三種の神器

 現在の皇位継承には三種の神器(八咫鏡・草薙剣・八坂瓊の勾玉)が存在している。この三種の神器の起源はどうなっているのであろうか。

 

一般的にはそれ次のように伝えられている。

 八咫鏡

 真経津鏡(マフツノカガミ)という別名を持つ鏡。記紀神話における『天の岩戸隠れ』伝承で、石凝姥命が天照大神を引きつけて岩戸から誘い出すために作りだした。当初の目論見通り、外の騒ぎが気になった天照大神が岩戸を少し開けたところでこの御鏡を用い、自分の映った姿を見せてさらに興味を持たせ、最終的に天手力男命によって引き出され、この世に再び太陽が戻った。

のちの天孫降臨の際に、天照大神はニニギノミコトに餞別として、御剣と御玉とともにこの御鏡を渡している。

 天照大神の詔(斎鏡の神勅)によれば、御鏡はご歴代の天皇が同殿同床をなさるという。崇神天皇の時代、これでは神威を冒涜する恐れがあるというので、宮中に同殿同床であったのを別に社を建て、同殿同床ではないことになった。宮中以外に奉斎することになり、最初は笠縫、それから伊勢に鎮座した。
 のちに八咫鏡は伊勢神宮に祀られた御神体と、皇居に安置される“賢所(かしこどころ)”の鏡の二つが存在する事となった。伊勢の神鏡は「八葉」と言う御名が奉られており、明治天皇による天覧があったのを除けば、常に内宮で奉祀されている。一方の賢所で祀られた鏡は火災、戦災など、幾度か災難に遭いつつも今なお皇居に鎮座している。

 天照鏡作坐神社(祭神天火明=饒速日尊)の伝承や「古語拾遺」によれば,「崇神天皇六年,この神社の地で,日像 之鏡として二枚作られ,一枚目は紀伊国日前神社に二枚目が伊勢神宮に納められた。」とある。この二枚目の鏡が八咫の鏡である。そして, 内区だけの三角縁神獣鏡が神宝として保存されている。

 日前神宮・国懸神宮(・祭神日前大神・国懸大神和歌山県和歌山市秋月365・式内社・旧官幣大社)の社伝によると、日前神宮の祭神は日前大神、日像鏡を神体とする。相殿には思兼神・石凝姥命、右の国懸神社は主祭神国懸大神、相殿日矛鏡を御神体とし玉祖命・明立天御影命・鈿女命で御神体の鏡は伊勢神宮の神宝の八咫鏡の同等のものとされる。八咫鏡が伊勢神宮の神体とされていたので、日前宮・国懸宮は重要な神として皇祖神に準じた扱いを受けてきた。
 朝廷は神階を送らない特別な神宮とされてきた。『日本書紀』には天照大神の岩戸隠れの際の、石凝姥命が八咫鏡の鋳造した鏡を日前宮に祀られている。
神武天皇の東征後、紀伊国造家の祖神である、天道根命が八咫鏡に先立って鋳造された鏡であると言うことで日像鏡・日矛鏡を賜り、日像鏡を日前神宮の神体に、日矛鏡を日懸神宮の神体にした。

 草薙剣

 素戔嗚尊が八岐大蛇の尾を十束の剣で切断するときに、十束の剣が刃こぼれを起こしたために、その尾の中を調べると剣があったとされる。この剣が草薙剣(正式名は天叢雲剣)である。素戔嗚尊は高天原に上がるときに天照大神にこの剣を奏上したとされる。

 島根県御代神社(尾留大明神)旧社地に天叢雲剣の発祥地がある。八塩折の酒に酔いつぶれた大蛇を退治した須佐之男命は、この御立薮で大蛇の尾を開いて宝剣を得られたが、その宝剣の上に怪しき雲があったので、「天叢雲剣」と名づけて天照大神に献上になり、後、三種の神器の一つとして今も名古屋の熱田神宮に祭られている。
 この御立薮(現在は畑地)は須佐之男命と稲田姫を尾留大明神と称し広く崇拝されていたが、斐伊川の氾濫により、延亨元年(1744)約200メートル南方のここ大津の丘陵中腹に移転。明治4年に御代神社と改称され、更に大正元年日吉神社地に移転合祀して今の御代神社(南方500メートル)となっている。

 草薙剣(正式名は天叢雲剣)の本体は現在、名古屋市熱田区の熱田神宮本殿に安置されている。「古事記」「日本書紀」によると、草薙剣を含む三種の神器は、天照大神が孫のニニギノミコトが地上に降臨する際に携えさせたといい、9代・開化天皇の時代まで皇宮に止め置かれ、10代・崇神天皇のときに剣と鏡が笠縫邑(かさぬいのむら)に移され、11代・垂仁天皇の代にさらに2つの神器(剣と鏡)は伊勢へ移されたという。日本武尊が東国征伐の時に倭姫命から宝剣を預かり、東征の帰りに熱田神宮の宮簀命に草薙剣を渡して現在に至る。

 江戸時代の初め、熱田神宮の大宮司や社家の人たち数人が密かに草薙剣を見たという記録によると、草薙剣は樟のくりぬき箱の中にある黄金の延板の上に草薙剣が置いてあり、その楠箱を木箱に入れて周囲を赤土を詰め、さらに大きな木箱の中にその木箱を収めて周囲を赤土で埋めて密封してあるといわる。この木箱は「天叢雲剣鎮座御箱」という。草薙剣の形状は長さは85㎝、刃先は菖蒲の葉に似て中ほどに厚みがあり、柄は魚の背骨のように節立ちで、全体は白かったという。

 現在、皇居にある草薙剣は分身であり、二代目である。天皇皇后両陛下の寝室の隣にある「剣璽の間」に安置されているという。「古事拾遺」によると、神器と同居するのは畏れ多いということから、10代崇神天皇が新たに分身を制作し、護身のしるしとして皇宮に置いた。この崇神天皇が制作した草薙剣の分身が、壇ノ浦にて安徳天皇とともに水中に没し、行方不明になった。なお順徳天皇の著「禁秘抄」には、行方不明後20年は清涼殿の御剣・昼御座剣で代用、順徳天皇が即位した1210年、伊勢神宮から剣を奉って新たに宝剣(二代目分身の草薙剣)とあり、この宝剣が現在皇居にあるものという。

 八坂瓊の勾玉

 日本神話では、岩戸隠れの際に後に玉造連の祖神となる玉祖命が作り、八咫鏡とともに太玉命が捧げ持つ榊の木に掛けられた。後に天孫降臨に際して瓊瓊杵尊に授けられたとする。

『日本書紀』神代紀一書では、素戔嗚尊が「ある神」から「瑞八尺瓊曲玉」を手に入れたとある。「ある神」についての記述はなく不明である。素戔嗚尊は天照大神との誓約の場でこれを献上したが、アマテラスは曲玉を噛み砕いて占いし、そこから宗像三女神が生まれている。

 日本書記垂仁天皇87年の条に、丹波国桑田村の甕襲という人物の犬(足往)が山の獣をかみ殺したら腹の中から八尺瓊「勾玉」が出てきたので、これを天皇に献上したという。

玉造湯神社
 御祭神、櫛明玉神(八坂瓊勾玉並に宝玉御製作の祖神)、大名持神・少彦名神(当地温泉発見、温泉守護、温泉療法、薬、秘呪の祖神)、五十猛神(同社座、韓國伊太弖社、植林・殖産・産業振興の祖神)。
 玉作湯神社は、玉造温泉、玉造川東岸の小高い林の中に鎮座まします式内の古社であります。
 「貞觀十三年十一月神階従四位下を授く」と三代実録に見え、現今は此の地の氏神で旧県社であります。
 櫛明玉神は、天明玉、豊玉、羽明玉、玉祖神などの異称をおもちになって居て、天岩戸の前で神々のお計らいで神楽を奏せられた時、真榊の枝に懸けられた八坂瓊之五百箇御統玉は此の神の御製作であった事は、古語拾遺に明記せられ、玉作部の遠祖と仰がれ、此の地方に居住し、此の地の原石を採って宝玉の製作をお司りになったと伝え、日本書紀に「素盞鳴尊が天に昇りまさんとする時、羽明玉神(古語拾遺には櫛明玉命とあり)は道に出迎えて、瑞八坂瓊の勾玉を進め、素盞鳴尊は之を御姉天照大御神に献上になった」ことが記され、社伝には三種神器の八坂瓊の勾玉は命が御製作になったものと伝えています。
 天孫降臨の際、櫛明玉命は随従の五部の神の御一人として、玉作の工人を率いて日向に御降りになり、命の子孫一族は所属の工人と共に出雲玉造郷に留まって製玉に従事し、其部の長たる櫛明玉命の薫督をお受けになったと云われ、古語拾遺に「櫛明玉命之孫、御祈玉を作る。其の裔、今出雲國に在り、毎年調物として、其の玉を進む」と記され、又同書に「櫛明玉命は出雲國玉作祖也」と見えています。

 玉作湯神社は『出雲風土記』、『延喜式』などにも載っている古社である。伝承では、素戔嗚尊が天照大神に献上した八尺瓊勾玉は、そもそも櫛明玉命が素戔嗚尊に送ったものとされる。また、玉造遺跡の近くには、櫛明玉神の墓と伝えられる玉造築山古墳(5世紀古墳時代中期)などもある。

 古代における鏡・剣・瓊の扱い

  『日本書紀』「仲哀紀」八年の条によると、第十四代仲哀天皇が九州の熊襲征伐の為に筑紫に進軍した時、岡の県主の祖、熊鰐が天皇の進軍を知り、五百枝の賢木を用意し、九尋の船の軸にそれを押し立てて、その上枝に白銅鏡、中枝に十握剣、下枝に八尺瓊をかけて、周防に参向して迎えたとある。また、同じく仲哀天皇が岡津にとどまっていたときに、筑紫の伊都県主の祖が、天皇の行幸を知り、同じく五百枝の賢木をとって、船の軸路にたて、上枝に八尺瓊、中枝に白銅鏡、下枝に十握剣をかけて、穴門の引嶋に参向して出迎えたという記録も残っている。

 三種の神器決定の時期

 三種の神器は記紀神話によると、いずれも神話時代に作られたことになっているが、 弥生時代の墳墓の副葬品に鏡・剣・瓊の三点セットが副葬されるのは弥生時代終末期以降である。よって、鏡・剣・瓊に特別な意味が付け加えられたのは、三世紀で、まさに卑弥呼の時代ということになる。

 八咫鏡について

 国産仿製鏡は1世紀ごろより出土するが、1世紀のものと思われる鏡は製造技術が未熟なために、貧弱なものが多い。製造技術が向上し優れた鏡を作ることができるようになったのは3世紀になってからである。卑弥呼が中国から鏡鋳造技術者を招いて、技術指導を受けてから鏡の製造技術が向上したものと思われる。また、八咫鏡は崇神6年(AD247年)に作られたという伝承が正しいと思われる。

 卑弥呼が地方の諸国を直接支配するために、地方の支配者をそのまま国造に任命することを考えていた。この時にそのシンボルとして鏡を使おうと、魏に使者を出し鏡を製造する技術者を多数国内に連れてきた。この時鏡の重要性が認識され始めた。このような時、崇神6年(AD247年)、皆既日食が起こり、太陽の光を反射する鏡の必要性が決定的なものとなり、その代表的鏡として八咫鏡が作られたものであろう。三輪山を模した大和朝廷のシンボルである三角を数多く使っている三角縁神獣鏡がその有力候補と考えている。

 八尺瓊勾玉について

 八尺瓊勾玉は出雲の玉造で作られたとされているが、出雲で玉造が開始されるのは古墳時代前期中頃(AD300年頃)になってからである。八坂瓊勾玉も神代製造のものではないようである。

 出雲で玉造が始まった時期、日本書紀垂仁紀の記事によりAD300年以降と思われるが、仲哀天皇紀の記事よりAD330年には勾玉は三種の神器になっていたことが推定される。垂仁天皇87年は追加年代なので、他の時代のものがこの年に挿入されていることになる。おそらく景行天皇の時代であろう。この期間はほとんどが景行天皇の在世期間である。八尺瓊勾玉が三種の神器として認識されたのは景行天皇の時代と推定される。

 景行天皇と出雲とのかかわりとして考えられるのが、景行20年(AD307年)に出雲王朝を廃止し、日本武尊と出雲健との戦いが行われていることである。正式には出雲王朝は廃止されたのではなく、景行天皇が出雲王朝15代遠津山岬多良斯神から王位を受け継いでいると推定している。このとき、出雲王朝の王位継承の印として出雲から献上されたものが八尺瓊勾玉ではないだろうか。これが、最も矛盾が少なく説明できる解釈である。

 「瓊」は赤い玉を意味し、この当時の出雲では玉造の花仙山でメノウが産出されるようになったので、八坂瓊勾玉は赤メノウ製ではないかと推定する。

 草薙剣について

 三種の神器のうち最も解釈が難しいのが、この草薙剣である。神宝である草薙剣を盗み見た記録によると、白銅製(銅・錫)の両刃の剣のようであるが、素戔嗚尊の八岐大蛇の記述と矛盾するのである。素戔嗚尊は鉄剣と思われる十握剣で八岐大蛇の尾を切ったときに草薙剣にぶつかって刃こぼれを起こしているのである。鉄剣に刃こぼれをさせるには鉄剣以外にはないと思われる。しかし、鉄製の剣を現在まで美しい状態を保って保存することはほとんど不可能であろう。

 古代において剣は鉄製であって初めて威力を発揮するものである。草薙剣は元来鉄製であったと思われるが、鉄製のものは未来永劫保存することはできないということを当時の人たちも知っていたことであろうから、どこかで複製を作って、それを草薙剣として三種の神器にしたのではないかと考える。

 10代崇神天皇が草薙剣を皇居外に出しており、この時に形代を作ったとされている。この形代が壇ノ浦の戦いで失われている。この時に、鉄製では代々継承することはできないとして、形代と同時に本物も鉄製から白銅製に作りかえられているのではないだろうか。

 草薙剣が白銅製であるならば、この剣は実戦としての能力はないことになる。鉄よりも重く柔らかいのである。シンボル的意味しかないことになる。日本武尊が草薙剣を持って東征しているが、この時日本武尊は草薙剣を用いて戦ったという記述はない。草を薙いだのみである。武器としての要素よりもシンボルとしての要素が強かったようである。

 草薙剣が東国の人々に対してシンボルとして威力を発揮するためには、東国の人々が草薙剣の存在を知っておく必要がある。東国の人々に広く知られているためには、東国開発をした饒速日尊か大山祇命の持ち物であった可能性が考えられる。

 古代の神剣について

 古代には神剣とされている剣がいくつかある。

 布都御魂剣は、素盞嗚尊の父布都が朝鮮半島から緊急避難した時に日本列島に持ち込んだもので、十握剣とも言われている。素盞嗚尊が持ち出しヤマタノオロチ殺害に使用した。その後、天照大神との誓約の中で3つに折って5男を誕生させたと伝えられています。この剣には謎が多く、次の5種類が知られている。

① 神武天皇東遷時、高倉下命から神武天皇に手渡された剣
 天照大神と高皇産霊神から建御雷神=饒速日尊に渡り、建御雷神から高倉下命にわたった剣、古代天津日嗣の御印とされていた神剣

② 饒速日尊が岡山県赤磐郡を巡行中に石上布都御魂神社に奉納した剣
 素戔嗚尊が八岐大蛇を切った刀で、八岐大蛇退治の後、この神社に奉納されたと伝えられている。奈良県の石上神宮に現存しているが、素環頭太刀で三輪山から伝承どおりに発掘されたものである。10代崇神天皇の時代に石上布都御魂神社から移されたものと伝えられているが、内反りという特徴からこの素環頭太刀は古墳時代に製造されたもののようで、崇神天皇の時代、石上布都御魂神社周辺の技術者集団によって作られたものと推定している。この剣こそ本物の布都御魂剣と推定しているが、本物はおそらく紛失し、石上布都御魂神社周辺の技術者集団によって作られたものではないかと思っている。本物は武埴安彦が皇位継承の御印として持ち出し、戦乱のさなかに紛失してしまったのではないかと推定している。

③ ウマシマジが饒速日尊から受け取った剣
 ウマシマジが東日本統一に協力しているので、十種の神宝の一つ布留御魂剣と思われる。

④ 秋田県大仙市の唐松神社にあるといわれている剣
 饒速日尊が出羽国統一時に大和から持ち込んだものと推定、十種の神宝の一つ布留御魂剣と思われる。

⑤ 茨城県の鹿島神宮の神宝の剣
 製造時期が後世のものと推定、建御雷神が持ち込んだ剣で、建御雷神=饒速日尊なので、饒速日尊が東日本統一のシンボルとした剣で、布留御魂剣と思われる。

の5つである。

 石上神社には剣と思われるものが3本奉納されていて、布都御魂剣・布都斯御魂剣・布留御魂剣である。それぞれの名は所持していた人物の名で布都御魂剣は素戔嗚尊の父布都で、布都斯御魂剣は素戔嗚尊・布留御魂剣は饒速日尊である。この3つの剣は上の5つの剣のどれに該当するかを推定すると、

 布都御魂剣(十握剣)

  八岐大蛇を切った剣で、若き素戔嗚尊が父の遺品を持ち出して八岐大蛇を切ったと推定している。②が該当し、中国大陸か朝鮮半島製の反りのない直刀の素環頭太刀ではないかと思われる。

 布都斯御魂剣

  素戔嗚尊自身が北九州統一時に北九州技術者集団に作らせた刀ではないかと推定。①が該当すると思われる。素戔嗚尊が倭国統一のシンボルとして使っていた剣で、素戔嗚尊が、出雲に帰還するとき倭国統一のシンボルとして高皇産霊神と日向津姫に渡し、大国主命の急死後紀伊国を倭国からヒノモトに所属替えするときに、そのシンボルとして高皇産霊神から饒速日尊に渡り、饒速日尊が紀伊国の統治者である高倉下に手渡し、神武天皇東遷時高倉下命から神武天皇に渡った物と推定。西日本地域(倭国)内での統一のシンボルとしての威力があったと思われる。

 布留御魂剣(八握剣)

  AD25年ごろ大和に旅立つ饒速日尊に素戔嗚尊が手渡した十種の神宝の一つの剣で、③④⑤がこれに該当すると思われる。饒速日尊が東日本統一のシンボルとした剣で、①と同一の剣という説もある。 

 これら3本の剣はいずれも布都御魂剣と呼ばれることがあり、三本存在していたことになる。しかし、②⑤は明らかに複製品で、これは素盞嗚尊が誓約のときに3つに折ったと伝えられていることにもつながり、このとき複製品を作ったのではないかという結論に達する。一説には十握剣と布都御魂剣は別物と言われている。そうなると十種神宝の剣は十握剣で饒速日尊からウマシマジに渡され、布都御魂剣は、饒速日尊から高倉下命を介して、神武天皇に渡されたことになる。古代史の復元ではこの剣が布都斯御魂剣となる。伝承により、この三種の剣に混乱が生じている。

 神武天皇東遷の流れからすると、高倉下命がなぜ、この剣①を持っていたかが謎となる。記紀伝承によると、天照大神と高木ノ神は,建御雷神を下界に派遣しようと話したが,建御雷神は「その必要はない。我が太刀を与えようぞ」と話し,続けて高倉下の方を向いて「朝になったら倉を探すがよい」と告げた。朝になり目が覚めた高倉下が倉を探すと,夢に出てきた一振りの剣が見つかったのである。この剣こそが布都御魂剣で,神武天皇一行が紀伊の熊野に到着したときに,どこからともなく現れた大熊の魔力を退け,ほかにも数々の悪霊を消し去ったとされる剣である。このことからこの剣の元の持ち主は建御雷神=饒速日尊となり、①③④のどの剣も饒速日尊が持っていた剣と言うことになる。現実の話として、AD45年ごろ、紀伊国が倭国から日本国に所属替えをした時、新しい紀伊国の統治者の証として高倉下命にこの剣を授けたのであろう。

 草薙剣は熱田神宮にあるのが本物と思われるが、神武天皇とは関係がないようである。三種の神器は本物を所持する必要はなくて、複製品で古来より代用しているならわしがある。壇ノ浦でなくなったものもこの代用品であると思われる。十種神宝にしても三種の神器にしても、古来より代用品を使っているようで、本物の所在は分からなくなってしまったというのが実態ではないだろうか?十種の神宝のうち京都籠神社の2面の鏡は製作年代が一致しているので本物と思われる。

 草薙剣に関しては、伝承通りなら、八岐大蛇から手に入れた草薙剣は天照大神に献上され、瓊々杵尊の天孫降臨時に天照大神から手渡され、日向に持ち込まれたが、その後の伝承がない。そして、崇神天皇の時代に形代が作られ、本物は伊勢神宮に移った。日本武尊が東国征伐の時に伊勢神宮から持ち出し、そ の後熱田神宮にまつられたそうである。記紀における天孫降臨は、瓊々杵尊ではなく、饒速日尊なので、この草薙剣は十種の神宝の一つである布留御魂剣と思われる。また、素戔嗚尊が天照大神に献上したといわれている草薙剣は、古代史の復元では、素戔嗚尊が天照大神と高皇産霊神に渡した布都斯御魂剣となる。そうすると、草薙剣を含めた4本の剣が伝承上混乱していることになる。草薙剣を除く3本の剣はいずれも素戔嗚尊が所有していた剣のようである。

 これらの剣にかかわる伝承をまとめてみると、古来鉄剣は統一のシンボルとしての価値があったようです。草薙剣も統一のシンボルとしての価値があったのであろう。

草薙剣の出自

 以上のような状況を踏まえて草薙剣の出自を推理してみよう。ポイントは次のようなものである。

① 八岐大蛇が持っていた。
 八岐大蛇は「高志の八岐大蛇」なので、越(北陸地方)から来た豪族と考えられ、飛騨系の縄文人と思われる。

② 東国の人々に対してシンボルとしての価値があった。
 饒速日尊か大山祇命か賀茂建角身命が統一のシンボルとして用いていた可能性が考えられる。

③ 草薙剣の出現伝承地は出雲の御代神社の旧社地であり、ここは倭の大乱における激戦地で、出雲側大将出雲古根の終焉地である。
 草薙剣が大和朝廷のもとに移ったのは倭の大乱時ではないか?

④ 素戔嗚尊がらみの神剣は他にもあったが、三種の神器となったのは草薙剣のみであり、草薙剣には他の神剣にはない特別な意味があると思われる。

 ①②④から、草薙剣は飛騨系のシンボルとしての意味のある剣ではないかという推定ができる。八岐大蛇は飛騨系の縄文人と考えられ、飛騨国が生産したかどこかで手に入れた鉄剣で、八岐大蛇が出雲に派遣されるとき、シンボルとして出雲に持ち込んだと考えられる。その八岐大蛇が横暴な行為をしたことによって素戔嗚尊にわたったのであるが、飛騨系の人物を殺めたとなれば、素戔嗚尊と飛騨国との関係は悪化するはずであるが、素戔嗚尊の妻が飛騨系の神大市姫であり、飛騨国との関係は悪化していない。

 おそらく、八岐大蛇は飛騨国から派遣された縄文人集団の中でも嫌われ者だったのではないだろうか。実際、助け出された稲田姫もその祖父が大山祇命とされており、縄文人である。縄文人を殺めて縄文人を救ったことから、飛騨国との信頼関係はかえって深くなったのであろう。

 この時、素戔嗚尊は天照大神にこの草薙剣を献上している。古代史の復元では、この天照大神は日向津姫であろうと考えていたが、それだと、神話伝承の通りではあるが、②③の説明ができなくなる。また、古代史の復元では、八岐大蛇事件当時は素戔嗚尊は日向津姫と会う前なので、日向津姫に献上するのもおかしな話である。そこで、この天照大神は飛騨国女王ヒルメムチではないかと考えてみた。

 草薙剣はもともと飛騨の持ち物であるので、飛騨国との関係悪化を恐れた素戔嗚尊が八岐大蛇から奪った草薙剣を天照大神に献上したことが考えられる。

 ②から推理するに、この草薙剣が、その後、AD15年頃、ヒルメムチが訪問してきた饒速日尊に養子として、味鋤高彦根命(賀茂建角身命)を授けたとき、その味鋤高彦根命に飛騨王家のシンボルとして草薙剣を手渡したのではないだろうか。そうすると、以降味鋤高彦根命の持ち物となり、AD55年ごろの饒速日尊とともに陸奥国統一したときのシンボルとしての意味があったのではあるまいか。

 草薙剣の伝承は、その後、崇神天皇の時代まで存在しないのである。この間草薙剣はどこにあったのであろうか。そこで気になるのが、草薙剣出現地である。島根県御代神社(尾留大明神)旧社地に出現したと言われている。この地は、倭の大乱において出雲国将軍の出雲振根の終焉の地のすぐ近くである。出雲振根の伝承は別のヤマタノオロチ伝承とつながっている。(ヤマタノオロチ事件参照

 そうすれば、木次のヤマタノオロチ退治の時に草薙剣を手に入れたのではなく、倭の大乱時に草薙剣が手に入ったと考えることもできるが、草薙剣を天照大神に献上したのが天冬衣命であり、この人物は素盞嗚尊と同世代であり、草薙剣出現は木次のヤマタノオロチ退治の時となる。では、なぜ、倭の大乱時のヤマタノオロチの時に出現したことになるのか。なかなか両者がつながらなかったのであるが、一つの仮説が浮かんだ。

 それが、日本書紀にある。神宝検校事件である。日本書紀崇神天皇紀には、武日名照命が高天原から出雲に持ち込んだ出雲の神宝が記述されているが、この神宝の正体が草薙剣ではないかとの仮説である。当初この神宝は荒神谷遺跡の青銅器ではないかと考えていたが、荒神谷の埋納はAD50年ごろと判明し、時代が明らかに異なることになり、この神宝の正体が不明になってしまった。神宝と言われている以上金属製品と思われ、青銅器とも考えられなくはないが、大和朝廷がわざわざ見せてほしいと要求していることからして、特別ないわれのある金属器となる。それだけの価値のある金属器として考えられるのが草薙剣である。

 大己貴命死去の後の国譲会議の結果、出雲に天穂日命が派遣されたが、猿田彦命・事代主命が統治しており、天穂日命は主体的に動けなかったのではあるまいか。それを危惧した高皇産霊神(大山祇命)が統一のシンボルである天叢雲剣(草薙剣)を武日名照命に授けて、出雲に向かわせたとすればその威力は絶大なものと推定される。草薙剣はその後、天穂日命の子孫である出雲国造家の神宝として大切に保管されていたものと考えればつじつまが合うのである。

 草薙剣がこれほどの神宝であれば、大和朝廷が見せろと言ったのも理解でき、後に三種の神器になったのも納得できるのである。

 このような歴史を持つ剣であれば、①~④の状況が説明できる。③の草薙剣出土地は倭の大乱の出雲軍を八岐大蛇と比較する伝承が生まれるにあたり、御代神社の地が八岐大蛇の尾に当たるということから草薙剣出現地とされたのではないかと思われる。

 草薙剣が飛騨国のシンボルとしての意味を持っていれば、日本武尊が東国遠征するときに統一のシンボルとして示す意味が出てくる。

 この仮説が草薙剣に関する様々な謎を説明できる仮説である。

 素戔嗚尊と八岐大蛇

 古事記によると、八岐大蛇の尾から草薙剣を取り出した素戔嗚尊は、「この剣は不思議な剣であるので、私が持つわけにはいかない。」と言って、天照大神に献上している。素戔嗚尊はこの剣を見た瞬間、ただの剣ではないことを見抜いているのである。 

 この時、素戔嗚尊自身も鉄剣を持っており、どうして自らが持つべき剣ではないと分かったのであろうか?剣の姿かたちではなく、その剣の由来ではないだろうか。八岐大蛇が持っていた剣は飛騨国の宝剣であることを知っていたのではあるまいか。八岐大蛇が飛騨国からこっそり持ち出していた可能性が考えられる。この当時の鉄剣しかも長剣はめったに見られるものではなく、その辺の豪族が持っているはずのないものである。素戔嗚尊が鉄剣を持っていたのは父である布都が朝鮮半島から持ち込んだものであったからである。日本列島内では、まず。あり得ない程のものである。

 八岐大蛇はかなり強欲だったようで、出身地の飛騨国から鉄剣を強奪していた可能性が考えられる。もしそうであるなら、この剣を、飛騨国王ヒルメムチに献上すれば、飛騨国との関係が深くなり、日本列島平和統一がやりやすくなるはずである。素戔嗚尊がこの後、飛騨国王ヒルメムチの妹ではないかと思える神大市姫と結婚しているのであるが、なぜ、そのような人物と結婚できたかという謎も解ける。

 素戔嗚尊は八岐大蛇を退治してしばらく後、飛騨国を訪問した。そこで、八岐大蛇退治を報告し、草薙剣を献上し、日本列島平和統一を提案したのではないだろうか。この提案がヒルメムチの心を動かし、妹である神大市姫との結婚が成立したのであろう。それによって、素戔嗚尊は飛騨王ヒルメムチの義弟となったのである。

 草薙剣の謎を説明できるような仮説を立てていくと、このようなことも考えられる。

 

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