年代推定

  古代は半年を一年として年齢を計算していた。
  大和朝廷の成立はAD83年である。

平均在世年数

「古代日本正史」では,天皇一代平均在位年数を約10年として計算したために,神武天皇の即位年代が241年頃になるというものである。ところが天皇に即位するのは親から子へ相続すること もあれば,兄弟相続のこともあるし,従兄弟相続もあり得るのである。そのため,どの相続をするかによって平均年代が違ってくる。一代平均の誤差は代を重ねるごとに累積するのである。なる べく誤差の少ない推定法を採らなければならない。

 そこで,天皇に即位するかしないかに関係なしに,系図から年代を推定してみようと思う。まず,父の没年から本人の没年までを在世年数と呼ぶことにし,この在世年数がどれぐらいである かを検討してみよう。父と子の年齢差が嫡子誕生時の年齢であるから,系図上の各人物の平均在世年数は,嫡子誕生時の平均年齢と等しくなる。嫡子誕生時の年齢は,医学的にある範囲に限られ ており,父が没する年齢が上がれば,子の在世年数は短くなり,下がれば長くなるため,何世かの合計として考えれば,そのばらつきは小さくなるものと考えられる。そして,実際に系図から 年代を推定する場合は,何代かの合計年数を使うのである。

 欽明天皇以降の世代間の年数

人物 没年 世代間の年数
天皇 西暦 1世 2世 3世 4世 5世 6世 7世 8世 9世 10世
18 欽明天皇 571
19 敏達天皇 585 14
20 押坂彦人大兄皇 607 22 36
21 舒明天皇 641 34 56 70
22 天智天皇 672 31 65 87 101
23 施基親王 716 44 75 109 131 145
24 光仁天皇 782 66 110 141 175 197 211
25 桓武天皇 806 24 90 134 165 199 221 235
26 嵯峨天皇 842 36 60 126 170 201 235 257 271
27 仁明天皇 850 8 44 68 134 178 209 243 265 279
28 光孝天皇 887 37 45 81 105 171 215 246 280 302 316
29 宇多天皇 931 44 81 89 125 149 215 259 290 324 346
30 醍醐天皇 930 -1 43 80 88 124 148 214 258 289 323
31 村上天皇 967 37 36 80 117 125 161 185 251 295 326
32 圓融天皇 991 24 61 60 104 141 149 185 209 275 319
33 一條天皇 1011 20 44 81 80 124 161 169 205 229 295
34 後朱雀天皇 1045 34 54 78 115 114 158 195 203 239 263
35 後三條天皇 1073 28 62 82 106 143 142 186 223 231 267
36 白河天皇 1129 56 84 118 138 162 199 198 242 279 287
37 堀河天皇 1107 -22 34 62 96 116 140 177 176 220 257
38 鳥羽天皇 1156 49 27 83 111 145 165 189 226 225 269
39 後白河天皇 1192 36 85 63 119 147 181 201 225 262 261
40 高倉天皇 1181 -11 25 74 52 108 136 170 190 214 251
41 後鳥羽天皇 1239 58 47 83 132 110 166 194 228 248 272
42 土御門天皇 1231 -8 50 39 75 124 102 158 186 220 240
43 後嵯峨天皇 1272 41 33 91 80 116 165 143 199 227 261
44 後深草天皇 1304 32 73 65 123 112 148 197 175 231 259
45 伏見天皇 1317 13 45 86 78 136 125 161 210 188 244
46 後伏見天皇 1336 19 32 64 105 97 155 144 180 229 207
47 光嚴天皇 1364 28 47 60 92 133 125 183 172 208 257
48 崇光天皇 1398 34 62 81 94 126 167 159 217 206 242
49 榮仁親王 1416 18 52 80 99 112 144 185 177 235 224
50 貞成親王 1456 40 58 92 120 139 152 184 225 217 275
51 後花園天皇 1471 15 55 73 107 135 154 167 199 240 232
52 後土御門天皇 1500 29 44 84 102 136 164 183 196 228 269
53 後柏原天皇 1526 26 55 70 110 128 162 190 209 222 254
54 後奈良天皇 1557 31 57 86 101 141 159 193 221 240 253
55 正親町天皇 1593 36 67 93 122 137 177 195 229 257 276
56 誠仁親王 1586 -7 29 60 86 115 130 170 188 222 250
57 後陽成天皇 1617 31 24 60 91 117 146 161 201 219 253
58 後水尾天皇 1680 63 94 87 123 154 180 209 224 264 282
59 靈元天皇 1732 52 115 146 139 175 206 232 261 276 316
60 東山天皇 1710 -22 30 93 124 117 153 184 210 239 254
61 直仁親王 1753 43 21 73 136 167 160 196 227 253 282
62 典仁親王 1794 41 84 62 114 177 208 201 237 268 294
63 光格天皇 1840 46 87 130 108 160 223 254 247 283 314
64 仁孝天皇 1846 6 52 93 136 114 166 229 260 253 289
65 孝明天皇 1867 21 27 73 114 157 135 187 250 281 274
66 明治天皇 1912 45 66 72 118 159 202 180 232 295 326
67 大正天皇 1926 14 59 80 86 132 173 216 194 246 309
68 昭和天皇 1989 63 77 122 143 149 195 236 279 257 309
平均 28.4 56.3 84.7 112.6 140.5 168.6 195.5 222.0 248.0 275.5
標準偏差 20.4 22.3 22.8 24.4 25.2 30.2 29.3 31.0 29.9 31.2

 各氏の平均在世年数

初代 没年 末代 没年 世数 平均
皇室 欽明天皇 571 昭和天皇 1989 50 28.4
徳川家 八幡太郎義家 1106 家康 1616 19 26.8
徳川家 家康 1616 家茂 1866 8 31.3
桓武平氏 桓武天皇 806 平清盛 1181 11 34.1
足利氏 八幡太郎義家 1106 足利尊氏 1358 9 28.0
足利氏 足利尊氏 1358 足利義昭 1597 7 34.1
九条家 藤原忠通 1164 九条 師教 1320 7 22.3
藤原北家 藤原 房前 737 藤原忠通 1164 14 30.5
藤原南家 武智麻呂 737 慶円 1019 9 31.3
藤原式家 藤原 宇合 737 藤原令明 1143 11 36.9

一世あたりを計算すると,標準偏差約21年,平均に対する標準偏差の割合は74%で,平均に比べばらつきが大きいのであるが,七世程の合計で考えると195年程となり,その標準偏差は 29年程で,平均に対する標準偏差の割合は14%となり,ばらつきは小さくなる。世数に比例して合計年数が増えるが,何世間の年数をとろうとも,標準偏差は大きくは変わらないのである。 これにより,系図を用いて実年代を推定するには,何世かの合計を使うと,ばらつきが少なく,より正確な推定ができることが分かる。 上の表は没年がはっきりしている欽明天皇以降の皇室系図の直系に属する人物の1世間~10世間までの各世間の年数を計算したものである。

 正確な年代推定をするには天皇系図が正しいものでなければならないが,古事記・日本書紀の系図は,大和朝廷初期ですべて直系になっており不自然である。そこで,まず, 系図の確認をする。

 天皇系図の修正

皇統譜の人物の没年から直系の各世代間の年数を調べて、古代の年代を推定しようと思う。

 「日本上代の実年代」により崇神天皇の没年が279年になっており,神武天皇から崇神天皇までの世数がわかれば,神武天皇の即位年つまり,大和朝廷の成立時期が推定できる。 「上代日本正史」によると,崇神天皇は神武天皇七世にあたり,古事記・日本書紀とは異なる系図を示している。第二代綏靖天皇・第三代安寧天皇・第四代懿徳天皇が兄弟であるということと, 第八代孝元天皇は神武天皇の次男の彦八井耳命の曾孫に当たり,第七代孝霊天皇とは別系統同世代になっている。

 著者の原田氏が,旧家に伝わる孝元天皇の系図を手に入れられたそうであるが,綏靖・安寧・懿徳三天皇が兄弟であることの裏付けに乏しい。そこで,別資料から確認してみることにする。 丹後の篭神社に保存されている国宝の海部氏系図によると,第五代孝昭天皇の皇后(世襲足姫)は,神武天皇と同世代の天村雲命の孫となっており,神武天皇と孝昭天皇も祖父と孫の関係ぐらい でなければならない。つまり,「上代日本正史」にあるとおり、綏靖・安寧・懿徳三天皇が兄弟と考えなければ説明が難しい。

 また,阿蘇神社を創建した人物は,神武天皇の孫にあたる武磐竜命の子であるから,神武天皇四世である。これが孝霊天皇の時代であると記録されていることから,この人物は孝霊天皇と 同世代と考えられ,孝霊天皇は神武天皇四世あたりと判断される。綏靖・安寧・懿徳三天皇が兄弟であれば,孝霊天皇は神武天皇五世となる。 このようにして、いろいろな豪族の系図と比較したのが豪族系図である。これを見ると、ほぼ完全に皇室の推定系図と世数が一致していることがわかる。

 これらより,「上代日本正史」の系図は大体正しいと判断してよい。

推定皇室系図
   1    2       3       4  5  6  7  8  9  10 11 12  13 14
  素盞嗚━━饒速日━━┳━宇麻志麻治
            ┃
            ┗━伊須気依姫━┓ ┏八井耳━雀部━雀部━孝元━開化━崇神━垂仁━景行━日本武━仲哀━応神
                    ┣━┫
  天照大神━━鵜茅草葺不合尊━━神武━┛ ┗綏靖━━孝昭━孝安━孝霊                     

一年2歳論

魏志倭人伝には「倭人は春耕秋収を数えて年数としている。」、「人の寿命は倭人の計算で百年あるいは八, 九十年という。」とある。当時の平均寿命は発掘した人骨から30年を少し超えるぐらい、日本書紀の年代のはっきりした頃の天皇の平均寿命は 54歳である、このことから考えると、当時の一年は今の半年に相当するようである。日本書紀の日付を調べてみると、綏靖天皇から開化天皇までは孝安天皇の即位期日を除いてすべて各月 15日未満である。それ以外の天皇についても15日未満が圧倒的に多い。このことは、当時の1ヶ月が15日までであったことを想像させる。

「日本上代の実年代」による年代推定

 栗原薫氏は、5世紀を中心とする上代は半年で1年とした紀年があったという仮定の元で朝鮮半島史書・宋書・好太王碑文などとの照合を図ることにより、その年代を復元された。 この復元年代では朝鮮半島史書・宋書・好太王碑文及び日本書紀・古事記の年代のずれがきれいに説明できる。要点をまとめると次のようなものである。

 ① 允恭天皇の没年までに通常紀年と半年一年紀年が国内に存在し、それぞれ干支で持って記載された資料があった。
 ② 日本書紀はそれぞれの干支から推定される年代を矛盾があるまま記載した。
 ③ 通常紀年による年代と半年一年紀年による干支を区別せずそのまま記載した。
 ④ 通常紀年と半年一年紀年の間に16年のずれがあり、半年一年紀年は通常紀年より16年さかのぼっている。
 ⑤ 崇神天皇から仲哀天皇までは古事記または日本書紀の寿命から百を引いた数字を在位年数とすると、古事記の崩年干支及び、住吉大社神代記に伝えられている垂仁天皇の没年干支(辛未)と一致する。
 ⑥ 通常紀年と半年一年紀年の双方を使うことにより古事記と日本書紀の宝算のずれが説明できる。

 これによると、開化天皇以降の各天皇の没年は次のようになる。

崩年 修正
干支
書紀
干支

干支
9 開化天皇 245 庚午 癸未
10 崇神天皇 279 戊寅 辛卯 戊寅
11 垂仁天皇 307 辛未 庚午
12 景行天皇 325 戊申 庚午
13 成務天皇 328 乙卯 庚午 乙卯
14 仲哀天皇 331 壬戌 庚辰 壬戌
15 応神天皇 394 甲午 庚午 甲午
16 仁徳天皇 427 丁卯 己亥 丁卯
17 履中天皇 432 壬申 乙巳 壬申
18 反正天皇 437 丁丑 庚戌 丁丑
19 允恭天皇 459 己亥 癸巳 甲午

 これによると倭の五王は讃(仁徳天皇)、珍(反正天皇)、済(允恭天皇)、興(安康天皇)、武(雄略天皇)となる。
この年代は朝鮮半島史書・宋書・好太王碑文などと合理的に一致しているため、この古代史の復元にこの説を用いることにする。この説を用いると、卑弥呼の邪馬台国時代は崇神天皇の時代 となる。栗原氏は卑弥呼を開化天皇の皇后に比定しているが、倭迹迹日百襲姫にすると、卑弥呼の没年が249(崇神10)年となり、前後の日本書紀の記事と魏志倭人伝の記事がほぼ完全に 一致していることが分かった。また、天文ソフトで計算された日食の日時(247年3月)と天岩戸神話のときに作られたという八咫の鏡の製作年(崇神6年=247前半)と見事な一致が見られる。        

 大和朝廷の成立年

この系図を使うと崇神天皇は神武天皇七世となり,神武天皇即位から崇神天皇の没年までの年数は上の表より七世195年程となるので,神武天皇の即位年は,「日本上代の実年代」による 崇神天皇没年の279年から逆算して84±29年となる。よって,大和朝廷成立は紀元80年頃と推定され,弥生時代後期前葉の終わり頃と考えられる。弥生時代後期前葉から中葉への変化は, 大和朝廷成立によってもたらされたものと推定され,後でその変化を確認してみたいと思う。

 栗原説によると神武天皇即位年は紀元前98年となっている。これは、開化天皇以前もそのまま半年一年紀年でつながっているとした仮定で計算されたものであるが、この復元古代史とは一致しない。栗原説を利用した神武天皇の即位年を推定してみると、神武天皇は辛酉年に即位したと記録されている。この辛酉が正しいかどうかの議論もあるが正しいとすれば、 半年一年紀年で紀元91年となる。しかし、「日本上代の実年代」によると半年一年紀年は16年さかのぼっている。そのため通常紀年に直した8年をさかのぼらせて紀元83年となる。 これは先に推定した即位年に極めて近い数値である。

初期天皇の在位年数

古事記と日本書紀の年数の違い

崇神天皇以降の各天皇の在位時期は「日本上代の実年代」でほぼ間違いないと推定するが、それ以前の天皇については「日本上代の実年代」ではなかなか一致しない。 そこで初代から第10代までの天皇の在位時期を推定してみる事にする。

古事記・日本書紀の初期天皇在位年数比較

日本書紀

比較

推定

年齢(a)

年齢

(b)

在位

(c)

b-c

a-c

即位

没年

在位

1

神武

137

127

76

51

61

83

121

17

2

綏靖

45

84

33

51

12

100

102

3

3

安寧

49

57

38

19

11

103

106

4

4

懿徳

45

77

34

43

11

107

110

4

5

孝昭

93

114

83

31

10

111

144

34

6

孝安

123

137

102

35

21

145

177

25

7

孝霊

106

128

76

52

30

170

185

17

8

孝元

57

116

57

59

0

187

215

29

9

開化

63

111

60

51

3

216

245

30

10

崇神

168

119

68

51

100

246

279

34

11

垂仁

153

139

99

40

54

280

306

27

12

景行

137

143

60

83

77

307

324

18

13

成務

95

107

60

47

35

325

328

4

14

仲哀

52

52

9

43

43

329

331

3

15

応神

130

111

110

1

20

332

394

63

16

仁徳

83

110

87

23

-4

395

427

33

17

履中

64

67

6

61

58

428

432

5

18

反正

60

59

5

54

55

433

437

5

19

允恭

78

62

42

20

36

438

459

22

20

安康

56

41

3

38

53

460

462

3

21

雄略

124

62

23

39

101

463

485

22

表は古事記と日本書紀の年齢と在位年数を比較したものである。アンダーラインが入っているのは古事記の年齢と関連が深いと考えられる在位年数または年齢を示している。 これによると、古事記の年齢に関連が深いのは、崇神天皇以前は日本書紀の年齢よりも在位年数である。表のa-cは古事記の年齢と日本書紀の在位年数との差を取ったものであるが、 1の位が0~3にかぎられ、きわめて作為的である。この二つのデータは関連が深いと考えてよいようである。また、各天皇の即位時の年齢は表のb-cであるが、崇神天皇まではこれも極めて 作為的である。よって、崇神天皇以前の日本書紀の年齢はほとんど無意味であり、在位年数に意味があると考えられる。

孝霊天皇の没年

崇神天皇の即位を245年とすると、卑弥呼と考えられる百襲姫の没年は崇神10年(249年)となる。その前後の訪問記事が年表にあるとおり日本書紀と魏志倭人伝で一致していることから 開化天皇の没年も「日本上代の実年代」が正しいと考えられる。

また、「日野郡誌」によると、孝霊天皇が孝霊45年に鳥取県日野郡周辺にやってきて同71年まで賊徒を退治したと伝えられているが、私はこれが倭の大乱であると推定している。 日本書紀のとおりに半年一年暦で年代を計算すると孝霊45年が170年、71年が184年となり梁書に言う倭の大乱の時期である光和年間(178 ~183)とぴったりと一致し、孝霊天皇の没年までは日本書紀の年代はそのままでよいことがわかる。

 孝元天皇の在位年数は日本書紀で57年である。これは古事記の宝算の57年に等しい。日本上代の実年代でも古事記の宝算は寿命というよりは在位年数と関連が深いことが指摘されている。 孝元天皇の場合はそのものずばりである。問題は開化天皇にある。開化天皇は日本書紀における在位年数は60年で、古事記の宝算は63年である。「日本上代の実年代」によると、開化・景行・ 成務の三天皇の在位年数は不明であったがために平均の60年(通常紀年の30年)にしたとされている。それであるならば開化天皇の在位年数60年は怪しいことになる。ここでは倭の大乱が あった頃と孝霊天皇の在位時期が一致するためにそのまま開化天皇の60年を採用しているが、あるいは古事記の63年が正しいかもしれない。しかし、その差は半年一年暦で3年であるから、 63年を採用しても孝霊天皇時代に合致し矛盾は生じない。どちらが正しいかを判断する方法が今のところ存在しないので日本書紀の年代をそのまま使うことにする。

開化天皇の没年から推定される孝霊天皇の没年は1世代前であるから前表より245年-28年±21年である。つまり、196 年~238年となり、孝霊76年=187年より少しずれるようである。吉備津彦の謎の項で詳しく述べるが、吉備津彦の年代から推定して孝霊天皇の没年は200 年頃以降と考えられる。

日本書紀の紀年は天皇誕生年からの年数

神武天皇の即位が80年頃ということから、孝昭天皇の在位83年や孝安天皇の在位102年は半年一年暦としても42年と51年となり長すぎる。日本書紀の年代はそのままでは正しくないようである。

孝昭天皇 観松彦香殖稲天皇

書紀

修正

内容

春一月九日、皇太子は天皇に即位された。夏四月五日、皇后を尊んで皇太后とよばれた。秋七月、都を液上に移した。これを池心宮と いう。この年太歳丙寅。

29

15

春一月三日、世襲足媛を立てて皇后とした。

49

25

后は天足彦国押人命と、日本足彦国押人天皇(孝安天皇)とを生まれた。

68

34

春一月十四日、日本足彦国押人尊を立てて皇太子とされた。年二十。天足彦国押人命は、和珥臣らの先祖である。

83

42

秋八月五日、天皇は崩御された。

孝安天皇 日本足彦国押人天皇

書紀

修正

内容

春一月二十七日、皇太子は天皇に即位された。

秋八月一日、皇后を尊んで皇太后といわれた。この年太歳己 丑。

冬十月、都を室の地に移した。これを秋津嶋宮という。

26

13

春二月十四日、姪押媛を立てて皇后とされた。

38

19

秋八月十四日、孝昭天皇を綾上博多山上陵(奈良県御所市大字三室字博多山)に葬られた。

51

26

后は大日本根子彦太瓊天皇(孝霊天皇)を生まれた。

76

38

春一月五日、大目本根子彦太瓊を立てて皇太子とされた。 年二十六

102

51

春一月九日、天皇はなくなられた。秋九月十三日、 孝安天皇を玉手丘上陵(奈良県御所市玉手字富山)に葬られた。冬十二月四日、皇太子は都を黒田に移された。これを蘆戸宮という。

 上の表は孝昭天皇と孝安天皇の日本書紀の記述を年代ごとにまとめたものである。これを見ると、孝安38年に孝昭天皇を葬ったとある。死後38年(実は19年)もたってからの埋葬とは異常である。 孝霊天皇や孝元天皇が死後5・6年(実は2.3年)たってから埋葬されているが、ほかの天皇はその年か次の年には埋葬されている。孝安天皇は孝昭天皇の死後即位したのではなく、生前に譲位されたものと考えれば、この矛盾が説明可能である。ということは、日本書紀の紀年は在位中の紀年ではないことになる。

 また孝昭天皇も孝安天皇も皇后を決めたのが即位後29年と26年でいずれもかなり経ってからとなっている。古代は平均寿命も短く、流行り病などでいつ死ぬかわからない状態であり、後継者を早めに育てるのは大変重要なことと思われる。そのため皇后の決定は早くなければならない。このことは、この2天皇がかなりの若年で即位したか、紀年が即位からのものでないということを 示している。前天皇が死亡したのならともかく、生前譲位で若年即位というのは考えにくい。その結果、日本書紀のこの2天皇に関する紀年は、即位年を基準としているのではないと考えられる。では何が基準になっているのであろうか。

 孝昭天皇が没したのは孝安38年の少し前と仮定してみる。孝安天皇が誕生したのは孝昭48年であるが、その35年後に孝昭天皇が没している。この仮定によると日本書紀の孝安天皇元年は、孝安天皇誕生年とほぼ一致することになるのである。孝安天皇の紀年を誕生年を基準とするものとすれば、孝安35年(実は18年)に孝昭天皇が没し孝安38年(実は19年)に葬ったことになり、自然につながる。崇神天皇以前は古事記の年齢と日本書紀の在位年数の関連が深いのもこのことを裏付けている。日本書紀の初期天皇の紀年は天皇誕生年からのものと考えられるのである。これによると孝昭天皇誕生から孝安天皇没までの年数は149年(実は75年)となる。

 神武天皇即位が辛酉年であることはよく知られているが、これが正しいかどうかは定かでない、しかし、半年一年暦であることから計算した辛酉年は83年であり、推定した神武天皇即位年に極め て近く、誤差の範囲内で一致している。これが偶然である可能性は低く、神武天皇の即位年は83年が正しいと考えられる。神武天皇の在位年数の76年(実は38年)は初代天皇であるため、即位後 のものと考えられる。これにより、神武天皇の没年は121年となる。孝霊天皇の倭の大乱までの年数が50年ほどとなり、「上代日本正史」にあるように神武天皇も生前譲位していたものと考えら れる。

 懿徳天皇の誕生は安寧天皇の即位5年前となるが、それは安寧天皇14歳(実は7歳)で、しかも懿徳天皇は第2子である。これは医学的にありえないことである。綏靖天皇(33年)、安寧天皇(38年) 、懿徳天皇(34年)の在位年数を実年齢に直すと17年、19年、17年となる。他の天皇に比べて在位が非常に短いことと合わせて、この3天皇が兄弟相続であることの裏付けの一つである。しかし、 兄弟相続なのに3人合わせて53年とは長すぎる。この3天皇の紀年も年齢と判断する。その結果、いずれも早く没したことになる。

 神武天皇即位後朝廷の体制が固まるまで譲位はありえないし、3 天皇の死後即位ということも考えられないため、神武天皇の即位後15年前後してから譲位したものと考える。綏靖天皇の在位は100~102程度、安寧天皇は103~106程度、懿徳天皇が107~110程 度と考えられる。いずれも3~4年在位である。後の時代の兄弟相続にしてもそのようなものであるから妥当といえよう。3天皇とも若すぎる死であるため、嫡子の誕生は難しかったと考えられ るが、いずれも皇后がいたようである。奈良時代の貴族の平均結婚年齢は15歳であるという報告もある。当時は15歳あたりで一人前といった考え方があったのではないだろうか。この3天皇はい ずれも短命であったために、兄弟相続となったと考えられる。

 次の第5代孝昭天皇はある程度の年齢であることが必要とされ、懿徳天皇の子であるとすれば誕生直後の即位となり、「上代日本正史」にあるとおり、おそらく綏靖天皇の子であろう。孝昭天皇は 綏靖天皇の死と入れ替わる様にして誕生したものと考えられる。よって孝昭天皇の誕生は102年頃となり、孝昭天皇の没年は144年頃、孝安天皇の没年は177年頃となる。

孝霊天皇と孝元天皇の関係

 「上代日本正史」によると、孝霊天皇と孝元天皇はいずれも神武天皇5世であるが、別系統であるとなっている。後でも述べるが、このことのはっきりとした裏付けは取れていない。しかし、 年代を調べていくとこの2天皇が父子相続とは思えない面が出てくるのである。

 「魏志倭人伝」によると250年頃卑弥呼が没しているがそれは「年長大」と記録されている。80~90歳であったと仮定すると、卑弥呼の誕生は160~170年となる。卑弥呼は倭迹迹日百襲姫と 推定しており、孝霊天皇の長女である。また、弟の若建吉備津彦命も180年頃吉備国や出雲国との戦乱で活躍している。この兄弟はいずれも160~170年頃誕生していると思われる。孝霊天皇は この年代論で計算していくと149年誕生となる。孝霊天皇が20歳前後のときこの姉弟が誕生していることになる。後で述べるとおり、孝霊天皇は210年頃まで生存していたふしがあり、215年没 の孝元天皇の生存期間とほとんど重なるのである。孝元天皇、開化天皇の紀年は誕生年からではなく、即位年からと思われ、在位年から推定すると平均的寿命であったと思われる。孝霊天皇 と孝元天皇が親子であると考えられなくもないが、同世代である可能性が高い。

各天皇の没年と年代推定

 第一代神武天皇の即位年を83年として開化天皇の没年(245年)までの各天皇の没年を「上代日本正史」をもとにしてまとめると次のようになる。

 これを見るとほとんどの天皇が推定範囲に入っている。崇神天皇以降で範囲から外れているのは、短命であったと推定されている天皇のみである。崇神天皇以前では綏靖天皇から懿徳天皇までと 孝霊天皇の没年が推定領域から外れている。綏靖天皇から懿徳天皇までは早世と考えられる。孝霊天皇については同世代への生前譲位であるためと思われる。また、孝安天皇と孝霊天皇が同世代 という可能性もあるが、孝霊天皇が210年頃まで生存した可能性を考えると、やはり、孝元天皇と同世代と考える方が良いようである。

神武天皇以前の年代設定

 神武天皇即位はAD83年頃となったが、それ以前の人物の年代を推定してみよう。  神武天皇の父である鵜茅草葺不合尊は1世前でAD50~AD80ごろ、その母である天照大神(ムカツヒメ)はAD20~AD50ごろで、イザナギはさらにその1世前でBC10からAD20頃となる。スサノオは イザナギと同世代と考えられBC10からAD20頃が活躍時期となる。ここにあげた年代はその人物の活躍時期であり生誕はその20~30年前となる。

「上代日本正史」「古代日本正史」の年代を160年ほど溯らせて、「日本上代の実年代」に接続すると以後に述べるとおり、中国史書、考古学的事実、神社伝承が驚異的に照合するのである。

 推定した初期天皇の没年の世代間年数

人物 没年 1世 2世 3世 4世 5世 6世 7世 8世 9世 10世
0 83
1 神武天皇 121 38
2 綏靖天皇 107 -14 24
3 孝昭天皇 144 37 23 61
4 孝安天皇 173 29 66 52 90
5 孝元天皇 214 41 70 107 93 131
6 開化天皇 244 30 71 100 137 123 161
7 崇神天皇 278 34 64 105 134 171 157 195
8 垂仁天皇 297 19 53 83 124 153 190 176 214
9 景行天皇 325 28 47 81 111 152 181 218 204 242
10 日本武尊 310 -15 13 32 66 96 137 166 203 189 227
11 仲哀天皇 332 22 7 35 54 88 118 159 188 225 211
12 応神天皇 394 62 84 69 97 116 150 180 221 250 287
13 仁徳天皇 427 33 95 117 102 130 149 183 213 254 283
14 允恭天皇 459 32 65 127 149 134 162 181 215 245 286
15 雄略天皇 485 26 58 91 153 175 160 188 207 241 271
16 仁賢天皇 501 16 42 74 107 169 191 176 204 223 257
17 継体天皇 534 33 49 75 107 140 202 224 209 237 256
18 欽明天皇 571 37 70 86 112 144 177 239 261 246 274
平均 27.1 53.0 80.9 109.1 137.3 164.2 190.4 212.6 235.2 261.3
欽明天皇以降の平均 28.4 56.3 84.7 112.6 140.5 168.6 195.5 222.0 248.0 275.5

 欽明天皇以前の推定した没年をもとに計算した世代間年数を欽明天皇以降と比較したのが上の表である。若干少ない数値であるがほとんど一致していることが分かる。

 上のグラフは各時期の平均在世年数の変化を滑らかに処理したグラフである。7世紀から8世紀頃在世年数が高くなっているが、大体25年前後で推移していることになる。7世紀から8世紀の平均在世年数が高くなっているのは皇位継承が複雑化していることと関係しているものと思われる。

 一次近似した没年と実際の没年との比較

世数 人物 没年 一次近似 世数 人物 没年 一次近似
0 皇紀元年 83 77.1 5.9 35 後三條天皇 1073 1047.0 26.0
1 神武天皇 121 104.8 16.2 36 白河天皇 1129 1074.7 54.3
2 綏靖天皇 107 132.5 -25.5 37 堀河天皇 1107 1102.4 4.6
3 孝昭天皇 144 160.2 -16.2 38 鳥羽天皇 1156 1130.2 25.8
4 孝安天皇 173 187.9 -14.9 39 後白河天皇 1192 1157.9 34.1
5 孝元天皇 214 215.7 -1.7 40 高倉天皇 1181 1185.6 -4.6
6 開化天皇 244 243.4 0.6 41 後鳥羽天皇 1239 1213.3 25.7
7 崇神天皇 278 271.1 6.9 42 土御門天皇 1231 1241.0 -10.0
8 垂仁天皇 297 298.8 -1.8 43 後嵯峨天皇 1272 1268.7 3.3
9 景行天皇 325 326.5 -1.5 44 後深草天皇 1304 1296.4 7.6
10 日本武尊 310 354.2 -44.2 45 伏見天皇 1317 1324.1 -7.1
11 仲哀天皇 332 381.9 -49.9 46 後伏見天皇 1336 1351.9 -15.8
12 応神天皇 394 409.6 -15.6 47 光嚴天皇 1364 1379.6 -15.6
13 仁徳天皇 427 437.4 -10.4 48 崇光天皇 1398 1407.3 -9.3
14 允恭天皇 459 465.1 -6.1 49 榮仁親王 1416 1435.0 -19.0
15 雄略天皇 485 492.8 -7.8 50 貞成親王 1456 1462.7 -6.7
16 仁賢天皇 501 520.5 -19.5 51 後花園天皇 1471 1490.4 -19.4
17 継体天皇 534 548.2 -14.2 52 後土御門天皇 1500 1518.1 -18.1
18 欽明天皇 571 575.9 -4.9 53 後柏原天皇 1526 1545.8 -19.8
19 敏達天皇 585 603.6 -18.6 54 後奈良天皇 1557 1573.5 -16.5
20 押坂彦人大兄皇 607 631.3 -24.3 55 正親町天皇 1593 1601.3 -8.3
21 舒明天皇 641 659.1 -18.1 56 誠仁親王 1586 1629.0 -43.0
22 天智天皇 672 686.8 -14.8 57 後陽成天皇 1617 1656.7 -39.7
23 施基親王 716 714.5 1.5 58 後水尾天皇 1680 1684.4 -4.4
24 光仁天皇 782 742.2 39.8 59 靈元天皇 1732 1712.1 19.9
25 桓武天皇 806 769.9 36.1 60 東山天皇 1710 1739.8 -29.8
26 嵯峨天皇 842 797.6 44.4 61 直仁親王 1753 1767.5 -14.5
27 仁明天皇 850 825.3 24.7 62 典仁親王 1794 1795.2 -1.2
28 光孝天皇 887 853.0 34.0 63 光格天皇 1840 1823.0 17.0
29 宇多天皇 931 880.7 50.3 64 仁孝天皇 1846 1850.7 -4.7
30 醍醐天皇 930 908.5 21.5 65 孝明天皇 1867 1878.4 -11.4
31 村上天皇 967 936.2 30.8 66 明治天皇 1912 1906.1 5.9
32 圓融天皇 991 963.9 27.1 67 大正天皇 1926 1933.8 -7.8
33 一條天皇 1011 991.6 19.4 68 昭和天皇 1989 1961.5 27.5
34 後朱雀天皇 1045 1019.3 25.7

 上の表は神武天皇を1世とした各世の没年を一次近似をして、実際の没年と比較したものである。これをみると最大50年のずれがあるがすべての世代で50年以下の誤差に治まっている。

 神武天皇即位をAD83年とした各天皇の推定没年は、欽明天皇以降の没年とスムーズにつながることが分かる。

各種資料との照合

 ここで導かれた推定年代が考古学的事実及び中国文献と一致しなければ、この年代推定は間違いということになる。以下の年表が考古学的事実と推定年代を照合したものである。これを見 ると、伝承における人々の動きと外来系土器の出土状況、倭国、ヒノモト、大和朝廷の各時期における伝承上の勢力範囲と各種青銅器、外来系土器、墳墓、鉄器などいずれもきれいに一致して いることが分かる。ここで確認しておきたいことは、考古学的事実に照合するように伝承を組み合わせたのではなく、この年代推定の元で伝承を一本の線につないだら考古学的事実とこれだけ 一致したということである。

      伝承・中国文献・考古学的事実の対照年表

下の表は各豪族の世数と天皇系図の世数の対照表である。水色がついているセルの人物はその世数の天皇とほぼ同世代と確認できるものである。
この表より海部氏、大伴氏、吉備氏はすべての世代において天皇家と世代が一致している。これに対して物部氏、出雲氏、三輪氏は応神、仁徳朝における対応人物が見当たらない。大伴氏も一般には大伴武持の子が大伴室屋といわれているが、和泉国神別によるとここに佐彦、山前が存在し、きれいにその前後がつながる。また、景行・成務朝も該当する人物がいない豪族もあるが、この期間は短期間(20年ほど)であるためにありうることと判断する。
履中・反正・允恭朝以降はどの豪族も不自然な箇所なく継続している。
 応神・仁徳朝で何系統かの豪族に空白(赤色)が見られるのは神功皇后・応神天皇が大和を制圧したとき、旧大和朝廷側についた豪族が処罰を受け、履中朝までの間中央から遠ざけられていたためではないかと想像する。

 おもな豪族の系図

 

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豪族系図との照合
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