豊城入彦東国派遣

 崇神天皇時代皇子の豊城入彦が東国に派遣されている。その状況を調べて見た。

 日本書紀記述

 崇神天皇48年に天皇は豊城命(豊城入彦命)と活目尊(後の垂仁天皇)に勅して、共に慈愛のある子でありどちらを後継者とするか決めがたいため、それぞれの見る夢で判断すると伝えた。豊城命は「御諸山に登り、東に向かって槍や刀を振り回す夢を見た」と答え、活目尊は「御諸山に登り、四方に縄を張って雀を追い払う夢を見た」と答えた。その結果、弟の活目尊は領土の確保と農耕の振興を考えているとして位を継がせることとし、豊城命は東に向かい武器を振るったので東国を治めさせるために派遣された。

 神社伝承

神社名 鎮座地 祭神 由緒
佐志能神社 茨城県石岡市染谷1856 豊城入彦命,高神 祭神豊城入彦命は崇神帝の皇子、御母は紀国造荒河戸部の女、遠津年魚眼妙媛命。勅名を奉じ、大功をたてたことにより、子孫に東国の国造に任じられるものが多かった。
雀神社 茨城県古河市宮前町4-52 大己貴命 第十代崇神天皇の皇子豊城入彦命が東国鎮定の際神社をここに創建して祈願を篭め(2、020年前)国家鎮護の神として鎮宮と称えしを後世訛って雀の宮となったという。
赤城神社 群馬県勢多郡富士見村赤城山4-2 赤城大明神,豊城入彦命,磐筒男命,磐筒女命,経津主命 創始は上古即ち崇神天皇(人皇第十代紀元564)の御宇、皇子豊城入彦命、毛野国に入るや天神地祇をまつり尚国土経営主神大国主命を奉斎し東国の経営を祈り、また疫病絶滅祈願のため初めて此の山に勧請し給う。
赤城神社 群馬県勢多郡宮城村三夜沢114 大己貴命,豊城入彦命 「景行天皇は豊城命の孫彦狭島王を東山道十五国の都督に任命された。ところが王は春日の穴昨邑というところで病死した。その時東国の人々は王が任地においでにならないことを悲しんで、王の屍をとって上野国に葬ったとあり」次いで「景行天皇は彦狭島王の子御諸別王に父の業を継いで、東国を治めしめられた。蝦夷の首領が降参して、東国は永く平和になり御諸別王の子孫が後までも栄えている。」と
倉賀野神社 群馬県高崎市倉賀野町1263 大国魂神 第十代崇神天皇の48年9月19日、皇子豊城入彦命が当国に君臨なさったとき、陣中すなわち今の境内にてまず斎場を設け、松樹をお手植えになり、亀形の御愛石を御魂代として御祭祀あらせられたのが起源と伝えられる。
小泉稲荷神社 群馬県佐波郡東村東小保方155-1 倉稲魂命,大己貴命 人皇十二代崇神天皇の御代に豊城入彦命東夷征討の際、案内の武臣が勅命によって山城国伏見稲荷大明神の御分霊を奉祀し、住民の安穏と五穀豊穣を祈願し崇敬の道を教えるため創建されたと伝へられています。
郷見神社 群馬県群馬郡榛名町下里見1443 建御名方命 ここ聖地は里見丘陵の東端に位置し、春夏秋冬旭日に輝き、夕陽に映え風光明媚で全村落を一望できる絶景の地で、氏子は朝夕等しく神域を拝し永く鎮守の森として敬神してきた。古くは豊城入彦命の墓陵と伝えられる。
総社神社 群馬県前橋市元総社町2377 磐筒男命,磐筒女命,経津主命,宇迦之魂命,須佐之男命 当社は、人皇第十代崇神天皇の48年3月、皇子豊城入彦命が、東国平定のために上野国にお下りになられたとき、神代の時代に国土の平定に貢献された経津主命の御武勇を敬慕され、軍神として奉祀し、武運の長久を祈られ、また、親神である磐筒男命・磐筒女命を合祀されたのに、創ったと傅えられている。
近戸神社 群馬県勢多郡粕川村月田1261 大己貴命,豊城入彦命 赤城山の中腹に御殿と称する処あり。古老の伝えるには往古豊城入彦命東国を鎮定し永く居住し給いし所なるが故に今なお御殿と名付くと言う。命のこの地に居住せられるや毎年七月一日を以て天地の神事を奉斎し祭事の終わりに濁酒を川に流し祭事終了の合図とせり。命の長女某姫宮月田字丸山に邸宅を作り住せしが同日この地にても又祭事を営み然る後川流に至り酒粕の流れ来るを見祭事の終了せし、を知ることを常例とせし、依て此川を名付けて粕川という。
大神神社 栃木県栃木市惣社町477 倭大物主櫛玉命 崇神天皇四十八年、豊城入彦命東征の折、当室八嶋の地に大和三輪の大物主神を奉斎したと伝えられる。
白山神社 栃木県河内郡河内町逆面678 菊理姫命 第十代崇神天皇の第一皇子豊城入彦命は、勅を奉じ、東国治定の為下野国に下向され宇都宮に仮御所を設け毛の国を統治され、従者は各地に分散し農耕を始めた。加賀国から来た人たちは郷里の白山神社を祀って鎮守の社とした。
二荒山神社 栃木県宇都宮市馬場通り1-1-1 豊城入彦命 主祭神、豊城入彦命は、第十代崇神天皇の第一皇子であらせられ、勅命を受けて、東国治定のため、毛野国(栃木県・群馬県)に下られました。国土を拓き、産業を奨励し、民を慈しんだので、命の徳に服しました。
嶽山箒根神社 栃木県那須郡塩原町字都野1699 豊城入彦命,伊弉諾尊,大己貴命,事代主命 本社の創立は遠く明らかでないが崇神天皇の御代に豊城入彦命を東国を治めさせた時、各地に從わぬ者を征伐して善政をとった。
赤城神社 福島県伊達郡月舘町大字月舘字宮前6 赤城大神,大己貴神,豊城入彦命,磐筒男命,磐筒女命,経津主命,日本武命 崇神天皇の第一皇子豊城入彦命の末奈良別君の子吉弥侯部広国が伊達郡静郷戸県主(現月舘町細布から栗野付近の古名)に任ぜられた時、古地の地名を移し、細布川の川上山中に霊岩を見いだし殖産興業、衣・食・住等人間生活の全てを守護し給う開発の祖神、氏神として祭り、開拓を始めたと云い伝えられております。
赤城神社 福島県須賀川市大字稲字御所舘70 赤城神,経津主命,豊城入彦命 崇神天皇の御代に皇子豊城入彦命を上毛野国(群馬県)に遺し、東国開発の経営にあたらしめる。その開発成就を祈念し、赤城神社本宮を奉斎し、農耕水源の神、当地鎮護の神と崇め奉るという。
垂水神社 大阪府吹田市垂水町1-24-6 豊城入彦命 豊城入彦命は、崇神天皇の第一皇子でありながら、弟の垂仁天皇に皇位を譲り東国開発の旅に出た。のちに四道将軍の一人に数えられる豊城入彦命が、第一歩を記したのがこの垂水の地であり、子孫が神として祭り社を阿利真公とその末裔に伝えたという。

豊城入彦関連伝承地

 豊城入彦の東国派遣の理由

 豊城入彦が東国に派遣されたのは崇神48年(AD268年)で台与が晋に朝貢した後である。四道将軍が各地方に国造を任命して朝廷が地方統治を始めたのがAD250年である。それより18年ほど経過して、順調に見えた地方統治に陰りが見えてきたのではあるまいか。

 国長が国造に任命されてからは、調役を課せられて、その負担に苦しんだ地方もあったことであろう。この時期東日本地域が不作に陥っていたのではあるまいか。関東地方の国造はそのような状況で地方統治に苦しんでいたのではあるまいか。地方から朝廷に、何か技術を伝授してほしいなどの要請が来ていて崇神天皇がそれに答えたものではあるまいか。朝廷の持つ新しい技術を関東地方に伝えるために豊城入彦が関東地方に派遣されたのである。

 豊城入彦は崇神天皇の皇子である。日本書紀では皇位を弟に譲ったことが記されているが、この当時の皇位は弟が継承する時代である。最初から垂仁天皇に決まっていたはずである。この当時は弟が皇位を継ぎ兄が祭祀をつかさどっていた。豊城入彦が関東地方に派遣された最大の理由は祭祀に会ったのではあるまいか。実際に赴任後の豊城入彦は饒速日尊を各地で祀っている。一般の役人が赴任するのとはことなり、関東地方の人々は特別な人物がやってくることに対して狂喜して喜んだのではあるまいか。崇神天皇も関東地方の統治はとくに重要視していたために、わざわざ皇子を赴任させたのである。

 豊城入彦赴任

 関東地方に赴任した豊城入彦は周辺を巡回後、方々に饒速日尊(大物主・赤城神・大己貴命・大国魂・経津主命)を祀り、人々の心を安定化させ、宇都宮に仮御所を作って、配下の者に周辺を開拓させた。

 その後群馬県前橋市粕川町月田の近戸神社の地に移り、暫らく後この地で亡くなったと思われる。

 御陵と伝えられる郷見神社には次のような伝承が伝えられている。

 豊城入彦命が、病を得て薨去されるや、崇神天皇はいたくその死を悲しまれ、せめてその遺体だけでも都へ運び、天皇の側近に葬りたいものと考えられて都から多数の人を遣わせて、命の遺体を都へ運ばした。上野の人民は、この地方開拓の恩人であり、威徳の高い命の遺体をこの地に葬り、長く懇ろにその霊を弔いたいと懇願したが、この切なる願いも入れられず、遺体は都へ運ばれていくので、ついに堪りかねた民衆は遺体を碓氷峠で奪い返し、本街道よりそれ、しかも朝日差し夕日輝く丘を選んで葬った。その地が郷見神社裏山の古墳である。

 豊城入彦が亡くなったのは崇神天皇の時代である。崇神天皇が亡くなったのは278年なので、豊城入彦が関東地方で活躍したのは10年に満たない年数であったことが分かる。しかし、郷見神社の伝承では土地の人々が豊城入彦命を異常に崇拝しており、豊城入彦の派遣は大和朝廷にとって大成功であったことになる。

 茨城県石岡市の佐志能神社の伝承でもわかる通り、地方の人々の豊城入彦への崇拝が異常であったことから、その後、大和朝廷は豊城入彦の子孫を関東地方に派遣させることにしたのであろう。

 この豊城入彦の地方派遣の成功が第12代景行天皇の地方統治につながっていくのである。

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