崇神天皇

西暦 和暦 中国干支 半年一年干支 日本 修正 半島暦西暦換算 朝鮮半島 中国
244 開化60 崇神1 甲子 癸未 甲申 開化天皇崩御
崇神天皇即位
143
245 2 3 乙丑 乙酉 丙戌 都を端籬宮とする(3年) 皇帝の命により倭の難升米に黄幢を与え、帯方郡長官に授与させた。(魏志倭人伝) 145
246 4 5 丙寅 丁亥 戊子 疫病流行る(5年) 147
247 6 7 丁卯 己丑 庚寅 豊鍬入姫、天照大神を祀る(6年)
大田田根子を大物主神を祀る祭主とする(7年)
女王は載斯烏越を使者として派遣して狗奴国との戦いを報告した。太守は塞曹掾史張政らを倭国に派遣(魏志倭人伝)
3月24日日没日食
149
248 8 9 戊辰 辛卯 壬辰 大物主神を祀る(8年)
墨坂神・大坂神を祀る(9年)
151
249 10 11 己巳 癸巳 甲午 武埴安彦の乱(10年)
倭迹迹日百襲姫没(10年)
四道将軍派遣(10年)
四道将軍帰還(11年)
異俗の人たちが多数やってくる(11年)
丹波に日子坐王派遣(10年9月)
卑弥呼没(10年10月)
武埴安彦の乱(10年)
四道将軍派遣(10年)
魏使者張政来日(11年)
153 司馬懿はクーデターを起こし、魏宗室の曹爽一派を誅滅した。これにより司馬一族は魏の権力を完全に掌握した。
250 12 13 庚午 乙未 丙申 課役を課す(12年) 国内が落ち着く 155
251 14 15 辛未 丁酉 戊戌 157 倭人が交際のために訪れた。(新羅本紀)
252 16 17 壬申 己亥 庚子 海上交易を活発化するため船を作る(17年) 159 呉孫権死去
253 18 19 癸酉 辛丑 壬寅 161
254 20 21 甲戌 癸卯 甲辰 163
255 22 23 乙亥 乙巳 丙午 165 新羅の阿?(新羅の官位)の吉宣(きちせん)が反乱を企てて失敗し、百済に亡命してきた。
 百済と新羅は敵対関係となる。(百済本紀)
256 24 25 丙子 丁未 戊申 167 百済が新羅の西部辺境2城を奪って住民1千人を捕虜とすると、同年8月には一吉阿?の興宣(フンソン)に兵2万を率いて百済を討たせるとともに、阿達羅尼師今自身も8千の騎兵を率いて漢水(漢江)まで出撃した。
257 26 27 丁丑 己酉 庚戌 169 百済は再び新羅の国境付近に侵攻した。
258 28 29 戊寅 辛亥 壬子 171
259 30 31 己卯 癸丑 甲寅 173 倭女王卑弥呼が使者を遣わす(新羅本紀)。
260 32 33 庚辰 乙卯 丙辰 175
261 34 35 辛巳 丁巳 戊午 177
262 36 37 壬午 己未 庚申 179
263 38 39 癸未 辛酉 壬戌 181 蜀滅亡
264 40 41 甲申 癸亥 甲子 183
265 42 43 乙酉 乙丑 丙寅 185 司馬炎は魏の元帝から禅譲を受けて即位し、晋王となる。(晋建国)
266 44 45 丙戌 丁卯 戊辰 台与は掖邪狗ら20人に張政の帰還を送らせ、掖邪狗らはそのまま都に向かい男女の生口30人と白珠5000孔、青大句珠2枚、異文の雑錦20匹を貢いだ。(晋書) 187
267 46 47 丁亥 己巳 庚午 189 百済は新羅と狗壌で戦って敗北。死者5百余名(百済本紀肖古王24年、新羅本紀伐休5年)
秋8月、兵を出して、新羅の西の境、円山郷を襲撃し缶谷城を包囲した。蛙山で大勝した。
(百済本紀肖古王25年、新羅本紀伐休7年)
268 48 49 戊子 辛未 壬申 皇太子決定(48年)
豊城命に東国を治めさせる(48年)
191
269 50 51 己丑 癸酉 甲戌 193 倭人が大飢饉に会う(新羅本紀)
270 52 53 庚寅 乙亥 丙子 195
271 54 55 辛卯 丁丑 戊寅 197
272 56 57 壬辰 己卯 庚辰 199 金官加耶国首露王没・第二代居登王即位
百済が国境を侵犯する(新羅本紀)
273 58 59 癸巳 辛巳 壬午 201 伽耶が和を乞う(新羅本紀)
274 60 61 甲午 癸未 甲申 出雲振根の乱(60年) 203 新羅の腰車城を攻め落とした。(百済本紀、肖古王39年)
275 62 63 乙未 乙酉 丙戌 池や溝を掘る(62年) 205
276 64 65 丙申 丁亥 戊子 任耶国朝貢してくる(65年) 207 倭人が侵入(新羅本紀)
277 66 67 丁酉 己丑 庚寅 209 浦上八国(慶尚南道南西域の伽耶諸国)に攻め込まれた加羅(金官伽耶)が新羅に対して救援を求めてきたので、太子の位にあった昔于老が、伊伐の利音とともに加羅の救援にいき、浦上八国の将軍を討って捕虜六千を救出した(新羅本紀)
278 68 垂仁1 戊戌 辛卯 壬辰 崇神天皇崩
垂仁天皇即位
211 伽耶皇子を人質とする
279 2 3 己亥 癸巳 甲午 赤絹を任那王に送ろうとしたが、新羅がこれを奪う。以降新羅との争いが始まる。(3年) 213 新羅・百済の戦い

  朝廷と朝鮮半島との関係

 251年(崇神12年、阿達羅王5年)、倭人が交際のために訪れた。(新羅本紀)

 255年、三国史記によると新羅の阿飡(新羅の官位)の吉宣(きちせん)が反乱を企てて失敗し、百済に亡命してきた。新羅王(阿達羅尼師今)は吉宣の送還を求めたが蓋婁王はこれをかくまったため、新羅軍の派兵を招い た。このとき百済の諸城は籠城戦を採ったため、新羅軍は撤退した。蓋婁王は在位39年にして 死去したが、この時より百済と新羅とは敵対関係に入った。(百済本紀蓋婁王38年、新羅本紀阿達羅12年)

 256年7月、百済が新羅の西部辺境2城を奪って住民1千人を捕虜とすると、同年8月には一吉阿飡の興宣(フンソン)に兵2万を率いて百済を討たせるとともに、阿達羅尼師今自身も8千の騎兵を率いて漢水(漢江)まで出撃した。百済はこれを恐れ、先に捕虜とした住民を返還し和睦を求めた。(百済本紀肖古王2年、新羅本紀阿達羅14年)

 257年10月、百済は再び新羅の国境付近に侵攻した。

 259年、倭女王卑弥呼が使者を使わして礼物を持参し交際を求めた。

 265年、司馬炎は魏の元帝から禅譲を受けて即位し、晋王となった。

 266年、魏の張政は倭国内での技術支援の役割を終え、中国に帰還することとなった。
      百済は新羅の母山城を攻めた。(百済本紀肖古王23年、新羅本紀伐休5年)

 267年 百済は新羅と狗壌で戦って敗北。死者5百余名(百済本紀肖古王24年、新羅本紀伐休5年)
      百済は、秋8月、兵を出して、新羅の西の境、円山郷を襲撃し缶谷城を包囲した。蛙山で大勝した。
      (百済本紀肖古王25年、新羅本紀伐休7年)

 269年 倭人が大飢饉に会う。新羅に食を求めて千余人がやってくる。

 272年 金官加耶国首露王死去・第二代居登王即位

 274年 新羅の腰車城を攻め落とした。(百済本紀、肖古王39年)

 276年 任耶国朝貢してくる(崇神65年)、倭人が侵入(新羅本紀)

 277年 浦上八国(慶尚南道南西域の伽耶諸国)に攻め込まれた加羅(金官伽耶)が新羅に対して救援を求めてきたので、太子の位にあった昔于老が、伊伐の利音とともに加羅の救援にいき、浦上八国の将軍を討って捕虜六千を救出した(新羅本紀)

 278年 崇神天皇崩御、垂仁天皇即位。新羅、伽耶皇子を人質とする。

 279年 都怒我阿羅斯等が船で穴門から出雲国を経て笥飯浦に来着。赤絹を任那王に送ろうとしたが、新羅がこれを奪う。以降新羅との争いが始まる(垂仁3年)。新羅・百済の戦い。

 四道将軍による諸国統一

 四道将軍派遣

 AD249年(崇神10年)百襲姫(卑弥呼)が亡くなった。

四道将軍の派遣は大和朝廷が地方を直接統治するために、卑弥呼が派遣を考えたものである。この頃以前の大和朝廷と地方諸国は、連合国の代表が大和朝廷という関係であり、大和朝廷から地方の技術者を派遣し、地方は技術を教えてもらったお礼に産物を朝廷に献上するという関係であった。

 このような関係では中央の技術が尽きてしまい、地方に反乱が起こった時に安定して統治することができなくなることが考えられた。実際に卑弥呼の時代に反乱が起こったのである。

 卑弥呼はこの状態を憂えて、朝廷と地方との関係を、支配と被支配の関係にしようと諮った。地方諸国の王にその関係を承諾させ、承諾した王には、そのままその国の国造りに任じ、不承諾の王に対しては、四道将軍が攻撃を仕掛けて屈服させるというものであった。四道将軍は短期間で任務を終えており、ほとんどの国の王は、あっさりと承諾したものと考えられる。

 大和朝廷に対して被支配を承諾した王をそのまま、その国の国造に任じ、その証として鏡(三角縁神獣鏡)を与えたのである。鏡の三角縁は三輪山を意味しており、三角縁に囲まれることにより、大和朝廷の支配を受けるという意味があったのであろう。そして、承諾した国に対して課役を課したのである。

 三角縁神獣鏡の登場と銅鐸の埋納

 生前の卑弥呼はこの計画のために魏に使者を送り鏡作り技術者を呼び寄せ、国内で、三角縁神獣鏡を作らせたのである。古墳時代になり、時代が経て、他の鏡が次第に小さくなる中、三角縁神獣鏡のみはその大きさにほとんど変化がなく、特別な意味を持つ鏡だったのである。

 国造の代替わりの時は、朝廷に報告し、朝廷から新しく三角縁神獣鏡を受け取る習わしだったようである。急激に三角縁神獣鏡の需要が増え、朝廷の工房では原料の銅の輸入が間に合わなくなり、旧祭祀の銅鐸を鋳つぶして三角縁神獣鏡を作り、新しい国造に渡すということを始めた。地方の人々は銅鐸を没収されるのを嫌がり、埋納して隠したのである。

日本書紀崇神60年の記事

「天皇が武日照命が天から持ってこられた神宝を出雲大神の宮に納めてあるがこれをみたい」といったので勅使の武諸隅を遣わして奉らせた。出雲振根が神宝をつかさどっていた。出雲振根は筑紫に出かけて いって留守だったので,弟の飯入根が皇命を賜り、弟の甘美韓日狭と子の鵜濡渟とにつけて奉った。(これを知った振根は飯入根を殺した。)
 甘美韓日狭と鵜濡渟は朝廷に参って詳しくその様子を報告した。朝廷は吉備津彦と武渟河別とを遣わして出雲振根を殺させた。
 この後,出雲は出雲大神を祭るのをやめた。しばらく祭礼をおこなわなかったが,丹波の氷上の氷香戸辺という人の子が不思議な歌を歌っているのを聞いて鏡を祭らせた。」

 この神宝検校は孝安天皇の時代のことと推定したが、登場人物の武渟河別は崇神天皇と同世代である。また、出雲に鏡を祀らせている。鏡を祀るようになったのは崇神天皇のころからであり、この神宝検校は孝安天皇時代の検校と崇神天皇時代の出来事が重なって記録されたものと判断する。

 大和朝廷は鏡を作るための材料である青銅に不足を感じてきて、全国の青銅器を没収しようとした。中でも出雲国は大己貴命が青銅器を多量に集めており、大和朝廷はそのことを知っていた。孝安天皇のときに熊野大社にあった青銅器は没収したが、まだ隠し持っているのを知って、この青銅を狙って没収しようとしたと考えられる。

 朝鮮半島諸国への将軍派遣

 四道将軍は東日本地域、丹波・山陰・西海地域を巡回しているが、、九州・四国・朝鮮半島には派遣されていない。これらの地域にも、四道将軍級の人物が巡回しているはずである。当然新羅国にも巡回しているであろう。それがAD251年の新羅本紀の記事「倭人が交際のために訪れた。」であろう。新羅国はAD234年に大和朝廷に対して降伏しているが、卑弥呼が亡くなった後であり、大和朝廷に従うかどうかの確認に新羅国を訪れたのであろう。

 新羅国は反抗のチャンスを狙ってはいたが、日本列島内で四道将軍により反乱が次々と平定されている状況であり、かつ百済が目を光らせていたので、まだ、機が熟していないとして服従の姿勢を見せたものと考えられる。AD251年のことである。

 日本書紀の記事によると、「崇神17年(AD252年)海上交易を活発化するため船を作る」と記録されている。新羅本紀に「倭人が交際のために訪れた」と記録されている次の年である。朝鮮半島との交流を活発化するために舟を作ったと考えられる。新羅国はこれにより課役が科せられ、倭国に対して貢物を毎年贈らなければならなくなったのである。

 朝鮮半島からは三角縁神獣鏡は出土していない。(旧楽浪郡からは似た鏡が出土している。) これは、朝鮮半島の支配体制は日本列島内とは異なることを意味している。対馬海峡を頻繁に渡るのが難しかったためであろう。日本列島内の国造には代替わりの時に三角縁神獣鏡を渡したのであるが、朝鮮半島ではそうではなかったようである。ある程度の独立性が認められたのであろう。

 百済と新羅の戦い

 AD255年(安達羅12年)「新羅の阿飡(新羅の官位)の吉宣(きちせん)が反乱を企てて失敗し、百済に亡命してきた。新羅王(阿達羅尼師今)は吉宣の送還を求めたが蓋婁王はこれをかくまったため、新羅軍の派兵を招い た。このとき百済の諸城は籠城戦を採ったため、新羅軍は撤退した。
 新羅の吉宣はどのような反乱を企てたのであろうか。百済が彼を匿って返さなかったことから、百済に内通していたものと推察される。新羅は表面上は大和朝廷に服従しているが、独立したいという思いを強く持っており、大和朝廷との間で新羅の監視役を請け負っている百済は、このような新羅の状況を変えようと吉宣を引きこみ反抗させたのではあるまいか?

 新羅はこれを見抜き反乱を鎮圧したが、吉宣を百済に逃がしてしまった。新羅王は吉宣を新羅に送還するように求めたが、百済はそれを拒否した。これを境に百済と新羅の関係は悪化した。

 167年(崇神24年・AD256年)、百済が新羅の西部辺境2城を奪って住民1千人を捕虜とすると、同年8月には一吉阿?の興宣(フンソン)に兵2万を率いて百済を討たせるとともに、阿達羅尼師今自身も8千の騎兵を率いて漢水(漢江)まで出撃した(新羅本紀)。

 百済と新羅の全面戦争になっている状態を憂えた倭女王卑弥呼(二代目台与)は、AD259年(崇神30年)百済新羅双方に使者を送り、関係修復を求めた。朝廷の調停により百済と新羅は和解することになり、この後暫らく戦いの記事が見られない。

 晋への朝貢

 『晋書』
 壹與は掖邪狗ら20人に張政の帰還を送らせ、掖邪狗らは魏の都に上り、男女の生口30人と白珠5000孔、青大句珠2枚、異文の雑錦20匹を貢いだ。

 張政は帯方郡太守王頎の部下で、魏から派遣された塞曹掾史という肩書を持つ役人である。その後、20年近くを倭国で過ごして泰始2年(266年)に帯方郡に帰国した。倭の使者掖邪狗らはそのまま洛陽まで行って晋に朝貢したものと思われる。

 台与としても、中国に晋という新しい統一国家ができたので、晋に朝貢することにより、周辺国家からの安定を得ようとしたのであろうが、晋が不安定な国であることが分かり、以降、交流をやめてしまったのであろう。崇神44・45年のことである。

 百済・新羅は再び戦う

 半島暦188年(崇神45年=AD266年後半)、百済が新羅に一方的に攻め込んだ。理由は明らかにされていない。

百済本紀
 肖古王23年(崇神45年)、兵を出して新羅の母山城を攻めた。
 24年(崇神46年)、秋7月我軍は新羅と狗壌で戦って敗北した。使者500余名を出した。
 25年(崇神47年)、秋8月兵を出して新羅の西の境、円山郷を襲撃し、進んで缶谷城を包囲した。新羅では将軍仇道が騎兵500を率いて防ぐので、我軍は偽って退くと、仇道は追って蛙山に到着した。それで我軍はこれを反撃して大勝した。
 

新羅本紀
 伐休5年(崇神45年)、百済が母山城を攻めてきた。波珍食、仇道に命じて兵を出してこれを防いだ。
 6年(崇神46年)、仇道は百済の軍と狗壌で戦ってこれを打ち破って勝ち、500余名を斬った。
 7年(崇神47年)、秋8月に百済が西の国境円山郷を襲ってきた。また、缶谷城に攻め入って包囲するので、仇道は屈強な騎兵500名を率いて討つと、百済軍が偽って逃げた。仇道は蛙山まで彼らを追いかけて行って、百済に敗れた。

 10年ほど朝鮮半島は落ち着いていたのであるが、百済が新羅を急襲して再び戦いが始まっているのである。二代目卑弥呼である台与が晋に朝貢した年に戦いが始まっているのである。両者は何か関係があると見てよいであろう。次のように推定する。

 新羅は目的の国に工作員を送りその国を混乱させることに長けている。この10年間、一見平和であったが、新羅は工作員を送り込み百済に対して何か工作活動をしていたものと考えられる。
 そこに、倭国から晋への朝貢団が百済の都漢城にやってきて宿泊したのであろう。新羅からの工作員はこの朝貢団に何か仕掛けたのではないだろうか。百済の漢城で倭国から晋への朝貢団が殺害されるなどということが起これば、百済と倭国との友好関係を崩すことができ、これは、すなわち新羅にとっては有利なことである。
 この工作活動は百済側によって防がれたが、これに怒った百済が新羅を攻めた。

 これは一つの仮説であるが、このようなことが起こった可能性はある。

 伽耶諸国の混乱

 AD272年(崇神56年)金官加耶国首露王が死去した。享年79歳(現年齢)であった。首露王は生まれながらにして国王であり、金官加耶国をまとめていたのでカリスマ性も強く、伽耶諸国が彼を中心としてまとまっていた。しかし、彼が亡くなることによって伽耶諸国が分裂を始めたのである。おそらく第二代居登王が即位するのに他の伽耶諸国が反対したのではあるまいか。

 百済本紀
 肖古34年(崇神56年)、兵を出して、新羅の腰車城を攻めてこれを落とし、その城主を殺した。新羅の奈解王は怒って、伊伐食の利音を対象として6部の精兵を率いさせて、我沙見城へ攻めてきた。

 新羅本紀
 奈解4年(崇神56年)、百済が国境を侵犯した。
 6年(崇神58年)、伽耶国が和を請うた。
 13年(崇神65年)、夏4月倭人が侵入したので、伊伐食、利音を派遣して将兵を率いさせてこれを防がせた。
 14年(崇神66年)、秋7月、浦上八国(慶尚南道南西域の伽耶諸国)が加羅(金官加耶国)への侵略を諮った。加羅の王子が来て救援を乞うので、王は太子于老と伊伐食、利音をして6部の兵を率いてこれを救援せしめた。八カ国の将軍を討ち殺し、捕虜になっていた6000名を返してやった。

 日本書紀
 崇神65年、任那国朝貢してくる。

 新羅本紀によるとAD273年(奈解王6年)「伽耶が和を乞うた」と記録されている。他の伽耶諸国から総すかんを食った金官加耶国第二代居登王が新羅に救援を求めたのであろう。

 新羅国と金官加耶国が協調体制になったために、AD276年後半(崇神65年)他の伽耶諸国の王が連盟して朝廷に援助を要請した。早速朝廷では新羅国に侵入し金官加耶国と協調しないように要請したのであろう。

 AD277年(奈解王14年・崇神66年)、金官加耶国が朝廷の指示に従わず新羅と協調関係にあることに我慢が出来なくなった浦上八国(慶尚南道南西域の伽耶諸国)は金官加耶国に攻め込んだ。金官伽耶国は新羅に対して救援を求めた。新羅では太子の位にあった昔于老が、伊伐の利音とともに加羅の救援にいき、浦上八国の将軍を討って捕虜六千を救出した。

 AD278年(崇神68年)崇神天皇が崩御し、第11代垂仁天皇が即位した。天皇の代替わりにより、大和朝廷の金官加耶国に対する対する圧力が強くなると思った新羅国は金官加耶国を引きとめようと、金官加耶国に人質を差し出すように要求した。伽耶国はいわれるままに皇子を人質に差し出した。

 金官加耶国の動きに危機感を持った伽耶国の皇子都怒我阿羅斯等は、船で穴門から出雲国を経て笥飯浦に来着。AD279年(垂仁3年)、垂仁天皇は赤絹と共に任那王を牽制しようと使者を送ったが、その情報を得て金官加耶国と朝廷の仲たがいを願っている新羅がこれを奪った。

 この情報を得た垂仁天皇は怒り、以降新羅に対して直接攻撃が始まるのである。

 崇神天皇生誕年と享年

 崇神天皇の享年は日本書紀で119歳、古事記で168歳である。日本書紀で開化10年(AD219年前半)である。古事記は在位年数に100歳を加えたもののようである。日本書紀の記事の通り、開化10年(AD219年前半)生誕、崇神68年崩御、享年119歳(現行60歳)となる。

 崇神天皇の皇后の出自

 日本書紀によると、崇神天皇の皇后・妃は3人記録されている。

皇后:御間城姫
   皇子:活目入彦五十狭茅尊(垂仁天皇)
   皇子:彦五十狭茅命(伊邪能真若命)
   皇女:国方姫命
   皇女:千千衝倭姫命
   皇子:倭彦命
   皇子:五十日鶴彦命
妃:遠津年魚眼眼妙媛 - 紀伊国荒河戸畔女
   皇子:豊城入彦命 (上毛野君・下毛野君等祖)
   皇女:豊鍬入姫命 ( 初代斎宮)
妃:尾張大海媛(意富阿麻比売・葛木高名姫命)
   皇子:大入杵命 (能登国造祖)
   皇子:八坂入彦命
   皇女:渟名城入媛命
   皇女:十市瓊入媛命

 皇后の御間城姫は孝元天皇皇子大彦の娘である。御間城姫に関しては矛盾はないが、遠津年魚眼眼妙媛および尾張大海媛に関して謎が多い。尾張大海媛は建宇那比命の娘とされているが、海部氏系図によると建宇那比命は孝安天皇と同世代と考えられるので、明らかに年代が合わない。しかし、彼女の別名の葛城高千名姫が同じ海部氏系図の倭得魂彦の娘となっている。こちらの場合は崇神天皇と同世代となり、矛盾なくつながる。

 もう一人の妃遠津年魚眼眼妙媛であるが、この人物は紀伊国荒河戸畔の娘となっているがこれ以上の記録がなく、全く謎である。しかし、豊城入彦・豊鍬入姫の母にあたるのであるが日本書紀別伝にその母が八坂振天某辺となっており、こちらは、倭得魂彦の娘とされている。葛城高千名姫と同一人物か姉妹かとも思えるが、はっきりしない。ここでは、同一人物と考えて系図にまとめてみる。

武諸隅命の謎 

 建諸隅という名が海部氏系図と物部氏系図の双方に存在している。海部氏系図では開化天皇と同世代と考えられる竹野姫の父である。物部氏の系図では物部十千根の弟である物部新大河連の子である。

 物部十千根は垂仁天皇26年に出雲神宝の検校を行っており、その甥にあたる武諸隅が崇神60年に同じく出雲神宝の検校を行っている。この両事件の間は現行暦で17年の差である。もしこれが事実であれば物部十千根はかなり高齢で派遣されたことになる。あり得ないとは言わないが、かなり無理があると思われる。伊香色雄と十千根との間が一世代欠落していると考えればつじつまが合う。

 崇神60年に出雲神宝検校したのは武諸隅と日本書紀に記録されているが、この武諸隅は物部氏の武諸隅と思われる。

崇神天皇皇后の出自
                            ┏━葛城高千名姫┓
                    ┏━━倭得魂彦━┫       ┣━八坂入彦
饒速日尊・・・ 建宇那比━━建諸隅━━━┫       ┗━尾張大海姫━┓
                    ┗━━竹野姫━━┓       ┃┏豊城入彦
                            ┣━━彦湯産隅命┣┫
                            ┃       ┃┗豊鍬入姫
神武天皇・・・武速前━━━━━孝元天皇━━┓┏大彦━━━┃━━御間城姫━┓
                     ┣┫     ┃       ┣━垂仁天皇
                     ┃┗開化天皇━┻┓┏崇神天皇━┛
                     ┃       ┣┫
                     ┃       ┃┗御真津姫
              ┏━欝色謎━━┛       ┃
宇摩志摩治・・ 大矢口宿禰━┫      ┏━伊香色謎━━┛
              ┗大綜杵命━━┫       ┏━新大河━━━武諸隅
                     ┗━伊香色雄━━┫
                             ┗━○━━━━━十千
根  
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