古代天皇の陵墓の推定

 前方後円墳が築造される直前に吉備地方に前方後円系の弥生墳丘墓である宮山墳丘墓(大乱後の改革)が出現している。その直後に纏向に前方後円系の纏向石塚が築造されている。この時期以降の天皇陵古墳の真実性の検討をしてみることにする。天皇陵の治定は古事記・日本書紀の記録をもとに明治時代に定められたものである。しかし,考古学の発展により,築造時期と記紀の時期が合わないものが数多く存在しており,天皇陵の治定において正しくないものが存在していると言われている。「古代史の復元」では日本書紀の年代を解明することができた。この度,その結果をもとにして真実の天皇陵はどの古墳かを考えてみたい。

 ここでは,前方後円系の天皇陵ではないかと推定される孝元天皇から古墳時代前期末の神功皇后陵までの陵墓の推定をしてみる。
 基本方針
① 天皇陵は小規模墳とは考えにくいので,その時期としては最大規模の前方後円墳であり,推定築造時期と天皇の没年が近いことを条件とする。
② 伝承優先。伝承通りの位置に該当する古墳がある場合は,その古墳を天皇陵と決定する。
③ 伝承の位置に該当する古墳がない場合は,その周辺で該当する古墳を探す。
④ 周辺に該当する古墳がない場合は,場所を無視して該当時期の古墳を探す。

 まず,神武天皇から神功皇后までの伝承上の陵墓と築造時期・大きさを如何にまとめておく。表には卑弥呼とされる百襲姫,台与,一時期天皇だったと推定している忍熊王を追加している。

 天皇陵一覧

天皇 陵名 住所 古墳名 推定築造時期 没年(古代史の復元)
孝元 劒池嶋上陵 奈良県橿原市石川町 石川中山塚古墳群中山塚 5・6C 214
開化 春日率川坂上陵 奈良県奈良市油阪町 念仏寺山古墳 5C前半 244
百襲姫 大市墓 奈良県桜井市箸中 箸墓 3C中頃 249
崇神 山邊道勾岡上陵 奈良県天理市柳本町 行燈山古墳 4C前半 278
垂仁 菅原伏見東陵 奈良県奈良市尼辻西町 宝来山古墳 4C後半 297
台与 不明 300頃
景行 山邊道上陵 奈良県天理市渋谷町 渋谷向山古墳 4C前半 324
成務 狹城盾列池後陵 奈良県奈良市山陵町 佐紀石塚山古墳 4C後半 327
仲哀 惠我長野西陵 大阪府藤井寺市藤井寺4丁目 岡ミサンザイ古墳 5C末 332
忍熊 不明 366
神功 狭城盾列池上陵 奈良県奈良市山陵町字宮ノ谷 五社神古墳 4C末 389
 
前期古墳大きさベスト10
順位 古 墳 名 墳丘長m 古墳時代 推定築造順 所 在 地  備 考 
1 渋谷向山古墳 302 4C中頃 6 奈良県天理市 伝景行天皇
2 箸墓古墳 276 3C中頃 1 奈良県桜井市 伝倭迹迹日百襲媛命
3 五社神古墳 267 4C末 10 奈良市 伝神功皇后
4 メスリ山古墳 250 4C初頭 4 奈良県桜井市
5 行燈山古墳 242 4C前半 5 奈良県天理市 伝祟神天皇
6 西殿塚古墳 234 3C後半 2 奈良県天理市 伝手白香皇女 
7 宝来山古墳 227 4C後半 8 奈良市 伝垂仁天皇
8 佐紀石塚山古墳 220 4C後半 9 奈良市 伝成務天皇
9 佐紀陵山古墳 210 4C後半 7 奈良市 伝日葉酸媛皇后
10 桜井茶臼山古墳 208 3C末 3 奈良県桜井市

1 孝元天皇陵

 陵墓は剣池嶋上陵とされ、奈良県橿原市石川町字剣池に存在している。
 『日本書記』は「剣池嶋上陵」、『古事記』は「剣池之中岡上」、「延喜諸陵式」では「兆域東西二町、南北一町、守戸五烟、遠陵」とあり、規模としては小さい。応神天皇11年10月に灌漑のために渡来人の土木技術を応用して開削され、剣池と名づけて、陵号とされたものである。
 所在地が不明となっていたが、元禄の修陵で現在の陵が孝元天皇陵とされた。陵域には三つの塚があり、「中山塚」あるいは「御陵山」とされるものが矢来で囲われ孝元天皇陵とされている。文久の修陵では三つの塚全体が柵で囲われており、谷森善臣著『山陵考』は「中山塚」以外の二つの塚について 「倍家の類にはあらじ、別に御陵に故ある物なと蔵めたりし所なるへし、必ず粗略に為まじき処なるべし」としている。
 三つの塚の配置は以下のようになっている。拝所の直ぐ背後に円墳と思われる墳丘が有り、その奥に前方部があまり開かない形態の前方後円墳(全長28m)、さらにその北側に高さが1m前後と思われる円墳が存在している。そのうちの前方後円墳が治定陵とされている。1863(文久3)年に孝元天皇陵と治定され大改造を行ったとされている。考古学的名称は中山塚古墳群(1号~3号墳)と呼ばれ、5世紀代の築造と推定されている。

 現孝元天皇陵は5世紀代の者と推定されており、AD214年崩御と推定している孝元天皇の陵とは考えられない。では真実の孝元天皇陵はどこにあるのであろうか。

 纏向遺跡(纏向に都を作る)がAD200年頃より造られているので、当時の天皇であった孝元天皇は当然ながら卑弥呼(卑弥呼年表)と共にその造成にかかわっていると推定される。纏向遺跡は日本列島最初の巨大都市遺跡で、住居の集合というよりは祭祀が中心となった遺跡である。当然ながら当時の支配者がその中心となっているはずである。この当時の最高権力者は卑弥呼であったと思われるが、卑弥呼と孝元天皇の関係はどのような関係であったのであろうか。

 古代天皇では基本的に末子が皇位を相続している。兄は祭祀をつかさどっていたと考えられている。この当時は祭政一致の時代であり、祭主である兄の言葉のもとに弟が政治を行うという形である。卑弥呼は当時の大和朝廷の最高位の神である大物主神(饒速日尊)の妻とされている。そのため、卑弥呼の言葉は神の言葉と等しい扱いとなり、祭祀を司っていた兄の代わりとなるものであろう。しかし、祭主と神の妻では権威がまるで違うので、祭主よりもはるかに強力なものであったと考えられる。よって、孝元天皇は卑弥呼の言葉をもとに政治を行っていたと考えることができる。現在の政治体制でいうと卑弥呼が立法(国会)、孝元天皇が行政(内閣)に該当するのではないだろうか。

 このように考えると孝元天皇が卑弥呼の指示のもと纏向遺跡の造成をしていたことになる。当然ながら孝元天皇は纏向遺跡内に滞在していたはずである。しかし、孝元天皇の宮跡は牟佐坐神社(橿原市見瀬町718)の境内とされている。古代天皇の宮跡は転々としており、これは、農地の開発が目的であったと推定されている。伝承では宮跡は1か所となっているが、実際は何か所か移動しているものと推定できる。孝元天皇即位はAD186年と推定しており、この時は、まだ、纏向遺跡の造成は始まっていない。牟佐坐神社の宮跡はこの時のものではないだろうか。AD200年ごろから纏向遺跡の造成が始まっているので、この頃、孝元天皇の宮は纏向遺跡内に移動していると思われる。しかしその正確な位置は不明である。

 このように、孝元天皇の実際の滞在地は纏向遺跡周辺と考えるのが自然である。そうすると、御陵も纏向遺跡周辺と考えられる。纏向遺跡周辺のAD214年(孝元天皇没年)より、少し後に築造されている前方後円系の当時最大規模の墳丘墓(大乱後の改革)となれば、纏向石塚(古墳時代の始まり)がそれに該当する。纏向石塚は全長96m程で、AD210年~220年ごろに築造されたと推定されており、時期的にまさに該当する墳丘墓である。纏向遺跡内では最古の墳丘墓とされている。よって、真の孝元天皇陵は纏向石塚と推定する。

2 開化天皇陵

 開化天皇陵は、『日本書紀』では、春日率川坂上陵と記され、『古事記』では「伊邪河之坂上」とされている。該当しているのは念仏寺山古墳とされている古墳である。全長100m、後円部は径48m、高さ8mとされている。 古墳を築造する際は元々丘があった場所をわざと選地して、地山を利用して築造したと思われる。江戸期には念仏寺の墓域としてかなり墳丘の改変を受けている。西側の外堤で採取された円筒埴輪片から5世紀前半の築造と考えられており、実際の開化天皇陵とは考えられない。

 開化天皇の宮(皇居)の名称は、『日本書紀』では春日率川宮、『古事記』では春日之伊邪河宮とされており、現在の奈良県奈良市本子守町周辺であり、率川神社境内が宮跡にあたるとされている。しかし、この位置はこれまでの天皇の宮跡よりも北側に大きくずれている。この頃は纏向遺跡の造成も軌道に乗り、開化天皇自体は現奈良市周辺の土地開発に従事していたのかもしれない。しかし、この周辺に発生期の前方後円形の墳墓は存在しない。天皇の没後祭祀を考慮すると、纏向遺跡内にあると考えたほうが良いと思われる。開化天皇の春日率川宮も即位後しばらくの間の宮であると考えられる。

 開化天皇も卑弥呼の指示のもとに動く必要があり、開化天皇も孝元天皇と同じく卑弥呼の指示の下で纏向遺跡の造成に尽力していたと思われ、最終的には纏向遺跡に滞在していたと思われる。実際の開化天皇陵は孝元天皇と同じような理由で纏向遺跡周辺にあると思われる。

 開化天皇の没年はAD244年であり、卑弥呼没の5年前である。よって、卑弥呼の御陵と考えられている箸墓(古墳時代の始まり)と築造時期はほぼ同じはずである。下の表は纏向遺跡周辺の前方後円形の墳丘墓の一覧である。

墳墓名 時期 墳丘長 (m) 後円径   後円径/全長
纒向石塚古墳 3C前半 96 64   0.67
纒向矢塚古墳 3C前半 96 64   0.67
纒向勝山古墳 3C前半 115 70   0.64
ホケノ山古墳 3C中葉 80 55   0.69
東田大塚古墳 3C中葉~後半 120 68   0.57
箸墓古墳 3C中葉~後半 278 150   0.54

東田大塚古墳

纒向矢塚古墳の南約300mに位置する。古墳の周囲は水田地帯となっていて、周濠の痕跡は認められないが、石塚、矢塚古墳の状態から推測して周濠はあったと想われる。墳形は外観から帆立貝式かと考えられるが不明である。墳頂部は平坦となっている。規模は経約60m、高さ約9m、墳丘は現在畑地化しているが、それ以前には段があったと忠われる。埋葬施設や副葬品については不明である。ただ、以前にこの古墳から石製模品が出土したとの伝えがあり、これが事実であれは、他の古墳と同様、古墳時代前期の築造と思われる。(桜井市史より) 
 東田大塚古墳は、全長約60m、後円部の高さ約7mの古墳時代前期の前方後円墳で、墳丘の築造企画は纒向石塚・纒向勝山・纒向矢塚・ホケノ山などの古墳と同じ企画を持つ纒向型前方後円墳の一つと考えられている。詳しい調査が行われていないため、築造の時期や主体部の内容・周濠など、詳細は不明だが、地元では後円部墳丘より石製の椅子が出土したとの伝承を持ち、纒向古墳群の中で、墳丘の保存状態が良いものである。(桜井市教育委員会・歴史街道、現地説明板)

 この表を見ると巨大墳丘墓で箸墓とほぼ同じ時期に築造された墳丘墓は東田大塚古墳となる。他の地域を見ても箸墓とほぼ同じ時期に築造された前方後円形の墳丘墓は存在せず、この東田大塚古墳が真の開化天皇陵と推定する。

 3 卑弥呼(倭迹迹日百襲媛命)御陵

 卑弥呼は倭迹迹日百襲媛命である。その御陵(古墳時代の始まり)は伝承通り箸墓と推定する。

 箸墓古墳  箸墓古墳は、最初の巨大古墳とされており、倭迹迹日百襲姫命の大市墓として宮内庁で管理されている。 纒向遺跡内にある全長約276mの巨大な前方後円墳で、当時最大の墳墓である。後円部が饒速日尊(大物主神)御陵と思われる穴師山を向いている。
 墳丘は前方部4段、後円部5段の段築で墳丘表面には葺石が積まれ、後円部墳頂やその付近から吉備地方と同型式の特殊壺形埴輪と特殊器台型埴輪が採集されている。前方部頂上部やその付近からも、底部に穴の空いた複合口縁の壺形土器が採集され、1992年の前方部南側の調査の結果では、この古墳は大半の封土を盛土した可能性が高いことが判明している。
 周濠については幅約10m程度の周濠と、その外側に基底幅15mを越える大きな外堤が巡っていた可能性あり、外堤の所々には渡り堤が築造当初からあったと考えられている。
 陵墓指定地外の調査で出土したものとしては、木製輪鎧等の木製品、土器破片及び宮内庁によって採集された特殊壺形埴輪と特殊器台型埴輪等がある。
 築造年代は研究者により様々であるが、後円部墳頂の埴輪及び周濠部等から出土の土器の型式及び墳丘の形態より、3世紀中葉ないし中葉すぎと推定されている。

 築造時期・主軸の向いている方向・築造場所・規模を考えると、この箸墓こそ卑弥呼の御陵と考えることができる。

4 崇神天皇陵

 崇神天皇の陵墓は「山辺道勾岡上陵」と言われている。現在は「行燈山古墳」と呼ばれている古墳が崇神天皇陵とされている。周濠に沿う緑が美しく、展望も良い。
「行燈山古墳」は4世紀前半の築造とされており、AD278年に没した崇神天皇陵としては時期が合わない。

 行燈山古墳 古墳は全長約242m、後円部径約158m、後円部の高さ約31m、前方部の幅約100m、前方部の高さ約13.6m、周濠を含めた全長は約360m、最大幅約230mの巨大な前方後円墳です。築造された年代は古墳時代前期後半の早い時期(4世紀前半)と推測されている。
 埋葬施設は不明で、昔の絵図には後円部墳頂に南北方向の盗掘跡と見られる掘り込みが描かれており、掘り込みのようすから竪穴式石室と考えられている。遺物は周濠から銅板、金銀細工品、土器などが出土している。銅板は縦54cm、横71cmほどの長方形で、採られた拓本には表面に内行花文鏡に似た文様、裏面に四区画に分けた文様が陽刻されており、鏡に関係した銅製品と考えらるが、他に例が無く、用途は不明である。また、この古墳は、3基の陪塚を伴っていいる。南アンド古墳(全長65m)、アンド山古墳(全長120m)、天神山古墳(103m)である。全て前方後円墳で、「行燈山古墳」は大王墓には間違いない 

 それでは、真の崇神天皇陵はどこにあるのであろうか、周辺で三世紀後半に築造されたと推定されている巨大古墳は西殿塚古墳である。西殿塚古墳は行燈山古墳の北方1.3km程の位置にある。

西殿塚古墳  西殿塚古墳は、奈良県天理市中山町にある古墳。大和古墳群を構成する古墳の1つ。被葬者は、宮内庁により「衾田陵」として、第26代継体天皇皇后の手白香皇女の陵に治定されているが、3世紀後半頃の築造と推定され、6世紀代と推定される手白香皇女では年代が合わないので明らかに異なる。箸墓古墳に後続する大王墓と推定されている。
 この古墳は前方後円形で前方部を南方に向けるが、墳丘は後円部で東側3段築成・西側4段築成、前方部で東側1段築成・西側2段築成。墳丘長は約230m、これは大和古墳群では最大規模になる。墳丘外表には葺石が認められるほか、特殊器台形土器・特殊器台形埴輪・特殊壺形埴輪があり、、周辺部には有段口縁の円筒埴輪などの初期埴輪等が検出されている。埋葬施設は明らかでないが、墳丘上では後円部・前方部それぞれに方形壇(方丘)が認められている。
 桜井茶臼山古墳  本古墳は、自然丘陵を利用して築造されたものであり、墳丘長207mで、柄鏡式古墳である。箸墓古墳に後続する時期に造営された巨大な前方後円墳である。後円部の頂に高さ2m弱、一辺9.75×12.5mの貼石のある矩形壇がある。墳丘に特殊器台や円筒埴輪を使用した痕跡がない。段築面には葺石が施されているが陪墳群がみられない。
 墳丘にしみこんだ雨水を抜くための石組の地中排水溝があり、国内最多の103面以上の銅鏡破片が見つかった。後円部には長さ6.7mの長大な木棺を納めた竪穴式石室があり、盗掘を受けていた。淡路島南にある沼島産の石材も確認されている。3世紀末葉の年代が考えられ西殿塚古墳に続いて築造されたと考えられる。
 黒塚古墳  全長約130mの前方後円墳で、撥形をしている。周濠があるが、葺石や埴輪は確認されていない。三角縁神獣鏡33面、画文帯神獣鏡1面が、副葬当時に近い状態で発見された。
 後円部の埋葬施設は竪穴式石室で、内法長約8.3m、北小口幅0.9m、高さ約1.7mで、二上山麓の春日山と芝山の板石を積んで合掌造状の天井を作り出している。木棺には中央部の長さ2.8mの範囲のみ水銀朱を施し、両端はベンガラの赤色で塗られていた模様である。水銀朱のところに安置されていたものと考えられている。
 第I段階から第V段階までに編年分類される三角縁神獣鏡のうち、この古墳では第I段階から第III段階までが出土し、第IV段階以降が出土していない。また、箸墓古墳のちょうど2分の1の相似形と思われ、箸墓の直後に西暦260年すぎには造営されたと考えられる。 

 西殿塚古墳は卑弥呼の後継者である「台与」の陵墓ではないかという説があるが、古代史の復元では「台与」は300年頃没と推定しており、時期が合わない。時期的に崇神天皇の没年(AD278年)と時期が合うのである。同時期の古墳としてはもう一つ桜井茶臼山古墳が存在しているが、全長が207mと同時期の西殿塚古墳より小さいサイズである。天皇陵ということから判断すると、西殿塚古墳の方がふさわしいといえる。

 以上のことより、西殿塚古墳を真の崇神天皇陵と推定する。

 では、桜井茶臼山古墳の被葬者は誰であろうか。全長207mと天皇陵に匹敵する巨大前方古墳である。天皇に匹敵するほど大和朝廷内で重要な位置を占めていた人物と考えられる。この古墳から鏡が多量に出土しているが、鏡を多量に扱っていたのは四道将軍である。崇神天皇陵(西殿塚古墳)に続いて築造された古墳であり、垂仁天皇時代に亡くなった人物である。魏志倭人伝にも記載されている邪馬台国の官の奴佳是に該当する建沼河別命ではないかと推定している。

 『日本書紀』崇神天皇10年9月9日条では武渟川別を東海に派遣するとある。また同書崇神天皇60年7月14日条によると、天皇の命により武渟川別は吉備津彦と共に出雲振根を誅殺している。垂仁天皇25年2月8日条では、「大夫」に任じられており、天皇から神祇祭祀のことを命じられている。

 黒塚古墳は築造時期、鏡の多量出土などから四道将軍の一人大彦命の古墳ではないかと考えている。

 5 垂仁天皇陵及び台与陵

 垂仁天皇陵は菅原伏見東陵とされており、奈良県奈良市尼ヶ辻町字西池にある「宝来山古墳」が垂仁天皇陵に治定されている。

 宝来山古墳 宝来山古墳の墳形は前方後円形で、前方部を南方に向ける。墳丘は3段築成。墳丘長は227m。墳丘外表では葺石・埴輪の存在が知られている。江戸時代に盗掘にあっており、それを記す史料によると竪穴式石室であり、内部には長持形石棺が据えられたと見られる。出土品としては、宮内庁採集資料として円筒埴輪・形象埴輪(盾形・家形・靫形埴輪)等がある。これらの出土品から古墳時代前期の4世紀後半頃の築造と推定される。

 宝来山古墳は4世紀後半頃の築造と推定され、AD297年没の垂仁天皇とは年代が大きく異なり、宝来山古墳は垂仁天皇陵ではない。

 宝来山古墳周辺は奈良盆地北部の佐紀古墳群と呼ばれており、巨大古墳としては、佐紀陵山古墳(伝日葉酢媛命陵)→宝来山古墳→佐紀石塚山古墳(伝成務天皇陵)→五社神古墳(伝神功皇后陵)と築造順序が位置づけられている。佐紀古墳群は纏向箸中古墳群→大和古墳群に継続する古墳群であり、佐紀古墳群自体が垂仁天皇の時代よりかなり後になって形成されているので、真の垂仁天皇陵はこの周辺にはないと思われ、時期的には纏向箸中古墳群か大和古墳群にあると思われる。

 垂仁天皇の没年(AD297年)から真の垂仁天皇陵は4世紀初頭に築造されていると思われる。この時期に該当する巨大前方後円墳は行燈山古墳(4世紀前半242m)、メスリ山古墳(4世紀前半240m)の二つが該当する。メスリ山古墳の方が行燈山古墳より若干古いようである。

 メスリ山古墳  桜井市高田にある巨大な前方後円墳で、前方部を西に向け周濠を持たない古墳である。全長は224mで前方部幅80m、高さ8m、後円部径128mで、高さは19mとされていたが墳丘の裾がかなり埋没していることが確認され、本来の全長は250mに及ぶと推定される。築造当時は箸墓古墳、西殿塚古墳に次ぐ当時としては最大級の古墳であるが被葬者の伝承はなく、天皇陵とはされていない。墳丘は3段築成で墳丘斜面には葺石が敷かれ、テラス面には埴輪列が設けられており、日本最大の円筒埴輪(径0.9m、高さ2.4m)が出土した。
 後円部の墳頂部に造られた方形壇に囲まれた内部に南北方向に竪穴式の埋葬主体部(全長8m、幅1.35m、高さ1.76m)があり粘土床上に木棺が安置されていた。盗掘されているが、三角縁神獣鏡、内行花文鏡の破片、石釧、鍬形石、車輪石、椅子型石製品、櫛形石製品、合子などの石製品、勾玉、管玉などの玉類が見つかっている。尚、この石室の上面は約1mの高さの石垣の施された方形の土壇で囲まれている。
 さらに、副室(全長6m、幅0.7m合掌式の竪穴式石室)が未盗掘の状態で発見された。人体埋葬の形跡が無く、儀礼用と考えられる鉄製の弓矢や碧玉製の鏃、鉄製のやり先(212本以上)銅鏃(236本)など、武器に関する多量の副葬品が発見され他にも大型勾玉、玉杖、太刀、剣、農工具等総計で680点以上が納められていた。この古墳は箸墓古墳、西殿塚古墳、外山茶臼山古墳に続く初期大和政権の大王墓で、築造年代は出土品等から4世紀初頭と考えられている。

 卑弥呼には後継者台与が存在し、3世紀後半に大和朝廷を統治していたと思われる。しかし、卑弥呼の後継者はこの二人までであり、その後は存在していない。垂仁天皇は神の指示で動いていた形跡があるが、次の景行天皇は、出雲を併合するなど、大和朝廷による中央集権をかなり強化しており、台与の存在は考えにくい。それらを考慮すると、台与の統治は景行天皇の治世の初期段階までではないかと推定する。その結果台与の没年を300年頃と推定する。

 台与(武埴安彦の乱と卑弥呼の死)は卑弥呼の後継者であり、同時に饒速日尊(大物主神)の妻である。卑弥呼の陵墓である箸墓が饒速日御陵(穴師山)を向いている。行燈山古墳も実は穴師山(纏向に都を作る)を向いているのである。厳密にいえば饒速日尊御陵である穴師山雄岳ではなく、穴師山雌岳の方向を向いている。行燈山古墳の位置からは穴師山雄岳を見ることができないので雌岳を向いていると思われる。

 この当時の大和朝廷には大古墳の被葬者と思われる人物が二人いることになる。それは、垂仁天皇と台与である。大王墓も二つ存在しているので、この二人の墳墓と推定する。時期的にはメスリ山古墳が早いので、メスリ山古墳=垂仁天皇陵、行燈山古墳=台与陵と推定する。  

6 景行天皇陵

 景行天皇陵は「山辺道上陵」として奈良県天理市渋谷町にある渋谷向山古墳とされている。形状は前方後円墳。柳本古墳群を構成する古墳の1つ。前方部を西方に向け、墳丘は後円部で4段築成、前方部で3段築成。墳丘長は300m、これは全国では第8位、奈良県では五条野丸山古墳(橿原市、310メートル)に次ぐ第2位、柳本古墳群では最大の規模になる。墳丘周囲には周濠が巡らされているほか、陪塚的性格を持つ古墳数基の築造も認められる。出土品としては、円筒埴輪・形象埴輪のほか、江戸時代に出土したと伝わる石枕等がある。
 この渋谷向山古墳は、出土埴輪から4世紀後半頃と推定されていたが最近では4世紀中頃の築造ではないかと推定される。行燈山古墳に続く時期の築造で、古墳時代前期の古墳としては全国で最大規模になる。

 渋谷向山古墳は景行天皇陵との伝承がある上に景行天皇の没年(AD324年)と時期もほぼ一致しているので、伝承どおり渋谷向山古墳が景行天皇陵と考えてよいであろう。

7 成務天皇陵・仲哀天皇陵・忍熊王陵・神功皇后陵

 成務天皇陵から今までの三輪山周辺から奈良盆地北部の佐紀古墳群に移動する。

佐紀石塚山古墳   成務天皇陵とされている。墳丘は南面している。全長218.5m、後円部径132m、高さ19m、前方部は幅121m、高さ16mである。墳丘は三段に築成され、葺石が多用されているために石塚山古墳の名がある。前方部の前面をのぞいて、周濠の幅は全体に狭いが、東側では極端に狭く、佐紀陵山古墳(日葉酢媛命陵)の後円部の周濠が当古墳のくびれ部にくいこんだ状況である。佐紀陵山古墳が先に築造されていたと推定される。佐紀陵山古墳との時期差は数十年の差はないと思われる。北から東北にかけて3基の陪塚があって、順次い号、ろ号、ほ号と名付けられている。江戸時代の記録によると、後円部に竪穴式石室と長持形石棺があることが推定される。また鏡、玉、剣などが盗掘された。4世紀後半築造と推定されている。
佐紀陵山古墳  すぐに西側に接して築かれている佐紀石塚山古墳のくびれ部に佐紀陵山古墳の後円部がくい込んだ配置になっている。このため佐紀陵山古墳の方が先に築かれたことが推定されている。全長207m、前方部幅約87m、後円部径131m、前方部高さ12.3m、後円部高さ約20mの規模の三段に築成された古墳である。 大正4年に盗掘をうけ、遺物が持ち出された。翌年に、復旧工事が行なわれ、石室付近と出土遺物に関するかなり詳細な調査となされた。
 後円部頂上中央に存在する方形区画の真下につくられた竪穴式石室は、主軸をほぼ南北に持ち、長さ8.55m、幅1.09mという巨大なものである。石室上部は2メートルほどに土を盛って小さな円形の盛土を造り、その上に7 - 8個のキヌガサ形埴輪と数個の盾形埴輪を立てていた。副葬品は流雲文縁変形方格規矩鏡仿製鏡、唐草文縁変形方格規矩鏡、直弧文縁変形内行花文鏡がある。他に石製腕飾り類、石製模造品などが出土している。埴輪や石室内の遺物の構成から見て古墳時代前期でも終わりに近い年代が考えられるという。
岡ミサンザイ古墳  仲哀天皇陵とされている古墳である。墳形は前方後円形で、前方部を南南西に向ける。墳丘は5段で、墳丘外に埴輪片が検出されているが、葺石は認められていない。墳丘くびれ部東側には造出がある。墳丘周囲には幅広の周濠が巡らされるほか、その外側には埴輪列を有する周堤が巡らされている。。埋葬施設は明らかでないが、墳丘形状から横穴式石室である可能性が指摘される。副葬品は不明。後円部北側に陪塚と見られる鉢塚古墳がある。
 出土埴輪より古墳時代中期の5世紀末葉頃の築造と推定され、仲哀天皇の想定年代に合わないことから、現在では第21代雄略天皇陵ではないかといわれている。
五社神古墳  奈良県奈良市山陵町にある古墳。形状は前方後円墳。佐紀盾列古墳群(西群)を構成する古墳の1つである。神功皇后の「狭城盾列池上陵」に治定されている。
 墳形は左右非対称の前方後円形で、前方部を南方向に向ける。墳丘は後円部が4段築成、前方部が3段築成。墳丘長は推定復原で267m、佐紀盾列古墳群中では最大規模になる。またくびれ部西側では造出の存在が推定されるほか、墳丘外表では葺石・埴輪が検出されている。埋葬施設に関しては、江戸時代の盗掘を記す史料により竪穴式石室の使用と見られている。古墳時代中期初頭の4世紀末葉頃の築造と推定される。奈良盆地北部での巨大古墳としては、佐紀陵山古墳(伝日葉酢媛命陵)・宝来山古墳(伝垂仁天皇陵)・佐紀石塚山古墳(伝成務天皇陵)に後続する築造順序に位置づけられている。

 五社神古墳は神功皇后の没年(AD389年)と一致しているので宮内庁の治定どおり神功皇后陵と考えて差支えないが、仲哀天皇陵とされている岡ミサンザイ古墳は明らかに違うと思われる。

 柳本古墳群の4世紀中頃と推定される景行天皇陵以降、巨大古墳築造は柳本古墳群から佐紀古墳群に移動している。成務天皇は在位が短かったので、成務天皇陵と景行天皇陵がほぼ同時期となるはずであるが、景行天皇陵に続く大王陵が存在せず、両天皇陵の築造時期に期間が空いているようなのである。成務天皇の没後仲哀天皇が九州遠征し、仲哀天皇没後神功皇后が倭国軍を創設するために全国巡幸している。人材確保が難しく、巨大古墳築造がストップしていたのではないかと推定する。

 佐紀古墳群における巨大古墳の築造順番は佐紀陵山古墳→宝来山古墳→佐紀石塚山古墳→五社神古墳とされている。該当する人物は成務天皇・仲哀天皇・神功皇后である。神功皇后陵=五社神古墳と推定したので、佐紀陵山古墳→宝来山古墳→佐紀石塚山古墳が成務天皇・仲哀天皇となる。もう一つの巨大墳の被葬者は忍熊王と推定している。

 忍熊王(応神天皇即位)は仲哀天皇没(AD332年)後、応神天皇即位(AD367年)まで、35年(神功皇后年代推定)ほど空いている。記紀では神功皇后が代理をしていたように記録されているが、この当時長期にわたる天皇空位は許されるものではなく、実際は仲哀天皇の皇子である忍熊王が大和で天皇として即位していたと推定している。応神天皇が即位したのは神功皇后の子である誉田別命を天皇にするために神功皇后が忍熊王(天皇)に対してクーデターを起こしたものと考えている。忍熊王は戦いに敗れて自害したが、天皇であったために、陵墓を立派に築造する必要があり上記巨大墳の一つは忍熊王の御陵ではないかと推定する。

 単純に時期から判断すると、佐紀陵山古墳=成務天皇陵、宝来山古墳=仲哀天皇陵、佐紀石塚山古墳=忍熊王陵となる。成務天皇と仲哀天皇はどこかに仮埋葬され、しばらく後に御陵築造して正式埋葬されたと考えている。実際に仲哀天皇は山口県長府市の忌宮神社の地に仮埋葬されている。佐紀陵山古墳と佐紀石塚山古墳は数十年も差がないと言われており、佐紀石塚山古墳が忍熊王陵とすれば、その築造はAD380年頃となるので、佐紀陵山古墳の築造は共に360年頃となり、宝来山古墳の築造は370年頃となる。3つの巨大墳を一挙に作ることになった関係上、新しい地域に作ることになり、今までの三輪山周辺から広い土地の確保できる奈良盆地北部に築造場所を移し、佐紀古墳群が誕生したものであろう。佐紀陵山古墳と宝来山古墳は共に仮埋葬されている人物の御陵なので、若干のずれはあれどほぼ同時に築造され、両御陵が完成後、しばらくして佐紀石塚山古墳が築造されたものではないだろうか。

古代史の復元推定天皇陵
天皇 没年 該当古墳 築造時期 全長
孝元 214 纏向石塚 3C初頭 96m
開化 244 東田大塚古墳 3C前半 120m
百襲姫 249 箸墓 3C中葉 280m
崇神 278 西殿塚古墳 3C後半 230m
垂仁 297 メスリ山古墳 4C初頭 240m
台与 300頃 行燈山古墳 4C前半 250m
景行 324 渋谷向山古墳 4C中頃 300m
成務 327 佐紀陵山古墳 4C後半1 207m
仲哀 332 宝来山古墳 4C後半2 227m
忍熊 366 佐紀石塚山古墳 4C後半3 218m
神功 389 五社神古墳 4C末 267m

 古代史の復元による推定天皇陵をまとめてみた。この表を見ると箸墓を除き、孝元天皇から景行天皇まで次第に御陵は巨大化してきている。神功皇后陵を最後に古墳時代中期になり、応神天皇陵・仁徳天皇陵とさらに巨大化するのである。しかし、成務・仲哀・忍熊の3天皇は少し小さくなっている。ほぼ同時に築造されたために、小さくなったのではないかと推察する。その中でも宝来山古墳が少し大きいのは妻である神功皇后の思いが入っているのではないかと思われる。

 ここにあげたのは、古代史の復元による日本書紀の年代解明の結果をもとに推定したものである。古墳の築造年代も今後の新しい発見によって変更になる可能性もある。今後の状況によって、該当古墳を変更したいと考えている。