陸奥国統一

 陸奥国統一関連地図

 大和に帰還した饒速日尊は次に陸奥国統一に旅立つのであるが、陸奥国は饒速日尊よりも味鋤高彦根命が主体的に動いているようである。まずはその過程から推定してみよう。

 伝承

一宮 鹽竈神社 宮城県塩竈市一森山1番1号 塩土老翁神・武甕槌命・経津主神 武甕槌命・経津主神が東北を平定した際に両神を先導した塩土老翁神がこの地に留まり、現地の人々に製塩を教えたことに始まると
一宮 都都古和気神社 福島県東白川郡棚倉町馬場 味耜高彦根命 味耜高彦根命は御父君大国主命の功業を補翼し東土に下り曠野を拓き民に恩沢をたれ給うたので郷民其徳をしのび当地に奉祀されたと伝えられる。棚倉町には、当社の他に、都都古別神社がもう1社存在する。また、久慈川に沿って、近津と呼ばれる神社が3社存在し、その鎮座地から、当社・馬場の都都古別神社を上之宮、八槻の都都古別神社を中之宮、茨城県の近津神社を下之宮とし、近津三社と呼ばれる場合もある。
一宮 都都古別神社 福島県東白川郡棚倉町八槻大宮 味耜高彦根命 日本武尊が東征のおり、八溝山の夷族の大将と戦い、勝敗がつかず、そこに、面足尊、惶根尊、事勝國勝長狭命の三神が出現。味耜高彦根命の鉾を授けた。日本武尊は、その鉾を、今の鉾立山に立てかけ、東に向かって矢を放ち、矢の到達した場所に社殿を立て、味耜高彦根命を祀り、その加護により勝利をおさめたという
一宮 石都々古和気神社 福島県石川郡石川町 味秬高彦根命・大国主命 当社は八幡山と呼ばれる山の頂上にある。創建の年代は不詳であるが、八幡山には磐境が多数あり、古代から祭祀の地とされていたことがわかる。延喜式神名帳の記述が書物における当社の初見である
二宮 伊佐須美神社 福島県大沼郡会津美里町字宮林甲4377 伊弉諾尊、伊弉冉尊、大毘古命、建沼河別命 社伝では、紀元前88年(崇神天皇10年)、四道将軍大毘古命と建沼河別命の親子が蝦夷を平定するため北陸道と東海道に派遣された折、出会った土地を「会津」と名付け、天津嶽(御神楽岳)山頂に国土開拓の祖神として諾冉二神を祀ったのが起源という
立鉾鹿島神社 福島県いわき市平中神谷字立鉾33番地 武甕槌神 武甕槌神(タケミカヅチノカミ)」が、東北を平定するためこの地に至り、当時 「塩干山」と呼ばれていたこの山に登り「鉾」を立て、これから進む東方を眺望したことから「立鉾」の名で呼ばれるようになりました
志波彦神社 宮城県塩竈市一森山1番1号 志波彦神 志波彦神社は鹽竃の神に協力された神と伝えられ、国土開発・産業振興・農耕守護の神として信仰されている。志波彦の神が降りてきたため、神降川と呼んだのが「かむり」になった。その神が川を渡るときに乗っていた白馬が躓き、神が冠を落としてしまったからだという伝説がある。旧社地は川沿いの岩切の丘陵上にあったと言われている。今の七北田川である。
和渕神社 宮城県石巻市和渕町1 経津主神 武甕槌神 大巳貴神 ?神 香取神社の神船が、常陸より八重の塩路に乗り、牡鹿郡和渕山の西辺(船島)に着き、その東方に船を留め(船澤)、山頂の船澤山 猿霊峠(樹霊峠)に宮柱を立て祭祀したとも伝えられる
鹿嶋御児神社 宮城県石巻市日和丘2丁目1-10 武甕槌命、鹿嶋天足別命 往古、関東の鹿島、香取の両神宮祖神の御子が共に命を受けて海路奥州へ下向し、東夷の征伐と辺土開拓 の経営にあたることとなり、その乗船がたまたま石巻の沿岸に到着、停泊して錨を操作した際、、石を巻上げたことから、石巻という地名の発祥をみたのだとの言い伝え があります。石巻に上陸された両御子は先住蛮賊地帯であった奥州における最初の足跡をしるした大和民族の大先達であり、開拓の先駆者として偉大な功績を残された地方開発の祖神であります。
鹿島御子神社 福島県相馬郡鹿島町大字鹿島字町199 天足別命、志那都比古命、志那都比賣 御祭神天足別命が鹿島の稚児沼に仮宮された時、此の地方に大六天魔王という賊徒が 横行していた。或る朝未明賊徒が命の仮宮を襲い火を放った、命は直ちに「火伏せの神事」を以て四方八方に拡がった猛火を鎮めた。其の時、鹿島の大神のお使いである 鹿が多数現われ、川より濡れた笹を銜えて仮宮を潤し火の再発を防いだという。その後命の御神徳に依りて賊徒横行することがなくなり安泰な日が続いたと謂う。天足別命は往時武甕槌命、経津主命と共に奥州の邪気を討攘せる神にして、特に奥州は僻遠の地なれば邪鬼再び起こらんことを慮り、奥州の邪鬼討攘に専念せし神なり。
桙衝神社 福島県岩瀬郡長沼町大字桙衝字亀居山97  日本武尊、建御雷命 武甕槌命の事績に由来するという

 陸奥国の神社伝承にはいくつか系統があることが分かる。まとめてみると、
① 大国主命と御子味秬高彦根命のペア
② 建御雷命と御子天足別命
③ 志波彦命と鹽土神
これらの神々の関係を見てみたいと思う。

 陸奥国一宮の鹽竈神社伝承では、鹽土老翁神が、当地で塩の作り方を教えた。また、武甕槌命・経津主命は、鹽土老翁神が先導して当地へ迎えたものと伝えられる。主祭神は鹽土老翁神と考えられる。讃岐国阿野郡の塩竃神社など他の同名の神社の祭神は味耜高彦根命が多いが現在の塩竈神社には味耜高彦根命の名は見えない。現在の祭神は鹽土老翁神、武甕槌神、經津主神であるが、これは江戸時代に定められたようである。『和漢三才図絵』によれば、陸奥の鹽竃六所大明神 在千賀浦 祭神一座 味耜高彦根命とある。陸奥一宮の祭神は味耜高彦根命とされ弘仁式には鹽竃の神である。これらのことより、鹽竃の神=味耜高彦根命という図式ができる。建御雷命=饒速日尊なので、陸奥国を統一した人物は饒速日尊と味耜高彦根命のペアと言うことになる。

 味耜高彦根命は出雲の大国主命と宗像三女神の一人多祁理姫との間にできた子である。大国主命が亡くなる直前のAD40年頃に九州で誕生していると思われる。AD55年頃と推定されるこの頃には15歳程になっていることであろう。饒速日尊と味耜高彦根命は親子ではないが、共に行動していると周りからは親子に見えるであろう。なぜ、この二人がペアで陸奥国を統一したかは後で考察するとして、他の神社の伝承との照合を先にする。

 鹿島御子神社・鹿島御児神社では建御雷命とその子天足別命のペアとなっているが、他の神社の伝承から判断すると、天足別命=味耜高彦根命が自然であろう。しかし、直接的にこの両者が同一人物であることを裏付ける伝承は見つからない。志波彦神は、国土開発・産業振興・農耕守護の神と言われていることから饒速日尊と思われる。これも直接裏付ける伝承は見つからないが、似たような伝承のつながりからこのような推定が成り立つ。

饒速日尊陸奥国統一関連伝承地

 饒速日尊出羽国からの帰還

 出羽国統一が終了した饒速日尊は、倭国との合併準備のために大和に帰還した。大国主命死去の後出雲国譲り会議の時、倭国と日本国の大合併も議論に登ったが、饒速日尊は東日本地域の統一がまだ途中(この時点では陸奥国・出羽国・飛騨国・信濃国が未統一)であることを理由に先延ばしをしていた。饒速日尊は大和に帰還したが、その時は、すでに約束した期限を過ぎていたのである。日向国の高皇産霊神はしびれを切らせ、味耜高彦根命を大和に派遣したのである。

 大和国は日本国の中心地であるが、三輪山より東側(宇陀地区)はこの時点でまだ統一されていなかったのである。大和に戻った饒速日尊はこの地域が落ち着いていないのが気になり、初瀬川上流の桜井市白木地区を拠点としていた。大和にやってきた味耜高彦根命は饒速日尊に会うためにここにやってきた。初瀬川の中に巨大磐座があり、古来より味鋤高彦根命を祭神とする祠があったが、今は湖の中である。すぐそばに高籠神社があり、おそらくこの地に味耜高彦根命は滞在して饒速日尊と会ったと思われる。

 味耜高彦根命は倭国との大合併の状況について饒速日尊に聞いたと思われる。饒速日尊としては、東日本全域を統一してから大合併をしたいということを伝えたものと思われる。この時点で未統一の地域は伊賀国・伊勢国・志摩国と大和国の東側領域と、上総国・安房国の関東地方の一領域及び陸奥国である。陸奥国以外はいつでも統一できるとして、倭国との合併は陸奥国が統一されてから実施したいと提案した。味耜高彦根命はそれを了承した。陸奥国統一には人材確保など準備が必要として、陸奥国出発までに少し時間があった。この間に饒速日尊は自分の娘である御歳姫(下照姫)と味耜高彦根命を結婚させた。この二人の間に天八現津彦命が生まれ、後の賀茂氏となった。

 饒速日尊も65歳程になり、体力の衰えも見えてきたはずである。饒速日尊だけでは統一事業を行うのは難しくなっており、味耜高彦根命が統一事業に協力することとなった。陸奥国統一は饒速日尊よりもむしろ味耜高彦根命の方が主体的に動いているようである。

 陸奥国統一

 いよいよ準備が整い、陸奥国統一に出発した。陸奥国統一の基点として鹿島神宮の地を選定した。陸奥国に出発する前に、さらに人材確保のために、下野国(現在の栃木県)辺りを巡回した。下野国は味耜高彦根命を祀る神社が異常に多いことからこのように推察する。

 陸奥国の統一領域を推定してみると、方形周溝墓の北限が宮城県栗原市であり、饒速日尊と思われる神を祀っている式内社の北限も宮城県までである。行動伝承もここまでであり、岩手県下には饒速日尊と思われる神を祀っている式内社は存在しない。饒速日尊が味耜高彦根命とともに陸奥国統一したのは、宮城県北端までのようである。

 それでは、鹿島神宮の地を出発した饒速日尊一行の統一経路を推定してみよう。

鹿島神宮奥宮 鹿島神宮

 都都古和気神社(棚倉町)は久慈川領域にあり、鉾衝神社・石都都古和気神社は阿武隈川沿いにある。久慈川を遡って行くと,棚倉町の都都古和気神社の近くで、阿武隈川流域に入る。この地理関係から、饒速日尊一行は鹿島神宮の地を海路北上し久慈川河口から、久慈川を遡って行ったと推定できる。その流域の人々に新技術を伝えながら、棚倉町のところから阿武隈川流域に入り、白河市から郡山市一帯を統一した。このとき、会津若松方面も統一していると思われるが伝承がない。陸奥国領域でこの神社以外はすべて海岸沿いである。阿武隈川・久慈川流域を統一してから一度鹿島に戻ったのではあるまいか。これ以外の陸奥国統一伝承地に内陸部が存在しない。手っ取り早く一応統一しておこうというような感じを受ける。そうでなければ、内陸部にも手を出していると思われる。高齢化した饒速日尊にも焦りがあったのではないだろうか。饒速日尊としては、東日本全域を統一後、倭国との合併交渉に入るという手はずだったと思われる。出羽国・陸奥国のような北方の国になると、気候も大きく違い水田稲作も思い通りにできないなど、大陸の技術が通じない要素も多かったのではないだろうか。また、長期滞在して国土開拓をする人材も数少なくなっており、当初の予定通り統一が進まなかったことがうかがわれる。まずは、海岸線に沿って統一しておき、時期を見て内陸地域に勢力を広げようという思いがあったのかもしれない。それが、阿武隈川流域から一度戻らせた原因ではないかと思う。

 船団を組んで鹿島を再び出港した饒速日尊一行は福島県いわき市近辺に着眼した。いわき市には鹿島立鉾神社があり、この神社には「武甕槌神が、東北を平定するためこの地に至り、当時 「塩干山」と呼ばれていたこの山に登り「鉾」を立て、これから進む東方を眺望したことから「立鉾」の名で呼ばれるようになりました。」とある。

鹿島立鉾神社遠景 鹿島立鉾神社

 ここから、海に出て、海岸沿いを統一しながら北上した。南相馬市に到達し真野川を遡り、鹿島区についた。ここには鹿島御子神社がある。ここでは、
「御祭神天足別命(味耜高彦根命と推定)が鹿島の稚児沼に仮宮された時、此の地方に大六天魔王という賊徒が 横行していた。或る朝未明賊徒が命の仮宮を襲い火を放った、命は直ちに「火伏せの神事」を以て四方八方に拡がった猛火を鎮めた。其の時、鹿島の大神のお使いである 鹿が多数現われ、川より濡れた笹を銜えて仮宮を潤し火の再発を防いだという。その後命の御神徳に依りて賊徒横行することがなくなり安泰な日が続いたと謂う。天足別命は往時武甕槌命、経津主命と共に奥州の邪気を討攘せる神にして、特に奥州は僻遠の地なれば邪鬼再び起こらんことを慮り、奥州の邪鬼討攘に専念せし神なり。」
 と伝承されており、ここで、賊徒に襲われたようである。

志波彦神社 鹽竃神社

 再び海岸線に沿って北上し、仙台市宮城野区の七北田川河口から上流に入った。岩切と言うところに仮宮を作った。志波彦神社の旧社地である。ここを起点として、仙台市、多賀城市、塩釜市一帯を統一して回った。後に塩釜神社の地に拠点を移した。
塩釜神社では「祭祀は武甕槌命・経津主神が東北を平定した際に両神を先導した塩土老翁神(味耜高彦根命と推定)がこの地に留まり、現地の人々に製塩を教えたことに始まると」伝えている。

鹿島御児神社 和渕神社

 塩釜市一帯の統一が完了すると、さらに北上し、北上川の河口である石巻市の日和山に仮宮をたて、その周辺を統一した。ここには鹿島御児神社があり、
 「往古、関東の鹿島、香取の両神宮祖神の御子が共に命を受けて海路奥州へ下向し、東夷の征伐と辺土開拓 の経営にあたることとなり、その乗船がたまたま石巻の沿岸に到着、停泊して錨を操作した際、、石を巻上げたことから、石巻という地名の発祥をみたのだとの言い伝え があります。石巻に上陸された両御子は先住蛮賊地帯であった奥州における最初の足跡をしるした大和民族の大先達であり、開拓の先駆者として偉大な功績を残された地方開発の祖神であります。」
 陸奥国統一の最北端の伝承は石巻市和渕町の和渕神社のものと思われる。「香取神社の神船が、常陸より八重の塩路に乗り、牡鹿郡和渕山の西辺(船島)に着き、その東方に船を留め(船澤)、山頂の船澤山 猿霊峠(樹霊峠)に宮柱を立て祭祀した。」と伝えられている。香取神社の神船とは経津主神の船と思われる。経津主神は武甕槌神(饒速日尊)と同一人物と思われ、饒速日尊がここまで来ていることを思わせる。
 このあたりになると、饒速日尊の行動があまり見られなくなり、味耜高彦根命のみである。おそらく、饒速日尊は仙台市に留まったままであったのであろう。このまま北上川を遡り、一関市・栗原市一帯の統一を実行した。方形周溝墓の北限がこのあたりであり、饒速日尊に率いられた入植者は、このあたりまでやってきたのであろう。

 大和帰還

 北上川をさらに遡れば、岩手県の花巻市、盛岡市一帯が統一できたはずなのであるが、統一した形跡はない。その入り口近くで、統一を取りやめ、大和に帰還したようである。これはどうしたことであろうか?

  陸奥国統一には饒速日尊と思われる人物の直接的な行動が少なくなり、ほとんどがその子味耜高彦根命と思われる人物の行動が伝わっている。おそらく、饒速日尊は高齢化で体力的衰えが際立ってきたのではないだろうか。饒速日尊にはまだ、倭国日本国大合併という仕事が残されているのである。

 饒速日尊の体力的衰えを感じた味耜高彦根命は饒速日尊に大和帰還を勧めたのではないだろうか。饒速日尊自身もそのことを気にしており、陸奥国のこれ以上北部領域は後世の人物に統一を託して、大和帰還をすることにした。

 大和帰還した饒速日尊は大合併を実施することなく、間もなく亡くなったのであろう。

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