大和朝廷成立

 大和朝廷は日本と倭の平和的合併によりAD80年ごろ成立し、後期前葉から中葉への考古学的変化を引き起こした。

このページの内容
第一項 二大国家の合併
倭と日本邪馬台国畿内説
第二項 中国文献について
第三項 土器について
第四項 鉄器について
鉄鏃槍鉋鉄剣
鉄製武器
九州に鉄器が多い理由
第五項 漢鏡について
第六項 小型方製鏡について
時期ごとの特徴第1期第2期
第3期
第4期伝承との整合性
第七項 巴形銅器
第八項 銅釧
第九項 方形周溝墓について
第十項 副葬品について
第十一項 北九州北西部の住居
第十二項 まとめ
第十三項 神武天皇東遷

14節 大和朝廷成立

第一項 二大国家の合併

 スサノオ・ニギハヤヒの統一事業の結果,日本列島は,西日本の倭国と近畿以東の日本国とにまとまった。このままでは,いずれ,大戦争が起きると考えた人々は,互いの後継者を結婚させて,日本列島を一つの国にまとめようと考えた。日本国の後継者はニギハヤヒの末子であるイスケヨリヒメで,この頃30歳程であった。倭国の方は,女王のムカツヒメがこの頃没しているために,その末子のウガヤフキアエズとなるところであるが,ウガヤフキアエズもこの頃没し,その結果,後継者はウガヤフキアエズの末子のサヌとなった。サヌは25歳ほどであった。

 外国交易により勢力のあった倭国の方に異存はなかったが,大和の方はまとまらなかったようである。ニギハヤヒの死後,有能な人材に恵まれず,外国との交易ルートが不十分なため新技術の導入も思うようにならず、大和の勢力は衰退を始めていた。尊敬しているニギハヤヒが造った国を,倭国に乗っ取られるのではないか,と考えたナガスネヒコは猛反対したが,大勢は,勢力回復のため賛成であった。

 ナガスネヒコの承諾が得られないままに,ゴーサインを出し,サヌが日向を出発することになった。途中東倭から安芸国を譲り受けるために安芸国・吉備国に滞在した。サヌは,そのまま,日下から大和に入ろうとして,ナガスネヒコに追い返されてしまった。その後,大和国内で賛成派の勢力がナガスネヒコを殺害して,サヌを向かい入れ,イスケヨリヒメと結婚して,初代神武天皇として即位した。紀元83年(弥生後期前葉末)のことと思われる。

 統一国家の国名は,正式には日本国となったが,倭国という国名はスサノオがつけた貴重なものであるために抹消できず,しばらくは双方の国名を使っていた。特に,中国との交易ルートがあったのは倭国であり,日本国にはなかったことから,対外的には倭国で通していたようである。

第二項 中国文献について

 この伝承を各方面より裏付けてみることにする。まず,中国史書を見ると次のようなものがある。

「旧唐書」

「日本国は倭国の別種なり,その国,日辺にあるをもって日本と名をなすと,あるいは言う,倭国自らその名の雅らかならざるを憎み,改めて日本となすと。あるいは言う,日本は旧小国,倭の地を併わせたりと。」

「新唐書」

「倭の名を憎み,改めて日本と号す。使者自ら言う。国日出ずる所に近し,故に名をなすと。あるいは言う,日本はすなわち小国,倭の併わす所となる。ゆえにその号を冒せりと。」

倭と日本

 これらは,日本書紀における日本の国名の起源と一致している。そして,倭の名が気に入らないから日本と改めたという説と,日本国と倭国が合併して日本国となったという説と,二つあることがわかる。

 古事記や日本書紀を見ると「大和」「日本」「倭」いずれも「ヤマト」と読ませている。いずれも当て字である。古事記・日本書紀では両方の名が共存している。八世紀頃,「ヤマト」は国名を漢字二字で表すという制約から「倭」を「大倭」と書くようになり,「倭」は字の意味から嫌われ「大和」と表されるようになったようである。「倭」を嫌って「和」と書き改めていることからして,合併説が正しいようである。「ワ」という国名は当時の人々にとって大切なものだったのである。

 倭国とはスサノオが統一した連合国で中国・四国・九州地方を指し,日本国とはニギハヤヒが統一した近畿地方以東を指している。中国史書によるとどちらがどちらを併合したのかに混乱が見られる。中国の常識では考えられない政略結婚による対等合併であったからこそ,このような混乱が起こったのではあるまいか。

 中国に「日本」という名が知られたのは,この記事から判断して唐の時代であると考えられる。新統一国家の名称として,「日本」=「ヒノモト」が使われるようになったが,「日本」は中国との交易ルートを持たなかった関係上,対外交易の時は,対外交易ルートを持っていた旧国名の「倭」を使っていたのではないかと思う。日本国内でも日本書紀に見られるとおり,まだ「倭」は生きていたのである。

 弥生時代は,西日本の銅剣銅矛銅戈の祭祀があり,東日本には銅鐸祭祀があった。大和朝廷はこの両方の祭祀圏を同じ信仰で統一しているのである。祭祀は保守的なものであるため,異なる祭祀を受け入れるときには大きな戦乱が付き物である。そのような形跡もなく,混じり合った形跡もなく,すんなりと統一されているのである。これは,双方とも同系統の祭祀であったがために統一できたとしか考えられない。すなわち,スサノオ・ニギハヤヒという共通の人物である。祭祀の統一ということもこの二人の統一事業を裏付けているのである。

 邪馬台国畿内説

 邪馬台国問題は畿内説と九州説とで対立しているが,三世紀の時点で,日本列島の統一国家は,大和朝廷しかないことになり,邪馬台国畿内説となる。そして,邪馬台国は,大和朝廷そのものということになる。この視点から魏志倭人伝を見ると,

「倭人の国では,もと男子を王とし,七,八〇年続いたが,国が乱れ,攻め合うこと数年の後,一人の女子を共立して王とした。」

とある。この記事によると、倭国大乱(後漢書によると147189年の間)の70から80年前に,邪馬台国(大和朝廷)が成立したことになる。逆算すると,紀元67年から119年の間となり,この復元古代史の推定する大和朝廷の成立時期と一致する。

第三項 土器について

 後期初頭までは,西日本各地に畿内系土器は見られなかったが,後期中葉以降,西日本全域で見られるようになる。この状況を,まとめてみると次のようである。

 後期中葉になると,西日本の広い範囲で畿内系土器が出土するようになる。これらの畿内系土器の分布は,畿内の人々が,後期中葉になって,西日本各地に移動してきたことを意味している。人々の移動は,地方に引きつける理由があったか,畿内に出ていく理由があったかのどちらかであるが,大変広い領域に,恒常的に分散していることから,畿内に理由があったことが考えられる。そして,計画性を持って,定期的に地方へやってきていると判断される。畿内に,各地方の土器が出土するわけではないので,これらは,単なる交流とは,とても考えられず,大和朝廷が成立して,畿内から役人が各地方に派遣されたとすれば,うまく説明できる。

 方形周溝墓が出現している北九州北西部では,畿内系の高坏が出土するようになる。これは,高坏は祭祀土器であることから,北九州北西部で畿内系の祭祀が行われるようになったことを示している。その他の地方で出土する畿内系の土器に祭祀系のものが見られないことから,北九州北西部は大和朝廷にとって外国交易上特別な場所であり,特別な役人を配置して,重点支配したものと考えられる。

 吉野ヶ里遺跡からも後期中葉になると畿内系土器が出土している。内豪の端あたりにいくつかがまとまって出土するといった形である。出土の仕方を見ると畿内から来た人々は少数で定期的にやってきてしばらく滞在していたようである。

第四項 鉄器について

 次に,鉄器の分布を見ることにする。鉄器は圧倒的に九州からよく出土するため,九州王朝があったと考える人が多いが,九州地方と,それ以外の地方で形式の違う鉄器を時代ごとに分析してみると,そうではないことが分かる。

鉄鏃

 まず,鉄鏃であるが,鉄鏃は九州系と畿内系とその形式が異なり,九州系は無茎で畿内系は有茎である。下のグラフは、九州地方と中四国近畿地方で出土した鉄鏃のうち有茎のものが占める割合を各時期毎に表わしたものである。これを見ると、後期初頭までは,鉄鏃の分布領域がきれいに分かれていたが,後期中葉以降,九州に畿内系の有茎鉄鏃が見られるようになることがわかる。そして,有茎鉄鏃の占める割合は,時が経つにつれて増加する傾向にあり,終末期には畿内の比率に近くなっている。しかし,九州系の鉄鏃は,九州から外へ出る傾向は見られない。次第に出土比率が減少しているのである。これは後期中葉あたりに大和朝廷が成立して、畿内の勢力が九州に及ぶようになったためと考えられる。


槍鉋

 槍鉋も,後期中葉以降,九州系のAタイプは広島地方には一部見られるが,それ以外に九州の外に出る傾向は見られない。これは、九州に住んでいた人はほとんど九州外に出ることはなかったことを意味している。それに対し、中期末に中国地方に発したBタイプの槍鉋は九州へ入り込んでいる上に、後期後葉には全国に分布するようになっている。鉄鏃と同じく,九州のBタイプ槍鉋は年代と共に増加傾向にある。瀬戸内系の土器が中期末に畿内で出土するようになっていることから推察して、瀬戸内地域から畿内に流れたBタイプ槍鉋が畿内勢力によって地方にばら撒かれたと考えることができる。
 後期中葉に広島県下に九州系槍鉋が出土するのは、同じ時期に広島県地方に大分系土器が出土するのと共通であり、大分宇佐地方からの集団移住があったためと考えられる。

A型(九州系)槍鉋出土数 B型(中国系)槍鉋出土数
前期 中期 後期 終末 前期 中期 後期 終末
前葉 中葉 後葉 前葉 中葉 後葉 前葉 中葉 後葉 前葉 中葉 後葉
福岡 6 3 4 4 6 40 63 福岡 1 1 2
佐賀 2 3 1 4 3 13 佐賀 0
長崎 0 長崎 0
熊本 1 18 19 熊本 0
大分 5 5 大分 1 23 24
南九 0 南九 0
山口 6 6 山口 1 22 23
広島 3 1 4 広島 2 1 5 8 5 21
岡山 0 岡山 4 1 7 21
山陰 0 山陰 0
四国 0 四国 1 2 1 4
近畿 1 1 近畿 9 10 19
中部 0 中部 6 6
関東 0 関東 0
6 0 6 7 8 1 72 111 0 0 7 1 5 3 75 120
槍鉋ABの出土数比較
        中期前葉 中期後葉 後期前葉 後期中葉 後期後葉 終末
出土数 九州A 6 5 7 5 11 66 100
中四国A 0 0 0 3 1 6 10
その他A 0 1 0 0 0 0 1
九州B 0 0 0 0 2 24 26
中四国B 0 7 1 5 12 35 69
その他B 0 0 0 0 9 16 25
6 13 8 13 35 147 231
出土率 九州A 100.0 38.5 87.5 38.5 31.4 44.9 43.3
中四国A 0.0 0.0 0.0 23.1 2.9 4.1 4.3
その他A 0.0 7.7 0.0 0.0 0.0 0.0 0.4
九州B 0.0 0.0 0.0 0.0 5.7 16.3 11.3
中四国B 0.0 53.8 12.5 38.5 34.3 23.8 29.9
その他B 0.0 0.0 0.0 0.0 25.7 10.9 10.8
100 100 100 100 100 100 100


 

鉄剣

次に鉄剣を調べてみると,鉄器の中で鉄剣のみは例外で,後期中葉以降,関東地方までの広範囲に分布するような傾向が見られる。特に,関東地方では,他の鉄器はほとんど存在しないのに,鉄剣のみよく出土する。この鉄剣は短剣タイプが多い。

さらに中国(大陸)ではこの時期鉄剣から鉄刀に主力が移り,日本列島でも鉄刀がかなり出土しているが,より実践的な鉄刀はほとんどが九州からの出土である。鉄剣は実戦には向かないことから,ステイタスシンボルと考えることができる。鉄剣はスサノオのシンボルとなっていたために,大和朝廷が,地方統治のため,全国に配ったものと考えられる。後期中葉の鉄剣の出土数が極めて少ないが、鉄剣はステイタスシンボルであるがゆえに墳墓の副葬品としての出土がほとんどである。後期中葉は多くの墳墓に副葬品が乏しく多くの宝器は共同体の持ち物になっていたことが伺われる。そのために後期中葉の出土が少ないのであろうと思われる。

各地域鉄剣出土数
鉄剣 前期 中期 後期
前葉 中葉 後葉 前葉 中葉 後葉 前葉 中葉 後葉 終末
関東 4 8 12
中部 2 3 8 13
近畿 2 1 12 15
中国 1 12 13
四国 1 1 2
九州 1 1 1 11 10 0 5 24 53
0 0 1 1 1 13 12 2 14 64 108


鉄製武器

 次に,全鉄器に対する鉄製武器の出土比率(表)を調べてみると,中期後葉にピークに達していた武器出土比率のグラフは,後期初頭に下がる傾向が見え始め,後期中葉には最も下がって農工具の出土率が増えている。これは,この時代に戦乱がなく安定していたことを意味している。そして,この頃の戦闘があったと思われる遺跡は見つかっていない。防衛的環壕集落や高地性集落も衰退している。九州地方は後期中葉に平和里に畿内の勢力下に入ったものと判断される。

 遺跡遺物が畿内に比べて遥かに多い北九州地方が,畿内勢力下に入るということは通常では考えられない。戦闘をすれば間違いなく北九州勢力の圧勝と思われるからである。しかし,戦闘をした形跡がないことから,北九州勢力は,伝承通り宗教の力により,畿内勢力の傘下に入ったとしか考えられない。

鉄製武器の出土数
武器 前期 中期 後期
後葉 前葉 中葉 後葉 前葉 中葉 後葉 終末
関東 4 16 20
中部 5 3 13 21
近畿 1 2 11 3 8 7 29 61
中国 1 7 6 30 44 79 167
四国 4 16 7 27
九州 2 2 8 49 38 12 58 313 483
2 3 11 71 52 50 132 457 779
前鉄器 9 37 36 138 121 143 347 891 1724


九州に鉄器が多い理由

 鉄器は,九州の方が圧倒的に多く出土しているのであるが,後期中葉以降,九州系の鉄器の分布が縮小傾向にあるのに対して,畿内系の鉄器が,九州地方で出現を始めると言うことは,九州が畿内によって支配されたためと考えるのが自然である。九州に鉄器が多いのは,朝鮮半島に近いためと考えられる。

第五項 漢鏡について

次に,漢鏡を調べてみる。漢鏡は,その形式から,大体の鋳造時期が推定されている。その鋳造時期と漢鏡の分布を調べてみると,漢式三期までは前漢鏡と言われているが,極一部を除いて,すべてが北九州の特定地域からのみ出土している。漢式四期になると,関東地方から南九州地方まで,全国分布をしているのである。漢式四期の鏡は一世紀後半の鏡と考えられている。漢式三期までは鋳造時期と副葬時期にそれほど差が見られず,そのほとんどは特定の墳墓からの集中出土である。当時の特定の有力者が鏡を独占し,個人の持ち物だったことがうかがわれる。

漢鏡地域別出土状況
2期 3期 4期 5期 6期 7期 三角縁 方格 漢鏡計 全計
関東 1 3 4 16 2 8 18
中部 3 13 4 8 55 10 28 65
近畿 3 10 56 26 42 191 53 137 244
中国 6 19 14 16 38 13 55 51
四国 3 3 11 7 11 11 3 35 14
九州 5 75 42 87 44 22 41 10 275 51
南九州 1 5 1 2 2 1 9 3
5 81 66 194 96 105 354 92 547 446


漢鏡の形式と出土時期との関係
弥生時代中期 弥生時代後期 古墳時代前期
前葉 中葉 後葉 前葉 中葉 後葉 前葉 中葉 後葉
1期
2期 1 4 5
3期 69 69
4期 22 7 3 1 33
5期 2 2 54 4 6 2 70
6期 17 6 6 1 30
7期 2 6 4 1 13
1 73 24 2 80 19 17 4 220



 漢式五期以降は鋳造時期と副葬時期にずれが見られる。終末に副葬されることもあれば,古墳時代になってから副葬されることもある。共同体の持ち物になったことがうかがわれる。漢式四期はこの両方の性格が見られ,後期初頭の北九州の墳墓から出てくる四期の鏡は三期までと同じく集中出土の傾向があるが,全国分布している四期の鏡は五期以降と同じ傾向にある。これは,
鏡の出土傾向に変化が起こったのは四期にあたる時期であることを意味している。四期は一世紀後半頃と推定されている。それまで,北九州の一部有力者が独占していた鏡を大和朝廷が全国に配布したと考えれば説明が付く。
 鏡も鉄器と同じく後期中葉の出土が極めて少ないが、これも、後期中葉が特定有力者がいない時代で、すべての宝器が共同体の持ち物になっていたためと思われる。鏡の全国配布は後期中葉と見てよいのではないだろうか。

鏡は太陽の光を反射することから,ニギハヤヒのシンボルとして重要視されており,鉄剣同様,地方統治のため大和朝廷が地方に配布したものと考える。

漢鏡出土墳墓と出土数
弥生時代中期 弥生時代後期 古墳時代前期
前葉 中葉 後葉 前葉 中葉 後葉 前葉 中葉 後葉
関東 1 11 2 12 26
中部 5 10 8 1 24
近畿 1 6 86 34 9 136
中国 1 6 28 6 6 47
四国 5 13 5 4 27
九州 2 1 95 34 2 92 30 22 7 285
南九州 2 2 3 2 9
2 1 95 36 2 117 180 80 41 554


 

第六項 小型方製鏡について

時期ごとの特徴

 鏡の国産は,後期初頭あたりから北部九州で始まったと考えられている。中国産の鏡に比べて小さく粗雑である。この種の鏡は時期により4期に分けられている。各時期の分布状況をまとめてみると次のようになる。

第1期

 方格規矩鏡を中心とする中国鏡の流入時期とほぼ一致し,後期初頭から前半にかけての時期と考えられている。その分布は,朝鮮半島南部・対馬・宮崎県以外の九州一帯・瀬戸内沿岸地方である。

第2期

中国鏡の長宣子孫内行花文鏡の時期に当たり,弥生時代後期中頃から後半にかけての時期と考えられている。その分布は,北部九州を核とし半島南部から近畿地方までの分布である。本格的な国産化が行われたと考えられ,その生産拠点は北部九州であると考えられる。

第3期

 弥生時代後期から終末期に当たり,その分布は,近畿地方を中心として,北陸・東海・関東地方への広がりを見せる。北部九州の生産拠点が北部九州から近畿地方に移動したと考えられる。土器や墓制から考えて,鋳鏡工人が移動したと言うよりも近畿弥生人が作り出したと考えられる。

第4期

 弥生時代終末から古墳時代前期に当たる。第3期と同じく近畿地方を中心とする分布である。九州地方からの出土は今の所ない。 

伝承との整合性

 小型方製鏡の分布の変化は,中国鏡の変化に大変よく似ていることがわかる。中国鏡は,以前に述べたとおり,漢式4期の終わり頃大和朝廷が成立し,漢式4期に北九州中心に分布していたものが全国分布するようになり,漢式7期の初め頃,倭の大乱によって,北九州地方の統治を強化したことが原因であると推定している。小型方製鏡も全く同じ理由によるものと考えられる。

 第1期の後期初頭の鏡が分布している領域は,スサノオが統一したと推定される領域と一致しているため,スサノオによって統一された結果,その範囲で鏡が流通するようになったためと考えられる。鏡の国産化を始めたのはスサノオかもしれない。第2期は,大和朝廷が成立した結果,近畿地方も統一政権の領域に入ったために,畿内へ鏡が流入するようになったと説明できる。第3期は,それまで北九州地方を伊都国王の自治にまかせていた大和朝廷が,倭の大乱を契機として直轄地にし,方製鏡の製造拠点を畿内に移したためと考えられる。第4期は,邪馬台国時代に魏の技術導入によって変化したものととらえることができる。

第七項 銅鏃について

 銅鏃は青銅製の鏃で中国では,戦国時代から漢代にかけて無茎のものが使われていた。日本では,弥生時代前期から中期にかけて流入したようである。出土の状況をまとめてみると,

①中期以前の出土地域は,近畿・北九州を中心とし,瀬戸内海沿岸地方に見られる。

②中期以前はすべて無茎の銅鏃である。

③埋葬施設の副葬品や祭祀を思わせる出土はほとんどなく,集落と考えられる遺跡から出土することが多い。人骨に突き刺さった状況で出土することも多いため,実用利器であったと考えられる。

④弥生後期に入ってから国産化されたようである。弥生後期に出土するものはすべて,有茎である。

⑤弥生後期になってから分布の範囲は広がり,弥生後期中頃には,関東地方から九州地方まで分布するようになる。分布の中心は畿内であるが,近畿から東海地方にかけて集中的に出土する。

 有茎銅鏃が弥生後期初頭あたりより,近畿地方で製作されるようになり後期中頃には,関東地方から九州地方までに分布しているということは,大和朝廷の勢力範囲・時期とほぼ一致している。このことは,この銅鏃は大和朝廷が国家統一をし,派遣された人物によってもたらされたものと考えることができよう。鉄鏃が,畿内系は有茎で,九州系が無茎であり,銅鏃も,九州中心の分布の時期は無茎で,畿内中心の時期になると有茎化する。これも,後期中頃あたりに大和朝廷の成立があったことを裏付けている。

第八項 巴形銅器

 弥生時代から古墳時代にかけて,内部が中空になっている円錐形の周囲に装飾部がある青銅器が存在する。巴形銅器である。ここでは,弥生時代の巴形銅器の分布について考えてみる。まずその特徴を挙げてみると。

・墓の副葬品や共伴遺物から後期初頭に出現したと考えられる。

・後期前半は北九州を中心とし,中国・四国地方までに限られている。

・佐賀県の吉野ヶ里遺跡から鋳型が見つかったことから後期前半は北九州地方で製作されていたことがわかる。

・後期後半になり,関東地方まで分布するようになっている。

・副葬の仕方などから判断して宝器として使っていたことがうかがわれる。

 中国鏡や小型方製鏡と全く同じ分布の変化をしていることがわかる。分布の変化の理由も鏡と同じであると判断され,後期前半までは倭国の領域と分布領域が重なっているが,後期中頃以降関東地方までの分布に変わり,これも大和朝廷成立の影響と考えられる。

第九項 銅釧

 銅釧は,元々貝製の腕輪を青銅で模したものである。貝製のものは縄文時代から存在したが,弥生前期後半あたりから,ゴホウラ・イモガイなどの南海産の大型巻き貝を用いたものが出現している。弥生後期になってそれらが衰退していく代わりに青銅器として登場してくる。その形によりいくつかに分類される。

円環型銅釧...この原型は楽浪の方にある。国内では,北九州や対馬の中期から後期にかけての墳墓から出土するのがほとんどであるが,一部,山陰や大阪湾沿岸地方に見られる。

ゴホウラ形銅釧...弥生中期末から後期にかけて存在する。その分布は,西北九州を中心として,一部拠点的に近畿・東海・関東にも見られる。

イモガイ形銅釧...弥生中期末頃に使われたもので,北九州地方のみの出土である。

帯状円環型銅釧...弥生時代後期に属するのがほとんどで,一部は古墳時代にかかるものもあると考えられる。中部地方と関東地方に分布する。

 これを見てもわかるように近畿地方以東に分布するものはすべて弥生時代後期以後である。他の青銅器と同様な変化に従っていると考えられる。

 漢式鏡に限らず,国産鏡や銅鏃,巴型銅器等の青銅器は,いずれも,鏡と同じく,後期中葉以降,全国に分布するようになる傾向が見られる。いずれも倭国と日本国が後期中頃合併して大和朝廷が誕生したという伝承を裏付けている。

第十項 方形周溝墓について

 次に,方形周溝墓を見てみると,後期初頭までは,近畿地方以東にしか存在しなかったものが,後期中葉以降,北九州と四国地方に出現するようになる。北九州に出現する方形周溝墓は,北九州北西部の,福岡市南部及び,糸島地方で,北九州の中心部と言われている場所の周辺である。方形周溝墓はニギハヤヒ祭祀者の墓ととらえているため,畿内勢力の祭祀を受け入れた地域に出現するので,北九州と四国地方が,畿内系祭祀を受け入れたことになる。南九州地方と中国地方には,この時点でまだ出現しないが,これは,共に,大和朝廷の聖地であるために,自治にまかせていたためと考えられる。

方形周溝墓の地域別出現時期
前期 中期 後期
後葉 前葉 中葉 後葉 前葉 中葉 後葉 終末
北九州
南九州
中国
四国
近畿
東海
北陸
関東


第十一項 副葬品について

 後期中葉になると,全国的に副葬品が乏しくなる。鏡にしても鉄器にしても後期中葉の墳墓からは全くといってもいいほど出土しない。王墓と考えられる墳墓が消滅するのである。漢式四期以前の鏡は,鋳造時期と副葬される時期にほとんど差がないが,これ以降は大きくずれる傾向が出てくる。つまり,伝世するようになっているのである。この傾向は九州を含む全国で一斉に起こっている。これは,地方から有力者が消滅し,それまで有力者が持っていた宝器は共同体の持ち物になったためと推定される。なぜ有力者がいなくなったのであろうか。王が一斉に消滅すると言うことは,その理由として,強大な統一国家の誕生しか考えられない。しかも王墓が消えるということから判断して、権力者は副葬品を多くもつが、祭祀者はほとんど持たないため、その統一国家は権力の上に君臨するタイプではなくて祭政一致のタイプである。大和朝廷の性格そのものである。

第十二項 北九州北西部の住居

 北九州北西部の住居には集落内の特定の小集団に鉄器や後漢鏡片が集中するようになる。また,高床倉庫に見られる食糧管理の集中化も起きている。そして,その領域には畿内系土器の出土が多い。これは社会集団に小首長層が現れ,その求心力で,大規模集落が形成されてきたと考えられる。集落や,埋葬遺跡の動向を調べると,前期または中期に形成されたものは後期初頭あたりまで続くが後期中頃を境に断絶する傾向がある。畿内系の方形周溝墓の出現とあわせ,これらの変化はいずれも後期中頃に現れる。大和朝廷が成立して,この地に朝廷の役人が派遣されてきたとすれば説明できる。

第十三項 まとめ

 ここに挙げた土器・鉄器・青銅器・墓制・副葬品・住居跡などの考古学的事実は,いずれも,後期中葉に大きな変化が起こっており,畿内勢力が急激に関東地方から九州地方まで勢力を伸ばしていたことを示している。これらの事実は,大和朝廷が弥生後期前葉末に成立したためと考えればすべて説明可能である。さらに,系図から計算した大和朝廷の成立年代は80年頃で,魏志倭人伝の邪馬台国成立年代とも一致している。

 このように考古学的事実・中国文献・国内伝承いずれも一世紀後半に大和朝廷が成立したことを示しており,成立時期,勢力範囲ともに一致している。

 一般には大和朝廷成立は四世紀以降で,一世紀には国家概念も十分でない時期でとても統一国家の存在は考えられないと言われているが,前に述べたように大和朝廷は宗教統一であるからこそ,国家概念が不十分である一世紀に成立したのである。国家概念が十分に成長している四世紀以降では,各国の宗教の対立や利害の対立があり,宗教統一はとてもできないであろう。また,一世紀の青銅器鉄器はいずれも大和よりも九州の方が多く,大和に統一国家の中心があったとは考えられないと言われているが,これも大和朝廷が宗教統一で成立したのなら可能なことである。

            第十四項 神武天皇東遷

                   東遷出発
 サヌは旅立つのにあたって、もう二度と会えないであろう、さまざまな人に挨拶をすることになった。まず、柏原から鹿屋、宮浦宮を通って西へ向かい鹿児島神宮のヒコホホデミに挨拶をした。そして、再び柏原に戻り、柏原海岸から串間へ向けて出航した。串間には数年前になくなったムカツヒメの墓(王の山)があったからである。そこから再び船に乗り、油津のアビラツヒメに別れを告げた。宮崎でも人々に別れを告げ、宮崎から方々に挨拶をしながら陸路をとおり、美々津海岸より日向国を出航した。
 豊予海峡を通り、宇佐神宮の地に立ち寄った。この地は、その昔、スサノオがムカツヒメと住んでいた地で、この当時は宇佐政庁がおかれていた。この後北九州遠賀川河口付近の岡の湊に立ち寄った。理由は定かではないが、知り合いの人物がいたのではないかと思われる。サヌ一行は岡の湊から東へ移動し安芸国に入った。
         安芸国における神武伝承
 宇佐にいたスサノオの娘であるイチキシマヒメ(60歳程と思われる)が、安芸国までついて来ているようである。イチキシマヒメ一行はそのまま安芸に滞在している。サヌ一行は1年半(半年一年暦で3年)程安芸国に滞在している。
 広島郷土史研究会編 「広島古代史の謎」によると、安芸国内の巡幸経路は、安芸国府中多家神社を拠点として海岸線沿いを瀬野→呉市天応→呉→江田島→下蒲刈島→大長→名荷→大浜→高須→柳津→金江→田島→田尻・・・。また、可部町舟山、恵坂、螺山を経て可愛村宮之城で休息し比婆郡庄原市の本村川を遡って葦嶽山(日本ピラミッド)に登り、鏡岩(神武岩)を祭壇として遥か比婆山の国母イザナミを祭った。そして、出雲に使者を立てて都を大和に移す素志を述べて諒解を求めた。このとき出雲のコトシロヌシへの使者は本村川を遡って帝釈を通り、戸宇→八幡の地を経て出雲国へ入った。これを諒としたコトシロヌシは、その誓約のしるしとして、比婆山に宝剣を埋めたと伝える。また、サヌは安芸国から島根県邑智郡郷の内に行幸し山に登って諸国をご覧になったところ諸山はことごとく石のように見えたので「石見国」と名づけた。とも伝える。
 福山市金江町にある「天津盤境」と呼ばれている遺跡は松永港に聳える御陰山に対峙する磐田山の山頂付近に設けられた祭壇で、そこから、弥生式の祭具の破片が出土している。ここは神武帝の祭祀の跡と伝えている。
 このように安芸国に滞在したサヌは、その間に方々を巡回したようである。ここはスサノオの聖地である出雲に近い位置であり、スサノオの霊廟にいるコトシロヌシへの挨拶が目的のようである。また、この地は東倭に所属し大和朝廷成立後出雲の自治圏となる地である。朝廷成立後中央の技術者を派遣することになるが、そのときの派遣先に東倭を含めるかどうかということの確認もあるのではあるまいか。実際に広島県内では東倭に所属しても後期中葉以降畿内系土器は散見し畿内の技術者が訪問してきているようである。
          出雲往還道の推定
 サヌは安芸国滞在中に出雲の事代主へ挨拶をしているがその経路はどうなのであろうか。「広島古代史の謎」に次のように伝えられている。
 「このとき出雲のコトシロヌシへの使者は本村川を遡って帝釈を通り、戸宇→八幡の地を経て出雲国へ入った。これを諒としたコトシロヌシは、その誓約のしるしとして、比婆山に宝剣を埋めたと伝える。」
 ここに出てくる地名の戸宇、および八幡はいずれも現在の比婆郡東城町に現存する。戸宇は帝釈峡から東城へ抜ける途中にあり、八幡は現在の東城町森で東城から国道314号線に沿って北上した位置にある。この位置から出雲に向かうとすれば、国道314号線をそのまま島根県三井野原から横田町へ抜けるか、国道183号線に沿って道後山高原から鳥取県日南町のほうへ抜けるかである。日南町に抜けるコースのほうは古代から開かれていたようであるが、三井野原経由のほうはかなり後になって開かれたようでこの当時としては日南町経由が考えられる。
 古代において山陽道から山陰道へ向かう山越えの道は3ルートあり、最初に現在の国道54号線に沿った赤名峠越えが開かれ、後に高野町から島根県仁多町へ抜ける国道432号線に沿う王貫峠越え、および国道183号線沿いの鳥取県日南町へ抜ける道が近世までには開かれていたそうである。事代主への使者が通った道を具体的には明らかにすることはできないが、広島県比婆郡内の地形を考えてみると、東城町森(八幡)、この周辺は成羽川の流域であり、この川に沿って北上したことが考えられる。川に沿って北上すると、東城町小奴可に達する。そこか上流は峡谷になっているので、当時としては難所と思われ、国道314号線に沿って西へ峠越えをし、芸備線道後山駅周辺に出る。この位置からは鳥取県日南町方面に抜けるほうが自然であり、三井野原方面は難所が多く、また、最初からその方面へ行くには東城町を通過するには遠回りとなる。実際に日南町方面は近世において福山から米子方面への道が整備されており、古代から人々がよく通っていたことを意味している。よって、鳥取県日南町方面へ抜けたと推定する。出雲の事代主に了解を求めるだけならば赤名峠越えか高野町越えのほうがよいと思われるが、なぜ日南町のほうへ抜けたのであろうか。
 ここで考えられるのが比婆山の存在である。比婆山の語源は「曽婆(ひいばば)様の山」であるそうで、サヌから見てイザナミはちょうど曾祖母にあたる。比婆山の名はイザナミの御陵のある山にサヌが名づけたものと見てよいであろう。サヌは大和へ向かうにあたり方々に挨拶しているので、安芸国滞在中に比婆山に参拝していないと考えるほうが不自然で、参拝していると見たほうがよいであろう。イザナミ御陵のある山はすべて比婆山の名を持っている。ここで言う比婆山とは広島県比婆郡にある比婆山ではなく島根県広瀬町西比田と鳥取県日南町阿毘縁の境にある御墓山のことである。帝釈峡の位置から鳥取県日南町阿毘縁に向かうには当時の状況からしてこのコースは適切であるといえる。サヌの使者は御墓山のイザナミ御陵に参拝後島根県下に入り飯梨川沿いに川を下り広瀬町から八雲村へと抜けたものと判断する。帝釈→戸宇→八幡→小奴可→道後山高原→阿毘縁→広瀬町→八雲村(熊野大社)と通ったものであろう。
 安芸国に長期滞在した目的は、安芸国を東倭から大和朝廷の支配下に譲り受けるためと考える。詳細は次項にて
          葦嶽山について
 サヌの出雲往還の途中にあるのが葦嶽山である。この山は日本ピラミッドとして有名で23000年前の祭壇の跡といわれているが事実はどうなのであろう。「広島古代史の謎」によると、神武天皇が大和へ赴く前にここで国母イザナミを祭ったということである。実際に葦嶽山からみて北北東の方向にある鬼叫山が拝殿として使われ、その遺跡として神武岩などの巨石遺構が現存している。ここから比婆山のイザナミを祭ったとすると、その方向に祭壇のようなものが何か存在するはずである。実際に調べてみると、葦嶽山山頂から見て、比婆郡の比婆山の方向(北北西)にはそれらしきものが何もないが、御墓山の方向(北北東)にはさまざまな巨石遺構が存在する。地図にて調べると、神社の鳥居、ドルメン、獅子岩が御墓山の方向を向いていた。それ以外の巨石遺構は御墓山の方向よりもやや東よりであった。
 葦嶽山の遺構はサヌが出雲往還をする前にイザナミを祭ったものと見てよいのではないだろうか。しかし、依然として多くの謎は残っている。
 ① なぜ、葦嶽山なのか
 ② なぜ、巨石祭祀なのか
 ③ なぜ、比婆山で行わなかったのか。
これらの謎に対して決定的な回答は今のところ見出せていない。ある程度の推測をしてみると次のようなものである。
 なぜ巨石祭祀なのかがわかればすべて解決するように思える。祭祀の条件の中で祭祀の場所として葦嶽山が最高のものだったはずで、祭祀形態が出雲の形式と異なるために、出雲が比婆山で行うのを拒否したと考えられるからである。
 日本国中にピラミッドと称される三角形の山が数多く存在している。いずれも誰が何のために作ったものか皆目わからず、謎のままで残されている。広島県下にはこの葦嶽山、のうが高原、弥山(宮島)などが存在している。また、前出の福山市金江町の「天津磐境」も山頂付近にある巨石を用いた祭祀遺跡であるので、この類に入れてもよいと思われる。天津磐境では弥生式土器が見つかっていることからこの類の祭祀は弥生時代に始まったものと考えてよいであろう。この巨石を用いた祭祀であるが、八雲山、熊野山や、比婆山(比婆郡、能義郡)など神話にからむ山の山頂近くに巨大な岩が存在し岩座として崇拝の対象になっている。これらもピラミッドと関連があるのではないだろうか。特に出雲系の神話にからむ遺跡に多いようである。東日本地域(旧日本国)にも存在することから、大和朝廷成立後古墳時代あたりまで続いていたのではあるまいか。
 秋田県の黒又山はピラミッドの中でも唯一自然の山の表面を加工した跡が残っておりその周辺から、縄文後期の土器が見つかっている。ピラミッド遺構から縄文式土器が見つかったのはこの一例のみである。巨石崇拝の祭祀はスサノオ祭祀とは形式が明らかに異なる。各地に存在するストーンサークルと同系統で縄文系の祭祀のようである。このことから考えてサヌが大和に乗り込み日本列島統一するに当たり、日本列島に昔から存在していた巨石信仰を大々的に取り込もうと、サヌが大和へ東遷する途中に方々ではじめたと考えられる。その始まりが葦嶽山であろう。その影響を受け、古墳時代の初期まで巨石祭祀が各地で行われていたのではあるまいか。サヌは安芸国に着くとすぐに巨石祭祀の候補地を探し、その条件に合致した葦嶽山に巨石を配置して盛大にイザナミ祭祀をしたと考えられる。祭祀終了後、出雲の事代主に挨拶をしたのである。
 巨石信仰は自然石を使う場合はよいが、位置を動かしたり加工したりするには大変な労力を要する。倭の大乱直後に古墳につながる巨大墳墓が出現するが、その最初の吉備国の楯築遺跡で巨石が使われているが以降は使われていない。楯築遺跡ではこの巨石信仰と巨大墳墓による新形式の祭祀を考えたが、不評を買い、古墳時代が始まって以降、その労力のあまり衰退したのではあるまいか。
         いざ大和へ
 1年半ほどの安芸国の滞在を終え、サヌ一行は再び出航した。今度は吉備国高島宮で3年半(半年一年暦で7年)滞在したようである。ここも、東倭に所属するため、様子を見たのと、畿内でナガスネヒコが反対しており、まだ承諾を得ていないため足止めを食らったと考えられる。
 大和としても、いつまでもサヌを足止めしておくわけにも行かず、ナガスネヒコが承諾しないまま、サヌに、出航を促した。サヌ側としては、ナガスネヒコが承諾したものと思いそのまま大阪府の日下から大和に入ろうとした。そのすぐ近くがナガスネヒコが住んでいた領域である。ナガスネヒコにとってサヌが大和に入ってくることは絶対に許せないことであり、矢を放って追い返してしまった。サヌにしてみれば順調に入れると思っていたのに追い返されてしまったわけである。大和の太陽神ニギハヤヒに正面向かって進んだため神が怒ったと解釈した。南側紀伊半島は東倭の領域であり、協力者もいるであろうから、紀伊山地を抜けて大和に入ることにした。この途中で長兄のイツセは矢傷が元でなくなった。そして、熊野灘を進んでいるときに嵐にあい遭難し、このとき次兄のイナイを失った。この嵐でサヌの携行品の多くを失った。この紀伊半島部は、スサノオが瀬戸内海沿岸地方を統一したときほぼ同時に統一しており、倭国の領域で東倭に所属していた。協力者も多く、その中の、ヤタガラスの案内で熊野山中に分け入った。
 ウマシマヂとしては、日下を超えてやってくると思っていたのであるが、ナガスネヒコが追い返してしまったと知り、ついに、ナガスネヒコを刺し殺してしまった。サヌ一行がどこに消えたかを探していると、熊野山中にいるということがわかり、弟のタカクラジを迎えにやった。
 ついにサヌはイスケヨリヒメと結婚し、初代神武天皇として大和橿原の地で即位した。橿原の地名は出航地である柏原から取ったものである。結婚式の日も吉日を選び1月1日にしたものであろう。当時の1年は半年1年暦であり、唐古鍵遺跡から三輪山山頂に太陽が昇ってくるのが見られるのが冬至の日であるから、おそらく冬至の日が当時の一月一日であろう。よって、神武天皇が即位したのはAD82年12月22日あたりということになるが、定かではない。
 大和で神武天皇が即位したことにより、大和朝廷が成立し、その勢力範囲は北は福島県あたりから北九州地方までで、中国地方は東倭として、出雲が自治をしており、日向国(宮崎・鹿児島県地方)も日向自治圏であった。しかし、この2地域は大和朝廷の聖地であり、朝廷とは協力関係にあった。それに対しこの領域内で唯一つ、球磨国(熊本県)のみは大和朝廷と対立関係にあったのである。大和朝廷は成立と同時にこの広い領域を統治することになったのである。この領域に後期中葉に方形周溝墓が出現する。
 実質旧日本国を統治していたウマシマヂは物部氏として朝廷に協力することになった。しかし、旧日本国勢力の中にはこの国が倭国に乗っ取られたのではないかと危惧する人々もいて、彼らの協力を得るために、神武天皇は15年程で退位した。第2代綏靖天皇、第3代安寧天皇、第4代懿徳天皇の三天皇は兄弟であり、いずれも15歳ほどで旧勢力の家より皇后を娶り神武上皇在世中に計画的に即位することになった。そのため、この三天皇の在位期間は短い。
 次の第5代孝昭天皇は、第2代綏靖天皇の子であり、紀元110年ごろ即位した。この頃より、大和朝廷の統治もようやく軌道に乗ってきた。
 第5代孝昭天皇の治世のAD121年神武上皇は亡くなった。神武天皇の長子タギシミミはイスケヨリヒメを妻とし皇位を奪還しようと反乱を起こしたが孝昭天皇により鎮圧された。

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