卑弥呼の死

崇神天皇即位直後の日本書紀記事

 卑弥呼(百襲姫)が亡くなる直前の日本書紀の記事を検討してみよう。以下は日本書紀の記事の現代語訳である。

四道将軍派遣 

9月9日。大彦命を北陸に派遣しました。
武渟川別を東海に派遣しました。
吉備津彦を西道に派遣しました。
丹波道主命を丹波に派遣しました。
それで崇神天皇は言いました。
「もし、教を受けないものがあれば、すぐに兵を挙げて討て」
4人は印綬を受けて将軍となりました。

 四道将軍について

 四道将軍とは誰か

 四道将軍とは、大彦命(北陸派遣)、武渟川別(東海派遣)、吉備津彦(西道派遣)、丹波道主命(丹波派遣)である。この四道将軍の系図は下のようになる。

四道将軍の系図
                ┏大禰命
                ┃
饒速日命━宇摩志麻治命━彦湯支命╋出雲醜大臣命  
                ┃        ┏大水口宿禰  ┏━欝色雄命
                ┗出石心大臣命━━┫       ┃              ┏━武渟川別
                         ┗大矢口宿禰━━╋━欝色謎━━┓┏大彦━━━━┫ (東海派遣)
                                 ┃      ┣┫(北陸派遣)┗━御間城姫┓
                                 ┃      ┃┃            ┣━垂仁天皇
                                 ┃      ┃┗開化天皇━┳┓┏崇神天皇┛
                                 ┃      ┃      ┃┣┫   
                                 ┃      ┃      ┃┃┗御真津姫┛
           ┏神八井耳━━━武宇都彦━━━武速前━━━━━孝元天皇━━┻━━━━━━━━┓
           ┃                     ┃             ┃┃┣武埴安彦
           ┃                     ┃      ┏━伊香色謎━━┻┛
       神武天皇┫                     ┗大綜杵命━━┫      ┃
           ┃                            ┗━伊香色雄 ┃  
           ┃                                   ┣━━彦坐王━━━丹波道主
           ┃                            ┏彦国姥津命 ┃       (丹波派遣)
           ┃           ┏天足彦国押人命━━和邇日子押人命┫      ┃
           ┗綏靖天皇━━孝昭天皇━┫                ┗姥津媛━━━┛
                       ┃
                       ┃                ┏倭迹迹日百襲媛命
                       ┗孝安天皇━━━━━━孝霊天皇━━┫ (卑弥呼)
                                        ┗━━━━━━━━━五十狭芹彦
                                                  (西道派遣)

 四道将軍のうち丹波道主命は古事記では彦坐王となっている。生誕推定年は五十狭芹彦(210年頃)、彦坐王(220年頃)、大彦命(190年頃)、武渟川別(220年頃)、丹波道主(250年頃)と推定される。崇神10年頃(250年頃)丹波道主は誕生直後と思われ若すぎるため、丹波に派遣された四道将軍は丹波道主ではなく、彦坐王と推定する。

 四道将軍が派遣されたのはいつ頃であろうか。四道将軍の年齢から推察すると、最も若いと思われる彦坐王・武渟川別が20歳前後とすると240年頃となる。最年長の大彦命はこの時50歳程度となっている。日本書紀の崇神10年では大彦命が60歳程となる。四道将軍が派遣されたのは年齢から240年~250年と判断される。

 次に周辺情勢から判断してみると、他のところで戦いがある時は派遣されていないと考えられる。234年までは新羅との戦いがあり、魏志倭人伝にはAD247年頃に狗奴国との戦いがあったと書かれているが、AD247年頃の狗奴国との戦いは激しかったようで四道将軍のいずれかは派遣されていると考えてよいであろう。よって、四道将軍の派遣はAD250年頃と考えられる。

 魏志倭人伝には狗奴国との戦いの終結については記録されていないが魏の張政の派遣の時に狗奴国との戦いが記録されていないので、卑弥呼が亡くなるAD249年には解決していたと考えられる。日本書紀に武埴安彦との戦いの直後に百襲姫が亡くなったと書かれているが、狗奴国との戦いの直後に卑弥呼は亡くなったと考えられる。

 四道将軍は卑弥呼が亡くなる直前、崇神天皇10年(AD249年)9月9日に勅命を受けて派遣されたことが記録されているが、その派遣途中で武埴安彦の乱が起き、その直後卑弥呼が亡くなった後に実際に一斉に派遣されている。

 四道将軍派遣理由 

 四道将軍の派遣決定は卑弥呼が亡くなる直前だったようである。この時は球磨国との戦いが終わった直後である。卑弥呼自身球磨国との戦いは思っていたよりも苦戦をしており、地方の勢力は侮れないということを実感したのではあるまいか。地方を安定統治するためには地方をよく知り、地方を治める体制固めが必要であると考えたのであろう。地方が大和朝廷に従うことを再確認させるのを目的に四道将軍を派遣することを決定したのであろう。

 大和朝廷の支配に従うと約束した地域には国造を配置し、従わないと反抗した地域に対しては将軍がその地域を攻めて従わせるというのが四道将軍の目的であった。四道将軍は戦いに対して強いことが要求されており、これまでの新羅や狗奴国の戦いで功名を立てた人物が選ばれたのであろう。

 武埴安彦の計画

 四道将軍が出発した直後に武埴安彦の乱が起こっている。武埴安彦の乱はいつ起こったのであろうか。武埴安彦は大彦命の弟であり、AD200年には誕生していたと考えられる。卑弥呼が亡くなる直前だと武埴安彦は50歳前後となっている。

 崇神天皇10年9月27日、四道将軍の1人の大彦命(武埴安彦の異母兄弟)が北陸への派遣途中で不吉な歌を歌う少女に出会ったため、大彦命は引き返して天皇にこのことを報告した。
 それを聞いた倭迹迹日百襲媛命は武埴安彦とその妻の吾田媛の謀反を見抜いた。武埴安彦は山背から、吾田媛は大坂から大和へと攻め入ったが、かえって吾田媛は五十狭芹彦命に、武埴安彦は大彦命と彦国葺に討ち取られた。その際に武埴安彦と彦国葺とによる矢の射ち合いとなったが、まず先に放った武埴安彦の矢は当らず、次に彦国葺の放った矢が武埴安彦の胸に当たった。これによって武埴安彦の軍は崩れ、半数以上が斬られて鎮圧された。

 武埴安彦は何を目的として謀叛を起こしたのか。この頃は疫病・反乱が発生していたころで政情不安であった。このような時、皇位簒奪を計画した人物がいても不思議はない。武埴安彦は孝元天皇の皇子であるので皇位継承が可能な人物ではある。孝元天皇自体が孝霊天皇の皇子ではないので、この頃、皇位継承の規則というのが乱れていたと考えられる。武埴安彦の乱は政情不安を利用した皇位簒奪の乱と考えることができる。

 皇位簒奪を狙おうとしても崇神天皇を中心とする大和朝廷は豪族たちに支持されており、その上に天皇以上の存在である卑弥呼が君臨しているのである。その体制を打ち崩すのはかなり難しいといえる。

 日本書紀によれば、四道将軍が地方に派遣されるその隙を狙っているようである。四道将軍が大和にいる軍勢を数多く引き連れていくので、大和の防衛が手薄になり、その隙を突けば大和の占拠は可能である。武埴安彦は四道将軍が出発した直後を狙って大和襲撃計画を立てていたのであるが、内通者がいたために計画が失敗したのである。

 武埴安彦が皇位継承をするための最大の邪魔な存在は卑弥呼ではなかろうか。卑弥呼の言葉は天皇以上に重く、また、非常に聡明であるために、利用することなど不可能といってよいと思われる。いくら武埴安彦でも卑弥呼にだけは手が出せなかったのではあるまいか。

 そのような状態で皇位簒奪が可能なのは卑弥呼が亡くなった直後ということになる。AD249年後半(崇神11年)である。

 魏志倭人伝では卑弥呼が亡くなった後に邪馬台国内で騒乱があったことが記録されているが、日本書紀にはその記録がない。卑弥呼が亡くなる直前に武埴安彦の乱が記述されているのみである。古代史の復元では武埴安彦の乱が卑弥呼が亡くなった直後に起こった騒乱ではないかと推測している。武埴安彦は皇族なので、地方の反逆とは意味が異なり、皇位簒奪が目的であったと考えられる。皇位簒奪は卑弥呼が健在な時は不可能であろう。

 卑弥呼は百襲姫であり、この名は「数多くの成果を挙げた姫」という意味であり、卑弥呼在任中相当の実績を挙げていると思われる。卑弥呼が亡くなる直前は神格化されており、カリスマ性の相当強い存在であったと思われる。卑弥呼の意思なしで、皇位簒奪は不可能であろう。

 四道将軍が朝廷内の武勇のある人物を悉く引き連れていくことを知った武埴安彦は、畿内に有力な将軍がいなくなることを予想し、反逆を起こすチャンスだと思ったのではあるまいか。

 卑弥呼は武埴安彦が反乱を起こすタイミングをはかっていることを知っていたのではあるまいか。卑弥呼自身AD249年には現年齢計算で83歳になっており、自らの余命はあまりないのも分かっていたであろう。自らの死後武埴安彦が反乱をおこすことを予想して、四道将軍の一人大彦命にそのことを伝えていたと思われる。

 そのような時、AD249年(崇神10年10月)卑弥呼は亡くなった。

 卑弥呼の死因

 日本書紀百襲姫の死

倭迹々日百襲姬命は大物主神の妻となった。しかし、その神は常に昼は見えず、夜しか現れなかった。倭迹々姬命は夫に語って言った。
「あなたさまは、常に昼は見えないので、ハッキリとその尊顔を見る事ができません。お願いしますから、もう少しゆっくりしてください。明日の朝に美麗しい威儀を見たいと思います」
大神は答えて言った。
「わかった。私は明日の朝にあなたの櫛笥に入っている。頼むから私の姿に驚くなよ」
倭迹々姬命は心の裏で密かに怪しんでいた。夜が明けるのを待って、櫛笥を見ると、とても美麗い小蛇がいた。
その長さと太さは下衣の紐のようであった。それで驚いて叫んだ。それで大神は恥ずかしく重い、すぐに人の形になった。
「お前、我慢出来ずにわたしに恥をかかせた。わたしも山に還って、お前に恥をかかせよう」
それで大空を踏んで、御諸山に登った。
倭迹々姬命は仰ぎ見て後悔して、ドスンと座りました。それで箸で女陰をついて亡くなった。
それで大市に葬った。世の人はその墓を箸墓と名付けた。この墓は、昼は人が作り、夜は神が作った。大坂山の石を運んで作った。山から墓に至る人民が並んで列を作って手から手へと手渡しに運んだ。世の人は歌を歌った。
 大坂山の石を麓から頂上まで、どんどんと持って行った。大量の石。手渡しにどんどん持っていったから、いつかは山をすっかり持って行けるだろう。

 死因は何であろうか。大物主神を裏切ったための死と日本書紀には記録されているが、これは、実際には何であったのであろうか。次のように推測する。

 百襲姫は自らの夫である大物主神を祀って祭祀をしているのであるが、その御神体は見たことがなかったのではないか。聡明な人は概して好奇心旺盛でその正体を探ろうという気持ちは人一倍強いものである。おそらく百襲姫もそうであったに違いない。ある日祭壇にある御神体を見たいと思い、その御神体を覗いた。そうすると、そこに蛇がいたためにびっくりして祭壇と拝殿をつなぐ橋(箸)から転げ落ちて亡くなった。

 日本書紀の記事をなるべくそのままに解釈すると、卑弥呼は事故死であったことになる。

 武埴安彦の乱

 武埴安彦は卑弥呼の死を知り、かねてから計画していた通りに、反乱を実行した。日本書紀は次のように記録している。

 そこで更に諸々の将軍を集めて話し合いをしました。まだ幾時も無いうちに、武埴安彥と妻の吾田媛は謀反逆しようとして、兵を起こしてたちまちやって来た。
夫婦はそれぞれの行く道を分け、夫は山背から、妻は大坂から、入って帝京を襲おうとしました。その時、天皇は五十狹芹彥命を派遣して、吾田媛の軍を討たせた。大坂で吾田媛の軍を遮り、勝利した。吾田媛を殺して、兵士を皆殺しにした。

また大彦と和珥臣の祖先の彥國葺を派遣して、山背に向かわせ、埴安彦を討たせた。

忌瓮を和珥の武鐰坂上に戦勝祈願として鎮座させた。

精兵を率いて進み、那羅山(奈良県奈良市奈良坂)に登って戦闘を始めた。官軍は進軍し、草木を踏みならした。それでその山を那羅山という。

また那羅山を去り、進むと輪韓河に到着した。埴安彦と河を挟んで対峙して、それぞれが挑んた。それで世の人はその河を挑河と名付けた。現在は泉河と訛っている。

埴安彥が彥國葺の軍隊を見て言った。
「どうして、お前は兵を起こして来るのか?」
彥國葺は答えました。
「お前は天に逆らい、道に背いている。王室を傾けようとしている。よって義兵を挙げ、逆らうお前を討つ。天皇の命だ」
それから各軍は先手を取ろうと弓を射た。
武埴安彦がまず、彥國葺を射ましたが、当たらなかった。次に彥國葺が埴安彦を射ると、胸に当たって死んだ。

その軍の兵士は怯えて、逃げた。すぐに追いかけ、河の北で撃破した。それで半分以上、首を切った。屍骨は多く溢れた。
それでその場所を羽振苑(京都府相楽郡精華町祝園)と名付けた。またその兵士が怖じ気づいて逃げて、屎が褌から漏れました。甲を脱いで逃げました。許してもらえないと思って、頭を地面につけて謝って
「我吾」
と言った。
世の人はその甲を脱いだところを伽和羅と名付けた。褌より屎が落ちたところを屎褌と言った。今は樟葉と訛っている。また頭を地面に叩き付けた場所を我吾と名付けた。

 生前の卑弥呼から自分が亡くなった後武埴安彦が反乱をおこすであろうということを聞いていた大彦命は卑弥呼が亡くなったと聞くや、すぐに対応し、武埴安彦の乱を治めることができた。

台与は豊受姫

 武埴安彦の乱が治まった後、卑弥呼の業績があまりに偉大であったので、その後継者を指名しようという意見が出てきた。卑弥呼は独身であったので、その弟五十狭芹彦の娘(と思われる)台与が年13歳(現年齢で7歳)で、第二代卑弥呼(大物主神妻)に任命された。

 台与を豊鍬入姫に当てる人がいるが,大物主の妻という立場と日向津姫の斎主では立場が全く違うし,斎主では女王とは言い難い。 さらに,豊鍬入姫が斎主になったのは崇神六年で,卑弥呼が死ぬ前であり,年代もあわない。それに,大和でなじみの薄い日向津姫を祭ったところで, 人心を安定させることはできないであろう。  卑弥呼が大物主神の妻なら台与も同じだと思い,大神神社の祭神を調べてみると主祭神が饒速日命で配祠が天照大神と豊受大神となっている。 この二人が大物主神の妻と考えられ,天照大神が倭迹々日百襲姫と判断されるので,台与は豊受大神となる。  「女王アマテラス」をみると豊受大神は女神で,「稚日霊女」,「トヨウカノヒメ」,「丹之神」,「埴の神」,「食物神」とかいった性格を持っているようである。 「稚日霊女」はそのものズバリと二代目卑弥呼を意味する名であるし,「トヨウカノヒメ」は「ウカ」とは饒速日尊のことであるから 「トヨ・饒速日尊の女」という意味に思われ,「食物神」も饒速日尊の食物を給仕していた神ということで,饒速日尊の妻といった性格が強く出ている。 このようなことから,台与とは伊勢神宮外宮に祭られている豊受大神であると判断する。  豊受大神は全国にお稲荷さんとして祀られている神で、スサノオの娘で饒速日尊の妹である倉稲姫といわれている。 彼女は饒速日尊と共に大和にやってきて、饒速日尊の食物の世話をしたため食物神として祀られているのであろうが、 天照大神がムカツヒメと倭迹々日百襲姫の重なった存在であり、イザナギも孝霊天皇が重なっているように、豊受姫も倉稲姫に台与が重なったもの ではあるまいか。

 古事記・日本書紀の編者は,孝霊天皇と孝元天皇を直系で繋いだ関係上,また,饒速日尊を記録から抹殺した関係上,饒速日尊の妻である 卑弥呼共々,台与を記録するわけにはゆかず,記録から抹消したと推定する。そのかわり,天の岩戸神話として残したものと考える。卑弥呼が 死んだとき,崇神天皇が, そのまま国を治めようとしたが,倭の大乱の和平協定のこともあり,出雲を中心とする国々や考霊天皇一族が猛反対を したため,卑弥呼に変わる人物を, 新しく大物主の神の妻にする必要が出てきた。出雲系の人々が納得する人物といえば、吉備国で出雲と大和両 方から信頼を受けていた吉備津彦の系統の人物しかいない。 また彼は、卑弥呼の男弟として卑弥呼を補佐した人物である。そこで,その娘である 台与(豊受姫)に白羽の矢を当てて,次の大物主神の妻にしたものと考える。

 台与時代の終わり

 台与の時代は,いつまで続いたのかという事であるが,記録に全く残されていないためにはっきりとしたことは不明である。 多くの神社の祭神を調べてみると,大物主神の妻はこの二人以外に存在しないので,台与の代を持って終わりを告げたと判断しなければならない。 卑弥呼の時と同じ様な状況にあれば,次の代が要求されると判断するので,必要がなくなるような何かがあったと考える。

 それが,景行天皇の熊曾征伐(「日本上代の実年代」によると312年で,台与75歳程)ではないだろうか。今までの天皇は,倭の大乱の反省もあり, 大和から外にほとんど出た形跡はないが,この天皇になるといきなり自ら九州へ出陣し,直接指揮しているのである。

出雲王朝第15代トオツヤマサキタラシは直系であれば、310年ごろ没となり、出雲朝廷はこのころ廃止されたことになる。 このころの出雲と朝廷に関する記事を古事記・日本書紀から探すと日本武尊が東国征伐に出発する直前(318年と思われる)に出雲健を征伐したという記事がある。 「健」とは古代において一族の大将につけられる名であり、出雲王朝の王即ち出雲王朝第15代トオツヤマサキタラシのことと推察される。 しかし、日本武尊が出雲健を征伐する物語は出雲振根が弟の飯入根を征伐したときと同じように水泳に誘って剣を取り替えて刺し殺すというもので、この話の真実性は 疑わしい。武力制圧というよりも武力を背景にした交渉により出雲王朝を廃止したものと考えられる。景行天皇から第14代仲哀天皇及び神功皇后まで和名に「タラシ」がつき、 トオツヤマサキタラシと共通であり、大和朝廷が一方的に出雲朝廷を廃止したというよりも天皇が出雲王を兼任したと考えるほうが良いようである。

また、4世紀後半ごろより、それまで前方後円墳が出現していなかった前方後方墳主体だった出雲地方や東海地方に前方後円墳が出現したり、近畿地方から前方後方墳が消滅するなど 大和朝廷の地方支配力が急激に増大している。景行天皇の多くの子を地方の国造として派遣したと記録されており、前方後円墳はこれら国造の墓と考えられるため、 このころの大和朝廷の地方支配力の増大は景行天皇の方針によるものと考えられる。

景行天皇は朝廷の権限を地方まで充分に及ぼすために九州制圧をはじめ出雲・東海地方などに様々な手を加えているのである。台与(大物主妻)も出雲国を意識しての存在であるため、 この存在を認めることは出雲を特別視していることになり、朝廷の権限強化の妨げになるとの判断から景行天皇が台与の死を境に大物主妻という特別な地位を廃止してしまったのではあるまいか。

 トップへ  目次へ 
四道将軍
関連 倭の大乱年代推定
半年一年暦の干支
年代推定
卑弥呼年表
孝元天皇・開化天皇