神武天皇行程調査

高洲宮
   (広島県尾道市高須)

因島市大濱を出港した神武天皇一行は、現在の尾道市高須の大元神社の地に上陸し、高須八幡神社の地でしばらく滞在した。滞在中同行者一行を同町大田地区の賀茂諏訪神社の地で武器調達をしたと伝える。天皇はしばしば大田地区を訪れたそうである。

賀茂諏訪神社から見た大元山
       山麓に高須八幡神社あり
大元山から見た賀茂諏訪神社
      神武天皇武器調達伝承地

神武天皇はこの地にしばらく滞在した後、4kmほど東の御蔭山(現在の竜王山)にて長期滞在している。ここではかなり大規模の祭祀を行なっており、その準備のための滞在ではないかと思われる。

賀茂諏訪神社境内にある高洲宮の石碑 賀茂諏訪神社境内


御蔭山
  広島県福山市現竜王山

 高洲宮を出発した一行は松永湾の海岸に沿って東行し、福山市松永町柳津の貴舟神社の地に上陸し、ここに舟をつけた。

貴舟神社境内の天皇上陸の地石碑 神社前の道にあった御蔭山登山本道の道しるべ

貴舟神社前の道路には右上の写真のような道しるべがあった。往古より御蔭山への登山道になっていたようである。神武天皇もここから御蔭山に登ったものと考えられる。

神武天皇宮址と伝える王子神社

貴舟神社から500mほど東に神武天皇の宮址と伝える王子神社がある。天皇は御蔭山山頂近くに長期間滞在していたようなので、ここは、おそらく御蔭山に移るまでの仮宮であろう。

高嶋宮旧址の石碑 神王屋敷跡?

御蔭山山頂に登ると、山頂手前に高嶋宮址を示す石碑があった。神武天皇聖蹟誌によると、この石碑は元来この地ではなかったそうである。神武天皇の宮址は山頂の少し西にある神王屋敷であると書かれている。しかし、その跡は容易にわからず、調査には苦労した。山頂の西側の道に車が入っていけるようなやや広い道があった。その道に沿って奥地に入っていくと、右上のような広場があり、ベンチやあずま屋が立っていた。公園とするには荒れ果てていた。今後整備されるのかよく分からない。屋敷を立てる場所というのは平坦地でなければならず、まずこの場所以外には考えられない。

神王屋敷跡近くから見た御蔭山山頂


 天皇はここに滞在中向かいの磐田山に天津磐境をつくり、大規模な祭礼を行なった。天津磐境の巨石は麓の奈良木から担いで上がったと伝えられている。こういった伝承から推察するに、この周辺に神武天皇はかなり長期にわたって滞在していたことになる。

浦崎高嶋宮

 御蔭山周辺に滞在した神武天皇は次に浦崎に移動したようだ、今の浦崎は半島部になっているが、弥生時代には島であったようである。この島を高嶋と読んでいた節がある。浦崎の先に戸崎という場所があるがこの小学校脇の海岸に嶽神社がある。神武天皇が上陸したという伝承地である。

嶽神社 神社前の海岸(松永湾)

浦崎中央部に王子神社があり、ここが高嶋宮跡と伝えられているが、この神社はまだ未調査である。

田嶋高嶋宮

浦崎から鞆の浦へ向かう国道沿いに福山市内海町へ行く道がある。内海町は田嶋と呼ばれる島であり、内海大橋を渡って行くことができる。この島にも高嶋宮跡の伝承地がある。

皇森神社境内の高嶋宮跡石碑 神社の遠景(中央の気があるところ)

 湾の奥に皇森神社がある。この神社は神武天皇が滞在した後に立てられたものと言われている。弥生時代の当時は今よりも数十mほど海面が高かったようであるが、この伝承地は少し海抜が低いようである。10mほどの海抜の場所と推察する。もし滞在が事実だとすれば、もう少し奥ではないかと思われる。

田尻高嶋宮

 田島を出た神武天皇は芦田川河口付近に再び上陸した。現在の福山市田尻町である。ここは現在でも高島という地名が残っており、弥生時代の昔は島であったようだ。

八幡神社の入り口にある高嶋宮跡石碑 田尻町宮原周辺
   (この周辺に宮があったと伝えられている。)

 田尻町高嶋には八幡神社があり、ここに高嶋宮跡の石碑があった。しかし、言い伝えによると、宮址はこの地ではなく、さらに北へ行った才の峠近くの宮原にあったそうである。高嶋が島だった昔は才の峠あたりがかろうじて本土とつながっていたと思われ、その入り江の一番奥に当たる位置に宮跡の伝承地がある。海岸部におけるいままでの神武天皇滞在地の共通点は入り江の最奥地である。ここもそれにあたる。宮を作るのに都合がよかったものと考えられる。大正時代まではこの周辺に橿原神社があり神武天皇が祭られていたそうであるが、現在は八幡神社に合祀されている。

 弥生時代中期末から後期前葉までは芦田川沿いに出雲系土器がまばらに出土することから、また、スサノオの伝承によっても神武天皇が大和におもむくまではこの周辺は出雲との往還道があったものと考えられる。神武天皇もここに滞在しながら出雲とのさまざまな交渉をおこなったのではあるまいか。


吉備津神社広島県尾道市山波町

H16.11.21調査

 吉備津彦が吉備平定の折、尾道に上陸したと伝えられている場所があると聞き、その場所(吉備津神社)に行ってみた。現在は尾道造船所の敷地内にある。以前あった場所から移されたらしい。

ウバメガシ説明板 ウバメガシ

神社にあったウバメガシは説明板によると吉備津彦のさした杖から芽を吹いたものだそうで、これが巨木として現存しているのである。

吉備津神社 艮神社

吉備津神社から300mほど離れたところにある艮神社とこの神社は同じ神社だそうである。

 南宮神社

H16.11.21調査

 広島県府中市に吉備津彦を祭った南宮神社があることが分かったので、早速調査してみることにした。昔は神仏習合であったが明治になっての廃仏毀釈により神宮寺と分かれたといわれている。吉備津神社が備後一ノ宮になるまではこの南宮神社が一ノ宮だったそうでここを調査することにより何か分かると思った。参道を進んでいくと左手に案内板があった。その案内板をみて仰天した。

神社入り口の案内板 南宮神社

なんと孝霊天皇の御陵があると書いてあるではないか。孝霊天皇の御陵は大和にあることにはなっているが、倭の大乱後に孝元天皇に譲位したあとの行動についてはまったくの不明であった。大和に帰ったのか、あるいは鳥取県溝口町宮原の楽楽福神社の地に長期滞在したのかと思っていた。ここに御陵があるということは、譲位後はこの地に滞在していたことになる。これは大きな発見であると喜び勇んで参拝した。

本殿説明板 南宮神社本殿

南宮神社は吉備津彦が主祭神であると思って参拝したが、この説明板を見ると孝霊天皇になっていた。私は吉備津彦が吉備国平定の途中この地にやってきたと考えていたのであるが、どうも違うようである。孝霊天皇が祭神になっていることは分かっていたので、孝霊天皇の吉備国での行動の痕跡が分かればと思って訪問したのであるが、主祭神であるとは思わなかった。

 何とか孝霊天皇陵を見てみたいと周辺を探してみると、それらしき立て看板があった。

孝霊天皇陵説明板 孝霊天皇御陵伝説地

この説明板をみてまたびっくりした。私は、これまで、孝霊天皇は孝元天皇に譲位した後しばらく生きていたと推定していた。そうしないと五十狭芹彦(卑弥呼の男弟)の存在が説明できないからであった。しかし、それを裏付けるものは何もなかったのである。この説明板はきれいにそれを裏付けてくれたのである。孝霊天皇は孝元天皇に譲位後ここに住まわれていたのである。おそらく、五十狭芹彦はここで誕生しているのであろう。
 早速その御陵に参拝した。丘陵の突端に直径6m高さ2mほどの盛り土がしてあり、その周りを石垣で囲んであった。石垣で囲んだのは後世のものであろう。この御陵は丘陵突端の小規模な盛り土からして、古墳時代よりも前のものと推定する。孝霊天皇は215年ごろ無くなったと推定しているので、そのようなものであろう。

 大変大きな収穫のあった南宮神社である。