第12代景行天皇
第12代景行天皇はかなり活動的な天皇である。この天皇の時代の出来事をまとめてみよう。
年表
西暦 | 和暦 | 中国干支 | 半年一年暦干支 | 換算干支 | 日本書紀 | 推定修正 | 半島暦 | 朝鮮半島 | 中国 | |||
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296 | 垂仁36 | 37 | 丙辰 | 丁卯 | 戊辰 | 壬子 | 癸丑 | 247 | 慕容カイ、再び高句麗を攻撃するも、再び撃退される。(高句麗本紀) 第12代新羅王沾解即位 |
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297 | 38 | 39 | 丁巳 | 己巳 | 庚午 | 甲寅 | 乙卯 | 石上神社に宝物を納める(39年) | 田道間守常世国から帰還(99年) 垂仁天皇崩(99年) |
249 | 夏四月に倭人が舒弗邯、于老を殺した。(新羅本紀) | |
298 | 景行1 | 2 | 戊午 | 辛未 | 壬申 | 丙辰 | 丁巳 | 景行天皇即位(辛未) | 251 | |||
299 | 3 | 4 | 己未 | 癸酉 | 甲戌 | 戊午 | 己未 | 武内宿禰生誕(3年) | 253 | 倭人が交際のために訪れた。(新羅本紀) 七年(253年)癸酉に、倭国の使臣葛那古が、使館に滞在していたが、于老が中心になってこれを管理していた。(于老は)客に戯れて、「おっつけお前の王を塩を作る奴隷とし、王妃を炊事婦にしてしまうだろう」と言った。倭王は、この話を聞いて怒り、将軍の于道朱君を派遣して、わが国を討伐させた。 大王は(居城より)出て柚村に居住した。倭人は答えずに干老を捕らえ、柴を積みその上に置いて焼き殺してから帰った。(昔于老伝) |
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300 | 5 | 6 | 庚申 | 乙亥 | 丙子 | 庚申 | 辛酉 | 255 | 百済、新羅侵入、槐谷で新羅軍を破る。烽山城を攻めたが勝てなかった(百済本紀) 烽上王幽閉され、第15代高句麗王美川即位 |
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301 | 7 | 8 | 辛酉 | 丁丑 | 戊寅 | 壬戌 | 癸亥 | 257 | 恵の父の叔父趙王倫、恵を退け、晋第三代皇帝となる。これを機に八王の乱がおこる。 | |||
302 | 9 | 10 | 壬戌 | 己卯 | 庚辰 | 甲子 | 乙丑 | 259 | 美川王、三万の軍隊を率いて玄菟郡に侵入し、捕虜八千人を得て平壌に移住させた。(高句麗本紀) | |||
303 | 11 | 12 | 癸亥 | 辛巳 | 壬午 | 丙寅 | 丁卯 | 熊襲反乱(12年) | 熊襲反乱(27年)・日本武尊派遣歳16→31 | 261 | 第13代新羅王未鄒即位 | |
304 | 13 | 14 | 甲子 | 癸未 | 甲申 | 戊辰 | 己巳 | 景行天皇襲国平定(13年) | 成務天皇生誕(14年) | 263 | 西方蛮族、李雄が成を起こす。北方蛮族、劉淵が漢を起こす。 | |
305 | 15 | 16 | 乙丑 | 乙酉 | 丙戌 | 庚午 | 辛未 | 265 | ||||
306 | 17 | 18 | 丙寅 | 丁亥 | 戊子 | 壬申 | 癸酉 | 景行天皇日向訪問(17年) 九州西側諸国巡回(18年) 仲哀天皇生誕 |
267 | 晋第4代皇帝、懐帝即位。八王の乱終結。 | ||
307 | 19 | 20 | 丁卯 | 己丑 | 庚寅 | 甲戌 | 乙亥 | 大和帰還(19年) 天照大神を祀る(20年) |
日本武尊を出雲に派遣し出雲王朝廃止 | 269 | 百済新羅を攻撃す(百済本紀) | 慕容カイ、鮮卑大単于を自称して自立 |
308 | 21 | 22 | 戊辰 | 辛卯 | 壬辰 | 丙子 | 丁丑 | 271 | ||||
309 | 23 | 24 | 己巳 | 癸巳 | 甲午 | 戊寅 | 己卯 | 273 | 慕容カイ、西晋の遼東太守が東夷校尉を殺害するという内紛を利用し、遼東の治安秩序の維持。 | |||
310 | 25 | 26 | 庚午 | 乙未 | 丙申 | 庚辰 | 辛巳 | 武内宿禰東国視察(25年) | 蝦夷反乱、日本武尊東国平定出発(景行40年) 日本武尊死去・歳30→45(41年) |
275 | ||
311 | 27 | 28 | 辛未 | 丁酉 | 戊戌 | 壬午 | 癸未 | 武内宿禰東国より復命(27年) | 武部を定める(景行43年) | 277 | 高句麗美川王、遼東西安平を占領。(高句麗本紀) 百済新羅を攻撃、槐谷城を囲む(百済本紀) |
漢、洛陽を攻める |
312 | 29 | 30 | 壬申 | 己亥 | 庚子 | 甲申 | 乙酉 | 279 | 高句麗は西晋の八王の乱・五胡の進入などの混乱に乗じて楽浪郡を占拠。 | |||
313 | 31 | 32 | 癸酉 | 辛丑 | 壬寅 | 丙戌 | 丁亥 | 281 | 高句麗、楽浪郡を滅ぼす。(高句麗本紀) | 晋第4代皇帝懐帝殺される。愍帝第5代皇帝として即位 | ||
314 | 33 | 34 | 甲戌 | 癸卯 | 甲辰 | 戊子 | 己丑 | 283 | 高句麗、帯方郡を攻略、帯方郡滅亡(高句麗本紀) 百済、新羅の辺境を侵す(百済本紀) 第14代新羅王儒礼即位 |
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315 | 35 | 36 | 乙亥 | 乙巳 | 丙午 | 庚寅 | 辛卯 | 蝦夷を佐伯部として諸国に設置(51年) | 285 | 百済、新羅に和を乞うた(百済本紀) 帯方郡、百済に救援要請、帯方を救援することにより、高句麗の恨みを買う。(百済本紀) 第9代百済王責稽即位(百済本紀) 高句麗美川王、玄菟城を攻める。 |
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316 | 37 | 38 | 丙子 | 丁未 | 戊申 | 壬辰 | 癸巳 | 八坂入媛を皇后とする(52年) 景行天皇東国巡幸(53年) |
287 | 夏四月に倭人が一礼部を襲う。(新羅本紀) | 漢に長安を包囲され、愍帝漢に降伏。 | |
317 | 39 | 40 | 丁丑 | 己酉 | 庚戌 | 甲午 | 乙未 | 大和帰還(54年) 彦狭島王東山道都督になるも亡くなる(55年) |
289 | 夏五月に、倭兵が攻めてくるということを聞いて、戦船を修理し、鎧と武器を修理した。(新羅本紀) | 愍帝殺され、晋滅亡 | |
318 | 41 | 42 | 戊寅 | 辛亥 | 壬子 | 丙申 | 丁酉 | 御諸別王東国統治、蝦夷降伏(景行56年) 逆手池を作る・田部屯倉を設置(57年) |
291 | 夏六月に倭兵が沙道城を攻め落とす。(新羅本紀) | 慕容カイは鮮卑・高句麗連合軍を撃破、遼東の覇権を獲得した。 | |
319 | 43 | 44 | 己卯 | 癸丑 | 甲寅 | 戊戌 | 己亥 | 景行天皇近江国高穴穂宮に遷る。(景行58年) | 293 | 夏 倭兵が長峯城を攻めて来た。(新羅本紀) | 慕容カイ、子の仁に遼東を鎮守させる。 | |
320 | 45 | 46 | 庚辰 | 乙卯 | 丙辰 | 庚子 | 辛丑 | 295 | 春 王は倭人を討とうとしたが臣の忠告によってやめた。(新羅本紀) 高句麗美川王、遼東に侵略を試みるも、慕容仁に撃ち破られる。(高句麗本紀) |
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321 | 47 | 48 | 辛巳 | 丁巳 | 戊午 | 壬寅 | 癸卯 | 297 | 漢、百済侵攻、百済王責稽戦死。第10代百済王汾西即位(百済本紀) 第15代新羅王基臨即位 |
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322 | 49 | 50 | 壬午 | 己未 | 庚申 | 甲辰 | 乙巳 | 299 | 春正月に、倭国と使者を派遣し合った。(新羅本紀) | |||
323 | 51 | 52 | 癸未 | 辛酉 | 壬戌 | 丙午 | 丁未 | 301 | ||||
324 | 53 | 54 | 甲申 | 癸亥 | 甲子 | 戊申 | 己酉 | 303 | ||||
325 | 55 | 成務1 | 乙酉 | 乙丑 | 丙寅 | 庚戌 | 辛亥 | 第13代成務天皇即位 | 305 | |||
326 | 2 | 3 | 丙戌 | 丁卯 | 戊辰 | 壬子 | 癸丑 | 武内宿禰大臣となる(3年) | 307 | 国名を新羅に戻した(新羅本紀) | ||
327 | 4 | 5 | 丁亥 | 己巳 | 庚午 | 甲寅 | 乙卯 | 諸国に造長を定め、国県の境界線を画定(5年)第13代成務天皇崩御(紀庚午・記乙卯) | 309 | 第16代新羅王訖解即位 | ||
328 | 空位 | 仲哀1 | 戊子 | 辛未 | 壬申 | 丙辰 | 第14代仲哀天皇即位(壬申) | 311 | 漢滅亡 |
換算干支について
AD345年までは半年一年暦による干支で出来事が伝えられていた。この干支はAD83年の神武天皇即位年を辛酉として始まったものである。AD345年に中国暦を採用したが、半年一年暦の干支はそのまま併用で使われていたようである。神功皇后・応神天皇の時代は中国暦の干支で記録されているが、第16代仁徳天皇は再び半年一年暦に戻している。この時の干支は今までの半年一年暦の干支ではなく、中国暦との照合を諮るために仁徳天皇が宋に朝貢した421年の辛酉をそのまま半年一年暦の辛酉としたために、今までの半年一年暦の干支と16年のずれが生じることになった。
日本書紀ではこの辛酉で調整された、新しい干支でそれより前の時代を換算した干支で書き直したとみられる記事が数多く存在する。上の表ではその干支を換算干支として、表している。
この換算干支には換算時に換算ミスが起こったようである。それが成務天皇崩御年と仲哀天皇即位年の間にある1年の空年である。古来からの半年一年暦はこの空年が入っているが、換算干支はこの年が入っていない。そのために、成務天皇以前は換算干支と半年一年暦干支が15年ずれることになるのである。
垂仁天皇39年の記事はこの換算干支で調整すると、垂仁天皇24年の記事となり、前後の記事とスムーズにつながるようになる。
換算干支空年の発見について
景行天皇の年代は熊襲征伐の景行12年と景行27年、東国征伐の景行15年と景行40年と言うように15年のずれでよく似た記事が並んでいるので、日本書紀に15年ずれた二種類の記事があったことがうかがわれる。その原因については換算干支と半年一年暦の干支の16年のずれが原因と思われたが、それでも一年食い違っているので、その食い違いの原因を探るのに時間がかかった。
仲哀天皇の没年干支は日本書紀で庚辰、古事記で壬戌であり、食い違っている。日本書紀は半年一年暦なので、これは、332年後半となる。この年が仲哀9年である。では古事記の壬戌は何であろうか。
この年の中国暦の干支は壬辰であるが、30年後の半年一年暦干支庚辰の年362年の中国暦干支が壬戌である。中国暦干支と半年一年暦干支の混乱から生じた食い違いであることが分かる。日本書紀の編集者は同じ事件に対して複数の干支が存在している状況に混乱していたと思われる。
崇神天皇崩年の干支は日本書紀で辛卯、古事記で戊寅である。辛卯年は半年一年暦で278年前半であるが、これを中国暦の干支として捉えると辛卯は271年で、この年の後半の半年一年暦の干支は戊寅である。崇神天皇の崩年も中国暦と半年一年暦の干支の混乱から古事記と日本書紀でずれたものと思われる。
ところが、成務天皇崩年干支はこのような関係が見られない。日本書紀の崩年が庚午、古事記の干支が乙卯であり、同じ半年一年暦で15年ずれているのである。16年ずれた換算干支を用いても1年ずれているのである。
成務天皇の崩年では換算干支は15年のずれとなっている。仲哀天皇の崩年では16年ずれのままであると思われるので、16年ずれが15年ずれに変わったのは、仲哀天皇の時代ということになる。
仲哀天皇の時代の日本書紀をよく見ると、成務天皇の崩年干支「庚午」と仲哀天皇即位年の干支「壬申」の間に干支「辛未」がある。日本書紀にはこの空年に関して何も説明しておらず、成務天皇の崩御後すぐに仲哀天皇が即位したことになっている。換算干支はこの1年の空位年を入れ忘れたために半年一年暦干支とのずれが16年から15年に変わったと思われる。
この換算干支を用いれば、日本書紀の干支「庚午」と古事記の干支「乙卯」は同じ年327年となる。
景行天皇の時代に関しては、この15年ずれを考慮して古代史を復元しなければならない。
成務天皇の在位年数
297年後半垂仁天皇の崩御を受けて、第12代景行天皇は298年に即位した。日本書紀では在位年数60年、次の成務天皇が在位年数60年であるが、神功皇后の時代に干支2回りずれている。また、仲哀天皇の在位期間で60年を修正することはできないので、日本書紀では景行・成務両天皇で60年の追加が行われていることになる。
第14代仲哀天皇は52歳と古事記・日本書紀共に記録されている。その仲哀天皇が「父である日本武尊がなくなった時、自分は20歳に満たなかった」と言っている記録が日本書紀にある。日本武尊が亡くなったのは景行41年なので、景行41年から仲哀9年までは、34年ということになる。成務天皇の時代に年代追加が行われていることがはっきりした。
しかし、追加されている年代が60年なので、成務天皇の在位年数60年では、成務天皇の在位期間がなくなってしまう。そこで、景行・成務両天皇の在位期間が合わせて60年という解釈となり、327年後半成務天皇崩御、328年後半仲哀天皇即位ということになる。
次に成務天皇の即位はいつなのかが問題となる。日本書紀の成務天皇紀をよく読んでみると、具体的な記事が載っているのは成務天皇5年までである。それ以降は平穏となったとあるのみで、何も記事が書かれていない。これは、この部分に年数追加が行われていることを意味している。仁徳天皇紀、仁賢天皇紀ともに平穏と記録されている年より後の年はすべて追加年であることが分かっている。成務天皇もおそらくそうであろう。
そうすれば、成務天皇の在位期間は5年となる。成務天皇崩御時の年齢は日本書紀の年齢107歳から空位年を除いて現年齢換算すると23歳となる。成務天皇の死は若すぎる急逝と考えられる。
当然ながら成務天皇は皇太子を決めておらず、また、皇子もいなかったのである。これが、仲哀天皇即位年との間の一年の空位年の原因であろう。
成務天皇が急逝した327年後半、朝廷内では次の天皇をだれにするかが問題となったと思われる。景行天皇には数多くの皇子が存在したために、後継者の選定には多くの問題があったのであろう。結局日本武尊の忘れ形見である仲哀天皇に決定したのである。
日本武尊の年齢の謎
日本武尊は景行27年(景行12年=303年後半)に16歳で、熊襲平定に派遣されており、景行41年(景行26年=310年後半)30歳で亡くなったと記録されている。
この当時は半年一年暦なので、現年齢計算で熊襲に派遣された時が8歳、亡くなったのが15歳となる。そして仲哀天皇生誕が11歳の時となる。これは異常に低年齢であり、あり得ないことである。当初中国暦で記録されたものかと考えたが、303年後半と310年後半の間は7年しかないので、計算が合わなくなる。
そこで、換算干支の15年ずれが原因と考えれば、上手く説明できることが分かった。日本武尊生誕年の干支「壬子」が記録されていたとする。壬子は半年一年暦で288年後半(垂仁天皇21年)である。ところが、この壬子を換算干支で表すと、15年後の296年前半となる。
この296年前半に日本武尊が誕生したとして年齢計算すると、日本書紀の記述のとおりとなる。よって、実際の年齢は15歳加えたものとなる。熊襲派遣時が31歳(現年齢15歳)、仲哀天皇生誕が37歳(現年齢19歳)、亡くなった時の年齢45歳(現年齢23歳)となり、不自然さはなくなる。
新羅大将軍干老殺害について
朝鮮半島書籍に倭人による干老殺害事件が記載されている。新羅本紀には半島暦249年(西暦297年)、昔干老伝では半島暦253年(西暦299年)と年代が異なっているが、昔干老伝がより詳しいのでこちらを採用する。
新羅将軍干老が倭人に殺害されたのは景行3年(299年前半)である。
七年(253年)癸酉に、倭国の使臣葛那古が、使館に滞在していたが、于老が中心になってこれを管理していた。(于老は)客に戯れて、「おっつけお前の王を塩を作る奴隷とし、王妃を炊事婦にしてしまうだろう」と言った。倭王は、この話を聞いて怒り、将軍の于道朱君を派遣して、わが国を討伐させた。 大王は(居城より)出て柚村に居住した。(略)倭人は答えずに捕らえ、柴を積みその上に置いて焼き殺してから帰った。 <干老伝> |
干老の妻の記事もある。
未鄒王の時、倭国の大臣が来聘した。于老の妻は国王に頼んで、個人的に倭人の使臣を接待した。(使臣が)ひどく酔うと、壮士たちに彼を庭に引きずりおろし、焼き殺させ前の怨恨に報いた。 <干老伝> |
また一説によると、新羅王をとりこにして海辺に行き、膝の骨を抜いて、石の上に腹ばわせた。その後、斬って、砂の中に産めた。一人の男を残して、新羅に於ける日本の使者として帰還された。その後新羅王の妻が夫の屍を埋めた地を知らないので、男を誘惑するつもりでいった。「お前が王の屍を埋めたところを知らせたら、厚く報いてやろう。また自分はお前の妻となってやろう」と。男は嘘を信用して屍を埋めたところを告げた。王の妻と国人とは謀って男を殺した。 <日本書紀神功紀> |
両者はよく似ているので、同じ事件を示していると思われる。
倭国と新羅は289年(垂仁23年)以降、新羅が倭に朝貢するという形で、平穏を保っていたが、景行3年に再び戦っているようである。新羅は戦いで敗れたために倭に対して渋々ながら従っていたわけであり、伽耶諸国を支配するために次の作戦を考えていたことであろう。
新羅が動くきっかけとなったのが、垂仁天皇崩御と思われる。垂仁天皇崩御時倭国は混乱し、新羅の動きにすぐには対応できないと考えて、新羅は早速行動を起こしたのである。
新羅は倭国に対して何をしたのであろうか、当時、新羅国内に倭国の出張所があり、そこを管理していたのが倭国の使臣葛那古である。新羅軍はその出張所を襲い、倭国の役人を追い出したのであろう。新羅としては、伽耶諸国を支配するために手を出したいのであるが、この出張所で倭国により監視されていたので、動けなかったのである。
新羅としては、まず、この役人を追い出し、次の作戦として伽耶諸国に手を出すというものであった。新羅は垂仁天皇を恐れていたので、垂仁天皇存命中はおとなしくしていたのである。ところが、景行天皇は垂仁天皇以上に決断の速い天皇であり、新羅が次の動きをする前に将軍を派遣し、新羅軍と戦い、それまでのように新羅に対して要求を繰り返すのではなく、一挙に新羅軍壊滅を諮ったのであろう。これにより、新羅将軍干老は殺害されてしまったのである。景行天皇3年のことである。
新羅は景行天皇の素早い決断力に恐れをなし、それ以降伽耶諸国に手を出せなくなってしまった。
熊襲反乱・日本武尊の東国平定について
地方でなぜ反乱が起こったのか
景行天皇は景行12年(303年後半)九州巡幸を行っている。景行天皇自身が地方に赴いているのである。熊襲征伐のためと日本書紀には記録されているが、日向に3年間も滞在し、景行19年に大和に帰還している。半年一年暦で7年、現行暦で3年半である。天皇がこれほど長期にわたって都を空けていたのは倭の大乱以降のことである。そして、熊襲征伐にしては九州各地を転々としているのである。これはどうしたことであろうか。
そして、景行25年には東国の蝦夷が叛いたので日本武尊を東国平定に向かわせている。倭の大乱以降大きな反乱はなかったのであるが、景行天皇の時代に集中して各地で反乱が起こったのはどういうことであろうか。
この謎の解決のヒントとなるのが、日本書紀の記事である。日本書紀では景行天皇の皇子70人余りを各国や郡に封ぜられて、各国を統治したとある。
崇神天皇の時代四道将軍によって地方の有力者を国造に任命し、そのままその国を治めさせていたが、地方の有力者からその権限を奪い、景行天皇の皇子らを新しく国造に任命したのではないだろうか。
もし、このようなことを実行したとすれば、地方の国造はその地における権力を奪われることになるので、反抗することは容易に想像できる。皇子70人余りを派遣したとなれば、ほぼ全国規模の派遣であろう。全国から反抗の炎が上がるのは明らかである。
皇子を地方に派遣した理由
崇神天皇が四道将軍を派遣し、朝廷が地方を直接統治するようになった。地方統治を始めた当初は中央と地方が上手くつながっており、地方経営が順調に進んでいたが、年数を経るにつれて経営がうまくいかなくなったのではあるまいか。
地方の国造にしてみれば、元からの有力者がそのまま統治していたために、中央からの要求よりも地元の都合を優先したこともあるのではないか。課役や調役拒否したりすることもあれば、新羅からの誘惑に屈した国造も存在したのではあるまいか。
そのような中で、豊城入彦の地方統治の成功を分析したところ、天皇の皇子が地方に赴任することは地方にとってありがたいことであり、同時に朝廷の地方統治を強化できる一つの方策であることに気付いた。
このような事情から景行天皇は地方の国造に対して、今後随時、国造は朝廷の関係者を任命すると布告したのではないだろうか。そして、その流れを作るために自らの皇子を地方に派遣し、国造に圧力をかけたのであろう。
景行天皇九州遠征
新羅は景行3年(299年前半)に、倭国軍に対して敗北し、伽耶諸国に手を出せなくなってしまった。新羅は何とか倭の勢力の弱体化を図ろうと色々と考えたと思われる。
次に考えたのが大和朝廷に反発心を持っていた国造の活用である。九州地方の国造の中には、朝廷に対して不満は持っているものもあった。新羅は景行天皇の国造を朝廷の関係者にする方針を逆用して、日本列島内に混乱を起こそうとしたのではあるまいか。日本列島内が混乱すると、その混乱に乗じて新羅が大和朝廷から独立した国として行動することができるのである。
朝廷の国造を入れ替える方針と新羅の誘惑によって九州地方はかなり混乱したと思われる。この混乱収拾のためには景行天皇自身が九州に赴く必要があると思い、景行天皇12年九州に遠征したのであろう。
出雲王朝廃止
BC108年頃、出雲国に流れ着いた八島野命以降15代続いた出雲王朝も景行天皇によってAD307年頃廃止されたようである。このことを伝えるのは次の古事記伝承であろう。
倭建命は九州からの帰還途中、出雲の国に立ち寄った。出雲建を殺そうと思ってその家に到着するや、友達として友好を結んだ。そして、密かにいちいの木で偽物の太刀に作って帯刀にして、一緒に肥の河で水浴びをした。
そして、倭建の命は河から先にあがって、出雲健がはずして置いた刀を取ってつけて
「刀を換えよう」
て言った。それで、後で出雲建は河からあがり、倭建の命の偽物の刀を腰につけた。それで、倭建の命は挑戦して
「さあ、試合をしよう」
と言った。
そして、めいめいの刀を抜いたときに、出雲健は偽物の太刀のため抜けなかった。すかさず、倭建の命は太刀を抜いて出雲建を打ち殺した。
倭建の命は歌をお読みになった。
やつめさす 出雲建が
佩ける刀 つづらさは巻き さみなしにあはれ
そうして、このように平定して上京して復命した。
この話のあらすじは出雲振根とその弟の飯入根との戦いのときのものと同じであり、真実ではないと思われる。出雲王朝は大国主命の出身王朝で大和朝廷成立後も出雲国に君臨していた。当時の出雲国は政治の出雲王朝と祭祀の穂日命の子孫である出雲国造家が共同して治めていた。景行天皇の国造の権限強化策は出雲にも及んだのである。
出雲国は倭の大乱の相手国であり、倭の大乱の後遺症で朝廷も出雲に対しては気を使っていたところがあった。しかし、中央集権を強化するためには出雲も他の国と同じような国造が国を治める体制にする必要があったのである。出雲国は出雲国造家は倭の大乱終結後、飯入根の子鵜濡渟命に対して、他の国に先駆けて国造を任命していた。
出雲国には出雲国造の他に出雲王がいた。この時の出雲王は第15代遠津山岬多良斯神(トオツヤマサキタラシ)であった。出雲国の統治は朝廷から認められた出雲国造家が実質統治しており、出雲王朝は有名無実化していた。景行天皇はそれを整理しようとしたのであるが、やはり反対はあったようである。
景行天皇の和風諡号は大足彦忍代別天皇(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと)、次の成務天皇は稚足彦尊(わかたらしひこのみこと)、仲哀天皇は足仲彦天皇(たらしなかつひこのすめらみこと)と三代続けて、出雲王朝15代トオツヤマサキタラシと共通名が含まれている。これは、出雲王家を継承するという意味が含まれているのではないかと考える。
景行天皇は遠津山岬多良斯神の娘を皇后にすることで出雲王朝第16代を引き継いだのではないかと考えている。景行天皇には80人からの皇子がいたようで、その母は10人は伝わっているが、その他にも存在しているはずである。伝えられている妃の中に出雲王家の血を引くと思われる人物は存在しない。
景行19年(AD307年)に九州遠征を終えたばかりの景行天皇は日本武尊に対し出雲に立ち寄り、出雲王家の娘を妃にすることによって出雲王家を廃止し、出雲国造家に統治させるように交渉させた。
反対派が存在したのであろうが日本武尊によって簡単に平定された。この様子が出雲建として伝えられたのであろう。
東国平定について
景行25年(景行40年・310年前半)、東国の蝦夷が叛いたと記録されている。九州地方が国造を受け入れたので、今度は東日本地域の国々に対して朝廷の任命する人物に国造の地位を明け渡すように要求した。各国から猛反発が起こった。景行25年、武内宿禰にその様子を調べさせた。武内宿禰は方々で反乱が起こっていることを報告した。
景行天皇は早速日本武尊に東国の反乱を治めて、朝廷の命に服するようにせよと命じた。景行25年日本武尊は東国平定に出発した。
この東国平定についても詳細は別項に掲載
東国巡幸について
景行38年(景行53年・316年後半)、景行天皇は、日本武尊が平定した東国を見て朝廷の関係者を国造として受け入れる状態になっているかどうかを確認するために、東国巡幸に出発した。翌年、景行39年大和に帰還した。(この巡幸の詳細も別項に掲載)
新羅再び叛く
景行天皇が東国に出発したのを狙っていたかのように、新羅が反旗を翻した。
景行3年に倭国軍によって、打撃を受けた新羅は裏から球磨国を動かして日本列島内に反乱をおこしたが、たちまち沈められてしまった。景行天皇は球磨国の反乱は裏で新羅が手をまわしていたことを知っていたと思われる。そこで、百済に対して新羅を牽制するように要請していたのではあるまいか。
新羅本紀には景行3年以降、倭との戦いの記録は消えるが、それと入れ替わるように、百済が一方的に新羅に対して戦いを仕掛けている年が続いている。これを景行天皇の要請があったからと判断している。
新羅は伽耶諸国を手に入れたいがために色々と画策するのであるが、悉く倭国の妨害によって失敗しているのである。倭国が新羅を攻めてこないと思ったら百済がしつこく攻めてくるので、伽耶諸国に手を出すことがなかなかできないのである。
百済を抑え込もうとした新羅は高句麗と手を結ぶことを考えたのである。
312年高句麗は晋における八王の乱の混乱に乗じ、遼東を確保し313年楽浪郡を滅ぼしている。314年に帯方郡にも圧力をかけてきているのである。帯方郡と百済は婚姻関係にあるので、新羅は帯方郡に使者を送り、百済に救援要請をするように仕向けたと思われる。それと同時に高句麗にも使者を送り、百済と対決するように仕向けた。
315年帯方郡が百済に対して救援要請を行った。婚姻関係にある百済としては帯方郡の救援要請を断ることができず、帯方郡救援のために出撃した。百済軍は帯方郡を守護するために高句麗軍と戦った。
新羅の画策もあり高句麗は百済を恨むようになったのである。
百済は高句麗との全面戦争に発展しそうな状況に追い込められ、新羅に手を出すことができなくなり新羅と和を結ぶことになったのである。景行35年(315年前半)のことである。
百済の干渉がなくなった新羅は早速、景行天皇が東国に出発するタイミングを狙って伽耶諸国に手を出し始めた。それに気付いた景行天皇は景行38年東国巡幸に出発した直後、出発先から倭国軍を派遣し、新羅を襲撃させるとともに、早めの帰還をしなければならなくなった。次の景行39年に大和に帰還しなければならなくなったのである。
東国巡幸を終えた景行天皇は景行40年(317年後半)、彦狭島王を東山道15国の都督に任じたが、途中で亡くなってしまった。そこで、景行41年(318年前半)、代わりに御諸別王を東国に派遣した。
景行天皇は、景行46年(320年後半)までの間、頻繁に倭国軍を派遣し新羅を攻め立てた。倭国軍の頻繁なる攻撃に、新羅も遂に根を上げる時が来た。景行49年(322年前半)、新羅が伽耶諸国に手を出さないとの約束で、和解が成立した。
近江国高穴穂宮遷都
景行43年(319年前半)、景行天皇は近江国に赴き、高穴穂宮に遷都した。近江国は東国との交流に便利なところで、東国の治安を意識した遷都であろう。今までの大和では、西国との交流には便利ではあるが東国との交流には不便な地域である。
景行天皇以降仲哀天皇まで、この地が都となっている。
景行天皇崩御
景行天皇は景行55年(325年前半)、高穴穂宮で亡くなった。日本書紀では143歳、古事記では137歳とされている。垂仁天皇で60年加算されているので、それを除くと、日本書紀で83歳、古事記で77歳となる。日本書紀で垂仁2年(AD179年前半)、古事記で、垂仁8年(AD282年前半)となる。しかし、日本武尊が生誕したのはAD288年で、日本書紀でも現年齢計算で景行天皇9歳のときに生誕したことになる。これはあり得ないことである。
そこで、景行天皇時代の外の記事と同じく干支が15年ずれているとすれば、日本書紀で享年が98歳となり、崇神55年(AD271年後半)生誕となり、日本武尊誕生は現年齢計算で17歳の時となりありうる計算である。古事記の年齢計算では14歳となりあり得ないことではないが、ここではより自然な日本書紀の年齢を用いておくこととする。
よって、景行天皇生誕は崇神55年(AD171年前半)、現行暦で享年49歳となる。
成務天皇
景行天皇が崩御したので、皇太子が即位し成務天皇となった。景行天皇の時代に九州・東国での反乱が起きており、これ以降それを防ぐために、各地方に長を決め、国県の国境線を明確にし、地方が収まるような施策がなされた。
順調に治まると思われるその矢先、成務天皇は急逝した。
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