毛野国統一

 相模国関連連地図

 毛野国関連地図

 鳥見神社関連地図

 鬼怒川流域巡回

下野国

 宮 神社  住所   祭神 創始  備考 
一宮 宇都宮二荒山神社 栃木県宇都宮市 豊城入彦命・大物主神・事代主神 仁徳 毛野国の開祖である豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)を主祭神とし、崇神天皇が都とした磯城瑞籬宮(現在の奈良県桜井市金屋)の北に鎮座する三輪山(大神神社)の御神体である大物主命とその子事代主命を相殿に祀る。主祭神については時代によって彦狭嶋王、御諸別王(彦狭嶋王の子)、事代主命、健御名方命、日光三所神など諸説ある。江戸期には日光山大明神と称されたこともあり、天保14年(1843年)には大己貴命、事代主命、健御名方命が祭神であった。
一宮 日光二荒山神社 栃木県日光市 二荒山大神(大己貴命・田心姫命・味耜高彦根命) 767 日光の3つの山の神(大己貴命、田心姫命、味耜高彦根命)を総称して二荒山大神と称し、主祭神としている。
大前神社 栃木県真岡市東郷937 大己貴命、事代主命 大前神社は、芳賀郡と若色郷(若績郷)古聖(こひじり)、鏡田等地名の発祥地にして、社名祭神の霊跡に起源し、古くから大内庄三十三郷の総社として、宏大な社領の中に壮厳なる社殿を営み、大利根の支流鬼怒川、五行川、小貝川、三川の間湖沼に点在する田畑丘陵に恵まれ、農林漁労豊富な中心地に位置し、周辺非常なる繁栄の中に、北は氏家、南は常陸真壁郡一帯にまで崇敬圏が及び、延喜の制下野国十一社の内に撰定せられた式内名社である。
  大神神社 栃木県栃木市惣社町477 倭大物主櫛甕玉命  〇  崇神48 崇神天皇四十八年、豊城入彦命東征の折、当室八嶋の地に大和三輪の大物主神を奉斎 したと伝えられる。

 下総国

 宮 神社  住所  祭神    創始  備考 
一宮 香取神宮 千葉県香取市 経津主大神 神武 神代の時代に肥後国造の一族だった多氏が上総国に上陸し、開拓を行いながら常陸国に勢力を伸ばした。この際に出雲国の拓殖氏族によって農耕神として祀られたのが、香取神宮の起源とされている。
二宮 玉崎神社 千葉県旭市飯岡2126-1 玉依姫尊 景行 日本武尊が東征の折、相模より上総に渡ろうとして海難に遭った際、弟橘媛が「これは海神の御心に違いない」と言って入水したので、無事上総国に着くことができ、葦浦(鴨川市吉浦)を廻り玉の浦(九十九里浜)に渡ることができた。そこで日本武尊は、その霊異を畏み、海上平安、夷賊鎮定のために、玉の浦の東端「玉ヶ崎」に、海神の娘であり神武天皇の母である玉依姫尊を祀ったと伝えられている。
二宮 二宮神社 千葉県船橋市三山五丁目20-1 速須佐之男命 810 式内社寒川神社の後裔社であり、現在でも寒川神社と呼ばれることがある
鳥見神社 千葉県印西市平岡 饒速日命 大和国鳥見白庭山に宮居した饒速日命は、土地の豪族長髄彦の妹御炊屋姫命を妃として宇摩志真知命を生んだ。その後東征して印旛沼・手賀沼・利根川に囲まれた土地に土着したその部下が、祭神の三神を産土神として祭り鳥見神社と称した。
鳥見神社 千葉県印西市小林 饒速日命 崇神 此の地開拓の祖神として祟神天皇御宇五年に創建されてと伝えられている。 

 毛野国統一経路推定地図

 常陸国鬼怒川流域の饒速日尊が立ち寄ったと思われる式内社

 大國玉神社 大國主命 茨城県桜川市大国玉1 江戸時代には東の宮の男体宮「大国主命」と西の宮の女体宮「活玉依媛命」の二つの本殿があった。

一宮楯縫神社 經津主命 茨城県稲敷郡美浦村郷中2988

阿弥神社 健御雷之男命 和銅元年 茨城県稲敷郡阿見町大字竹来1366
胎安神社 木花開耶姫命、經津主命、彦火瓊瓊杵命、彦火火出見命 茨城県かすみがうら市野寺字明神山433
足尾神社 國常立命、面足命、惶根命  茨城県石岡市小屋1 

主石神社 大山祇命 茨城県鹿島郡鉾田町大字大和田字明神山1028-1

 巡回経路の推定

 ➀ 印旛沼・手賀沼周辺開拓

 現在の利根川河口域はこの当時鬼怒川(毛野川)の流域であった。肥沃であり、湿地帯であり、水の便に優れている地域である。多数のマレビトの入植者がいたと思われる。しかし、土地は広大で入植者だけでは人材不足であったようである。

 鳥見神社が千葉県印西市を中心とした地域に21社ほど確認されている。いずれも饒速日尊を祭っている。平岡の鳥見神社には伝承が伝わっている。

 鳥見神社の地図

鳥見神社 祭神 饒速日尊 千葉県印西市平岡1476

 大和国鳥見白庭山に宮居した饒速日命は、土地の豪族長髄彦の妹御炊屋姫命を妃として宇摩志真知命を生んだ。その後東征して印旛沼・手賀沼・利根川に囲まれた土地に土着したその部下が、祭神の三神を産土神として祭り鳥見神社と称した。

 大和での饒速日尊の長子である宇摩志摩治命が、部下を引き連れて開拓したことが伝えられている。宇摩志摩治命も関東地方の開拓に駆り出されていたのである。

 印旛沼・手賀沼周辺は湿地帯で灌漑に適している地である。そのため、かなりの労力をかけて灌漑をしたのであろう。饒速日尊が訪れたころは、灌漑の初めごろで、開発計画を現地の人と話し合ったりしたのではあるまいか。この地に宇摩志摩治命が来て開発したのは、開発すべき地域が広大なために、多数の人々を動かす必要があり、その人々をまとめる人物が必要だったためではないかと推定している。そのシンボル的存在として宇摩志摩治が担ぎ出されたのであろう。

 ② 霞ケ浦沿岸開拓(筑波山南麓)

 一宮楯縫神社 經津主命 茨城県稲敷郡美浦村郷中2988
 阿弥神社 健御雷之男命 和銅元年 茨城県稲敷郡阿見町大字竹来1366
 胎安神社 木花開耶姫命、經津主命、彦火瓊瓊杵命、彦火火出見命 茨城県かすみがうら市野寺字明神山433

 印旛沼・手賀沼近辺の開拓計画を立てた饒速日尊は、霞ケ浦沿岸の開拓をしたようである。饒速日尊の別名とされる武御雷命・經津主命を祭る式内社が点在している。伝承はないが、この辺りに滞在したのではないかと思われる。

 この周辺は筑波山の麓である。筑波山に筑波山山頂から冬至の日に鹿島神宮の方向から登る太陽を見ることができる。これは、饒速日尊が筑波山を聖地として扱っていたことを意味する。現在筑波山には筑波山神社が存在している。

 筑波山神社 祭神 伊弉諾尊・伊弉冉尊 茨城県つくば市筑波1番地

 筑波山縁起によれば、当神社の創祀は遠く神代に始る。天地開闢の初、諾冊二尊が天祖の詔をうけて高天原を起ち、天之浮橋に並び立ち給う、天之瓊矛(あめのぬぼこ)を以って滄海をかき探り給えば鉾の先よりしたたり落ちる潮凝って、一つの島となる。即ち二神は東方霊位に当る海中に筑波山を造り得て降臨し給い、天之御柱を見立て、左旋右旋して東西御座を替え給い、相対面なされて夫婦となり大八洲国及び山河草木を生み給う。次に日神、月神、蛭児命、素盞鳴尊を生み八百万神を生み給う。記紀に伝える「おのころ島」とは筑波山のことで、この故に筑波山は日本二柱の父母二神、皇子四所降臨御誕生の霊山であり、本朝神道の根元はただ此山にあるのみと伝えている。
 また詞林采葉抄は「筑波山といふ名は、天照大神此の山嶺にて紫の筑琴をひかせたまふに、水波の曲に至り、鹿島の浦の波雲に乗って飛び登り、此の山の嶺に着きにたりけり。よりて着波山といふ。しかして琴名によって筑波山といふ」と記し、山麓の小田城中で北畠親房卿が神皇正統記を著した頃、筑波山が父母二神を祭る天照大御神御親祭の貴き斎庭(ゆには)であったと伝える伝承が広く行われてたことを示している。春秋二季の御座替祭の由緒や筑羽子(つくはね)羽子板(はごいた)の起源伝説にも諾冊二尊と天照大御神とが筑波山に密接して語り継がれ、文化年代の筑波山私記にも「土民相伝ふ、日神筑波山に降臨あり、のち伊勢に遷り給うと。此山、日神の御山なりといふこと三歳の小児まで伝説す。史伝・旧記に引証するを待たずして人これを信ず。真の口碑といふべし」と記しているように、筑波山における諾冊二尊と天照大御神の説話は、他社に比類なき神秘に富んだものを伝えている。

 <筑波山神社HPより抜粋>

 この神社の伝承は相当神聖なものであることがわかる。しかし、祭神が周辺伝承に合わない。伊弉諾尊・伊弉冉尊は関東地方にやってきていないし、他の古社(式内社)にも祭られていない。そのことから、この二神は饒速日尊夫婦ではなかったかと推定している。駿河国以東では、饒速日尊伝承に加えてその妻(木花咲夜姫=市杵島姫=天知迦流美豆比売)の伝承が散見する。饒速日尊は夫婦で巡回していたのではあるまいか。

 饒速日尊は筑波山に登り、周辺の地理を確認していたものと考えられる。

 ③ 筑波山西麓開拓

 次に饒速日関連と思われる古社(式内社)は、筑波山麓と鬼怒川に挟まれた領域に点在している。

 大國玉神社 大國主命 茨城県桜川市大国玉1 
 江戸時代には東の宮の男体宮「大国主命」と西の宮の女体宮「活玉依媛命」の二つの本殿があった。旧名鹿島明神であり、大國主命は武御雷命の常陸国での異名とされている。

 大前神社 大己貴命・事代主命 栃木県真岡市東郷937
 前神社は、芳賀郡と若色郷(若績郷)古聖(こひじり)、鏡田等地名の発祥地にして、社名祭神の霊跡に起源し、古くから大内庄三十三郷の総社として、宏大な社領の中に壮厳なる社殿を営み、大利根の支流鬼怒川、五行川、小貝川、三川の間湖沼に点在する田畑丘陵に恵まれ、農林漁労豊富な中心地に位置し、周辺非常なる繁栄の中に、北は氏家、南は常陸真壁郡一帯にまで崇敬圏が及び、延喜の制下野国十一社の内に撰定せられた式内名社である。

 宇都宮二荒山神社 豊城入彦命 栃木県宇都宮市馬場通り1-1-1
 毛野国の開祖である豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)を主祭神とし、崇神天皇が都とした磯城瑞籬宮(現在の奈良県桜井市金屋)の北に鎮座する三輪山(大神神社)の御神体である大物主命とその子事代主命を相殿に祀る。主祭神については時代によって彦狭嶋王、御諸別王(彦狭嶋王の子)、事代主命、健御名方命、日光三所神など諸説ある。江戸期には日光山大明神と称されたこともあり、天保14年(1843年)には大己貴命、事代主命、健御名方命が祭神であった。

 日光二荒山神社 大己貴命、田心姫命、味耜高彦根命 栃木県日光市山内2307
古くより、霊峰二荒山(男体山)を神の鎮まり給う御山として尊崇したことから、御山を御神体山と仰ぐ神社で、日光の氏神様でもあります。

 以上4社が、饒速日尊が滞在したのではないかと判断している神社である。筑波山から鬼怒川沿いにら北西方向に連続している。宇都宮二荒山神社は豊城入彦命が祭神であるが、江戸時代は大己貴命が祭神であったそうで、いずれの神社も大己貴命=饒速日尊を祭っていることになる。

 日光二荒山神社では大己貴命に加え味鋤高彦根命も祭られている。これは、味鋤高彦根命(賀茂健角身命)も関東平野開拓に参加していたことを意味している。

 賀茂健角身命に関しては筑波山北側、大國玉神社の近くに鴨大神御子神主玉神社(祭神主玉神、茨城県桜川市加茂部694)が存在している。鴨大神とは賀茂健角身命を指すが、その御子神と言えば活玉依媛・玉依彦命であるが、共にこの地域では全く伝承を持っていない。賀茂健角身命が現地の女性との間に子を作り、その子が成長後、この地を統治したのであろうか?

 いずれにしても、この地域に賀茂健角身命の行動の痕跡が認められるのである。賀茂健角身命は磯長国を統治していたので、統治が落ち着いたころ、鬼怒川流域に開拓に協力したものと判断する。

 さらに北には饒速日尊が滞在したのではないかと思われる式内社が一つ存在している。

三和神社 大物主命 栃木県那須郡小川町大字三輪726
 推古天皇12年(604年)に大和国(現在の奈良県)の大神神社から勧請して創建されたという。当社の前方那珂川西岸の丘陵地には主要古墳が群在する。

 この神社の地は那須塩原の南に位置しており、もともと滞在伝承があったから勧請したとも考えられ、饒速日尊と関係が深い土地ではないだろうか。この神社が調べた範囲では最北端に位置する。饒速日尊は鬼怒川を遡り、那須塩原近辺まで到達していたのではあるまいか。この後は川を下り、利根川流域に入ったと考えられる。

 渡良瀬川・利根川上流域の開拓(上野国)

 宮 神社  住所  祭神    創始  備考 
一宮 一之宮貫前神社 群馬県富岡市 経津主命 安閑 創建は安閑天皇元年(531年)3月15日、鷺宮(現在の安中市)に物部姓磯部氏が氏神である経津主神を祀り、荒船山に発する鏑川の流域で鷺宮の南方に位置する蓬ヶ丘綾女谷に社を定めたのが始まり
経津主神は磐筒男、磐筒女二神の御子で、天孫瓊瓊杵尊がわが国においでになる前に天祖の命令で武甕槌命と共に出雲国(島根県)の大国主命と協議して、天孫のためにその国土を奉らしめた剛毅な神で、一名斎主命ともいい建国の祖神である
二宮 赤城神社 前橋市二之宮町 赤城大明神・大国主命・経津主命 不詳 崇神天皇の皇子・豊城入彦命が上野国に移ったとき、赤城神社は神庫岳(現・地蔵岳)の中腹に「赤城大明神」と「沼神の赤沼大神」として既に祀られていたそうです。他の赤城神社では大己貴命が主祭神で祀られているので、赤城大明神は大己貴命と思われる。
三宮 伊香保神社 群馬県渋川市伊香保町伊香保2 大己貴命・少彦名命 825 当社が現在の温泉地に移転する以前は、「いかほ」(榛名山も含むこの地域の旧称)の山々を山岳信仰の場とした「いかつほの神」一座が祭神であったとされる。

 鬼怒川流域を巡回した饒速日尊は次に上野国(渡良瀬川・利根川上流域)の巡回に入った。この地域にも入植者は数多くいたことであろう。

 鬼怒川領域から利根川領域に移動するときに通過したのではないかと思われる神社が大神神社である。

 大神神社 倭大物主櫛甕玉命 栃木県栃木市惣社町477〒270-1324
崇神天皇四十八年、豊城入彦命東征の折、当室八嶋の地に大和三輪の大物主神を奉斎 したと伝えられる。

 ここから渡良瀬川に沿って西進すると、桐生市に美和神社がある。

美和神社 大物主櫛甕玉命 群馬県桐生市宮本町2-1-1
崇神天皇御宇創建と伝わる。周辺には縄文・弥生遺跡が多い。

 赤城神社について

 この神社周辺には弥生時代多くの人が住んでいたようで、饒速日尊は訪れていると思われる。そして、赤城山の麓に達するのである。赤城山の南麓には数多くの赤城神社が存在している。赤城神社について考えてみよう。

 赤城神社は群馬県内で118社あり、全国で334社あると言われている。それらの赤城神社の総本社は群馬県前橋市二之宮町886の二宮赤城神社とされているが、上古は群馬県前橋市三夜沢町114所在の三夜沢赤城神社と山頂の大洞赤城神社であったようである。三夜沢赤城神社は東西2宮であったそうで、東宮は大己貴神を、西宮は豊城入彦命を祀っていたという。その名残で、現在の赤城神社は赤城山の東から南にかけて大己貴神が、南西側には豊城入彦命が祀られているという。 

 時代の流れから判断して本来の赤城神社の祭神は大己貴命とされている饒速日尊で、後の時代AD300年ごろ、豊城入彦命がこの地に赴任してきてから、豊城入彦が祭神に加わったと考えられる。その後は赤城大明神は大己貴命と豊城入彦命が重なった神と判断できる。

 赤城山の東側に大己貴命が祭られている赤城神社が多いことから、饒速日尊は桐生の美和神社の地から赤城山に登り、山頂から周辺の地理を把握した。その後、南側に降りてきて、三夜沢赤城神社の地に滞在、その後二宮赤城神社の地を拠点として周辺を巡回したという流れが浮かんでくる。

一之宮貫前神社

 二宮赤城神社の地から利根川を渡り、鏑川沿いに遡ると、富岡市に着く、富岡には上野一宮の貫前神社がある。

 一之宮貫前神社 経津主命、姫大神  群馬県富岡市一ノ宮1535
六国史をはじめとする古書には、「抜鉾神社」と「貫前神社」の2つの名で記されている。。この2社が現神社の前身であるといわれている。「抜鉾神社」が経津主命を、「貫前神社」が姫大神を祭っていたとされる。

 古代史の復元の視点からすると、経津主命は饒速日尊で姫大神はその妻木花咲夜姫となる。夫婦神で巡回していたようなので、自然と説明がつくのである。

 この後、饒速日尊は利根川の南側を巡回し、武蔵国に入ることになる。

 

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