武蔵国統一

 相模国関連連地図

 毛野国関連地図

 武蔵国関連地図

 毛野国を統一した饒速日尊は利根川を渡り、武蔵国に入った。武蔵国の巡回経路を推定してみよう。

 宮 神社  住所     祭神   創始  備考
惣社 大國魂神社 東京都府中市宮町3-1 大國魂大神 景行 祭神は大國魂大神で武蔵の国魂の神と仰いでお祀りしたものである。この大神は 素盞鳴尊の御子神でむかしこの国土を 開拓され、人民に衣食住の道を授け、医薬禁厭等の方法をも教えこの国土を経営された
一宮 氷川神社 さいたま市大宮区 名神 須佐之男命・奇稲田姫命・大己貴命 孝昭 武蔵総社六所宮である大國魂神社(東京都府中市)に属する武州六大明神の内の一つであり、六宮の内の三宮である。
一宮 氷川女体神社 さいたま市緑区 小社 奇稲田姫命 崇神 崇神天皇の時代に出雲大社から勧請して創建されたと
一宮 小野神社 東京都多摩市・府中市 小社 天下春命 安寧 天下春命は知々夫(秩父)国造の祖神である。ただし、延喜式神名帳では座数は一座となっている。 『江戸名所図会』では「瀬織津比賣一座」とある。『神名帳考證』では小野氏の祖の天押帯日子命としている。
二宮 二宮神社 東京都あきる野市二宮2252 国常立尊 不詳 「二宮大明神」とは「神道集」あるいは「私案抄」にみられる、武蔵総社大所宮(現在の大国魂神社)所在神座、武州六大明神の第二次にあるがためである
三宮 氷川神社
四宮 秩父神社 埼玉県秩父市番場町1-1 八意思兼命・知知夫彦命
崇神 元々の祭神は八意思兼命と知知夫彦命ということになるが、これには諸説あり、八意思兼命・知知夫彦命のほか、思兼命の御子の天下春命、大己貴命、単に地方名を冠して「秩父大神」とする説などがある。
五宮 金鑚神社 埼玉県児玉郡神川町字二ノ宮750 天照大神・素戔嗚尊 景行 日本武尊の東征の帰途、伊勢神宮にて倭姫命(やまとひめのみこと)より賜った火鑽金を室ヶ谷に鎮めたのが起源とされる。
六宮 杉山神社 神奈川県横浜市西区中央1-13-1 大己貴命 白雉3 白雉3年(652年)、出雲大社の大己貴命の分霊を祀ったと伝えられる。

 武蔵国統一関連伝承地地図

 秩父方面巡回

 武蔵国に入った饒速日尊は利根川の南岸に沿って下ったと思われる。最初の拠点と思われる神社は

 阿保神社 祭神 大己貴命 埼玉県児玉郡神川町大字元阿保

 と思われる。さらに南東方向に進み、現在の熊谷市に入る。荒川沿いに以下の神社がある。ともに拠点としたところではないだろうか

 田中神社 祭神 武甕槌命 埼玉県熊谷市三ケ尻671
 出雲乃伊波比神社 祭神 武甕槌命 埼玉県熊谷市板井

 熊谷を拠点としているときに荒川を遡り、秩父を訪問していると思われる。

 上蒔田椋神社 祭神 大己貴命 埼玉県秩父市蒔田2842

 秩父地方は、第十代崇神天皇の御代に知知夫国の初代国造に任命された八意思兼命の十世の子孫である知知夫彦命がこの地方をj開拓しており、饒速日尊は軽く見て回った程度であろう。

 天穂日命が関東平野開拓に協力

 これより南の地域に天穂日命を祭る神社が存在している。

鷲宮神社 埼玉県久喜市鷲宮1丁目6−1
神代の昔、天穂日命が東国を経営するために武蔵国に到着し天穂日命のお供の出雲族27人の部族と地元の部族が当地の鎮守として大己貴命を祀ったのに始まる。
伊波比神社 祭神 穂日命 埼玉県比企郡吉見町大字黒岩347
出雲祝神社 祭神 穂日命 天夷鳥命 埼玉県入間市宮寺

 天穂日命がAD42年ごろ、関東地方を開拓していたようである。関東地方開拓には多くの人材が必要であり、倭国からも人材を呼び寄せていたようである。出雲族を連れてきたとなれば、天穂日命がここに来たのは、国譲り後となるが、国譲り後は出雲の経営で忙しかったはずで、穂日命の行動を調べてみると、時期的に開拓が可能なのは国譲り直前である。饒速日尊の関東地方巡回時に人材不足から、倭国にいた高皇産霊神(大山祇命)に人材派遣を依頼した。この時、ヒノモト国に派遣されていた穂日命に白羽の矢が当たったのではあるまいか。

 賀茂健角身命も関東平野開拓に参加

 近くには味鋤高彦根命(賀茂健角身命)を祭った式内社も存在している。 

 高負彦根神社 祭神 味鋤高彦根命 埼玉県比企郡吉見町大字田甲

 賀茂健角身命もこの辺りの開拓をしていたものと思われる。大己貴命を祭る神社も近くにある。

 玉敷神社 祭神 大己貴命 埼玉県加須市騎西552−1

 この神社より、南にしばらく饒速日尊が滞在したと思われる神社が存在しない。失われたのか、通過したのかは定かではない。南に下って、次に拠点と思われる神社は所沢市近辺に

 北野天神社 祭神 櫛玉饒速日命、八千矛命、菅原道眞 埼玉県所沢市小手指元町3丁目28−44
 阿豆佐味天神社 祭神 少彦名命、素戔嗚命、大己貴命 東京都西多摩郡瑞穂町殿ヶ谷宮前1008

 が認められる。ここから多摩川沿いに入ったようで、

 多摩川流域開拓

武藏國二之宮 二宮神社 祭神 国常立尊 東京都あきる野市二宮2252
阿伎留神社 祭神 大物主神 東京都あきる野市五日市1081
大國魂神社(武藏總社六所宮)祭神 大国魂大神 東京都府中市宮町3丁目1
 祭神は大國魂大神で武蔵の国魂の神と仰いでお祀りしたものである。この大神は 素盞鳴尊の御子神でむかしこの国土を 開拓され、人民に衣食住の道を授け、医薬禁厭等の方法をも教えこの国土を経営された
虎狛神社 祭神 大歳御祖神 東京都調布市佐須町1丁目14−3
青渭神社 祭神 青渭大神 東京都調布市深大寺元町5丁目17−10
付近には弥生遺跡が多い。青渭大神は奥宮の祭神より、大国主命と推察する。

 この辺りは弥生遺跡が多く、饒速日尊が拠点として活動していると思われる。この周辺に思兼命の子である天下春命を祭った神社が認められる。天下春命は信濃国阿智よりこの地に移動したという伝承があるので、この地の開拓事業に参加していたものと考えられる。天下春命はAD35年ごろ生誕しており、饒速日尊が巡回したときはまだ幼児であったと思われる。天下春命がこの地にやってきたのはAD55年ごろではあるまいか。

武藏國一之宮 小野神社 祭神 天下春命 東京都多摩市一ノ宮1丁目18−8
天下春命は武蔵国開拓の祖神とされている。
小野神社(府中) 祭神 天下春命 東京都府中市住吉町3丁目19−3

 相武国統一

 式内社の分布から判断して、饒速日尊はここから多摩川に沿って下り、海に出たようである。海に出た後、横浜より上陸し、深見神社を経て寒川神社に向かったように思える。

磐井神社 祭神 大己貴命、應神天皇、仲哀天皇、神功皇后、姫大神 東京都大田区大森北2丁目20−8
杉山神社 祭神 大己貴命 神奈川県横浜市西区中央1丁目13−1 武蔵国六の宮
深見神社 祭神 武甕槌神 県大和市深見3367
武甕槌神、東國鎮撫のために常陸鹿島に在られた時、舟師を率 いてここに進軍され、伊弉諾神の御子、倉稲魂神、闇・神の二神をして深海を治めさ せられた。両神は深海を治めて美田を拓き、土人を撫して郷を開かれた。
寒川神社 寒川彦命 神奈川県高座郡寒川町宮山3916 
相武国拠点

 以上が式内社の分布をもとに推定した巡回経路である。関東地方巡回が終わった後、鹿島宮(鹿島神宮)に帰還し、那珂川流域を統一しようとしていたのではないだろうか。しかし、那珂川流域統一は一度断念している。二回目の統一事業により成功しているのである。

 常陸国統一失敗

  大洗磯前神社 大己貴命、少彦名命 茨城県東茨城郡大洗町磯浜町字大洗下6890
祭神が霊夢に顕れ「我はこれ大己貴、少彦名神也。昔この國を造り東海に去ったが、東國の人々の難儀を救う為に再びこの地に帰ってきた」と仰せられた。当時の記録によると度々地震が発生し人心動揺し、國内が乱れて居り、大國主神はこうした混乱を鎮め平和な國土を築く為に後臨された。
即ち大洗磯前神社は御創立の当初から関東一円の総守護神として、大國主神御自ら此の大洗の地を選び御鎮座になったのであります。

 大甕神社 祭神  建葉槌命、 甕星香々背男 茨城県日立市大みか町6-16-1
 下総国一宮である香取神宮の祭神経津主神と常陸国一宮である鹿島神宮の祭神武甕槌神の二柱の神が邪神をことごとく平定したが、星の神の香香背男だけは従わなかった。そこで倭文神建葉槌命が使わされ、これを服従させた。

 常陸二ノ宮 静神社 建葉槌命 茨城県那珂市静2
 祭神建葉槌命は天照大神に仕えて国土の平定に貢献した。中でも、鹿島・香取両神宮の神を助けて久慈郡久慈村の天津甕星神(星神香々背男)を征伐した際、石名坂にあった雷断石という巨石を蹴ったところ石は三つに割れ、一は石神村(東海村)に、一は石崎村(河原子村)に、一は石井(笠間市)に飛んだとされる(『栗田先生雑著』栗田寛著)。かつて七月一〇日に古徳、中里、鹿島で行われていた火のついた麦稈人形と麦稈人形をぶつけあう「大助人形」という行事は、この神話に由来するとされる(『瓜連町史』)
<静神社HPより>

 一度大和に帰ってから、二度目にやってきたときに平定しているのである。統一が未完成であっても大和に帰らなければならない何かがあったことになる。これが、第二代倭国王大己貴命が日向国内で急死したことによるものではないかと考えている。時期的にもぴったりと一致しているのである。

 総国(上総、下総、安房)の謎

 総国は下総の利根川近くに宇摩志摩治命が開拓した伝承を持つ鳥見神社があるが、それ以外の伝承地が存在しない。饒速日尊が滞在したのではないかと思わせるような式内社も存在しないのである。これはどうしたことであろうか。

 ➀ 伝承が失われた。
 ② 現地住民の抵抗によって、統一をあきらめた。
 ③ 統一しなかった。

 の3つが考えられるが、①は他の地域にしっかりと伝承が残っていることから、この地域だけ残っていないということが説明できない。②の抵抗があったのであれば、常陸国のように抵抗があったという伝承が残るはずで、それもないということは③以外に説明できない。

安房神社 祭神 天太玉命 千葉県館山市大神宮589 
御本社御祭神(上の宮) 日本産業総祖神・天太玉命
御摂社御祭神(下の宮) 房総開拓の祖神・天富命(天太玉命御孫神)
房総半島の南端神戸郷に静まり座す旧官幣大社安房神社は、天太玉命を主祭神に天比理刀咩命を配祀として奉斎し、摂社下の宮に天富命をまつる。<安房の国一の宮安房神社略記一部抜粋>

莫越山神社 祭神 手置帆負命、彦狹知命 千葉県安房郡丸山町宮下27
当社は、天正天皇養老二年(七一八)、勅願所にかかり地を賜る。神武天皇辛酉元年 、天富命は阿波の忌部を率いて、当国に下り給う。この時小民命、御道命の請により その祖手置帆負命、彦狭知命を祭祀し、延喜式に載する安房六座中小四座の一なり。

莫越山神社 祭神 手置帆負命、彦狹知命 千葉県安房郡丸山町沓見253
神社の創立は、社記によれば神武天皇元年、天富命(安房神社の御祭神は天太玉命、 天富命ですが、天富命が忌部の祖神である天太玉命を現在の地に奉斎したのです。) が忌部の諸氏を率いて、安房の国に来臨し、東方の開拓をされたときに、随神として 来られた、天小民命が祖神である忌部の神、手置帆負命、彦狭知命を当社莫越山にお まつりして、祖先崇敬の範を示したとしるされております。<由緒より>

下立松原神社 祭神 天日鷲命、木花開耶姫命、月夜見命 千葉県安房郡千倉町牧田193
当社は天日鷲命を祀る社で、昔、天富命が天日鷲命の孫由布津主命が、祖神を祀ったのが当社である。当時鹿などの獣が住民の農作物を荒すので、神々が狩りを行い、獣の害を除いた神恩に感謝する祭が今も神狩の祭として行われ、また狩りで捕えた大鹿 の角が社宝として現存している。<由緒>

 安房国は大和朝廷成立後に大和朝廷から天富命が派遣され、大和朝廷成立後に開拓されているようである。上総国に至っては、開拓伝承を持つ神社が探した範囲では見つからない。上総国一之宮は玉前神社であるが、祭神が玉依姫となっており、古記録には鵜茅草葺不合尊も祭神だったようである。しかし、周辺には鵜茅草葺不合尊関連人物を祭った神社や伝承地は全く存在していないので、鵜茅草葺不合尊ゆかりの地とは思えない。現地を開拓した人物が祖先神を祭ったものではないかと考えられるが、詳細は不明である。

 このような状況から判断すると総国は饒速日尊が訪問しなかったようである。なぜ、訪問しなかったのであろうか。入植者も下総の一部以外はいなかったようで、利根川流域の開拓に全力を注いでいたのが理由の一つであろう。

 しかしながら、饒速日尊が拠点としていたのは鹿島神宮であり、その対岸の香取神宮も拠点としており、しかも香取神宮は総国内に存在している。饒速日尊も巡回計画には入れていたと思われるが、印旛沼・手賀沼周辺の開拓に全力を尽くしており、後回しにしていたところ、倭国で、AD45年ごろ大己貴命が急死したことにより急遽、帰らなければならなくなったために、饒速日尊による統一はなかったものと判断する。大和朝廷成立時神武天皇はそのことを危惧しており、神武天皇即位元年(AD83年)に早速、阿波国より天富命を安房国に派遣したものであろう。

 神武天皇即位元年は神武天皇にとっても大和朝廷の体制作りで忙しかったはずであり、通常、そのような時に天富命を派遣する余裕などないはずである。しかしながら、関東地方には神武天皇即位元年に創始された神社がいくつか存在している。これは、神武天皇即位以前にヒノモト国内で準備されていたためではないかと考えている。

 饒速日尊の後継者である玉櫛彦命や神武天皇の皇后となった五十鈴姫によってヒノモト国内の未統一地域の統一事業は継続されていたが、神武天皇即位直前は余裕がなくてできなかったが計画だけは存在したのであろう。その結果、即位直後神武天皇の命により即座に派遣することができたと考えている。

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