吉備津彦讃岐訪問

 

旭川流域の平定(孝霊56年~孝霊64年)


旭川流域に伝わる吉備津彦関係の伝承は次のようなものである。南から順に記す
A.鼓神社(岡山市上高田・備前国二宮)・・・吉備津彦の正体より
 「吉備津彦以外に、遣霊彦命、吉備武彦、楽楽森彦、高田姫命を祭神とす。楽楽森彦はここの県主である。楽楽森彦は吉備津彦の吉備平定に貢献された。高田姫はその娘で吉備津彦の後妃になられた。先妃は百田弓矢姫であるが、まもなく亡くなった。」

B.賀陽町新町鷺の湯温泉
 「その昔、鬼(温羅)という強賊がこのあたりに住んでいた。あるとき、南から吉備津彦命が鬼を何日も攻めたが、鬼は頑強に抵抗した。なぜかと思い密かに調べたところ、鬼の兵士は傷を負うと、この温泉で直しては戦っていた。それに、谷川に良質な砥石があり、傷んだ刀を磨いていたこともわかった。命は怒り、温泉を冷泉にした。鬼は傷を癒すことができず、閉口して降参したという。鬼退治後は兵士の疲れを癒すのにこの温泉を利用した。谷川の砥石は今もある。」

C.風神社(岡山県吉備中央町広面)
 「四道将軍吉備津彦命が吉備平定のとき、雨坪山の山頂近くにあった鼓岩の上にお立ちになった。そして、そこに小社を建立された。」

D.化気神社(岡山県吉備中央町案田)
 「吉備津彦命が加茂の地に、御食津大神をお祭りになった頃、妖怪変化が出て、住民を恐れさせた。気比宮の西の方に火柱が現れたので、命は弓をとってこれをうかがわれた。そのに覘いの松といって記念の松がある。矢を放たれたが、その矢の掛かった松を矢懸かりの松といった。最近まで残っていたという。二の矢を放たれたとき上がられた気比宮の約6畳ぐらいの大きさの岩を駒石という。矢は怪物に命中し、一大音響を発し倒れて石となった。上体の落ちた所を立石(上田西)といい、残った石を的石(松尾神社境内)という。矢が高く、片となって飛んだところを高片(細田)といい、細田のあたりでその様子を見なかったところを目無という。矢の落ちた所を矢柄(細田)といい、遠くても音の聞こえたところを大鳴(上田東)と呼ぶようになった。これらの地名は現在小字名として残っている。」

E.中山神社(岡山県津山市)
 「大己貴命 『延喜式頭注』、吉備武彦命 『作陽誌』、吉備津彦命 『大日本史』『神祇志料』と記録されており、地主神の大己貴命が中山神(鏡作神)にこの地を譲って、自らは祝木(いぼき)神社に退いた」

 この伝承地は旭川に沿って北上し、途中から吉井川水系にうつり、津山盆地まで進出したことをうかがわせる。中山神社の祭神の中山神(吉備中山に住んでいる神の意味か?)は吉備津彦であるらしい。津山盆地は岡山県北部最大の盆地で当時から多くの人々が住み着いていたようである。吉備津彦がやって来るまでは出雲族一派(大己貴命)がこの地を治めていたが、吉備津彦に譲り渡すことになったようである。このとき戦闘があったと見られるが、まったく記録されていないし、吉備津彦の名も中山神に変えられている。敗北した側の津山盆地の人々の抵抗ではないだろうか。
 高梁川流域にしても、旭川(吉井川)流域にしても、県北のほうは出雲一族の一派が安定して国を治めていたように感じられる。吉備津彦によって大和政権下に所属するようになったという印象を受ける。

 孝霊天皇吉備中山到着(孝霊64年)

 孝霊天皇は百襲姫を讃岐国中央部に移動させた後、吉備津彦の本拠地吉備中山にやってきた。出雲族の残党征討に苦労している吉備津彦の応援にやってきたのである。月支国の来襲を受けた孝霊天皇としては、吉備国を一刻も早く平定し、吉備津彦と協力して出雲国の平定をしなければならないと考えているのである。

 吉備津彦は温羅退治をした後、その残党に悩まされ、吉備国を安定させることができない状態が続いていた。瀬戸内海沿岸に跋扈する海賊たちが、大和と九州・海外との交易を邪魔しており、大和朝廷の政策に大きな障害となっている。孝霊天皇は吉備国の残党征討よりも瀬戸内海沿岸に跋扈する海賊退治を優先することを命じた。

児島周辺の平定(孝霊65年)


御前神社岡山市妹尾897-1
 「吉備津彦命は汗入(あせり)の沖で賊将・梟帥(たける)を成敗した時、大風により船が転覆しそうになったが大亀に助けられた。やがてその磯の前の3つの小島に住吉三神を祀り、汗入の浜に豊玉彦命・豊玉比売命を祀った。その後現在の地に社殿を建立し吉備津彦命を祀ったとされている。
 現在でも、三つの小島の証として、境内には波に洗われた大岩・土中には多くの貝が現存する。」

船越神社(岡山県都窪郡早島町)
「吉備津彦命の船団が児島の山賊・海賊を退治するために吉備の中山から海岸沿いに来られた。そのとき矢尾の大河という人を水先案内人に頼み、『あの島の浅瀬(現船越神社横の峠)は越せるだろうか』と聞かれた。大河という人は『この浅瀬は満潮のときなら通れます。この浅瀬を越すと児島へ早く行けます。』と答えた。この船越神社の地に吉備津彦命は船を着けて休まれた。」

 岡山県の児島は現在は半島であるが、この頃は島であった。稚武彦命は、海賊征討の最初の相手として、この児島の海賊を退治するために児島に向かった。この戦いそのものは伝承されていないが、短期間で児島の平定は終了したと考えられる。

 児島の鬼退治をはじめとして、周辺の海賊を次々と平定していったのが孝霊66年であろう。最後の方は吉備津彦の強さが知れ渡っていたであろうから、戦わずして平定した所もあるであろう。

讃岐国訪問・瀬戸内海海族制圧(孝霊67年)

 香川県の桃太郎伝説
 高松市の沖にある女木島(鬼ヶ島)と鬼無を舞台に、伝説上の名ま えと土地の名まえをむすびつけて物語にしてある。お爺さんとお婆さんは鬼無の人で、お爺さ んが柴刈りにいった山が芝山で、お婆さんが洗たくにいった川が本津川である。  2人には子供がないので、そこで近くの赤子谷の滝で子どもがさずかるように神さまに祈っ た。ある日、川で洗たくをしているとき大きな桃が流れてきたので、お婆さんがひろって帰っ た。桃の中から男の子が生まれたので、桃太郎と名づけた。
 この桃太郎さんは、孝霊天皇の第8皇子稚武彦命であるといわれている。命の兄が、吉備津彦命で岡山県に、姉が、倭迹迹日百襲姫命(田村神社祭神)といい、香川県に住んでいた。そこで、稚武彦命(桃太郎)は鬼退治 のためにやってきたといわれる。  鬼というのは、瀬戸内海の島々を中心にあばれていた海賊のことである。  桃太郎におともした、犬、猿、雉は、それぞれの土地の人たちで、犬は岡山県の沖にある犬島の人々であり、猿は香川県綾南町猿王の人々で、雉は鬼無町雉ヶ谷の人たちであった。  いよいよ、鬼退治に出かけることになった。生島湾の近くに大きな 泉があって鬼の子分が島から水をくみにきていた。ここを木出(きだし)とい う。桃太郎らはここで鬼の子分がくるのをまってとりおさえ、鬼ヶ島(女木島)へ行く道案内 をさせた。  大海戦がおこなわれ、鬼どもは島の岩窟に逃げこんだ。桃太郎は攻めて、攻めて、岩窟内の 鬼どもを降参させた。  宝物をたくさん積んで中津の港にかえってきた。しかし、鬼どもが香西の海賊城にあつまっ て、攻めてきたので再び合戦になった。桃太郎は大いそぎで仲間に使を走らせて、弓と矢をも ってこさせた。この弓矢を作っていた人たちの墓が、弓塚、矢塚といってのこっている。また 、威かくのため弓の弦を鳴らしたところから、弦打(つるうち)と名づけた。本津川一 帯で激しい戦いがおこなわれた。鬼どもはついに討たれて死んでしまった。その屍を埋めたと ころが、鬼ヶ塚である。鬼がいなくなったことから、この土地を鬼無と名づけた。

    上笠居村史 P658~P664 鬼ヶ島より

女木島鬼の館案内板より

 女木島には鬼の棲家であったと伝えられている大洞窟が今も残っています。桃太郎さんのモデルになった稚武彦命はこの鬼の大洞窟の鉄の門を破って攻め込みました。この洞窟の中で鬼は鉄の棒を持って稚武彦命の一行と戦い、応戦ぶりが見事だったので「鬼に金棒」という言葉が生まれました。

 男木島に残る鬼征伐伝承
 鬼たちは女木島の大洞窟を最後の砦と死守を覚悟の鬼たちでしたが、戦いは稚武彦命たちの勝利へと進みました。一般的な桃太郎さんのお話はここで鬼は降参し宝を桃太郎に差し出しますが、鬼無伝説桃太郎さんには続きがあります。
 鬼たちの負けを見た鬼の副大将は男木島の「鬼ヶ崎」から上陸し、稚武彦命は「王谷」から上陸して追いかけました。男木島にも洞窟が残っていますが、ここでの戦いも洞窟で行われました。その様子が、島内の加茂神社本殿に彫刻として残っています。一つは稚武彦命が鬼に刀の背打ちをしているもの。もう一つは、鬼と猿が洞窟の入り口で力比べをしているものです。結果はもちろん稚武彦命たちの大勝利でした。

 鬼無権現宮に今も残る桃太郎と家来たち
 悪事の限りを尽くしてきた海賊(鬼)が、簡単に降参するはずもなく、海賊は、宝物を持って高松市の中津に帰った稚武彦命たちを逆襲します。逆襲してきた海賊を矢で射り「射退橋」あたりで退却させ、さらに再び逆襲してきた貝ぞ置くと激戦をせり合ったのが「セリ塚」。結局は稚武彦命達の勝利となり、海賊を埋めたのが「鬼塚」です。その後、稚武彦命は家来たちの故郷を訪ね、宝を分配しました。また、鬼無村の「鬼無権現宮」には、桃太郎さんの墓標石と、家来たちを祀った祠が今も残っています。

 島の南西側海岸に桃太郎上陸伝承地がある。稚武彦はここから上陸し、大洞窟にいる鬼を攻めたのである。

 当時の瀬戸内海沿岸地方の最強の海賊は女木島の洞窟を本拠としていた海賊であろう。稚武彦命はその周辺の島々を落として、この最強の海賊を孤立化させていった。稚武彦命はこの海賊との決戦を前に讃岐国田村神社の地住んでいた百襲姫に会いに行った。百襲姫の方から呼び出したのではないかと思われる。

 百襲姫自身もこの海賊たちから被害を受けていたであろうから、稚武彦命の協力を得てこの海賊を退治しようと考えたのであろう。百襲姫は独自の情報網によって、この海賊の特徴などを知り尽くしており、稚武彦命に海賊退治の作戦を伝えた。

 百襲姫は、まず、海賊退治の協力者を紹介した。桃太郎童話の犬、猿、雉である。犬は岡山県の沖にある犬島の人々であり、猿は香川県綾南町猿王の人々で、雉は鬼無町雉ヶ谷の人たちであった。これらの人たちは、海賊の被害に見舞われており、稚武彦命に協力することを進んで申し出たであろうと思われる。

 海賊の本拠地が女木島の大洞窟であると稚武彦命に伝えた。海賊が高松市西側の生島湾に上陸しているので、この一族を捕まえて、海賊の情報を得た。稚武彦軍は生島湾を出発し、女木島を目指した。女木島の海賊たちも稚武彦軍がやってくることに気づき、迎え撃ち、女木島の南の海上で大海戦がおこなわれた。海戦は稚武彦軍の勝利に終わり、海賊軍は女木島の洞窟に逃げ込んだ。

 稚武彦軍は女木島南西海岸の桃太郎上陸伝承地に上陸し、そこから一挙に洞窟を攻めた。洞窟内の戦いで鬼の大将は降伏し、海賊たちが集めた宝物を没収した。

 この時、他の海域で海賊行為を行っていた副大将率いる軍が女木島に戻ってきた。女木島が落とされたことを知った副大将軍は男木島に上陸し、稚武彦軍を迎え撃とう落とした。しかし、副大将軍もあっさりと敗北し、男木島の「ジイの穴」に逃げ込んだが包囲されて、降参することになった。

 海賊の残党は他にもいた。大将、副大将が降参した海賊であったが、海賊の行動範囲は広く、残った残党が、鬼無村に凱旋した稚武彦軍を襲った。激しい戦いの末、残党の大半は戦死し、鬼塚に葬られた。

 戦い後、犬、猿、雉とされた人々の本拠地を訪問し、海賊から没収した宝物をこれらの人々に配布した。これらの人々は今後大和朝廷に協力することを誓った。

 このあたりの多くの作戦は百襲姫が考えたものではないだろうか。百襲姫の洞察力は鋭く、海賊の行動を前もって正確に予測しており、稚武彦軍は残党の襲撃に対して対応策が取れたため被害が最小限にとどめられたのであろう。

 吉備国残党降伏

 稚武彦命は百襲姫の洞察力に驚き、吉備国の残党征討に苦戦していることを百襲姫に伝えた。

 百襲姫はこの状況を聞き、稚武彦命と共に吉備国にやってきた。百襲姫は稚武彦命の兄の彦狭島命に会い吉備国をまとめる方法を授けた。温羅の残党の行動を分析した百襲姫は稚武彦に提案したのである。「温羅の妻、 阿曽郷の祝の娘阿曽姫(アソヒメ)をしてミコトの釜殿の神饌を炊かしめよ」 

 温羅の残党は稚武彦命が温羅の妻阿曽姫を神の使いとして大切に扱うことを約束し、実行してくれたので、稚武彦命と戦うことをやめ、吉備国はやっと平穏となった。

 温羅退治13年後のことで孝霊67年のことである。

 吉備津彦兄弟が温羅退治後13年間も苦労した残党征討をあっさりと解決してしまった百襲姫の能力には関係者一同驚いたことであろう。

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