大己貴命の最期

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 北九州の大己貴命

 AD35年頃少彦名命を伊予国大洲の地で失った大己貴命は、AD37年頃宇佐から市杵島姫を連れ出し宗像へ連れて行った。その後添田地方の開拓をAD40年頃まで行っていた。大己貴命はこの頃北九州各地を巡回指導していたと思われる。

 大己貴命はAD40年頃以降日向国を巡回していたのではないかと思われる。その滞在地は
① 都農神社 児湯郡都農町大字川北 日向一宮 祭神 大己貴命
② 比木神社 児湯郡木城町大字椎木 祭神 大己貴命
③ 童子丸神社 西都市童子丸 合祀 大己貴命

 あたりではあるまいか、いずれも古い大己貴命を祀っている神社である。大己貴命はこれらの地に滞在しながら、周辺を巡回していたのであろう。

 大己貴命の最期

 出雲神話における大己貴命の死

 第二代倭国王大己貴命の最期はどうなったのであろうか。神話伝承では国譲りの時、交換条件の出雲大社に留まったというのが最期である。それまでに大己貴命は二度死んでいる。

「兄弟神たちは怒って、大己貴の神を殺そうと企んだ。まず、伯岐の国の山に行って、大己貴の神に赤猪の捕獲を命じた。大きな石を火で真っ赤に焼いて、猪に見せかけ転がし、大己貴の神にぶつけたので、大己貴の神は焼け死んだ。これを嘆いた母親が、神産巣日の神のもとへ行ったところ、神産巣日の神が派遣した蚶貝比売と蛤貝比売とが貝で治療したため、大己貴の神は生き返ることができた。しかし、兄弟神たちはそれを見て、さらに、 大きな樹に楔(くさび)を打ち込み、その割れ目に大己貴の神を誘い込んで、楔を外して挟み殺した。そこでまた母親が、大己貴の神を見つけ出し、木の中から助け出して、生き返らせた。そして、紀伊の国の大屋毘古神のもとへ逃がした。」

 これは大己貴命が第二代倭国王になることによって、周りの人たちから嫉妬の念を受けて、色々といじめられたことを意味していると思われ、本当の死を意味しているのではないと判断する。

 大己貴命の死

 大己貴命の死を意味するのではないかと思われる伝承が鹿児島県で見つかった。

大穴持神社 鹿児島県霧島市国分広瀬1090  祭神 大己貴命
 ある時、大己貴命が牝馬に乗って領内を見回っていた時突然、牡牛が襲って来た。
牝馬は驚いて、麻芋畑に逃げ込んだが、大己貴命は落馬してしまい、その途端、大己貴命は足を蝮に咬まれてしまったという。

 伝承では大己貴命が亡くなったとはされていないが、落馬してマムシにかまれたといっているのである。これが原因で亡くなったとも考えられる。

 大己貴命は北九州添田地方から海路都農神社の地に上陸し、比木神社の地に滞在し、都万神社の地の日向津姫にあったと思われる。この時の滞在地が童子丸神社の地であろう。この後宮崎市から都城を経由して鹿児島神社の地に移動したのではあるまいか。AD43年頃のことである。

 この地はこの当時の日向の中心地であった鹿児島神宮の地から5km程南東に位置している。大己貴命は鹿児島神宮の地にあった出雲屋敷に滞在して周辺を馬に乗って巡回していたようである。その時にいきなり不慮の事故にあったのである。AD44年頃であろう。

 おそらく、この出来事が原因で第二代倭国王大己貴命は鹿児島県国分の地で急死したのである。

 大己貴命の御陵

 大己貴命が鹿児島県国分あたりで亡くなったとすれば、この周辺に葬られているであろうと考えたのであるが、直接の伝承地は見つからない。しかし、鹿児島神宮の近くに「なげきの森」というのがあり、中に蛭児神社がある。

蛭児神社
 伊弉諾尊・伊弉冊尊が産んだ子は3歳になっても足が立たなかったので、天岩樟舟に乗せて流したところ、ここに漂着した船から木が生えて森になったというものである。父母の神が嘆いたことから「嘆きの森」と呼ばれている。

 大己貴命がこの地に葬られていると考えられなくもない。

 出雲にも大己貴命の墓と思われるものがある。それは、島根県三刀屋町の三屋神社の裏山である。三屋神社の延喜の棟札の裏書に≪大己貴神天下惣廟神明也≫とあるので、此処が墓ということになる。

 当社の背後の現在峯寺山と呼んで居る山が、風土記の伊我山であって伊我といふのは厳しいといふ意味を有し大神の御魂が御降りになるいかしき山として伊我山と号けられ、神門臣伊加會然の名前も伊我山の會根に因んだものである。彼等が大神の御祭りを行ふ時に契斎をした場所を伊我屋と呼び其処には風土記所載の井草社が在る。またこの伊我屋の在る場所を与會紀村と呼んで居たことも風土記に記されているが、この村の名は神門臣等が祓ひを行なう際に身を濯ぐ村という意味で号けられたものである。この伊我山は峯寺が創建されるまでは高丸と呼ばれていたがそれは大神の御魂を御迎えする御室山といふ意味であって今も毎月24日には付近の住民が参拝し近年までは厳寒の候でも裸参りが行なわれていた程の神名火山である。   
      <全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年より抜粋>
 当社は島根県飯石郡三刀屋町大宮給下宮谷に御鎮座の式内社であり、出雲風土記に御門屋社として神祇官に在りと記された古社である。古来から郡内の筆頭に置かれ上下の崇敬を受け、累代の祀官は常に幣頭を勤めてきた家柄である。社号の由来は所造天下大神大穴持命が八十神を出雲の青垣の内に置かじと詔うて追い払い給うてから此処に宮居を定め国土御経営の端緒を御開きになったので、その御魂が高天層に神留りましてから後出雲国造の祖先の出雲臣や神門臣等がこの地に大神の御陵を営み、また神社を創建してその御神地を定め神戸を置いて大神の宮の御料を調達することになったので、社号を大神の宮垣の御門としてその神戸とに因んで御門屋神社と号けたものである。出雲国内に置いて大神の神地と神戸が風土記撰上当時に置かれた場所はこの地のみで他に一カ所もないのみならず神の御門と神戸とを社号とした神社が全国に他には一社もない事は特記に値することであり、この地が出雲文化の発祥の地である事は明らかである。
<三屋神社由緒略記>

 背後の伊我山は国土経営の国見山と呼ばれており、三屋神社の地は大己貴命が須勢理姫とともに国土経営した場所である。大己貴命がここで亡くなったとは記されていず、死後ここで御陵が営まれたと記録されている。大己貴命がどこかで亡くなったのち此処に御陵が作られたことを裏付けている。

 倭国の大激変

 第二代倭国王が急死したとなっては倭国は大変なことになる。第三代倭国王が決まっていないので倭国全体をまとめられる人物が存在しないのである。せっかくまとまった倭国が再び分裂することにもなりかねないのである。

この時期、神社伝承や神話伝承によると、倭国に大きな変化があったようである。出雲国譲り神話がこの変化を示しているようであるが、 具体的に倭国がどうなったのであろうか。神話伝承や神社伝承を基にすると、次の2つが考えられる。

・倭国が九州倭国(西倭)と出雲倭国(東倭)に分裂した。

・倭国の実権が九州に移った。

どちらが正しいのか検討してみよう。

 神社伝承によると国譲り後出雲は猿田彦命が治め、九州は日向津姫が治めているようである。統治者がそれぞれにいるのである。また、九州系の遺物が、 この時期中国地方に出土する傾向は見られない。その上、九州地方に瀬戸内系の土器の出土が激減するという傾向が見られる。 さらに、後の時代の大和朝廷が成立したときも、九州には方形周溝墓が出現し畿内系のの祭祀が始まっており、畿内勢力が実権を握っていた形跡があるのに対し、 中国地方には方形周溝墓が見られず、中国地方と、九州地方では、大和朝廷下での扱いが異なる。

 もし、倭国の実権が九州に移ったのであれば、中国地方から九州系の遺物の出土が増えるはずであり、大和朝廷の、九州と中国地方の扱いが異なることは考えにくい。 これらのことを考えると倭国は分裂したと考える方が妥当である。素盞嗚尊のまとめた倭国は、銅剣・銅矛祭祀が早くから消滅した中国・北四国地方を中心とする東倭と 広形銅矛祭祀の広まっている九州・南四国を中心とする西倭に分裂したと判断できる。

ではどういう経過をたどって分裂したのであろうか。ここに、神社伝承を元に推定してみることにする。

 大己貴命が後継者を決めずに日向で亡くなったことが倭国に相続問題を引き起こすことになった。その上九州内の未統一地域が倭国の切り崩しを謀って不穏な動きをしていた。 そのため、倭国に衰退の兆候が見られてきたのである。高皇産霊神は、このままでは、せっかくまとまった倭国が再び分裂し、戦乱の時代が来るのではと危惧した。 素盞嗚尊が創始した倭国は巨大な統一国家に成長した。しかし、その政治体系は未熟なものがあったのである。

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