倭の大乱年代推定

 

伝承 倭迹迹日百襲姫 新羅 百済
孝霊 干支 西暦 天皇関連伝承 吉備津彦関連伝承 年齢 新羅暦 百済暦
45 乙卯 170 伯耆国遠征
因幡国・隠岐国・伯耆国朝廷支配下に服属
7 倭迹迹日百襲姫大和出発 赫居世50 温祚13 漢城に遷都
46 丙辰 170.5 8 倭迹迹日百襲姫讃岐到着 赫居世51 温祚14
47 丁巳 171 出雲神宝検校(垂仁26年) 9 赫居世52 温祚15
48 戊午 171.5 鶯王誕生 10 赫居世53 温祚16
49 己未 172 11 赫居世54 温祚17 楽浪が攻めてきた
50 庚申 172.5 12 赫居世55 温祚18 靺鞨が攻めてきた
51 辛酉 173 13 赫居世56 温祚19
52 壬戌 173.5 孝安天皇崩御・孝霊天皇大和帰還 14 赫居世57 温祚20
53 癸亥 174 孝霊天皇即位 大和出発・29歳
播磨道口での祭祀(ホツマツタエ)
15 赫居世58 温祚21
54 甲子 174.5 大吉備諸進命没 吉備国上陸
温羅退治
16 南解1 楽浪軍来襲 温祚22 靺鞨と戦う
55 乙丑 175 孝霊天皇伯耆国へ 吉備上道平定 17 南解2 温祚23
56 丙寅 175.5 菅福に宮を作る
福姫誕生
18 南解3 温祚24
57 丁卯 176 美作国服属 19 南解4 温祚25
58 戊辰 176.5 孝霊天皇大和帰還 20 南解5 脱解に長女を嫁がせる 温祚26 馬韓を攻撃
59 己巳 177 21 南解6 温祚27 馬韓滅亡
60 庚午 177.5 旭川流域平定 22 南解7 脱解を大輔に任じる 温祚28
61 辛未 178 月支国(朝鮮)の彦波瓊王多数の軍船を率いて襲来す。特に神の宮鳴動し虚空より自羽の征矢落つるが如く飛びゆき、見るほどに波風荒びて賊船覆没せり 23 南解8 温祚29
62 壬申 178.5 24 南解9 温祚30
63 癸酉 179 孝霊天皇讃岐へ 25 船岡山に移動 南解10 温祚31
64 甲戌 179.5 孝霊天皇吉備中山到着 26 南解11 倭人が兵船百艘あまりで海岸地方の民家を略奪した。
楽浪軍が攻めてきた
温祚32
65 乙亥 180 児島平定 27 田村神社の地に移動 南解12 温祚33
66 丙子 180.5 28 南解13 温祚34
67 丁丑 181 百襲姫訪問
吉備国服属
29 南解14 温祚35
68 戊寅 181.5 大倉山の戦い
印賀に宮を作る(福姫13歳)
高梁川流域平定
石蟹魁師荒仁退治
大倉山平定
30 南解15 温祚36
69 己卯 182 31 南解16 温祚37
70 庚辰 182.5 福姫の死(15歳)
宮内に宮を作る
32 南解17 温祚38
71 辛巳 183 細姫の死 小田川流域平定 33 南解18 温祚39
72 壬午 183.5 鬼林山の戦い
御墓山参拝
備後国平定・鬼林山平定 34 南解19 温祚40 靺鞨が攻めてくる
73 癸未 184 出雲侵入
鶯王の死
鬼住山の戦い
出雲振根平定 35 南解20 温祚41
74 甲申 184.5 36 南解21 温祚42
75 乙酉 185 和平交渉 37 和平交渉 儒理1 温祚43
76 丙戌 185.5 孝霊天皇退位 38 卑弥呼に即位 儒理2 温祚44
孝元
1
丁亥 186 孝元天皇即位 39 儒理3 温祚45

 出雲振根関係推定系図

素盞嗚尊穂日命─天夷鳥命─津狭命─久志和都命─知理命─毛呂須命┌出雲振根命
   ├天穂日命─天夷鳥命─津狭命─久志和都命─知理命─毛呂須命┴飯入根命──鵜濡淳・・・出雲国造家
日向津姫
   ├─鵜茅草葺不合尊─神武天皇┬神八井耳─武宇都彦──武速前─孝元天皇──開化天皇
高皇産霊神茅草葺不合尊─神武天皇└綏靖天皇─孝昭天皇─孝安天皇─孝霊天皇

 後漢書東夷伝

後漢書「東夷伝」に

「後漢の桓帝・霊帝時代(147~189)に倭国は大いに乱れ,互いに戦い,何年もの間,主となる王を立てられないほどだった。」とある。 この争いは,卑弥呼を共立する事により収まったようである。この時期は,東アジア全体が寒冷期に入ったようで,中国でも,黄巾の乱が起こり,後漢が倒れ, 三国時代を迎えている。不作続きだったことが予想され,人々の生活が苦しくなり,反乱が起こりやすかったと考えられる。この大乱は一般に倭の大乱と呼んでいるがどのような争いだったのだろうか。

 古事記の記事

 年代推定によるとこの時代は,第六代孝安天皇から第八代孝元天皇の頃と考えられる。そこで,古事記の孝霊天皇の条を見ると,

「大吉備津日子命と若建吉備津日子命とは,二柱共々に,播磨の氷河の碕に斎瓮をすえて神を祭り,播磨口を入口として,吉備国を平定なさった。」

と書かれている。第二代綏靖天皇から第九代開化天皇の間は,古事記・日本書紀ともに,出来事について,全く記されていないのであるが,唯一,この記事のみがある。 よほど,大きな事件だったのではないだろうか。

 古事記と日本書紀の食い違い

 ここに登場する吉備津日子命は,日本書紀では,第10代崇神天皇の条に登場する。古事記と日本書紀とで,時代が合わないのである。 吉備地方や山陰地方の神社には,吉備津日子命は孝霊天皇と共に祭られている例が多いことから古事記の方が正しいと考えられる。どうやら, 日本書紀は,孝霊天皇の頃からの記事を,すべて,崇神天皇の所に集めて記録しているようである。 この大乱をそのまま記述するには,朝廷にとって不都合だったものと推察される。

 戦闘遺跡

 遺跡に関して調べてみると,弥生時代における本格的戦闘があったと考えられる遺跡というのはほとんどないのであるが,大阪湾岸地方 から瀬戸内海沿岸地方にかけて,二世紀後半の集団戦の跡と考えられる遺跡が数多く見つかっている。また,この頃のものと考えられる高地性集落が瀬 戸内海沿岸地方に多数みつかり,また鉄鏃の出土数を調べてみると,他の地方の鉄鏃出土数に大きな変化はないのであるが,中国地方は後期中葉から後 葉にかけて急激に増大している。しかも ,実践的な小型の鉄鏃が多いのである。これらから,後期中葉から後葉にかけて(2世紀中頃から後半)の大阪湾岸 から瀬戸内海沿岸地方が,軍事的緊張状態にあったことは間違いなさそうである。これらの遺跡は,吉備津彦命の進軍コースと一致している上に, 年代もほぼ一致するので,この大乱に関連していると考えられる。どうやら,二世紀後半に,出雲・吉備・讃岐連合軍対大和朝廷の大乱があったよ うである。

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