飛騨国その後

 国譲会議によって飛騨国の主張は受け入れられ、日向国の後継者に飛騨の血を入れるために賀茂建角身命が日向に降臨した。その後の飛騨国はどうなっていたのであろうか。

 天若彦について

 天若彦は記紀では出雲国譲りに関して言い伝えられているが、神社伝承では、全く異なる状況のようである。

 記紀伝承

 まず記紀伝承では、以下のようなあらすじである

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 高皇産霊神と天照大神は、八百万の神たちを集め、
「天穂日命を遣わせましたが、その後長い間、連絡がない。今度は、どの神を遣わすのがよいでしょうか。」
と尋ねると、思金命が、言いました。
「天津国玉の神の子の天若日子がいいでしょう。」
そこで、弓と矢を天若日子に授けて、下界に遣わせました。しかし、この天若日子も大国主命の娘の下照姫を妻にして、この国を自分のものとしようとして、八年になるまで何の連絡もしなかった。
 そこで、天照大神と高皇産霊神は、再び八百万の神たちを集め、尋ねた。
「天若日子も長い間、連絡をしてきません。また今度は、どの神を遣わせて、天若日子が、長く下界にとどまっているわけを問いただしたらよいでしょう。」
すると、思兼命は、答えて言いました。
「鳴女という名前のキジを遣わせるのがよいでしょう。」
そこで、天照大神は、そのキジにこう言った。
「『お前を葦原の水穂の国に派遣した理由は、この国の乱暴な神たちをおとなしくさせ、服従させることでした。それがどうして八年になるまで何の報告もないのか。』と聞いて見よ」
 こうして、キジは下界へと飛んで行って、天若日子の家の門にある桂の木の枝にとまり、天照大神の言葉をそのままに伝えました。すると、家の中にいた天佐具売という女が、この鳥の声を聞き、天若日子に言いました。
「この鳥の無く声は大変汚いようです。矢で射殺してください。」
それで、天若日子は、天の神から授かった弓で矢を放ち、そのキジを殺してしまったのです。その矢は、キジの胸を突き通し、天をめがけて飛んで行き、天の安の河原の天照大神と高皇産霊神のところまで届いたのでした。高皇産霊神が、その矢を手に取って見てみると、矢の羽に血が着いていました。
「この矢は、天若日子に与えたものだ。」
とおっしゃて、他の神さまたちにその矢を見せながら、
「天若日子が、われわれの命令のとおりに、これが乱暴な神に向かって放った矢であるなら、天若日子には当たるな。しかし、もしそうではなく、謀反の心から放った矢であるなら、これは天若日子に当ってしまえ。」
とおっしゃて、その矢をつかんで、飛んで来た穴から衝き返してやったところ、朝まだ床の中で寝ていた天若日子の胸につき刺さり、死んでしまいました。
 こうして天若日子は死んでしまい、妻の下照姫の悲しみの泣き声は、風とともに高天原まで届きました。高天原に住んでいる天若日子の父天津国玉神や、その妻や子どもたちが下界に降りて来て、嘆き悲しみ、天若日子の亡きがらを小屋を作って安置しました。そして八日間にわたって、連日連夜、歌い踊り遊びました。
 この時、下照姫の兄のアジスキタカヒコネがやってきて、天若日子のお葬式を行いました。すると、天若日子の父や妻や子どもたちは、みんな嘆きながら、
「わたしの子は死んではいない。」
「わたしの夫は死んではいない。」
と言い、アジシキタカヒコネを天若日子と勘違いして、その手足に取りすがって泣きました。なぜなら、アジシキタカヒコネと天若日子の二人は、そのお姿がとてもよく似ていたからでした。しかし、アジシキタカヒコネは、これにたいへん怒って、
「天若日子は、わたしの親友であるから葬式にやって来た。それなに、そのわたしをなぜ、汚い死人と間違えるのか。」
と言って、大きな剣で、お葬式のための小屋を切り倒し、足で蹴って、こなごなに壊してしまいました。これは、美濃国の長良川の河上にある喪山と呼ばれる山のことです。

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 この伝承は出雲国譲りの話の中に出てくるのであるが、飛騨の伝承では飛騨国との関わり合いが考えられる。これは何を意味しているのであろうか。

 神社伝承

 天稚彦神社 滋賀県犬上郡豊郷町高野瀬。 
祭神 :天稚彦命、大國主命、事代主命、下照姫命。
勝鳥神社の由緒書
「美濃の国での戦いで亡くなられた天稚彦命の亡骸を下照姫命の兄が三津に葬り勝鳥石をたてたと語り伝えられている。」
 勝鳥神社所蔵の懸け仏の裏の天稚宮がご神体である。祭日の日に天稚彦神社、それ以外の日は勝鳥神社に置くと言われている。 近くに天稚彦命とそっくりな味耜高彦根神を祭神とする阿自岐神社 が鎮座している。

勝鳥神社 滋賀県彦根市三津町 祭神:天稚彦命

天稚彦命が出雲の国から東方へ征伐に出陣された時、事代主命らとともに三津に立ち寄られた。美濃の国での戦いで亡くなられた天稚彦命の亡骸を下照姫命の兄が三津に葬り勝鳥石をたてたと語り伝えられている。

上神神社 美濃市笠神588・589番地

 御祭神は下照姫命を主神とし、天稚彦神、味耜高彦根神、御手洗姫神、比売神を相殿の神として祀り、後に17柱の神々を合祀奉斎している。下照姫命は大国主命の娘神にして、天照大神の御命令を奉じてお降りになった天稚彦命の妻となり、御二人力を合わせて中津国の御平定に大きな御功績残され、この里にお住居になつた神です。付近矢田川に添って、神代の神話の遺蹟雉射田があり、又藍見川を遡れば約1キロメートルの所に古事記・日本書紀記載の神話の遺蹟喪山がある。<平成祭データより>

 喪山 美濃市大矢田

 むかし天稚彦(天若日子)は、ある日、庭先の不審な雉子を矢で射ると、その矢が天から戻って来てその返し矢に当たって死んだ。妻の下照姫の泣き叫ぶ声は天まで響いたといふ。葬儀のとき、下照姫の兄の味鋤高彦根神が喪屋を弔ふと、高彦根神は死んだ天稚彦と容貌がよく似てゐたので、天稚彦の親族は、天稚彦が生き返ったやうだといった。さういはれた味鋤高彦根神は、死人と間違へられたことを怒り、喪屋を足で蹴飛ばすと、喪屋は空を飛んで美濃国の藍見川の川上に至り、それが今の喪山(美濃市大矢田)であるといふ。喪山にまつられてゐた喪山天神社(祭神・天若日子命)は、北方の天王山の麓の楓谷の大矢田神社(牛頭天王社)の境内社として移転された。楓谷にはヤマモミヂ樹林がある。<歌語り風土記より>

 大矢田神社

 天若彦の喪屋で「もがり」をしていると、阿遅志貴高彦(下照姫の兄)がこんな醜い姿は見たくないと、喪屋を蹴飛ばしてしまう。その喪屋が落ちたところが喪山で、大矢田神社の辺りだという。天若彦の召使いに天探女「あめのさぐめ」がいた。アマテラスが天若彦に高天原に帰るように説得するため雉鳴女を下すと、天探女が事前に天若彦に知らせたので、天若彦は雉鳴女を殺してしまった。天探女は密告する悪い女ということになった。
 天若彦の喪屋が落ちたとき、天探女も一緒に落ちた。天若彦は大矢田神社に祀られたが、天探女を祀ったのがこの山だという。人々は天探女を「あめのたんにょ」と読んだので「たんにょ」が「たんじょう」になったという。

 飛騨伝承

 飛騨伝承では天若彦は飛騨の人物で、飛騨で、重大な任務を任され美濃の誕生山(下照姫命の誕生伝説あり)に天降った。そこで下照姫を妻とし、飛騨に復命しなかった。そして、使いにやられたキジナナキメも殺してしまった。喪山の周辺で亡骸を囲んで皆で泣いた。というように伝えられている。

 天若彦の正体

 これらの伝承を総合して天若彦の正体を探ってみよう。

 古代史の復元においては下照姫は大国主命の娘ではなく、饒速日尊の娘である。そして神社伝承から、天若彦の活躍の場は出雲ではなく、美濃国であることがわかる。天若彦は出雲ではなく大和に降臨して饒速日尊の娘下照姫と結婚したと考えられる。出身地も高天原ではなく、飛騨国であると考えられ、飛騨国王家とヒノモトとの間の政略結婚が行われているが、その一環と考えられる。饒速日尊の嫡男である事代主命も飛騨国の娘と考えられる活玉依姫と結婚しているので、饒速日尊は如何に飛騨国を重要視していたかがわかる。記紀神話では飛騨国にかかわる部分を完全に抹殺しているので、天若彦関連情報も出雲国譲りの一環として書き換えられたものと判断する。

 この事件の起こった時期であるが、AD35年ごろ誕生したと思われる事代主命・下照姫が成人していること、味耜高彦根神が登場していることから判断してAD50年ごろと推定される。飛騨国から九州に三人の娘を降臨させたのもほぼ同じころであり、このころ、飛騨国の重要人物と、倭国・ヒノモトの重要人物の政略結婚が盛んに行われた事がうかがわれる。

 このころ饒速日尊とともに降臨した高皇産霊神の子である思兼命は、近くの尾張国開拓のために赴任している。また、大国主命の子である味耜高彦根神は倭国・ヒノモト合併の使者として倭国からヒノモトに派遣されてきている。記紀神話・神社伝承・飛騨伝承を総合すると、AD50年ごろの美濃国における出来事という結論に達する。

 天若彦が亡くなった原因である美濃の戦いとはなんであろうか。下照姫は飛騨国で葬儀を上げたいと考えていたようであるが、飛騨国のほうから裏切り者であることから断られている。天若彦は事代主命とともに美濃国に赴いているようなので、美濃国で大規模な反乱があったと考えてよいのではないか。美濃国は饒速日尊がAD40年ごろ統一していたところではあるが、その前に、多くの弥生人たちが住み着いているところでもあり、饒速日尊とともにやってきた大阪湾岸の人々との間に軋轢が生じやすいといえる地域である。また、天若彦の廟所といわれている喪山は飛騨国の入り口に当たり、飛騨国を強く意識した場所である。戦いの相手は飛騨国の軍隊だった可能性も考えられる。天若彦は飛騨国の使者キジナナキメを殺害したと伝えられており、飛騨国がこの戦いにかかわっていると思われる。しかし、天若彦の死後、飛騨国で本葬をしようとしたり、多くの人が葬儀に集まったことから考えて、天若彦は飛騨王家にかかわる人物で、飛騨国王の直系の人物ではないかと思われる。そうであるならば、天若彦が飛騨国と戦うことはまず考えられず、土地の人による反乱とみるべきではないだろうか。

 周りの状況から美濃国の戦いを以下のように推定してみる。

 飛騨国とヒノモトが次第に緊密化してくると、それを快く思わない人々がいても不思議ではない。戦いの中心であったと思われる美濃国はヒノモトの領域なので、美濃国の人々が飛騨国をヒノモトに加えることに反対し反乱を起こした。その反乱の鎮圧にあたったのが、事代主命、天若彦命だったのであろう。天若彦はその出身から飛騨国の援護にあたっていたが、反乱軍の攻撃の対象にもなっていた。
 ある時、キジナナキメが飛騨国の使者としてやってきたが、家の中にいた美濃国に通じていた天佐具売という女が、「天若彦を殺しに来た者」とでも言ってだまし、殺害を示唆した。天若彦は飛騨国からの使者キジナナキメを殺害してしまった。
 キジナナキメが天若彦に殺害されたと知った飛騨国側は天若彦を裏切り者として処断することになり、飛騨国が放った刺客によって殺害されてしまったのである。
 飛騨国の王家の血筋である天若彦の葬儀を飛騨国で行おうとしたが、飛騨国では彼を裏切り者として認知しているために飛騨国で葬儀ができなかったのである。

 これが真実かどうかは定かではないが、このような出来事ではなかったかと推定する。天若彦の死後、下照姫、味耜高彦根神が美濃国を開拓しており、彼らは、反乱鎮圧後、この地域を安定化させるために取り組んだものと判断できる。 

 記紀では、飛騨国とのかかわりは徹底して無視しており、この出来事は出雲の国譲りの中に挿入されたものであろう。

 味耜高彦根神の謎

 味鋤高彦根命は下照姫の兄として知られている。古代史の復元では、味鋤高彦根命は賀茂建角身命で、下照姫は饒速日尊と天知迦流美豆比売との間の子である。
 味鋤高彦根命は飛騨国でAD10年頃に誕生しているが下照姫は大和でAD25年頃誕生しており、その間は15歳ほどの開きがあると思われる。 

 味鋤高彦根命は10歳に満たない幼少時は誕生地出雲にいたと思われるが、次の伝承地は阿遅速雄神社である。平成祭データによると
 「阿遅鋤高日子根神は本地に降臨せられ給ひ土地を招き民に耕耘の業をさづけ恩沢をたれ給ひ、父神大国主命の神業を補翼し給ふ。郷民その御神徳を忍び摂津河内の国造神として、御神恩をお慕ひ申上げ、神いませし此の地の守護神として斎ひまつると云ひ伝へたるものにして・・・・・」
 神社名の阿遅速雄は味鋤高彦根命の御子である。この地に味鋤高彦根命が降臨したのは、30歳前後の時ではないかと思われる。これ以降は葛城山山麓での生活、美濃国での活躍、饒速日尊とともに陸奥国の統一事業参加をしている。

 これを探るヒントとなるのが天若彦と友人関係にある。天若彦は飛騨国出身であり、AD50年頃飛騨国から大和に降臨し下照姫と結婚している。味耜高彦根命(賀茂建角身)は出雲国譲り後に大和に戻ってきている。この時に天若彦と知り合ったのかもしれない。
 味鋤高彦根命は天若彦と、うり二つだったと伝えられている。同じ縄文人であり、味鋤高彦根命は自分を天若彦と勘違いされて怒っているが、これは何を意味しているのであろうか。
 天若彦の両親が味鋤高彦根命を見て安心し、味鋤高彦根命が自分たちの立場をよく理解していると勘違いして起こったものではあるまいか。

 統一のその後

 飛騨国王は日本書紀では両面宿儺として表現されている。悪人のように表現されているが、実際は人格優れた人物であったと飛騨国では言い伝えられている。両面宿儺は、第16代仁徳天皇の時代に朝廷に従わず民を苦しめた悪人として、仁徳天皇が遣わした将軍・難波根子建振熊によって討伐されたと言われているが、実際はこの時、大和朝廷と飛騨国王との間の意見の相違があり、飛騨国王は処罰され、この時、縄文時代からつながる飛騨国は滅んだと推定している。このとき、日抱神社を抹殺するために重要な神社に伊太祁曾神(五十猛命)を祀らせ、真実が分からないようにしたと考えられる。

 第25代武烈天皇について考えてみる。

古事記
 長谷の列木宮に坐して、治世は八年、御子がいなかったので、小長谷部を定め、御陵は片岡の石坏にある。
日本書紀
 「オケ七年に皇太子として立たれ、長じて罪人を罰し、理非を判定する事を好まれた。法令に通じ、日の暮れるまで、政治を執り、世に知られずにいる 無実の罪は、必ず見抜いて、はらされた。訴訟の審理は、誠に当を得たものであった。」
 仁賢天皇の死後、大臣平群真鳥臣は驕慢で国政をほしいままにし、臣下としての礼節がま るでなかった。武烈天皇は、嫁にと望んだ物部麁鹿火大連の 娘影媛が、平群真鳥臣の息子鮪(しび)にすでに犯された事を知り、大そう怒って鮪を殺し、大伴金村連とともに平群真鳥臣 も焼き殺す。そして即位し、 大伴金村連を大連とするのである。
即位後
「多くの悪業をなさって、ひとつも善業を行われなかった。様々な酷刑を、親しくご覧にならない事はなく、国民は震い怖れていた。」

二年九月

妊婦の腹を裂いて、その赤子を見る。

三年十月

人の生爪を剥いで、芋を掘らせた。

四年四月

人の頭髪を抜いて、木に登らせ、その木を切倒して、落として殺した。

五年六月

人を池の樋に伏せ入れ、外に流れ出てきた所を、三刃の矛で刺し殺す。

七年二月

人を木に登らせ、弓で射落とす。

八年三月

女を裸にして、馬と交接させる。その陰部を見て、潤っている者は殺し、濡れていない者は、没して官婢とした。

 凄まじい暴虐ぶりである。
 宮中では出廷退廷の時間もいい加減になり、贅沢と酒池肉林に明け暮れ、一日中淫靡な音楽を奏で、天下の上を顧みなかった、とある。

 即位前後で全く別の人格である。その境にあるのが平群真鳥の事件である。富山の皇祖皇大神宮に竹内家が残っている以上、この部分は竹内家の伝承が正しいと判断する。この当時朝廷の有力豪族が飛騨国の痕跡を抹殺しようと図っていたのであろう。正しく物事を考えることのできる武烈天皇は、それを残そうと思っており、平群真鳥を策略で富山へ落ち延びさせ、失われつつあった飛騨国の言い伝えをまとめさせたのである。これが竹内古文献であろう。しかしながら長年書き写している間に、真実から少しずつ外れ、現在残っているような状態になったのではないだろうか。

 武烈天皇が悪逆非道に描かれているが、具体的に詳しく書かれているわけではなく、ただ事象が書かれているだけであり、この記事は後で都合がよいように挿入したことがうかがわれる。精神異常を起こしていた可能性も考えられなくはないが、それなら、そのようなことが書かれていてもよいように思える。武烈天皇は飛騨国抹殺派の圧力に耐えながら国を治めていたのではないだろうか、後継者なしで早世しているのも暗殺された可能性が考えられる。雄略・清寧・賢宗・仁賢・武烈・継体・安閑・宣化各天皇の在位期間に若干不明な点がある。これは後に考察してみようと考えている。

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