲寅 417 477 537 597 657 717
58 戊午 辛未 壬申 58 118 178 238 298 358 戊午 乙卯 丙辰 418 478 538 598 658 718
59 己未 癸酉 甲戌 59 119 179 239 299 359 己未 丁巳 戊午 419 479 539 599 659 719
60 庚申 乙亥 丙子 60 120 180 240 300 360 庚申 己未 庚申 420 480 540 600 660 720

 歴代天皇の崩年干支照合

書紀 古代史の復元 書紀 古事記 古代史の復元
即位 西暦 中国暦 旧半年暦 新半年暦 崩御 崩御 西暦 中国暦 旧半年暦 新半年暦
1 神武天皇 辛酉 83 癸未 辛酉 壬戌 丙子 120 庚申 乙亥 丙子
2 綏靖天皇 庚辰 101 辛丑 丁酉 戊戌 壬子
3 安寧天皇 癸丑 104 甲辰 癸卯 甲辰 庚寅
4 懿徳天皇 辛卯 106 丙午 丁未 戊申 甲子
5 孝昭天皇 丙寅 117 丁巳 己巳 庚午 戊子
6 孝安天皇 己丑 144 甲申 癸亥 甲子 庚午 177 丁巳 己巳 庚午
7 孝霊天皇 辛未 178 戊午 辛未 壬申 丙戌 185 乙丑 乙酉 丙戌
8 孝元天皇 丁亥 186 丙寅 丁亥 戊子 癸未 214 甲午 癸未 甲申
9 開化天皇 甲申 214 甲午 癸未 甲申 癸未 244 甲子 癸未 甲申
10 崇神天皇 甲申 244 甲子 癸未 甲申 辛卯 戊寅 278 戊戌 辛卯 壬辰 戊寅を半年一年暦の干支と考えた時の中国暦による干支が辛卯
11 垂仁天皇 壬辰 278 戊戌 辛卯 壬辰 庚午 297 丁巳 己巳 庚午
12 景行天皇 辛未 298 戊午 辛未 壬申 庚午 324 甲申 癸亥 甲子
13 成務天皇 辛未 325 乙酉 乙丑 丙寅 庚午 乙卯 327 丁亥 己巳 庚午 乙卯と庚午は15年ずれ
14 仲哀天皇 壬申 328 戊子 辛未 壬申 庚辰 壬戌 332 壬辰 己卯 庚辰 庚辰を半年一年暦とした時の中国暦壬戌
神功皇后 辛巳 333 癸巳 辛巳 壬午 己丑 389 己丑 癸酉 甲戌
15 応神天皇 庚寅 367 丁卯 己丑 庚寅 庚午 甲午 394 甲午 癸未 甲申 庚午と甲午は24年ずれ
16 仁徳天皇 癸酉 397 丁酉 己丑 庚寅 癸酉 甲戌 己亥 丁卯 427 丁卯 己丑 庚寅 癸酉 甲戌 己亥と丁卯は28年ずれ
17 履中天皇 庚子 427 丁卯 己丑 庚寅 癸酉 甲戌 乙巳 壬申 432 壬申 己亥 庚子 癸未 甲申 乙巳と壬申は27年ずれ
18 反正天皇 丙午 433 丙午 辛丑 壬寅 乙酉 丙戌 庚戌 丁丑 437 丁丑 己酉 庚戌 癸巳 甲午 庚戌と丁丑は27年ずれ
19 允恭天皇 壬子 438 戊寅 辛亥 壬子 乙未 丙申 癸巳 甲午 459 己亥 癸巳 甲午 丁丑 戊寅 癸巳と己亥は6年ずれ
20 安康天皇 甲午 460 庚子 己卯 庚辰 丙申 462 壬寅 癸未 甲申 丙申と壬寅は6年ずれ
21 雄略天皇 丁酉 463 癸卯 乙酉 丙戌 己未 己巳 485 乙丑 己巳 庚午 己未と乙丑は6年ずれ
22 清寧天皇 庚申 486 丙寅 辛未 壬申 甲子 490 庚午 己卯 庚辰 甲子と庚午は6年ずれ
23 顕宗天皇 乙丑 491 辛未 辛巳 壬午 丁卯 493 癸酉 乙酉 丙戌 丁卯と癸酉は6年ずれ
24 仁賢天皇 戊辰 494 甲戌 丁亥 戊子 戊寅 501 辛巳 辛丑 壬寅 戊寅と辛巳は3年ずれ
25 武烈天皇 己卯 502 壬午 癸卯 甲辰 丙戌 509 己丑 丁巳 戊午 丙戌と己丑は3年ずれ
26 継体天皇 丁亥 510 庚寅 己未 庚申 辛亥 丁未 534 甲寅 丁未 戊申 辛亥と甲寅は3年ずれ
27 安閑天皇 甲寅 534 甲寅 丁未 戊申 乙卯 乙卯 535 乙卯 己酉 庚戌 ずれなし
28 宣化天皇 丙辰 536 丙辰 辛亥 壬子 己未 539 己未 丁巳 戊午 ずれなし
29 欽明天皇 庚申 540 庚申 己未 庚申 辛卯 571 辛卯 辛酉 壬戌 ずれなし

 神武天皇即位紀年干支辛酉について

 日本書紀で干支が始まるのは神武天皇からである。干支は古代中国に於いて数字代わりに使われていたもので、日本に入ってきても数字代わりに使われていたものと考えられる。辛酉は易姓革命がおこりやすいといわれ、神武天皇即位年は新王朝ができた年なので辛酉とされているが、これは偶然か、必然かどちらであろうか。偶然におこる確率は60分の一なので、やはり故意に辛酉とされたと考える方がよいであろう。

 次に、後世の人が辛酉にしたのか、当時の人が辛酉にしたのかが問題である。後世の人が決めたとするとどこかに矛盾が出てくるはずで、古代史が神社伝承や考古学的事実などと大変スムーズににつながっていることから、これは考えにくい。やはり、当時の人が神武天皇即位年を辛酉に決めたと考えるべきであろう。

 日本書紀では神武天皇即位年を紀元として年数を数えている。日本では神武天皇即位年から年を数えるようにしたのであろう。AD57年に中国人が倭国を訪問しており、漢委奴国王の金印と共に干支を伝えている可能性が考えられる。この頃より、年を試行的に数えているのではないかと思われる。日子穂穂出見尊は高千穂宮に580年滞在したとされている。どのような計算でこのようになるのかは不明であるが、干支による年数計算の始まりのようなものであろうか。

 神武天皇が即位したAD83年を始まりとして干支で年を数えるようにしたのであろう。代々語り部にその年にあったことを記憶させ、何かの儀式のときにその語り部に語らせておけば、文字がなくても代々正しく伝わるであろう。現在でも少数民族は自らの歴史を踊りの形で継承している例が多い。神武天皇即位は未来永劫日本列島をまとめようという意識で行われているので、その歴史経過を後世に伝えようという意識があったとみるべきである。そのために新しく語り部と呼ばれる職を作り、役人を任命し、代々受け継がせたと考えられる。

 日本書紀においては神武天皇即位後急激に記録が詳細化している。このことが語り部の存在をうかがわせている。語り部は役職として、その時代にあったことを干支を使って正しく伝えていたが、後の時代の都合によって書き換えられた部分があるのであろう。そのために、日本書紀の年代が考古学的事実や中国史書と合わなくなっているのである。

 ところが、古代日本の紀年が半年一年暦であるとし、部分的な修正をすれば、外国書籍や考古学的事実と一致することがわかった。

 当時の倭国は中国と違い半年で1年と数えていたので、干支も半年で変わるようになった。半年一年暦による干支で、さまざまな事象とかなり正確に一致している。

 日本書紀の年代計算手法

 この半年一年干支は、海外との交流が盛んになるにつれて、中国干支に合わせないと色々不都合なことが起こるようになり、神功皇后の時代のAD345年半年一年干支と、中国干支が一致する(共に乙巳)年を機会として、半年一年干支を中国干支に切り替えたのである。

 しかしながら、半年一年の数え方はそのまま継続されていた。さらに仁徳天皇が中国暦を嫌ったために再び半年一年暦に戻した。その時の基準をAD421年の辛酉としたために、旧半年一年暦の干支と16年のずれを生じてしまった。その結果、この時代には旧半年一年暦の干支と、新半年一年暦の干支と、中国暦の干支と3つの干支が入り乱れることとなり、日本書紀の年代計算が複雑化することになった。

 仁徳天皇は旧半年一年暦の干支を過去にさかのぼって新半年一年暦の干支に変更させた。その時に、成務天皇の没年と仲哀天皇の即位年との間の空位年を一年つけ忘れたために、成務天皇以前の旧干支と新干支との間に15年のずれが生じることとなった。

 成務天皇以前の日本書紀の記事の中には旧干支と新干支が混在しており、同様の記事が15年ずれて記録されている。仲哀天皇以降は新干支と旧干支のずれは16年である。 

 日本書紀では神功皇后を意図的に卑弥呼の時代に重ねようとした形跡がうかがわれる。そのために、神功皇后の干支を同じ干支で120年遡らせている。この改ざんを実行するには崇神天皇と神功皇后の間に120年追加し、同様に神功皇后以降にも120年追加しなければならなくなる。神功皇后以前の年数追加は干支がずれない工夫をして単純に年数追加をしているが、神功皇后以降は新干支・旧干支・中国暦の干支が混在する中で120年追加しているために、大変複雑な改ざんがなされている。

 第二代綏靖天皇から、第4代懿徳天皇まで

 この間の天皇は神武天皇存命中に即位しているようである。兄弟相続であったものが父子相続として日本書紀に記録されてしまったために、古代史の復元と日本書紀の干支が一致しない。各天皇の崩御時の年齢と干支が伝わっていたと思われるが、日本書紀編纂時に干支が変更されてしまったものと考えている。

 この3天皇の在位年数が33年、38年、34年とかなり近いものがある。また、半年一年暦なので、この年代は17年、19年、17年となる。連続3天皇の在位年数にしては数字がそろいすぎているので、この年数は即位時の年齢ではないかと推定する。実際、この3天皇の在位年数だとしても、宝算としても次の孝昭天皇に上手くつながらない。 また、古事記の宝算を退位時の年齢とすれば、孝昭天皇以降の年代とスムーズにつながることになる。神皇紀や津軽外三郡誌、ホツマツタエにこの時期の出来事が記録されているが、その紀年がばらばらである。ところが、このような記年を使うと、似たような事件が同じ年の出来事になることがわかった。(詳細は各天皇の項)

 この3天皇の即位は神武天皇存命中と考えられ、計画的に即位させられたものと思われる。当時の成人年齢は現年齢計算で15歳(当時の計算で30歳)程であり、この年齢になるのを待って即位したものであろう。

 第5代孝昭天皇から第7代孝霊天皇まで

 この間の天皇は天皇在位期間が不明で、各天皇の崩御時の年齢と干支が伝わっていたと思われる。日本書紀編纂者は崩御時の年齢を在位年数と間違えたために、古代史の復元年代と日本書紀の干支が一致しないと思われる。

 孝昭天皇と孝安天皇の即位時の年齢は日本書紀で31歳と36歳で、現年齢換算で、16歳と、18歳である。この年に即位したとすると、日本書紀の記事にうまく合うので、即位時の年齢は真実と思われる。実際の在位年数は日本書紀の在位年数からこの即位年齢を引いたものとなる。孝昭天皇の在位年数は中国暦で26年となる。

 次の孝霊天皇以降は半年一年暦の干支が正しく伝わっているようで、綏靖天皇から孝安天皇までの変更された干支と合わなくなっているために、孝安天皇の在位年数を半年一年暦で11年伸ばすことで干支のずれを調整している。孝安天皇の没年時の年齢は102年となっているが、実際は91年である。孝安天皇は36歳で即位なので、在位期間は半年一年暦で56年、中国暦で28年となる。

 孝霊天皇は正しい半年一年暦の干支で記録されているが、年数は孝昭・孝安両天皇と同じく、生誕時からである。

 第8代孝元天皇から第10代崇神天皇まで

 この期間は半年一年暦の干支と在位年数で、古代史の復元年代は日本書紀と完全に一致する。伝えられた干支の通り正しく記録されたものと考える。

 第11代垂仁天皇

 この天皇の時代は干支は古代史の復元と日本書紀は一致しているが、日本書紀では垂仁天皇の在位期間39年の後に60年の追加がされている。60年の追加のために干支が一致しているのである。

 日本書紀の記事に於いて垂仁39年より後の記事がほとんどないことから、追加されていることが分かる。

 第12代景行天皇、第13代成務天皇

 この二代の天皇は二代とも60年の在位である。しかし、仲哀天皇の年齢から成務天皇の在位期間はほとんどないことがはっきりしており、干支を一致させるには二代で60年と考えるのが妥当である。

 日本書紀における成務天皇の記事は成務5年まででそれ以降が全く記録されていない。このことから、成務天皇の在位年数は5年となり、景行天皇の在位年数は55年となる。

 この天皇の時代の記事の中には15年ずれの似たような記事が見受けられる。新干支で記録されていたものが混じりこんでいるためであろう。

 第14代仲哀天皇及び神功皇后

 成務天皇没年と仲哀天皇の即位年との間には1年の空位年がある。旧干支はその空位年を記録しているが、仁徳天皇が始めた新干支はこの空位年を見落としてしまった。その関係で、本来なら、旧干支と新干支は16年ずれるものが、成務天皇以前は15年のずれとなっている。

 日本では半年一年暦であったが、中国との交流が活発になるにつれ、日本だけが半年一年暦だと色々と不都合である。AD345年が半年一年暦の干支と、中国暦の干支が一致する年であった。これを機会として日本でも中国暦を採用することとなった。そのため、345年以前は半年一年暦の干支が採用されており、AD345年以降は中国暦の干支で記録されていることになる。しかしながら、中国暦採用後も半年一年暦による干支が生きていたために、日本書紀の年代が複雑化することになった。

 神功皇后の実際の在位年数は57年であるが、これは、345年までの年数の2倍の26年とそれ以降の43年を加えた69年が日本書紀の在位年数である。

 第15代応神天皇

 応神天皇の時代は中国暦で計算されているが、日本書紀の即位年の干支は半年一年暦の干支である。応神天皇は神功皇后の死後即位したのではなく、生前の367年に即位している。日本書紀の応神天皇の記事と神功皇后の記事は同じ年の記事がダブって記入されている。応神天皇の時代の記事の中には神功皇后の崩御年を基準とした記事も混じりこんでいるので各記事の判別が必要である。

 応神天皇の即位干支庚寅は旧干支で、AD367年後半である。日本書紀では神功皇后崩御の次の中国暦干支庚寅と間違えて記録したようである。

 都合がよいように感じるが、実際は神功皇后の没年が不詳だったのではあるまいか。そのために、日本書紀の編者は中国暦干支庚寅の前年を神功皇后の没年と決定したと推定する。

 応神天皇の日本書紀の在位年数41年は、実際の在位年数28年を神功皇后の没後の年数とすると、28年後の半年一年暦による旧干支は庚午(417年)である。これを中国暦に読み替えた年(430年)までの年数である。

 神功皇后の没年は日本書紀と120年のずれがある。応神天皇の没年は394年であるが、応神天皇即位を神功皇后没年の次の年にしたことと在位年数を41年としたことにより、真実の応神天皇の没年は日本書紀と85年のずれとなる。

 以降、古事記の崩年干支は中国暦の干支で変更されておらず、そのまま伝わっている。

 第16代仁徳天皇と半年一年暦の基準変更

 第16代仁徳天皇の時代の記事は半年一年暦で記録されている。応神天皇の時代に王仁からもたらされた思想により、弟である菟道稚郎子を失った。その悲しさから仁徳天皇は中国暦を嫌ったのかもしれない。仁徳天皇は半年一年暦で語り部に記憶させたのである。

 この仁徳天皇も421年に宋に朝貢する時、やはり半年一年暦では不便を感じたのであろう。仁徳天皇の代で半年一年暦の基準変更が行われている。

 ここまでの半年一年暦は神武天皇の即位年を辛酉とし、その年から年数を数えていたが、中国暦の辛酉と半年一年暦の辛酉が一致するように変更している。421年が中国暦による辛酉の年である。この年を半年一年暦でも辛酉に変更したのである。これによって、半年一年暦の干支が以前より22年ずれることになった。仁徳天皇の即位年の干支は新しい半年一年暦の干支で逆算して記録されている。

 仁徳天皇の日本書紀の在位年数87年はどのように計算されたのであろうか。実際の在位年数は半年一年暦で61年である。これは、半年一年暦の即位干支と崩御干支が同じことを意味している。仁徳天皇の新半年一年暦の即位干支は癸酉である。応神天皇の中国暦による没年干支は甲午である。応神天皇と仁徳天皇の間の空位年は半年一年暦で5年である。甲午の5年後の干支は己亥である。これを即位年とすると崩御年は同じ己亥であり、半年一年暦の新干支己亥は440年前半であり、397年前半の癸酉から440年前半の己亥までの半年一年暦の年数が87年である。 

 中国干支と新半年一年干支の混乱が日本書紀の在位年87年を招いたと考える。

 仁徳天皇没年の段階で日本書紀の年代と古代史の復元年代は28年のずれがある。

 第17代履中天皇

 履中天皇元年のみが半年一年暦である。仁徳天皇が427年前半に亡くなっており、その後半が履中天皇元年である。その後は中国暦で年数計算しているので、古事記と日本書紀の間の1年のずれが生じている。

 この1年のずれにより、日本書紀と古代史の復元年代は27年のずれとなった。

 第18代反正天皇

 日本書紀と古代史の復元年代(古事記の年代)は27年のずれのままである。

 第19代允恭天皇

 日本書紀の允恭天皇の在位年は中国暦で21年、半年一年暦で42年である。日本書紀の年代は半年一年暦で計算されているが、記事は中国暦で記載されているようであり、允恭天皇の後半に記事がない。

 允恭天皇の古事記の崩年干支は仁徳天皇で変更される前の半年一年暦の干支である。この時代は複数の干支が混在していて複雑である。

 日本書紀の允恭天皇の年代により21年修正され、以降の天皇で6年のずれが生じることになる。

 第20代安康天皇、第21代雄略天皇、第22代清寧天皇、第23代顕宗天皇

 この二代の天皇も日本書紀の年代と古代史の復元年代は6年ずれたままである。雄略天皇の古事記の崩年干支は仁徳天皇によって変更された半年一年暦の干支である。

 雄略天皇時代の日本書紀の対外記事は前後に6年ずれている。

 第23代仁賢天皇

 仁賢天皇は日本書紀では在位11年であるが、最後の3年は崩御記事しかなく、ここで、年が3年追加されている。よって、以降の天皇は日本書紀と古代史の復元で3年のずれとなる。

 第25代武烈天皇

 武烈天皇のずれは仁賢天皇により3年修正されているので、残り3年ずれている。

 第26代継体天皇

 継体天皇の日本書紀の年代も3年ずれている。継体天皇の没年干支が三種あり、混乱の元となっているが、3年ずれですべて説明できる。日本書紀の辛亥年は431年であるが、3年ずらして434年。安閑天皇が継体天皇より生前譲位されているがその年が甲寅であり、この年は434年である。古事記の丁未は427年であるが、仁徳天皇により変更された半年一年暦の干支だとすれば、434年となる。

 三種類すべての干支が継体天皇の没年は434年を示していることとなり、矛盾はなくなる。

 日本書紀と古代史の復元年代の残り3年のずれは、継体天皇の没年で修正された。これ以降の日本書紀の年代は矛盾がなく、正確なものとなる。

 干支の変遷の詳細は第三章の各天皇の項で説明してある。

 トップへ  目次へ 
神社で祀られている神
関連 半年一年暦から中国暦へ
三天皇即位
神功皇后年代推定