孝元天皇・開化天皇
第8代孝元天皇
孝元天皇は、倭の大乱後の和平交渉の結果、出雲国の要求によって即位した天皇で、孝霊天皇の皇子ではなく、雀部臣出身と思われる。
第8代孝元天皇の出自
孝霊天皇は和平の条件として退位をせまられた。185年(孝霊76年)のことである。孝霊天皇は素盞嗚尊の聖地を攻めたのである。出雲としては到底許しがたいことであった。出雲は孝霊天皇の退位を強く要求した。孝霊天皇としては納得しがたいことであったが、自分が退位することにより天下が治まるのであればやむを得ないと考えた。孝霊天皇の皇子たちは孝霊天皇と共に出雲を攻めているので、孝霊天皇の皇子が次の皇位に就くことも認められなかった。
そこで名前が挙がったのが神武天皇の長男で日子八井耳命の系統の雀部臣の子である 国牽尊(クニクル)が以前より,素盞嗚尊祭祀に理解を示していた関係で第八代天皇(孝元天皇)に推挙された。
孝元天皇は孝霊天皇と細姫の子となっているが、雀部家に伝わる伝承では、神八井耳命の子孫である武恵賀前命の御子が第八代の孝元天 皇だという。原田氏は実際にこの子孫に面接して聞き出している。雀部家の記録は、持統天皇が記紀を編纂するに当たって没収されたそうである。 他に春日臣、安部氏、穂積氏等十六家の系図が没収の憂き目にあっているらしい。記紀編纂時、不都合な事は隠蔽してしまおうとしたのであろ う。
雀部家系図 神武天皇──神八井耳──武宇都彦──武速前──敷桁彦┌─武五百建 神武天皇──神八井耳──武宇都彦──武速前──敷桁彦┼─健磐龍命 神武天皇──神八井耳──武宇都彦──武速前──敷桁彦└─武恵賀前──孝元天皇 神武天皇──神八井耳──武宇都彦──武速前──敷桁彦──(崇神朝) |
この系図には矛盾がいくつかある。健磐龍命は神八井耳命の子で神武天皇の孫である。武恵賀前が崇神朝の頃の人物であることははっきりして いるので、孝元天皇の父が武恵賀前であることはあり得ないことである。
ところが、愛知県犬山市の大縣神社には武恵賀前命は神八井耳命の孫とされている。この神社の伝承の通りならば、年代的に一致する。しかし、武恵賀前命が崇神朝の人物であることは他の資料からも明らかなので、ここでは、孝元天皇の父の武恵賀前命は武速前の間違いであるとする。名前もよく似ていたので誤って伝えられたのであろう。あるいは、孝元天皇の兄にあたる敷桁彦命は彦恵賀前の別名を持っており、彦英賀前の弟が子に誤って伝えられたのかもしれない。
雀部家推定系図 ┏━速瓶玉━━志貴多奈彦━━建緒組命(火国造) (彦八井)┏━健磐龍命┫ ┏神八井耳┫ ┗━健稲背━━健甕富命(金刺氏) ┃ ┃ ┃ ┃ (彦恵賀前)┏━武五百建(科野国造) ┃ ┃ ┏━敷桁彦命━┫ ┃ ┗━武宇都彦━━武速前┫ ┗━武恵賀前━━建借馬(多氏) 神武天皇━┫ ┃ ┃ ┗━孝元天皇━━━開化天皇━━崇神天皇 ┃ ┣綏靖天皇━━孝昭天皇━━孝安天皇━孝霊天皇━━━倭迹迹日百襲媛命 ┃ (卑弥呼) ┣安寧天皇 ┃ ┗懿徳天皇 |
この系図は原田常治氏が雀部家の人から直接聞き出されて、その著書「上代日本正史」の中で公開された。原田氏はこれほどのクーデター事件なのに、孝霊天皇側が反抗した形跡もないのを不思議がられていたが、倭の大乱終結のために起こったと考えれば説明がつく。
古事記・日本書紀の編者はこの事実を隠ぺいしたかったようで、古事記・日本書紀編纂の時、豪族家に伝わる系図を没収したと伝わっている。
孝元天皇一族
皇后:欝色謎命(うつしこめ)
大彦命(おおひこ)・・・四道将軍の一人で北陸地方に派遣された。
少彦男心命(すくなおこころ)
稚日本根子彦大日日尊・・・後の第9代開化天皇
倭迹迹姫命
妃:伊香色謎命(後の開化天皇の皇后・崇神天皇の母)
彦太忍信命(ひこふつおしのまこと) ・・・孫が武内宿禰
妃:埴安媛(はにやすひめ)
武埴安彦命(たけはにやすひこ)・・・崇神天皇の時代に武埴安彦の乱をおこす。
孝元・開化天皇皇后の出自 ┏━━倭得魂彦 ┏━天村雲━━━天忍人━━天登目━━建登米━━建宇那比━━建諸隅━━━┫ ┃ ┗━━竹野姫━━┓ 饒速日命┫ ┃ ┃ ┏大禰命 ┃ ┃ ┃ ┃ ┗宇摩志麻治命━彦湯支命╋出雲醜大臣命 ┣━━彦湯産隅命 ┃ ┏大水口宿禰 ┏━欝色雄命 ┃ ┗出石心大臣命━━┫ ┃ ┃ ┗大矢口宿禰━━╋━欝色謎━━┓┏大彦━━━┃━━御間城姫━┓ ┃ ┣┫ ┃ ┣垂仁天皇 ┃ ┃┗開化天皇━╋┓┏崇神天皇━┛ ┃ ┃ ┃┣┫ ┃ ┃ ┃┃┗御真津姫 ┏神八井耳━━━武宇都彦━━━武速前━━━━━孝元天皇━━┻━━━━━━━━┓ ┃ ┃ ┃┃┣武埴安彦 ┃ ┃ ┏━伊香色謎━━┻┛ 神武天皇┫ ┗大綜杵命━━┫ ┃ ┃ ┗━伊香色雄 ┃ ┃ ┣━━彦坐王 ┃ ┏彦国姥津命 ┃ ┃ ┏天足彦国押人命━━和邇日子押人命┫ ┃ ┗綏靖天皇━━孝昭天皇━┫ ┗姥津媛━━━┛ ┃ ┃ ┏倭迹迹日百襲媛命 ┗孝安天皇━━━━━━孝霊天皇━━┫ (卑弥呼) ┗━━━━━━━━━五十狭芹彦 (大吉備津彦) |
孝元天皇は皇后を物部氏より招いている。孝昭・孝安・孝霊三天皇は饒速日尊の系統ではあるが、物部氏から招いてはいなかった。孝元天皇が雀部臣出身であるためか、大和国内の安定を考えて懿徳天皇以来の物部氏からの皇后である。
おそらく在位期間の末期であろうと思われるが、皇后欝色謎命の姪である伊香色謎を妃に迎えている。伊香色謎は孝元天皇の死後、第9代開化天皇の皇后にもなっている。
次の開化天皇も大和国内の安定を意識している様子がうかがわれる。
孝元天皇の年齢
孝元天皇は日本書紀によると孝霊天皇18年生誕、孝元天皇57年崩御で、崩御時の年齢は116歳となっている。古代史の復元で修正すると、AD156年生誕、AD186年即位、AD214年崩御である。現年齢計算で孝霊天皇9歳の時生誕、31歳で即位、58歳で崩御となっている。孝霊天皇とほぼ同世代と考えられ、孝元天皇は孝霊天皇の子ではないことがこの数値からも示されている。
孝元天皇の在位期間57年と古事記の宝算57年が一致している。孝元天皇より日本書紀の年代がそれまでの生誕からの年代ではなく、在位期間を表すようになったことを示している。古代史の復元においても孝霊天皇以降の年代は半年一年暦で他資料と一致している。また、日本書紀においても孝霊天皇以降の系図が詳細になっており、倭の大乱以降中国より多くの技術者が日本列島にやってきていると思われることと併せて、何らかの記録が残っていたものと考えられる。
第9代開化天皇
開化天皇は稚日本根子彦大日日尊といい、第8代孝元天皇と物部氏の娘欝色謎命との間に誕生した皇子である。
皇后:伊香色謎命(いかがしこめ、もと孝元天皇の妃)
御間城入彦五十瓊殖尊・・・後の崇神天皇
御真津比売命(みまつひめ)
妃:丹波竹野媛(たかのひめ。丹波大県主由碁理の女)
彦湯産隅命(ひこゆむすみ)
妃:姥津媛(ははつひめ)
彦坐王(ひこいます)・・・崇神天皇時代丹波に派遣され、その後美濃国開拓に尽力し、岐阜市岩田の伊波乃西神社に墓がある。
妃:鸇比売(わしひめ)
建豊波豆羅和気王
開化天皇は皇后は物部氏から迎えているが、他の妃は地方豪族の娘である。地方豪族との関係を重視してきた傾向がみられる。
開化天皇の年齢
開化天皇は日本書紀によると孝元天皇7年に生誕、孝元天皇22年に立太子、孝元天皇57年に即位、開化天皇60年に115歳で崩御となっている。古代史の復元によって現年齢計算で換算すると、AD189年生誕、AD196年8歳で立太子、AD214年26歳で即位、AD244年56歳で崩御である。
古事記の宝算は63歳で、日本書紀の在位年が60年である。この時期の古事記の宝算は天皇の在位期間と考えられるので、開化天皇の在位期間が63年と考えられなくはないが、孝霊天皇の誕生時以降は半年一年暦が他の資料ときれいに一致しているので、開化天皇の3年のずれは、日本書紀では崇神天皇か孝元天皇の在位年に含まれているように思われる。崇神天皇の時代は資料も多く、精度が高いと思われるので、孝元天皇の最後の3年間が開化天皇の宝算に含まれているのではないかと推定する。孝元天皇の事象が全く伝えられていないので、孝元天皇55年に孝元天皇が病になり、開化天皇が即位前に3年間摂政をしていた可能性も考えられる。
孝元開化天皇時代関連神社一覧(平成祭データより)
神社名 | 祭神 | 鎮座地 | 県名 | 備考 |
---|---|---|---|---|
阿智神社 | 天八意思兼命,天表春命 | 下伊那郡阿智村智里489 | 長野県 | 人皇第8代孝元天皇5年春正月天八意思兼命御児神を従えて信濃国に天降り、阿智の祝(はふり)の祖となり給うた |
内原王子神社 | 天照皇太神 | 日高郡日高町萩原1670 | 和歌山県 | 勧請 孝元天皇六年 |
小幡神社 | 開化天皇 | 亀岡市曽我部町穴太宮垣内1 | 京都府 | 開化天皇と近江の三上祝がまつる天之御影神の娘息長水依比売との間に生まれたのが丹波道主命であると伝承する。丹波道主命がその父にあたる開化天皇を創祀した. |
甲佐神社 | 八井耳玉尊 | 上益城郡甲佐町上揚876 | 熊本県 | 當 甲佐神社ハ阿蘇神社ノ攝社ニシテ人皇8代孝元天皇26年5月5日鎮座 祭神ハ八井耳玉命ナリ |
鷲峯神社 | 大己貴命,素盞嗚尊,稲田姫命,大山祇神 | 気高郡鹿野町大字鷲峯1061 | 鳥取県 | 孝元5年八千矛神(またの名を大己貴命)が天羽車大鷲にのってこの山に降りられた。そこで、この山の名を鷲峯と名づけ、八千矛神をまつって神社とした。 |
千代神社 | 天宇受売命 | 彦根市京町2丁目9-33 | 滋賀県 | 人皇第八代孝元天皇の皇女、倭迹迹姫の降誕により勧請、履中天皇の御宇再建したと伝える。 |
戸隠神社 | 上水内郡戸隠村大字戸隠3506 | 長野県 | 奥社 御祭神天手力雄命 創建第八代孝元天皇の5年 | |
豊田神社 | 天津大神多祁阿久豆魂命 | 益田市横田町2873-2 | 島根県 | 天津大神多祗阿久豆魂命は神皇霊尊の御子で第八代孝元天皇39年に御鎮座 |
能登生国玉比古神社 | 大己貴神 | 七尾市所口町ハ48 | 石川県 | 延喜式に見られる能登生国玉比古神社といわれ、孝元天皇の創祀という。 |
矢田八幡神社 | 応神天皇,神功皇后,武諸隅命 | 熊野郡久美浜町佐野地シワ177 | 京都府 | 丹波道主命は勅命により山陰地方平定のため丹波国に至り、比治の真名井に館を構えられたが無事平定を祈願のため矢田部の部民をして祖神を祭らしめられた。当初の祭神は饒速日命、孝元天皇、その奥后内色姫命であった |
龍王神社 | 玉依姫命 | 下関市大字吉見下1726 | 山口県 | 乳母屋神社は第八代孝元天皇の御代に鎮座 |
小田神社 | 物之部武彦命 | 伊都郡高野口町小田76 | 和歌山県 | 饒速日命を祖先に持つ物部大連公、後に小田の連公(第9代開化天皇の妃の兄)は大和より当所小田に移り住居し、祖先物之部武彦命を祀られ小田神社を建立した。 |
調神社 | 天照大神 | 浦和市岸町3-17-25 | 埼玉県 | 当社は延喜式内の古社にして、第九代開化天皇2年3月所祭奉幣の社として創建された。 |
日御碕神社 | 天照大日売,神素盞嗚尊 | 簸川郡大社町大字日御碕455 | 島根県 | 開化天皇2年勅命により島上に神殿が造営された。 |
三嶋田神社 | 大山祇命 | 熊野郡久美浜町金谷今ゴ田791 | 京都府 | 開化天皇の御宇に至りて河上の摩須が当社を崇敬した。 |
諭鶴羽神社 | 伊弉冉尊,速玉男命,事解男命 | 三原郡南淡町灘黒岩472 | 兵庫県 | 社伝によると、およそ2千年の昔第九代開化天皇の御代にいざなぎ、いざなみ二柱の神さまが鶴の羽に乗り給い、高天原に遊び給うた。狩人が鶴の舞い遊ぶのを見て、矢を放つ。羽に矢を負った鶴は、そのまま東の方の峰に飛んでかくれた。狩人、その跡を追って頂上に至ると榧の大樹があり、その梢にかたじけなくも日光月光と示現し給い「われはいざなぎ、いざなみである。国家安全、五穀成就を守るため、この山に留るなり、これよりは諭鶴羽権現と号す」と唱え給うた。狩人涙を流し前非を悔い、その罪を謝し奉り、長く弓矢を捨てその地を清め大工を招き一社を建て神体を勧請し奉る。 |
孝元天皇・開化天皇関連神社の創始の理由に神話伝承が関係しているものが見受けられる。長野県の阿智神社の思兼命は高皇産霊神の子であるので神話時代の内容が孝元天皇5年と記されており、同じ孝元天皇5年に鳥取県の鷲峯神社に大己貴命が降臨されており、さらには開化天皇の時代に伊弉諾尊・伊弉冉尊が兵庫県の諭鶴羽神社にやってきたことになっている。他の時代の神社伝承にこのようなものはあまり見受けない。これはどうしたことであろうか。
孝元天皇・開化天皇時代は大和朝廷の実質支配者が卑弥呼(大物主妻)だったため、地方における祭祀が強化されたものと思われる。神話時代の出来事を元として祭祀を開始したために、神話の内容が入り込んだのではないかと考える。
孝元天皇5年に創始が集中している。卑弥呼即位直後であり、卑弥呼が地方に対して祭祀を強化するように指示したのであろう。
孝元天皇・開化天皇の具体的行動伝承は全く伝えられていない。それは、この時代卑弥呼が大和朝廷の実質的支配者であり、孝元天皇・開化天皇はほとんど形だけの存在であったためと考えられる。
孝元天皇・開化天皇の誕生年と享年
孝元天皇の享年は古事記で57歳、日本書紀で116歳である。古事記の享年は日本書紀でいうところの在位年である。日本書紀が正しいと判断する。生誕は孝安59年(AD157年後半)となり、享年は116歳(58歳)となる。
開化天皇は古事記で63歳、日本書紀で111歳である。古事記は在位年数+3年なので、これも日本書紀が正しいと判断する。生誕は孝元7年(AD189年前半)、享年は111歳(現行56歳)となる。
開化天皇の崩年63歳は日本書紀の在位年と3年ずれている。古事記の崇神天皇以前の崩年は日本書紀の在位年とよく似た数値となっているので、在位年数+αで計算されているようである。
日本書紀における、即位年齢は、神武・綏靖・開化・崇神天皇が何れも51歳である。偶然にしては重なりすぎである。綏靖天皇は後で51歳で即位したように生誕年を逆算したようであるが、51歳即位には何か意味があるのであろうか。この当時成人年齢は31歳で孝昭天皇が最低年齢で即位している。これは、前天皇が1年前に崩御しており、その崩御を隠していて、孝昭天皇が31歳になるのを待って即位したためと考えられる。
同様に皇太子が51歳になった時に、前天皇は譲位する習慣があったのかもしれない。天皇の崩御直前は天皇として動くことができないのが普通である。皇太子が後の時代に言われる摂政のようなものをするよりは、時代の天皇として即位した方がよいと考えたのではないか。そうすれば、孝元天皇、開化天皇は譲位した可能性も考えられる。開化天皇は開化60年(AD244年前半)に崇神天皇に譲位し、崩御したのは崇神3年(AD245年後半)ということも考えられる。
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