幼少時の卑弥呼

倭の大乱関連地図

 倭迹迹日百襲媛命(卑弥呼)生誕

水主神社 香川県東かがわ市大内町水主1418
 「倭迹々日百襲姫命は七才の年に大和の国黒田の盧戸より出て八才の時東讃引田の安戸の浦に着く。御殿、水主に定め造営せられた」
 「倭迹迹日百襲姫命都の黒田宮にて、幼き頃より、神意を伺い、まじない、占い、知能の優れたお方といわれ、7歳のとき都において塵に交なく人もなき黒田宮を出られお船に乗りまして西へ西へと波のまにまに播磨灘今の東かがわ市引田安堵の浦に着き、水清きところを求めて、8歳のとき今の水主の里宮内にお着きになり成人になるまでこの地に住まわれた。土地の人に弥生米をあたえて、米作り又水路を開き、雨祈で、雨を降らせ、文化の興隆をなされた御人といわれる」

 後に卑弥呼となる百襲姫の母は第3代安寧天皇の孫の和知都美命の娘倭国香姫である。水主神社の記録によれば、倭迹迹日百襲姫は7歳になった時、黒田宮に人がいなくなったので、讃岐国に行ったことになっている。黒田宮に人がいなくなったのは父である楽楽福命(孝霊天皇)が孝霊45年(AD171年)伯耆国に派遣されたためであろう。この時7歳であったことから逆算すると、百襲姫の誕生は孝霊39年(168年)となる。現年齢計算で孝霊天皇19歳の時の生誕である。 

 生誕地は、奈良県磯城郡田原本町黒田の孝霊神社とされているが、もともとは鎮守社として同町の法楽寺の境内にあったものが、明治時代初期の神仏分離令により現社地へ遷座し黒田村の氏神として引き継がれたという。現在法楽寺には、庵戸宮跡であったことを示す石碑が建立されている。ここが倭迹迹日百襲姫の生誕地と考えられる。

                      ┏━━━天忍人━━━━天登目建登米━━建宇那比━━━建諸隅━━━━倭得魂彦
素盞嗚尊━━天火明┓      ┏━天村雲━┫   
   (饒速日尊)┣━天香語山━┫     ┗━━━天忍男━━┓     
高皇産霊神━天道媛┛      ┗━高倉下          ┃
                               ┣━世襲足姫┓               
                ┏━剣根命━━━━━賀奈良知姫┛     ┣━━孝安天皇┓ ┏大吉備諸進命━┓┏彦狭島命
大山祇命━━鴨建角身━玉依彦━━┫                    ┃      ┣━┫       ┣┫
                ┗━天日方奇日方命━豊秋狭太彦━五十坂彦━━━━五十坂媛┛┏┃━蝿伊呂杼━━┛┗稚武彦命
                                     ┃       ┃┃
                        ┏━綏靖天皇━━━孝昭天皇┛       ┃┗━孝霊天皇━━┓┏倭迹迹日百襲媛命
                  神武天皇━━┫                    ┃        ┣┫ (卑弥呼)
                        ┗━安寧天皇━━━師木津彦━━和知都美命━┻━━倭国香媛━━┛┣日子刺肩別命
                                                       ┃
                                                       ┗倭迹迹稚屋姫命

 「倭迹迹日百襲姫命は第七代天皇の大日本根子彦太瓊天皇(孝霊天皇)の皇女、母は妃の倭国香媛で、彼女は聡明で、物事を予知する能力を持っていた。武埴安彦の乱も少女の歌からそれを読み取り勝利を収めることができた。」 日本書紀

 百襲姫は伝承によると、「黒田宮にて、幼き頃より、神意を伺い、まじない、占い、知能の優れたお方」とあるように、まれにみる大天才だったようである。大天才が誕生すると、幼少時よりその能力が発揮され、周辺の人々にも、この子は只者ではないということが分かるのである。古代においては神が乗り移った人物と取れるであろう。

 倭迹迹日百襲媛命讃岐国に派遣

 百襲姫出発

 AD171年、百襲姫7歳(現年齢3歳)のとき、孝霊天皇(この時はまだ皇太子)が伯耆国に派遣されることになった。庵戸宮は空になってしまうのである。

 この時孝霊天皇の妻倭国香姫はどうしたのであろうか。孝霊天皇と共に伯耆国にはいかなかったようである。別の任務があってそちらに行くことになったと考えられる。

 百襲姫は大天才であり、将来の活躍がかなり期待されていたことであろう。そのような大天才をどこに派遣するか朝廷内でも議論されたことであろう。この頃人心が荒んできて反乱が起こる原因の多くは天候不順による不作である。出雲が不穏な動きをするのも不作が原因である。現在でも干ばつに弱いのが香川県(讃岐国)である。朝廷は百襲姫なら讃岐国の干ばつを何とかしてくれるのではないかと思い、百襲姫を讃岐国に派遣することに決定した。母の倭国香姫は百襲姫に同行することとなった。

 倭国香姫の父、和知都美命が淡道之御井宮にいたとされている。この宮がどこにあったか定かではないが淡路島のどこかであろうと思われる。倭国香姫と百襲姫母子は讃岐へ赴く途中で淡路島を経由していることであろう。

 淡路島は大和と四国をつなぐ経路のために阿波への道ということで淡路とつけられたのであろう。経路にあるということは宮の位置として考えられるのは兵庫県南あわじ市榎列下幡多415にある「おのころ島神社」の地がその候補地である。

 淡路島南西部の平野部は古代において湾であり、その奥にあったのがオノコロ島といわれている。大和から阿波へ行く時、ここに立ち寄ると思われる。和知都美命も交通の要所という地に派遣されていると考えられ、ここが候補地となる。この神社の祭神は伊弉諾尊・伊弉冉尊であるが、合祀の形で菊理姫(百襲姫と推定)が祀られている。

 AD171年倭を出発した百襲姫は大和川を下り、大阪湾岸に出て、明石海峡を越えて淡路島の西海岸を南下し、オノコロ島神社の地に着く。この地にいた和知都美命の元に暫らく滞在後、ここから、海に出て東かがわ市の引田安堵浦に着岸したのである。このとき、百襲姫は8歳になっていた。

 袖神社
 現在の大谷地区にある。倭迹迹日百襲姫命が、安堵の浦に着いたとき、「姿見の井戸」で身つくろいをし、暑かったので着物の袖を引きちぎったと伝えられている。

 水主神社における百襲姫

 讃岐国に上陸した百襲姫は水が清い場所を探して、水主の水主神社の地に落ち着いた。百襲姫はこの地で、成長したのである。

 この神社にはわかばさんと呼ばれる百襲姫の御陵と伝わる塚がある。これは百襲姫ではなく母の倭国香姫の墓であろう。
 また、本殿真後ろには百襲姫命の父である孝霊天皇を祭った社があり、孝霊天皇もこの地を訪れたことがあるのであろう。

 水主の里には保田池という池がある。百襲姫命がこの池のほとりで足を冷やしていると、大なまずが現れ足に噛みつき、怒った姫が水を蹴ったので堤が切れて岡になったという。それ以降この辺りにはなまずがいなくなったと伝えられている。これは、百襲姫が提案した土木工事を意味しているのではないかと思われる。

「姫は未来を予知する呪術にすぐれ、日照に苦しむ人々のために雨を降らせ、水源を教え、水路を開き米作りを助けたといわれています。」 水主神社境内の案内

 境内の案内にもある通り、百襲姫はここで成長しながら、土地の人に新しい稲作技術を伝えた。雨が少ない地域なので、ため池を作るらせたと思われる。香川県はため池が多いのであるが、その紀元は不明である。百襲姫が農業神として崇拝されていることから、ため池作りは百襲姫の考案と判断する。

 本殿右手に母を祀る国玉神社があり、母と共に住んでいたと思われる。また、本殿真後ろに孝霊天皇を祀る孝霊神社があり、父も後にこの地を訪れていることがうかがわれる。背後の山の頂上に媛の御陵が存在しているが、百襲姫の御陵は大和の箸墓なので、この御陵は母の倭国香媛の御陵と思われる。

 孝霊63年、孝霊天皇は讃岐国の百襲姫の元を訪れているようである。この年百襲姫は25歳(現年齢13歳)になっており、讃岐の水主神社の地で成長していた。彼女は近郷近在に知られる程の大天才であり、幼少といえど数々のアイデアで土地の人々の難儀を救っていたのではないかと考えられる。

 この当時大天才が生まれた場合、その能力の高さから、周りの人々には、神が宿った人物を見えるのではないだろうか。孝霊天皇もその一人であったのであろう。孝霊天皇は出雲国の扱いを百襲姫の判断に任せようと思っていたのではあるまいか。しかし、まだ幼少であったので成長するのを待っていたのかもしれない。

 船岡山への移動

 百襲姫は、AD179年まで水主神社の地にいた。現年齢13歳である。水主神社の地で百襲姫は土木工事の手法を研究していたのであろう。成果が出せるめどがついたので、讃岐国の中心地域の方へ移動することになった。

艪掛神社 香川県東かがわ市大内町馬篠440
「倭迹々日百襲姫命が大和の国から舟で海を渡ってたどり着いたという浜辺に、櫓(ろ)をかけたとされる松の跡あり」
「百襲姫命がここの海岸に舟を留めて休息したとき、船人が舟の艪を海岸の松にたて掛けた」

 大和からきて、この地に上陸したのであれば、水主神社との位置関係に矛盾が生じる。艪掛神社は引田及び水主神社の地よりはるかに西に位置している。

 水主神社の地を出発した百襲姫一行が引田から船出をし、艪掛神社の地で、休息をしたと考えるのが正しいであろう。

 その後、海岸沿いを西へ向かい、屋島を超えて、元高松港あたりより上陸し、香川県高松市仏生山町甲1147の船山神社近くの船岡山の地に移動した。

 船岡山は水主神社から倭迹々日百襲姫命がこの周辺に移動して来て最初に住んでいたと伝えられるところ。山のすぐ近くに船山神社がある。倭迹々日百襲姫命はこの地で農業振興のために溜池を作ることを思いついたと思われ、手前の船岡池が最初に作られたため池ではないかと考えている。

 百襲姫はこの頃より、ため池を作っていったのではないかと思われる。香川県は現在でもため池が多く、その起源は不明である。百襲姫が中央より池を作る技術者を招いてため池作りをさせたのではないかと考える。このため池によって、讃岐国の農産物生産は安定し、人々から農業の神として崇められることとなった。

 百襲姫はこの地には長くいなかったようである。すぐ近くの田村神社の地に移動した。

百襲姫讃岐国中央へ移動

 田村神社 香川県高松市一宮町286
由緒  
倭迹迹日百襲姫は吉備津彦命と西海鎮定の命を奉じ讃岐路に下り給ひよく鎮撫の偉功を立て当国農業殖産の開祖神となられた。   
1.  境内の西側に花泉がある。倭迹迹日百襲姫命が手を洗ったところと伝える。   
2.  境内の東側に袂井(たもとい)がある。倭迹迹日百襲姫がこの地にこられたとき、里人の奉る鳥芋(ごや)を食し熱病にかかった 。このとき侍女が袂を浸して水を奉ったと伝える。
3.  神社の東三丁のところに休石がある。休石は倭迹迹日百襲姫命が憩はれた石と伝えられる。

 倭迹迹日百襲姫命は吉備津彦命と西海鎮定の命を奉じ讃岐路に下り給いよく鎮撫の偉功を立て当国農業殖産の開祖神となられたと、関連伝承は伝えている。
 この神社の始まりは境内にある池であるといわれている。この池にはかって豊富な湧き水があったそうである。香川県で溜池をはじめて作ったのが百襲姫命ともいわれている。百襲姫は周辺のため池を作る指導をしている時、この豊富な湧水を理由にしてこの地に移ったのではあるまいか。

 百襲姫は船岡山の地を1年ほどで離れ、孝霊65年ごろ、この田村神社の地に滞在し、数々の功績を残した。百襲姫は27歳(現年齢14歳)になっていた。

 吉備津彦の訪問を受ける

 孝霊65年(AD180年)、百襲姫28歳の時、吉備津彦(稚武彦命)の訪問を受けている。百襲姫のため池作りは、少しずつ成果を挙げていき、人々の生活は次第に豊かになっていった。ところが、生活が豊かになると、海賊がその作物を狙うようになってきたのであろう。讃岐国の人々はその被害を受けるようになってきた。そのような時に、稚武彦が吉備国の児島周辺の平定を終え、讃岐国を訪問してきたのである。

 当時の瀬戸内海沿岸地方の最強の海賊は女木島の洞窟を本拠としていた海賊であろう。稚武彦命はその周辺の島々を落として、この最強の海賊を孤立化させていった。稚武彦命はこの海賊との決戦を前に讃岐国田村神社の地住んでいた百襲姫に会いに行った。百襲姫の方から呼び出したのではないかと思われる。

 百襲姫自身もこの海賊たちから被害を受けていたであろうから、稚武彦命の協力を得てこの海賊を退治しようと考えたのであろう。百襲姫は独自の情報網によって、この海賊の特徴などを知り尽くしており、稚武彦命に海賊退治の作戦を伝えた。

 百襲姫は、まず、海賊退治の協力者を紹介した。桃太郎童話の犬、猿、雉である。犬は岡山県の沖にある犬島の人々であり、猿は香川県綾南町猿王の人々で、雉は鬼無町雉ヶ谷の人たちであった。これらの人たちは、海賊の被害に見舞われており、稚武彦命に協力することを進んで申し出たであろうと思われる。

 海賊の本拠地が女木島の大洞窟であると稚武彦命に伝えた。海賊が高松市西側の生島湾に上陸しているので、この一族を捕まえて、海賊の情報を得た。稚武彦軍は生島湾を出発し、女木島を目指した。女木島の海賊たちも稚武彦軍がやってくることに気づき、迎え撃ち、女木島の南の海上で大海戦がおこなわれた。海戦は稚武彦軍の勝利に終わり、海賊軍は女木島の洞窟に逃げ込んだ。

 稚武彦軍は女木島南西海岸の桃太郎上陸伝承地に上陸し、そこから一挙に洞窟を攻めた。洞窟内の戦いで鬼の大将は降伏し、海賊たちが集めた宝物を没収した。

 この時、他の海域で海賊行為を行っていた副大将率いる軍が女木島に戻ってきた。女木島が落とされたことを知った副大将軍は男木島に上陸し、稚武彦軍を迎え撃とう落とした。しかし、副大将軍もあっさりと敗北し、男木島の「ジイの穴」に逃げ込んだが包囲されて、降参することになった。

 海賊の残党は他にもいた。大将、副大将が降参した海賊であったが、海賊の行動範囲は広く、残った残党が、鬼無村に凱旋した稚武彦軍を襲った。激しい戦いの末、残党の大半は戦死し、鬼塚に葬られた。

 戦い後、犬、猿、雉とされた人々の本拠地を訪問し、海賊から没収した宝物をこれらの人々に配布した。これらの人々は今後大和朝廷に協力することを誓った。

 このあたりの多くの作戦は百襲姫が考えたものではないだろうか。百襲姫の洞察力は鋭く、海賊の行動を前もって正確に予測しており、稚武彦軍は残党の襲撃に対して対応策が取れたため被害が最小限にとどめられたのであろう。

 吉備国残党降伏

 稚武彦命は百襲姫の洞察力に驚き、吉備国の残党征討に苦戦していることを百襲姫に伝えた。

 百襲姫はこの状況を聞き、稚武彦命と共に吉備国にやってきた。百襲姫は稚武彦命の兄の彦狭島命に会い吉備国をまとめる方法を授けた。温羅の残党の行動を分析した百襲姫は稚武彦に提案したのである。「温羅の妻、 阿曽郷の祝の娘阿曽姫(アソヒメ)をしてミコトの釜殿の神饌を炊かしめよ」 

 温羅の残党は稚武彦命が温羅の妻阿曽姫を神の使いとして大切に扱うことを約束し、実行してくれたので、稚武彦命と戦うことをやめ、吉備国はやっと平穏となった。

 温羅退治13年後のことで孝霊67年のことである。

 吉備津彦兄弟が温羅退治後13年間も苦労した残党征討をあっさりと解決してしまった百襲姫の能力には関係者一同驚いたことであろう。

 詳細は、吉備津彦讃岐訪問

孝霊天皇からの呼び出し

 倭の大乱は膠着状態になり、双方が動きが取れない状況になった。困った孝霊天皇は百襲姫の知恵を借りようと考えた。百襲姫は稚武彦が讃岐で海賊と戦った時、海賊の動きをすべて前もって察知しており、そのアドバイスで稚武彦が苦もなく勝利を収めることができた。また、彦狭島命が、吉備国温羅の残党に苦しめられていた時もあっさりと解決している。

 百襲姫は現在でいうところの大天才であり、中国で同時期に活躍した蜀の諸葛孔明にも勝るとも劣らない存在であった。孝霊天皇も遂に百襲姫の知恵を借りることになり、讃岐の田村神社の地に住んでいた百襲姫を呼び出した。孝霊75年(AD185年)、百襲姫37歳(現年齢18歳)のことと思われる。

 安来市黒井田町細井1297に菊理神社がある。主祭神は菊理姫命である。ククリヒメノミコトと読む。白山比咩神という別名もある。ククルとはひとつに束ねる。結ぶという意味がある。 神話では、伊弉諾尊命が黄泉国から逃げ帰ろうとして、伊弉冉尊命と黄泉津比良坂で争ったときにその中間に立って二尊の言葉を取伝え、両者の間を調和して相互の主張を 聞き入れた神と伝えられている。この菊理姫命こそ百襲姫であると考えられる。

 倭の大乱収拾のため、倭迹迹日百襲姫は讃岐国田村神社の地から吉備中山を経由して菊理神社の地にやってきて、ここで朝廷側・出雲側の言い分を聞き、双方に収拾案を提示したのである。

和平交渉 

 以前より,和平を願っていた孝霊天皇の皇女・倭迹迹日百襲姫の提案で,それぞれが条件を出し合い和解をすることになった。その和平交渉は,出雲の黄泉津比良坂周辺の東出雲町五反田の揖屋神社の地(往古の揖屋神社は五反田にあった)でおこなわれた。孝霊74年(184年) 頃のことである。

 朝廷側の条件は次の通りであった。

①出雲は青銅器祭祀をやめること。

②朝廷の役人を受け入れ,朝廷の支配下に下ること。

 出雲側の条件は次のようなものであった。

③朝廷は素盞嗚尊祭祀を行うこと。

④出雲と戦った孝霊天皇の退位。

 出雲側は新しい祭祀形態を中国からの技術導入で研究することを条件に①の条件を③の条件と引き替えに受け入れた。 その結果,荒神谷遺跡の祭器はそのままにされるようになり,山陰地方と,瀬戸内沿岸地方の青銅祭祀は終わりを告げ, そのかわり,素盞嗚尊祭祀者が全国に派遣され,出雲系土器が全国分布するようになった。そしてその双方の祭祀を統一するため, その中間地である吉備国を中心として新しい祭祀形態(巨大墳丘墓による祭祀)が始まることになるのである。

 ところが,出雲側は②の条件には,激しく抵抗を示したため,倭迹迹日百襲姫が次のような発案をした。

 「勾玉に素盞嗚尊のシンボルの鉄剣と,饒速日尊のシンボルの鏡を,平和で結びつける意味を込めて,その昔素盞嗚尊が八坂 瓊の勾玉を日向津姫に献上したのにならい、出雲は出雲大神の勾玉を造り,出雲大神の言葉を朝廷に伝えると同時に,それを朝廷に献上 する。朝廷は,その勾玉を使って政治を行い,出雲国造を天穂日命の子孫から任命する。」

 これによって、双方が納得し倭の大乱が終結した。

邪馬台国女王卑弥呼の誕生

 百襲姫は天皇になるという道もあったが、このような混乱した時代は、天皇よりさらに強力に国を治める存在が必要とされた。神が乗り移ったと人々から思われている百襲姫が、このような存在になれば、大和・出雲双方の人々が安心して暮らせると思い始めた。

 倭迹迹日百襲姫自身もこのような時代に人々を平和に治めるには自らが大物主神の妻になってこの国の人々を導いたほうがよいと考えるようになり、 「自分は大物主神の妻である」と宣言した。双方の代表者は,倭迹迹日百襲姫が大物主神の妻として、今後もその指導力を働かせてくれれば、 日本国に平安が訪れるだろうと思い、盛大にその結婚を祝福することにした。大物主の神(饒速日尊)の妻という地位、すなわち邪馬台国女王卑弥呼の誕生である。

 当時の国内の人々に知らしめるためにも盛大なる就任の儀式(結婚式)を行なう必要があった。出雲の人々にも知らしめるためにも、 結婚式は大和ではなく出雲国の近くで行なわれる必要があった。しかし、大物主神との結婚式には三輪山がどうしても必要なのである。そこで、鳥取県の大山を 三輪山に見立てて冬至の日に大山山頂から太陽が昇ってくる位置に宮を造り盛大に就任の儀式を行なった。

 冬至の日に大山山頂から太陽が昇る位置に古い神社が見つかった。淀江町小波の三輪神社である。この三輪神社は、江戸時代の初期までは現在の場所から南東に約1キロメートル離れた小波字三輪山にあり、壮麗な社殿や大鳥居、三重塔のある神宮寺などが立ち並んでいた時期もあったということである。この旧社地こそ、大山山頂から冬至の日に太陽が昇る位置である。
 淀江町の佐陀・中間・小波・平岡地区を合わせて「大和村」と呼ばれていた。この三輪神社の氏神が大和国とつながっている由緒にもとづいている。現在、淀江公民館分館と保育園、郵便局、そして公園運動広場が「大和」の名前を残しているそうである。この事実は宇田川氏によって発見された。宇田川氏には感謝する次第である。

 この三輪神社の旧地こそ、百襲姫が大物主神との結婚の儀式を行った場所であろう。以降百襲姫は卑弥呼(日霊女)と呼ばれることになった。

 大神山神社の祭神は大己貴尊である。伝承によると、八束水臣津命とともに大山を杭として国引きをしたとき、大山山頂で神事を行なったのが始まりと伝えている。 最古の鎮座地は現在の岸本町丸山の地であったそうである。大神山は大山の旧名で、古代はオオミワノヤマと読んだそうである。漢字は後で当てはめられたものと考えられるので、 大山の本当の名は「みわやま」ということになる。「みわやま」と言えば饒速日尊の御陵で大和朝廷のシンボルとして扱われている大和の「三輪山」と同じ名である。 大和の「三輪山」の麓には「大神神社」があり、主祭神は饒速日尊の妻とされる「倭迹迹日百襲姫」である。
 大山周辺は古代の聖地であるとの言い伝えがあり、高天原であったという説も存在している。

 これにより大山は大神山(おおみわのやま)と 呼ばれるようになり、後に「神」が欠落し「大山」となった。結婚式が行なわれた跡地は大神山神社となり、祭祀の対象地になったが、200年ごろ大陸から二十四節気の導入により 一年でもっとも大切な日が冬至の日から立春の日に変わった。このとき、大神山神社の地も創始の位置から岸本町丸山の地に移った。 この地は立春の日に大山山頂から太陽が昇ってくるのを見ることができる。
 倭迹迹日百襲姫は吉備国でも結婚の儀式を行なった。その位置が総社市の三輪山から冬至の日に太陽が昇ってくるのを見ることができる正木山(麻佐岐神社)の麓である。 最後に大和の地でも盛大に結婚式を行なった。人々は百襲姫に大物主の神が乗り移ったと信じているわけであるから, 百襲姫の命令は絶対である。大物主の妻とは神に仕えるのではなくて,大和最高神饒速日尊と同等の地位に着くわけであるから, 天皇といえども逆らえず,当時の大和朝廷の実質的最高権力者となるものであった。これが邪馬台国女王卑弥呼である。

 饒速日尊の妻であれば,同時に,素盞嗚尊の娘となるわけであるから,出雲・朝廷双方の心を繋ぐにはちょうどよいのである。 また,このように人心が落ちつかない時代では,今まで以上に強く神を崇拝しなければ国が治められず,強力な祭祀者が必要になるのである。

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