吉備津彦温羅退治
倭の大乱において、吉備津彦が吉備国を中心として活躍しているが、その状況を神話伝承を元にできるだけ復元してみようと思う。
160年ごろより、東アジア全体が寒冷期に入り、作物が充分にとれず、日本列島各地が落ち着かなくなっていた。大和朝廷は政権を安定させるためにこの時点で大和朝廷支配下に入っていない各国に大和朝廷の支配下に入るように使者を派遣した。まず、九州地方南部の球磨国・日向国には神武天皇の孫に当たる建磐竜命を154年(孝霊9年)に派遣した。東倭(中国地方・讃岐地方)の中心地出雲で新しい祭祀を始めようとする動きが出てきたのでそれをきっかけとして、東倭も朝廷支配下に取り組もうと交渉を始めた。なかなか埒が明かず、171年(孝霊45年)まだ皇太子であった孝霊天皇自らが伯耆国に出発。兄の大吉備諸進命を吉備国へ、長女の3歳になる倭迹迹日百襲姫を讃岐へ派遣した。
第6代孝安天皇が173年(孝霊52年)頃崩御したので、皇太子楽楽福命は大和に帰還し、翌孝霊53年正式の第7代孝霊天皇として即位した。その後まもなく、西国の鬼が活発に活動を始めた。孝霊天皇は西国平定に積極的に取り組むことにした。
孝霊53年、兄の大吉備諸進命の二人の子である兄稚武彦と弟稚武彦を先に山陽道に派遣し、自らは讃岐国経由で吉備国に入った。
吉備国への侵入 (孝霊54年)
古事記の孝霊天皇の条に,「大吉備津日子命と若建吉備津日子命とは,二柱共々に,播磨の氷河の碕に斎瓮をすえて神を祭り,播磨口を入口として,吉備国を平定なさった。」と記録されており、この兄弟の最初の行動は播磨の氷河の碕における祭祀であることが分かる。現在この地には日岡神社(兵庫県加古川市)が建っている。稚武彦兄弟は、ここで戦勝祈願したものであろう。孝霊53年と思われる。
二人は最終的に吉備中山に到着するのであるが、その経路と推定されるものが二つある。岡本正人氏の「吉備津彦の正体」によると、岡山県赤坂町の「片山神社」の記録にて若健吉備津彦は播磨から陸路を通ってこの片山神社の地を通過し、吉備中山に到着したとなっている。また、岡山県妹尾の明神崎は海路やってきた吉備津彦が最初に上陸した地と言い伝えられている。この二つの伝承は相反する伝承である。しかし、若健吉備津彦が兄弟で、二人いたということから、この二人が別々の経路で吉備国に進入したと考えれば説明がつく。問題はそれぞれがどちらの経路を通ったかということである。
兄の彦狭島命は祭祀者としての要素が強く、弟の稚武彦は武将としての要素が強い。陸路では片山神社で「アジスキタカヒコネ」を祀っている。このことから、陸路を通って吉備国に入ったのは兄の彦狭島命で、弟の方が海路吉備国に入ったと考えればよい。
吉備団子の由来 妹尾村の歴史は、吉備津彦の伝説より始まる。第7代孝霊天皇の第三皇子吉備津彦命は、第十代崇神天皇の勅により、四道将軍の一人に選ばれ、吉備の国を平定すべく、海路西征になりました。そして、妹尾の明神山の麓の岬の浜辺に着きました。そこに老漁夫が住んでいましたが、命一行をお迎えしました。そして、吉備で作った団子を差し上げましたところ、命は非常に喜びになりました。これが吉備団子の始まりです。そして、命はこの地方に来た理由を説明して、この地方に悪者がいないかと、お問いになりましたので、この備中の奥には悪者がいて良民を苦しめている由を申し上げますと、それではそれを征伐しなければならぬ。よって水先案内をしてくれと申され、老漁夫は水先案内をしました。当時の地勢は現在山陽線の通じている庭瀬駅、あるいは宇野線の妹尾駅のあたりは一面の海水で、転々と小島が散在していました。あいにく大暴風で船団は進路も定まらず、難航しましたが、老漁夫の水先案内が適宜の処置をとったために、かろうじて吉備の中山につくことができました。 |
吉備中山の上陸地点は「吉備中山総合調査報告」や岡山市史」に吉備中山南麓の花尻というところであると記録されている。
吉備国平定経路
神社伝承により、その平定地域をまとめてみると次のようになる。
A 吉備中山周辺
B 児島周辺
C 旭川流域
D 高梁川流域
E 小田川流域
F 吉備上道
いずれも、吉備津彦の伝承地が帯のように連なっており、この経路に沿って平定していったものと考えられる。
どの順番に平定していったのであろうか。最初はAの吉備中山周辺と思われる。最後が出雲に残る吉備津彦の経路に備後から来たというのがあるので、Eの小田川流域が最後と思われる。孝霊天皇が高梁川流域を通って伯耆国に入るのは吉備国が安定した直後と思われるので、Dは讃岐の百襲姫訪問の後あたりであろう。Cの旭川流域もその経路にある神社に備前で最初に治めたとあるので、時期的には速かったのではないかと思う。これらのことを整理すると、平定順番は次のようになる。
出来事 | 和暦 | 西暦 |
---|---|---|
大和出発 | 孝霊53年 | 174年前半 |
播磨道口での祭祀 | 孝霊53年 | 174年前半 |
吉備国上陸 | 孝霊54年 | 174年後半 |
温羅退治 | 孝霊54年 | 174年後半 |
吉備上道平定 | 孝霊54年 | 174年後半 |
旭川流域平定 | ||
美作国平定 | ||
孝霊天皇吉備中山到着 | 孝霊64年 | 179年後半 |
児島周辺平定 | 孝霊65年 | 180年前半 |
讃岐の百襲姫訪問 | 孝霊67年 | 181年前半 |
高梁川流域平定 | 孝霊68年 | 181年後半 |
石蟹魁師荒仁退治 | 孝霊68年 | 181年後半 |
伯耆国大倉山平定 | 孝霊68年 | 181年後半 |
小田川流域平定 | 孝霊70年 | 182年後半 |
備後国平定(吉備国平定完了) | 孝霊72年 | 183年後半 |
鬼林山平定 | 孝霊72年 | 183年後半 |
伯耆国鬼住山平定 | 孝霊73年 | 184年前半 |
出雲振根平定 | 孝霊73年 | 184年前半 |
伊予国平定 | 孝元 | |
土佐国平定 | 孝元 | |
熊曽との戦い | 開化10年 | 220年 |
死去 | 開化 | 230年ごろ |
吉備津彦は讃岐国の倭迹迹日百襲姫を訪問し、その周辺の鬼退治もしているが、これは経路からして児島周辺の平定をした後と考えられる。最後の小田川流域からそのまま尾道市まで西へ平定を続けており、尾道市あたりに滞在しているとき、伯耆国の孝霊天皇から、出雲平定に協力せよとの通知をうけとり、伯耆国へ出向いたと考えている。
これをもとに各出来事の時期を推定してみよう。
孝霊天皇が即位したと推定したのが、孝霊53年で、伯耆国菅福で仮宮を造ったのが孝霊56年と思われる。この間に吉備津彦兄弟は播磨道口での祭祀、吉備国上陸、温羅退治、高梁川流域平定などを行わなければならない。日数がかかったと思われるのが播磨道口での祭祀から吉備国上陸までと思われるので、播磨道口祭祀を孝霊53年、吉備国上陸を孝霊54年と推定した。
児島周辺の平定は、讃岐の百襲姫訪問の少し前と考えられる。百襲姫が讃岐の田村神社に来たと思われるのが成人(当時の年齢で25歳ほど)してからであるから、讃岐訪問が孝霊67年ごろとなり、児島周辺平定が孝霊65年ごろと推定した。
この間に旭川流域平定と美作国平定が行なわれているようであるが、その時期を特定することができない。旭川流域はまばらに伝承地が存在しているので、平定に時間がかかったのかもしれない。また、美作国には平定伝承がほとんどなく、むしろ平和的に解決している様子が伺われる。長期にわたって交渉をしていたのかもしれない。
孝霊天皇が伯耆国で大倉山、鬼林山の平定をするときに吉備津彦も参加している。孝霊68年のことである。この時点で小田川流域、備後以外はすべて平定完了していることもあり、孝霊天皇から応援要請があったものと推定する。
大倉山・鬼住山の平定が終わり、吉備で残る小田川流域と備後の平定を開始したのが孝霊70年であり、備後国での平定を完了したのが孝霊72年(片山神社記録)であろう。
この頃伯耆国では孝霊天皇が鬼林山の鬼と戦っていたが、細姫を失うなどして苦戦していた。平定完了と同時に孝霊天皇から応援要請があり、鬼林山の鬼退治に参加し平定した。
孝霊天皇の鬼住山平定は鶯王が総大将となり、戦死している。鶯王は朝妻姫との間の子なので、孝霊48年頃誕生していると思われるので、鬼住山の戦いは鶯王が十分に成長してからのなるので、相当後の出来事と思われる。孝霊天皇が出雲に突入する直前のことであろう。孝霊73年のことと思われる。鶯王26歳(現年齢13歳)となる。
伯耆国の伝承、讃岐国の伝承を合わせて時期を推定すると以上のようになる。
次に各経路ごとに伝承を整理してみようと思う。
第4項 吉備中山周辺の平定(孝霊54年=174年前半)
吉備中山に到着した吉備津彦一行は、まず、周辺の地固めをしなければならない。土地の人間を味方につけるのが一番良い。
鼓神社(岡山市上高田・備前国二宮)・・・吉備津彦の正体より
「吉備津彦以外に、遣霊彦命、吉備武彦、楽楽森彦、高田姫命を祭神とす。楽楽森彦はここの県主である。楽楽森彦は吉備津彦の吉備平定に貢献された。 高田姫はその娘で吉備津彦の後妃になられた。先妃は百田弓矢姫であるが、まもなく亡くなった。」
吉備中山に到着すると、まず地元の協力者を募ったようである。鬼の出没に地元の人たちは被害を蒙っているわけであるから、
多くの協力者がいたようである。
一説によると、「吉備津彦は対立する吉備国を征服するために大和朝廷によって派遣された」というものがあるが、
岡山県下に残る伝承を調べてみるとそのようなものはまったくない。征服したのであれば、地元の人々の反発を受けるはずであるが、
吉備津彦は崇敬されている。また、よく調べてみると、実際に鬼と戦ったのは吉備津彦よりも、むしろ、地元の勢力のようである。
これらの伝承から考えれば、当時の吉備国は気候の寒冷化により鬼(山賊・海賊)が盛んに出没し、住民は大変困っていた。
その状態を改善するために吉備津彦が派遣されたと考えたほうが自然である。
御崎神社(総社市久米)・・・祭神吉備武彦
「上足守深茂の大神谷は御祭の神吉備武彦命、御友別命2代の御住居跡と伝えられている。」
「大吉備津彦命、御兄弟が温羅を平らげ給いしとき、片岡に本営を設け、吉備武彦命をして久米の前衛に進ませられ奮戦力攻、終に平足するを得たり。 前衛の舊跡を今もアンザイ(行在)という。その舊跡(現在の鎮座地宮山)に社殿を創建し艮御崎神社と称す。」
「若健吉備津彦命が吉備武彦命を連れて温羅を平定に来て、吉備武彦命が先陣を承って功を奏したので、御崎神社の祭神となった。」(吉備津彦の正体)
温羅伝説
「
崇神天皇のころ、異国の鬼神が空から吉備の国にやってきた。彼は百済の王子で名を温羅(ウラもしくはオンラ)と呼ばれた。
彼の両眼は爛々として虎狼の如く、蓬々た鬚髪は赤きこと燃えるが如く、身長は、約4メートルにも及んだ。膂力は絶倫、
性は剽悍で凶悪で"吉備冠者"と呼ばれていた。温羅は、総社市の新山(にいやま)に居城を構え、さらに近くの岩屋山に住居を構えて、
たびたび、西国から都へ送る貢船や婦女子を襲ったといわれた。人民は恐れ恐いてこの居城を鬼ノ城と呼び、都に訴え助けを求めた。
さっそく朝廷は、武将を遣わせてそれを討たしめたが、彼は兵を用いること頗る巧で出没は変幻自在、容易に討伐し難かったので空しく帝都に引き返した。
そこで次に、孝霊天皇の皇子、吉備津彦命(きびつひこのみこと)が派遣されることになった。吉備津彦命は大軍を率いて吉備国に下り、
まず吉備の中山に陣を敷き
、西は片岡山に石楯を築き立てて防戦の準備をした。これが楯築遺跡で、吉備の中山には、吉備津彦命が埋葬されたと言われている
中山茶白山古墳がある。
こうして温羅と戦うことになったが、もとより変幻自在の身のことであるから、戦いは困難で、さすがの吉備津彦命 も攻めあぐまれた。
ことに不思議なのは、吉備津彦命の発し給える矢はいつも鬼神の矢と空中で噛み合い、いずれも海中に落ちた。
岡山市高塚にある矢喰宮(やぐいのみや)にはその弓矢が祀られている。吉備津彦命はここに神力を現し、
千釣の強弓を以って一時に二矢を発射したところ、一矢は前の如く噛み合うて海に入ったが、余す一矢は違わず見事に温羅の左眼に当たったので
、流るる血潮は混々として流水のごとくほとばしった。 総社市の血吸川はその経緯がある。さすがの温羅も吉備津彦命の一矢に辟易し、
たちまち雉と化して山中に隠れたが、機敏なる 吉備津彦命は鷹となってこれを追いかけた。そこで、温羅はまた鯉と化して血吸川に入って跡をくらました。
吉備津彦命はやがて鵜となってこれを噛みあげた。鯉喰神社があるのはその由縁である。温羅は、今は絶体絶命ついに 吉備津彦命の軍門に降って
おのが"吉備冠者"の名を吉備津彦命に献上した。吉備津彦命は鬼の頭を刎ねて串し刺してこれを曝した。
岡山市の首部(こうべ)はその経緯である。
ところが、この首が何年となく大声を発し、唸り響いて止まらない。吉備津彦命は部下の犬飼建(イヌカイノタケル)に命じて犬に喰わした。 肉はつきて髑髏となったがなお止まない。そのため、吉備津彦命はその首を吉備津宮の釜殿の竈の下に八尺ほど掘って埋めた。 しかし、一三年の間唸りは止まらず鳴り響いた。そしてある夜、吉備津彦命の夢に温羅の霊が現われ "吾が妻、 阿曽郷の祝の娘阿曽姫(アソヒメ)をしてミコトの釜殿の神饌を炊かしめよ、もし世の中に事あれば竈の前に参り給え、 幸あれば裕かに鳴り、禍あれば荒らかに鳴ろう。吉備津彦命は世を捨ててのちは霊神と現われ給え。 吾は一の使者となって四民に賞罰を加えん"と告げた。この経緯から、吉備津宮のお釜殿は温羅の霊を祀るものとされて、 精霊を"丑寅みさき"と呼ばれることになった。これが現在行われている吉備津宮の釜鳴神事のおこりである。
」
2世紀半ばごろから、生活苦から中国地方各地に鬼(山賊・海賊)が出没するようになった。 孝霊45年(171年)第6代孝安天皇は大吉備諸進命 (孝霊天皇の兄)を吉備国に派遣して鬼退治を行なおうとしたが、失敗した。 孝霊53年第7代孝霊天皇の命により大吉備諸進命の二人の王子 (稚武彦・弟稚武彦)が吉備国に派遣された。命は地元の住民を集め、兵を募った。 楽楽森彦、犬飼健などが加わった。孝霊54年、 吉備津彦兄弟は稚武彦が本陣(吉備中山)を構え、弟稚武彦が先陣(楯築遺跡)を努めた。 ついに温羅との戦いが始まった。当時このあたり一面は海であったので戦いは船による海戦であった。 矢の射掛け合い、石つぶてのぶつけ合いが行なわれた。激しい海戦のすえ、楽楽森彦が鯉喰神社の地に温羅を追い詰めて討ち取った。 しかし、温羅の残党が各地に出没し、残党狩りに以後13年間を費やした。孝霊67年讃岐の百襲姫(菊理姫)の提案により残党との和解が成立した。
温羅伝承に関しては時代が合わない点がある。
吉備津彦は180年ごろの人物であるので、鬼の城も温羅も同時代のものでなければならないが、 鬼の居城である鬼の城は、6~7世紀の朝鮮式山城であり、温羅は百済国の王子と言い伝えられている。 明らかに吉備津彦の時代とは異なるものである。この点について考えてみよう。
百済は三国史記によるとBC18年現在の韓国ソウル市近辺に建国されたとなっているが、一般には346年建国とされている。滅亡は668年である。 一国の王子が国を出て、他国のしかも中央以外のところに根城を築き、地域の人々を苦しめるというのは、 母国に大きな異変が起こったとき以外には考えにくい。温羅は百済国が滅亡したとき、その難を逃れて日本列島に渡ってきたものではないだろうか?鬼の城が7世紀末~8世紀の土器が出土した という事実と、百済国滅亡の時期が重なるのはそれを裏付けているといえる。しかし、鬼の城の設備はかなり巨大なものがあり、緊急避難でやってきた百済王子では とても築けるものではないと思われる。本格的に築いたのは、温羅滅亡の後に唐の来寇に備えた大和朝廷であろう。
温羅は百済国が滅亡の危機に瀕したとき、その難を逃れ日本の吉備国にやってきて鬼の城山に城を築き定住したが、文化の違いから地域の人々に溶け込めず、 次第に人々を苦しめるようになっていったのではあるまいか。吉備国の人々の訴えを聞いた大和朝廷は温羅を退治するために将軍を派遣した。 その将軍の働きが吉備津彦の伝承と重なり、温羅伝承になったものと考えている。朝廷側の記録に残っていないのも、当時の友好国百済を意識してのものであろう。 吉備国に残されている温羅伝承は2世紀の吉備津彦伝承と7世紀の百済王子の伝承が重なったものと判断する。
2世紀の吉備津彦伝承と、7世紀の温羅伝承の識別はできないだろうか?7世紀に温羅が鬼の城山に城を築いたのは、百済本国の危機的状況によるものである。
百済人が退去して吉備国を訪れるにも限界があり、幅広い領域で人々を苦しめることはできないと思われる。
温羅関連伝承で鬼の城から離れたところにある伝承は吉備津彦時代の鬼が温羅とされたものと判断できる。百済人温羅の真実の伝承は鬼の城のみであろう。
2世紀において、吉備国は東倭の位置領域であり、出雲のスサノオ祭祀の下で緩やかな結合をしていた。その小国(ムラ)のいくつかが鬼と化しているのである。
吉備津彦はその鬼を退治していったのである。その鬼の中には出雲から派遣された将軍もいたと思われる。鬼と化した人々を退治するのは吉備津彦にとってたやすいことである。
しかし、いずもから派遣された将軍は強敵であろう。吉備津彦が苦戦している相手は出雲の将軍と考えられる。
吉備津彦が吉備中山についたころ、鬼の城周辺に鬼がいたと思われる。伝承によると地域の人々がこの鬼に対して戦いを挑んでいるのである。
このことから、この鬼は出雲の将軍ではなく、鬼と化した人々であったと推定される。しかし、出雲の将軍に匹敵する強さを持っていたものと考えられる。
温羅伝承に出てくる古代遺跡は他に楯築遺跡と鯉喰神社がある。楯築遺跡は2世紀末ごろの双方中円墳で鯉喰神社もほぼ同時期の前方後方墳である。 ともに倭の大乱後、大乱関連地で祭祀を行いその後に築かれたものと考えている。楯築・鯉喰神社の伝承は吉備津彦時代のもので、7世紀のものでは ないことになる。
日差山伝説
「吉備津彦命は温羅征伐を始めるが、温羅には地の利があり、なかなか退治出来ない。そこで、吉備津彦命は武勇に自信のある武将を近国から集めた。
岡山県倉敷市日差の住民である夜目主命(やめのぬしのみこと)父子と栗坂の住民(栗坂神社の祭神)らは、武勇や知恵に長けていたため厚遇され、
吉備津 彦命の重臣・留霊主命らと計略を立て、温羅と戦った。 夜目主命は、暗闇でも白昼と同じ視力があり、夜襲が得意であった。
これにはさすがの温羅も勝てず船で逃げた。夜目主命は兵を引き連れて温羅を追い、土地に明るい夜目主命が陣頭指揮をとった。
留霊主命が温羅に組み付き、海中に転落。温羅は鯉になり、留霊主命は鵜になって戦ったが、2人とも討ち死にした。この温羅討伐の功績を称えて、
後に日指山(日差山)の頂上に社を建て「日指神社」として夜目主命と夜目丸の父子2神を祭ったという。しかし、現在はその跡は残っていない。」
鯉喰神社
「吉備の国平定のため吉備津彦命が来られた時、この地方の賊温羅(うら)が村人達を苦しめていた。戦を行ったがなかなか勝負がつかない。
その時天より声がし、命がそれに従うと温羅はついに、矢つ尽き刃折れて自分の血で染まった川へ鯉となって逃れた。
すぐ命は鵜となり、鯉に姿を変えた温羅をこの場所で捕食した。
それを祭るため村人たちはここへ鯉喰神社を建立した。」
この神社の祭神は楽楽森彦と温羅である。温羅を退治したのは吉備津彦ではなくて楽楽森彦ではないのか
矢喰神社
「神話では、吉備津彦命の射る矢と鬼ノ城から温羅の射る矢とが空中で絡み合い、落ちた場所とされており、吉備の中山と鬼ノ城とのちょうど中間地点にある。国道から境内まで歩いていくと、小さな鳥居の右側に巨岩が大小合わせて5個並んでいて、「矢喰の岩」(やぐいのいわ)と呼ばれる。一説では、鬼ノ城から温羅は岩を投げたとされ、それが命の放った矢とぶつかって落ちたとも言われている。」
吉備武彦の謎
吉備津彦以外に吉備武彦が岡山県の神社に良く祭られている。記紀、あるいは系図上では吉備武彦は第12代景行天皇の時代に日本武尊の副将として東国征伐に参加している。320年ごろの人物である。しかし、岡山県内の神社では吉備津彦とともに行動しており、時代がまったく会わない。これはどうしたことであろうか?井森神社(井原市井原町1669)に次のような記録が見つかった。
「本神社は光仁天皇の宝亀元年9月(770)、吉備国を鎮められた吉備津彦命の御弟吉備武彦命を勧請し、創建された。」
これを見ると、吉備武彦は吉備津彦の弟となっている。つまり、弟稚武彦のことである。しかし、Bの御崎神社の住居跡とされている吉備武彦はその子が御友別命であることから景行天皇の時代の吉備武彦と思われる。神社に祭られている吉備津彦は複数の人物が絡み合っていると思われるので、その正体を探るには大変な注意が必要である。
このことから、吉備国の平定は兄の稚武彦を本陣とし先陣を弟の稚武彦(吉備武彦)として行なわれたということになる。
第5項 吉備上道の平定(孝霊54年)
岡山市海吉に吉備津岡辛木神社がある。この神社は操山山塊の東端にあり、祭神は吉備若建彦命である。この神は吉備津彦命の弟に当たるということである。「吉備津彦命が温羅(うら)という悪者を平らげ、平和な国作りを行ったとき、吉備若建彦命も上道・海面のあたりを平定された」と言い伝えられている。
吉備中山周辺を平定したあと、吉備国の東側を平定したと考えている。なお、この頃孝霊天皇が讃岐経由で吉備中山に到着し、細姫もまもなく、大和から孝霊天皇を追ってやってきたと思われる。
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