ヤマタノオロチ事件

 ヤマタノオロチ退治は素盞嗚尊が日本列島統一のきっかけになったものである

素盞嗚尊の誕生

 素盞嗚尊誕生伝説地と思われる場所が島根県下に存在している。平田市塩津町の石上神社である。この神社は風土記に宇美社と記載されており、素盞嗚尊の誕生地と伝承されている。祭神は布都魂命である。古代の神名帳には「宇美神社塩津村海童」と記されており、海童とは海神(素盞嗚尊)を意味している。この地は平田市の北側の日本海岸にあたり絶壁のような狭いところに人家が集まっている。今は道路が開通しているが古代においては海からではないとこの地にたどり着くのは難しかったのではあるまいか。古代において人々が常時住むところとはとても思えない。BC37年布流国滅亡に際して朝鮮半島を船出した布流国王の血筋の布都御魂が臨月の妻とともに、BC35年ごろ、日本海を漂流しているとき、命からがらこの海岸にたどり着き、そこで出産した。そのような物語がぴったりと来るような土地である。
 素盞嗚尊は布都御魂が日本海から上陸した直後に誕生したのではないかと思える。布都御魂夫妻はしばらく後産まれたばかりの素盞嗚尊を抱きかかえて、この地の少し西にある河下湾に上陸し、BC33年ごろ、住みやすい地を探しながら沼田郷のほうへ移動したものと考えられる。

平田市塩津町 石上神社(素盞嗚尊生誕地?)

布都御魂がわざわざ日本列島まで来るのは緊急避難的要素が強く、その必要性がある人々というのは、滅亡した国の王の系統であると思われる。また,素盞嗚尊は,ヤマタノオロチを退治するときに使った布都御魂剣(鉄剣で石上神宮に現存)という,当時としては,大変珍しい鉄剣を持っていた。この剣は父布都御魂のものであり、当時の日本列島では大変珍しいものである。こういう物を持っているというのも布都御魂が王家の系統である証である。

布都御魂は朝鮮半島の王家の系統であるため、日本列島や,朝鮮半島の地理・情勢・人心のつかみ方・政治のあり方などをよく知っていたと考えられ,素盞嗚尊は父からそれを学び,それを実行に移したと考えることができる。また,父から,朝鮮半島での権力抗争の話も聞いていたであろうから,人々が権力抗争することの愚かさや,それによって起こる不幸な出来事を知っていて,権力抗争を憎む気持ちがあっても不思議ではない。

また,素盞嗚尊が統一事業開始前に朝鮮半島に渡って,色々な技術を採り入れていることも,布都御魂からその知識を得ていたからと解釈する。
 このように素盞嗚尊が日本列島統一事業を始めることができたのは、朝鮮半島からやってきた人物を父に持ったからできたことであり、日本列島生まれの列島育ちでは統一事業はできなかったことであろう。

 ヤマタノオロチ伝承

 記紀に記載されている八岐大蛇神話は、出雲風土記には全く出てこない。しかしながら斐伊川流域には数多くの八岐大蛇関連伝承地が存在している。この伝承は素盞嗚尊の将来に大きな影響を与えたものと考えられる。まずは、八岐大蛇伝承を整理してみた。
 ヤマタノオロチ関連伝承地は斐伊川沿いを中心として数多く存在しているが、3系統ぐらいに分けられる。第一の系統は木次を中心とする伝承で斐伊川と赤川の合流地点が素盞嗚尊とヤマタノオロチの決戦場となっている。第二の系統は斐伊川河口付近でヤマタノオロチが退治されたというもので、この伝承は周辺の伝承とあまりつながらない。第三の系統は木次町日登を中心とした伝承である。第一の系統に属する伝承の特徴はヤマタノオロチが巨大であるということである。また、出雲振根や吉備津彦の伝承地と重なっており、後の時代の倭の大乱を意味しているものと推定する。この関連伝承は倭の大乱の項で詳説する。第二の系統はヤマタノオロチが斐伊川上から大軍で押し寄せてくる類のものであり、斐伊川の洪水か、たたら製鉄の人々と農民との争いを意味しているように読み取れる。第三の系統が素盞嗚尊と稲田姫のつながりが深く感じられ、ヤマタノオロチと酒とのかかわりが深い伝承でヤマタノオロチは一人の人間を意味しているようである。素盞嗚尊のヤマタノオロチ退治はこの第三の系統のヤマタノオロチ関連伝承で説明できる。
ここでは、第三の系統の伝承に絞って検討してみようと思う。

 素盞嗚尊の青年期

<久武神社>
 素盞鳴命が八俣大蛇退治の砌、稲田姫命をこの郷の稲城(此処より東約300mの地)にかくまって退治におもむかれた。そして退治後この郷に帰られて稲田姫命にお会いになると、命の功績を祝うかのように多くの雲が立ち上がり、二神をとりまいた。歓喜された命は 「八雲立つ出雲八重垣妻ごみに」と咏われたという。
 このような由緒によって、この地は古代から出雲国出雲郡出雲郷といい、出雲の原郷にふさわしい御社名久牟社・久武社(雲社)が鎮座されている。 創建時は現在地の東南方向約300mの弥山にあったといわれている。
<稲城の森>
素盞嗚尊は稲田姫を娶られて、此処より東約300mの地に宮造りをされ「八雲立つ出雲八重垣妻ごみに、八重垣作るその八重垣を」と詠まれたと言う。現在も此処に稲城の森と称し稲田姫を祀る祠がある。

<古文書伝承>
 「命は出雲国に来たり、此邊りを跋渉せられると、偶然にも川中へ食箸が流れてきた。そこで、命は此川上に住んで居る者があることを知られ、川を遡って足摩槌手摩槌に遭ひ給ひ、稲田姫を娶られ、今の出西村稲城と云ふ森に堅固な城を築かれ、姫を入らしめ給ひ、大蛇退治の準備をせられ、次で追討に向はれた。大蛇はそれまで、出西まで出て来つたので、今の字来原は大蛇の来たところであって、大蛇はそれから上船津の蛇越という地を経て再び川上に至ったもので、命は川上の地で大蛇を討伐し給ふ。」

 斐川町出西に久武神社がある。この東方300mの地にヤマタノオロチ退治の後稲田姫を娶り、ともに住んだ住居跡の伝承地がある。稲田姫との新婚生活をしたと伝えられる場所は他に松江市の八重垣神社及び大東町の須我神社にもある。周辺伝承とのつながりは松江市の方が強いが、共に八岐大蛇退治後の伝承である。それに対して、久武神社のほうはヤマタノオロチ退治する前に素盞嗚尊が住んでいた伝承が含まれている。このことから八岐大蛇退治以前の素盞嗚尊住居地ではないかと推定する。
 ここは沼田郷に近いところであり、BC20年ごろ、15歳ほどに成長した素盞嗚尊が生活するには良い土地であろう。この地に一目ぼれした稲田姫を呼び寄せたこともあったと思われる。そのような時、木次の豪族ヤマタノオロチの横恋慕が入り、稲田姫を奪われた。素盞嗚尊はオロチを退治して稲田姫を奪い、オロチ一族の追撃を恐れていたわけであるから、素盞嗚尊も自分の家に戻るとは考えにくい。オロチ退治後は知り合いの青幡佐草彦を頼って松江市の八重垣神社の地に隠れ住んだとするほうが自然である。

 素盞嗚尊はBC35年ごろ平田市塩津町石上神社の地で誕生したと推定した。素盞嗚尊の父布都御魂は生まれたばかりの素盞嗚尊を連れて沼田郷に移動しそこに根付いた。素盞嗚尊はここで成長した。布都御魂が八束水臣津命と共に他の土地から新技術を導入し、その技術で人々が豊かになっていく姿を見ながら成長していった。布都御魂はBC22年頃亡くなったと思われる。布都御魂の死を機会として素盞嗚尊は居住地を沼田郷から出西の久武神社の地に移したと思われる。

久武神社 稲城の森(オロチ以前の素盞嗚尊住居跡)

 

宇美神社(平田市平田) 宇美神社拝殿

 稲田姫一族の屋敷
 稲田姫一族の屋敷は仁多郡仁多町佐白の地で「長者邸」という屋敷跡がある。アシナツチ・テナツチ二神の遊興の場「茶屋場」、馬を飼っていた「厩谷」、オロチ退治の毒酒を醸した「和泉谷」などの地名が残っている。周辺伝承とのかかわりから推定して、ここが稲田姫の実家であろう。長者屋敷跡は山岳地帯にあり、足名椎は地方の一農民といった感じである。久武に住んでいた素盞嗚尊も奥出雲地方との交流を盛んに行なうため、しばしばこの地方にもやってきていたようである。そのなかで素盞嗚尊は稲田姫と親しくなっていったようである。縄文人大山祇命の孫とされている稲田姫は縄文人と思われる。
 ヤマタノオロチも稲田姫が気に入り、たびたび通ってきたようである。長者屋敷周辺数百m以内にはオロチが住んでいたという伝承をもつ地「八頭」、「大蛇池」、「大蛇瀑」、「八頭坂」などがある。稲田姫が気に入ったオロチは頻繁に通ってきて、周辺に滞在したものと考えられる。オロチが木次から通ったルートも大体想像がつく。木次から斐伊川を遡り、北原字川平の岸辺に船をつけ、布施川を遡り、オロチが来ると波が起こったといわれている波越坂を経由して長者屋敷から北東へ700m程離れた「大蛇池」、「八頭坂」に滞在するコースと、佐白の上布施の上陸し八代川に沿って遡り、長者屋敷から南東に200m程離れた「八頭」に滞在するコースが考えられる。ヤマタノオロチの滞在地が長者屋敷のすぐ近くに複数個所存在することから判断して、ヤマタノオロチの稲田姫に対する思い入れは相当強かったと思われる。

 オロチ・素盞嗚尊・稲田姫の三角関係
 素盞嗚尊一族は布都御魂から教えてもらった朝鮮半島の先進技術を周辺の人々に伝えて出雲地方で人々に慕われていた。それに対して、ヤマタノオロチは権力をほしいままにしていた大豪族であった。斐伊川沿いの天ヶ淵の近くに福竹があり、足名椎・手名椎が稲田姫とともにオロチから逃げている様子が伝えられている。おそらく、BC19年ごろ、稲田姫は激しく求愛するオロチを嫌って長者屋敷を逃げ出したのであろう。このようなとき人々から慕われている素盞嗚尊から求婚の申し込みがあった時、喜んでその申込みを受けた。二人は佐白の八重垣神社地で結婚式を挙げ、久武の地の稲城で素盞嗚尊との新婚生活を送ることになった。
 しかし、権力を笠にする性格のヤマタノオロチは納まらず、BC18年ごろ、久武の素盞嗚尊を襲い稲田姫を奪った。伝承によると、オロチは斐伊川を下り久武と対岸となる来原の地に上陸して様子を探り、一挙に稲城の稲田姫を奪い去ったことが分かる。船津を経由して川上に連れ去ったものであろう。オロチは木次から斐伊川を下り出西で上陸すればすぐ近くに、素盞嗚尊・稲田姫の新婚生活をしている屋敷がある。おそらく、このコースでオロチは素盞嗚尊から稲田姫を奪ったのであろう。

 ヤマタノオロチの実態
 ヤマタノオロチの本拠地はどこであろうか。古事記の伝承によると、足名椎・手名椎の屋敷からは離れているようで、また、相当な権力をもった大豪族のように読み取れる。稲田姫一族の屋敷は仁多郡仁多町佐白の地で「長者邸」という屋敷跡であろう。ここから離れたところで、しかも、大豪族たる立地の場所を探すと日登の地が考えられたが、この周辺にヤマタノオロチ関係の伝承地が見当たらない。ヤマタノオロチは毒酒を飲んで苦しんでいるところを素盞嗚尊に刺殺されているので、ヤマタノオロチ終焉の地である木次の八本杉の位置かとも考えたが、この地は低地であり、斐伊川の洪水に流されてしまう場所である。しかし、八本杉のすぐ近くに斐伊神社がある。この神社は孝昭天皇5年に創建された神社で、かなり古いものである。
境内の略記には以下のように記されている

須佐之男尊、稲田比売命、伊都之尾羽張命
合殿 樋速夜比古神社 祭神 樋速夜比古命
本社の創立は甚だ古く孝昭天皇五年にご分霊を元官幣大社氷川神社に移したと古史伝に記載してゐる。
出雲風土記の「樋社」で延喜式に「斐伊神社同社坐樋速夜比古神社」とある。天平時代に二社あったのを一社に併合したのであろう。他の一社は今の八本杉にあったと考えられる。「樋社」を斐伊神社と改稱したのはこの郷の名が「樋」といったのを神亀三年民部省の口宣により「斐伊」と改めたことによる。延喜の制国幣小社に列せられ清和天皇達観貞観十三年十一月十日神位従五位上を授けられた。本社は中世より宮崎大明神と稱えられ地方九ヶ村の崇敬厚く明治初年までその総氏神としてあがめられた。明治四年五月郷社に列せられた。
明治十六年馬場替をし、仝四十年五月日宮八幡宮稲荷神社を本社境内に移転し、境内末社とした。
昭和五十六年九月一日島根県神社庁特別神社に指定された。
昭和六十三年八月廿五日社務所を改築した。
また、この地は素盞嗚尊が仮宮を作って稲田姫を隠した地とも言われている。

八本杉の位置とこの神社はペアの関係にある。この神社の位置は高台にあり、ヤマタノオロチの本拠地との条件はすべて兼ね備えている。この位置がヤマタノオロチの屋敷跡とすれば、ヤマタノオロチの実態がかなり明確に想像できるのである。
 この地は斐伊川沿いにあり、ここから下流はしばらく急流が続く、当時の人々は斐伊川を利用し船で他地域との交流を図っていたと思われる。斐伊神社のある里方の地はその入り口にあたり、急流を遡ってきた船はほぼ確実にこの地で休息を取るであろう地である。また、肥沃な日登、三刀屋方面からの合流点でもあり、この地を統治していた豪族は、ここから上流一帯の物資の流れを一挙に握っていたことになり、強大な権力があったことが予想される。この大豪族こそヤマタノオロチであったのであろう。

 八岐大蛇は『日本書紀』での表記。『古事記』では八俣遠呂智と表記している。正式には高志之八俣遠呂知である。越の国から来た人物と言われている。八束水臣津野命が能登半島の珠洲地方から技術者を招いているが、その中の1人ではあるまいか。出身地から判断してヤマタノオロチも縄文人と考えられる。ヤマタノオロチは高度な水運技術を持っていたために出雲地方に招かれ、その技術力で持って斐伊川の水運の実権を握っていたと考えられる。

 八岐大蛇の権力 

 八岐大蛇はBC30年頃、越国から出雲にやってきたと考えられる。斐伊川の水運の拠点を抑えたので、その勢力は急激に増大したと思われる。性格もかなり横暴なものだったようで、出雲王朝も手を出せない程のものであったようである。

 八岐大蛇は後に草薙剣(天叢雲剣)と呼ばれるようになる神剣を持っていた。鉄製の長剣と考えられるが、当時出雲地方では手に入らない程のものである。この剣はどのようにして手に入れたものだろうか?草薙剣の本来の名称「天叢雲剣」には「天」という接頭語がついている。この当時飛騨系のものに対して「天」という接頭語がつけられている例が多い。そこから推定するに、飛騨国王から譲られたものではないかと推定できる。

 飛弾国にも天叢雲剣を製造する能力はなく、本来は海外から持ち込まれたものであろうが、素戔嗚尊以前に朝鮮半島から技術導入を図ったのは、八束水臣津野命なので、この人物が朝鮮半島で天叢雲剣を手に入れ、それを飛騨国に友好の印として献上したものではないかと思える。八岐大蛇は飛騨国からBC28年ごろ派遣された人物で、そのシンボルとして天叢雲剣を所持していたのではないだろうか。

 そうなれば、八岐大蛇は飛騨国のシンボルとなる剣を持っていた上に水運の拠点を抑えていたので、相当な権力を持つにいたり、合わせて、出雲王朝と言えども手が出せないようになっていった。さらに八岐大蛇は心掛けがよろしくなかったようで、勢力拡大のために周辺豪族をいじめていたと思われる。

 オロチ刺殺事件

八岐大蛇関連伝承地
稲城の森 出雲市出西 素盞嗚尊が稲田姫と新婚生活した地。オロチの襲撃を恐れ堅固な城にしたという。
来原 出雲市大津町 大蛇が来たところと伝える。
上船津 出雲市舟津町 大蛇が川上に戻る時、立ち寄った処。
布須神社 木次町守谷 「八塩折の酒」を作るための御室を設けて宿泊した。室山の麓には「釜石」があり、ここで毒酒を作った。
八口神社 木次町西日登 八岐大蛇退治の時の仮宮を立てた処。この時の酒壺が壺神様として祀られている。
斐伊神社 木次町里方 稲田姫を隠した所
八本杉 木次町里方 オロチ館跡。オロチが最後を遂げた処。
三社神社 木次町西日登 オロチ退治の成功を祝って「祝賀の舞」をしたところ
大森神社 木次町西日登 オロチ退治後暫らく隠れて居た処。
佐世神社 大東町下佐世 素盞嗚尊がオロチ退治後海潮の須我に向かう途中に立ち寄り、佐世の木の葉を頭に挿して踊った時、刺した木の葉が落ちた処。
宝山 大東町中湯石室田 海潮温泉の裏山で御室山とも云う。「郡家の東北一十九里一百八十歩。神須佐乃袁命、御室造ら令め給ひて、宿りし所なり。故、御室と云ふ。」と伝える。
八重垣神社 松江市佐草町 背後の佐久佐の森に稲田姫を匿い、八つの垣を作ってオロチの追撃を防ごうとした。
八雲山 大東町須賀 素盞嗚尊ノミコトが八岐大蛇退治後に稲田姫を娶り宮を作るためにこの地に来て「八雲立つ出雲八重垣妻籠みに八重垣つくるその八重垣を」と詠まれた所。
須我神社 大東町須賀 素盞嗚尊最初の宮跡。館の前で交換市を開いた。

 稲田姫を奪われた素盞嗚尊は、なんとか取り返したいと思ったが、オロチは大豪族であり、まともに立ち向かったのでは勝ち目はない。そこで、稲田姫の実家のアシナツチ・テナツチの協力を得て強力な毒酒を作らせた。そのときの毒酒を作った地が木次町宇谷の布須神社、そのときの酒壺が木次町西日登の八口神社に壺神様として祀られている。その毒酒を木次の八本杉の地で宴会をしていたヤマタノオロチに飲ませた。ヤマタノオロチが毒酒に苦しんでいるときに父の鉄剣(布都御魂剣)で刺し殺した。
 素盞嗚尊は稲田姫を連れてオロチの屋敷を飛び出した。素盞嗚尊はオロチの配下による復讐を恐れていた。もう出西には戻れないと思った素盞嗚尊はその逆方向に逃げた。西日登の三社神社はオロチ退治の成功を祝って「祝賀の舞」をしたところで、東日登の大森神社の地にしばらく隠れていたと言われている。この神社の伝承により素盞嗚尊がオロチを退治した後の逃避経路が判明する。八本杉のところから斐伊川を4km程遡り、能間より支流に沿って遡るとすぐに三社神社があり、峠を越えると大森神社がある。素盞嗚尊は宇谷の布須神社の地に移った後、様子をうかがいながら、大東町の佐世神社の地に移動した。この神社はオロチ退治後海潮の須我に向かう途中に立ち寄ったと伝えられている。そこから八雲村を経由して佐草の八重垣神社の地の青幡佐草比古をたずねていった。

八重垣神社由来記
早く出雲の八重垣様に縁の結びが願いたい という歌は出雲において最も古い民謡で御祭神も八岐大蛇を退治し、高天原第一の英雄素盞鳴尊と国の乙女の花とうたわれた稲田姫の御夫婦がおまつりしてあります。
 素盞鳴尊が八岐大蛇を御退治になる際斐の川上から七里を離れた佐草女の森(奥の院)が安全な場所であるとしてえらび大杉を中心に八重垣を造って姫をお隠しなさいました そして大蛇を退治して、「八雲立つ出雲八重垣妻込みに八重垣造る其の八重垣を」という喜びの歌をうたい両親の許しを得て「いざさらばいざさらば連れて帰らむ佐草の郷に」という出雲神楽歌にもある通りこの佐草の地に宮造りして御夫婦の宮居とされ縁結びの道をひらき掠奪結婚から正式結婚の範を示し出雲の縁結びの大神として、又家庭和合の、子孫繁栄、安産、災難除、和歌の祖神として古来朝廷国司藩主の崇敬が厚く御神徳高い神国出雲の古社であり名社であります。

八重垣神社の地で一時身を隠し,八重垣を作ってオロチ一族の追っ手を防ごうとした。オロチ一族の残党は素盞嗚尊を追うことはせずに,そのまま解散したようである。オロチの館跡には八本杉が植えられ,素盞嗚尊がこの事件に関連した場所には,神社が建てられ,これらの伝承を詳細に伝えている。権力をほしいままにしていたオロチであるから,オロチの配下の人たちもオロチに対する忠誠心は持っていなかったようである。

須我神社縁起
 古事記(和銅五年・712年)所載では、八岐大蛇を退治せられた須佐之男命(すさのおのみこと)と奇稲田比売命(くしいなたひめのみこと)は、出雲国須賀の地においでになり、この地に宮殿を御造りになった。二人の間の御子神が清之湯山主三名狭漏彦八島野命(すがのゆやまぬしみなさろひこやしまのみこと)で、この三神が須我神社の主祭神である。 出雲風土記(天平五年・733年)ではここを須我神社、須賀山、須我小川などの名前に表現され、風土記抄(天和三年・1683年)には須我村とあり、須賀は広くこの地方の総称であったことがうかがわれる。 須我小川の流域には、かつて十二の村があった。須我神社はこの地方の総氏神として信仰されていたものであり、また、須我山(御室山、八雲山)の山ふところには巨岩夫婦岩ならびに小祠があり、須我神社奥之宮の磐座(いわくら)として祭祀信仰されている。 合殿の武御名方命(たけみなかたのみこと)は天文年中、当地(淀之荘)地頭職として神(みわ)中沢豊前守が信州諏訪より来任されたとき、その氏神武御名方命の神霊を勧請してこの須我神社に合祀し、諏訪大明神として崇敬せられた。以来村名も諏訪村と改められたが、明治二十二年、元の地名の須賀に復し現在に至っている。 明治二十五年十一月八日、元の島根県社に列せられた。<公式HPより>

 素盞嗚尊は暫らく八重垣神社の地に隠れていたが、オロチ一族が解散したことを知り安全が確認されたので、稲田姫との新居の地を探すことになった。そして選ばれたのが雲南市大東町の須我神社の地である。素盞嗚尊はここに新居を作り住むことになった。

 人々は素盞嗚尊の行動に感謝をした。統一政権のない弱肉強食の時代にすんでいる人々は権力欲のある豪族にいじめられており、自分たちの生活を守ってくれる人物の登場を願っていた。彼らは人望のある素盞嗚尊を中心として団結すれば、それらの豪族たちに立ち向かえると考えた。人々は,彼に王になってくれと嘆願した。素盞嗚尊も民衆のためになるのならと承諾し、彼を国王とした出雲国が誕生した。

出雲王朝・飛騨国との関係 

 素戔嗚尊が新しく出雲国を立てることになったのであるが、この地方一帯は出雲王朝の統一領域である。この出雲国王素戔嗚尊は出雲王朝の支配領域の一首長といったところであろうと思われる。

 しかし、出雲王朝の第5代天冬衣命は八岐大蛇に対して何も手が出せずにいるところを素戔嗚尊が八岐大蛇を退治したので、天冬衣命にとってもありがたい存在であった。

 出雲国王になった素盞嗚尊は先ず自らの住居前で出雲一帯の物産交換の市を開いた。今でもここの地名が「市場」であり、大原郡、能義郡などでできる荒麻(茣蓙の芯)や島根郡、秋鹿郡などでできる新茣蓙を主体に毎年8月に出雲中の物産交換市が立って夜通しにぎわったと伝えられている。当時茣蓙は生活物質の中では重要なものだったらしい。今でも8月22日に茣蓙替祭が行われている。素盞嗚尊は市を開くことにより、出雲中から人々を集め交流を深める共に国を治めていったと思われる。BC17年ごろのことであろう。

 ヤマタノオロチ伝承は,素盞嗚尊が国家統一事業を引き起こすきっかけになったもので,重要なことから,古事記・日本書紀でも無視できず,大蛇退治として記録された。しかし,出雲風土記には触れられていないのである。朝廷は,おそらく,ヤマタノオロチ事件を大蛇退治として記録するように要求してきたであろうが,出雲国造は素盞嗚尊の大事な事件を大蛇退治にしてしまうのに抵抗を感じ,風土記に書き込むのを拒否したと考える。出雲風土記には素盞嗚尊に関する記述が非常に少ないが,これも朝廷の検閲の結果,朝廷に都合のよい記述をすることに抵抗を示して,素盞嗚尊記述が少なくなったものと考える。

 

八本杉 八重垣神社奥の森

 八岐大蛇関連地図

 出雲国建国関連地図

 天叢雲剣について

 素盞嗚尊はヤマタノオロチ退治において、ヤマタノオロチが所持していた天叢雲剣(後の草薙剣)を手に入れた。記紀においては、「これは不思議で霊妙な剣だ。どうして自分の物にできようか。」ということで、天冬衣命を使いにして、天照大神にこの剣を献上したとされている。これは、どのように解釈できるであろうか。

 天叢雲剣が登場したのは、倭の大乱の出雲振根終焉地の近くであるために、倭の大乱後ではないかとも考えたが、天冬衣命が天照大神に献上しているので、素戔嗚尊のヤマタノオロチ事件の時と推定した。

 ヤマタノオロチは、飛騨国から派遣された人物と推定している。そのヤマタノオロチを殺害したとなれば、せっかく友好関係にある出雲と飛騨国の関係が壊れてしまう恐れがある。特に出雲王朝第5代国王天冬衣命は強く思うことであろう。ヤマタノオロチが横暴であったために殺害したわけなので、その事実を飛騨国王ヒルメムチに伝えれば何とかなるのではないかと考え、戦利品である天叢雲剣を飛騨国王に献上すれば、この件は不問にされるのではないかと考えたのではないかと思われる。そのための献上であったのではあるまいか。

 弥生時代推定海水面(標高7mが海面と推定)
 
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